<東京怪談ノベル(シングル)>
ある兄妹たちの話
――店のドアが開いた。
エル・クロークは、手にしていた読み物から顔を上げて、にっこりと笑った。
「やあ、いらっしゃい」
戸口で足をがくがくさせながら立っていたのは、まだ十代半ばにも満たない少女だ。
クロークの店は裏路地にある。そんな年齢の少女が1人で来るには相応しい場所ではなかったが。
「よくここまで来たね……大変だったろう?」
立ち上がり、少女の元まで行く。
少女は真っ赤に目を腫らしていた。膝がまだ揺れていて、ドアにつかまっていないと立っていられないような状態だ。
クロークは少女に片手を差し出す。
と同時に、もう片方の手で近場の棚からひとつの瓶を取り、コルク栓を抜いた。
香りが広がった。心を落ち着ける、ハーブの香り――レモングラスを元にクロークが独自に開発した、精神安定作用のある香りだ。
ふ……っと、少女が足をぐらつかせる。
クロークはすっと抱き止め、
「大丈夫かい?」
と彼女を顔を覗き込んだ。
少女は虚ろなハシバミ色の瞳で、クロークを見た。
「あなたの……ところへ行けば、心が落ち着くって……評判だった、から……」
「………」
クロークはふわりと微笑む。
「そうだね……貴女の判断は間違っていないよ」
「―――」
クロークに手を引かれ、客用の椅子に座った少女は、しばらくぼんやりしていた。
クロークは彼女のために、紅茶を淹れて少女の座っている椅子の前のテーブルに置いた。
ゆらゆらと立つ湯気。ほのかな香り。
「飲んで。そして――泣き足りなかったら泣くといい」
クロークは優しく少女の肩に手を置く。
少女は促されるままにティーカップを取った。一口飲んだ。
そしてそのままカップを置き――
「………っ」
涙が溢れ出した。
声を上げて、少女は泣き出した。
「こ……んな、地獄、もう、いやぁ……!」
お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、どうして、どうして!
泣き叫ぶ少女にクロークはそっと、隠していた香をかがせた――
――少女が店に入ってくる前。
クロークが手にしていた読み物。エルザードでも一部でしか売られていない、新聞と呼ばれる日々の情報が載せられた読み物。
その1面に、こんな言葉がおどっていた。
『呪われた兄弟!』
クロークはその言葉を一瞥してふっとかすかに笑みを浮かべる。
そして、奥の部屋へと――意識が半分欠けて、からくり人形のようになった少女を連れて、入って行った。
■□■ ■□■ ■□■
最初にクロークを訪ねてきたのは、そう、長女だった。
4人兄弟のうちの、上から3番目。上に2人の兄、下に大分歳の離れた妹がいた。
茶色の巻き髪がよく似合う彼女はクロークの前でつぶやいた。「兄が死ねばいいのに」――
自分たちには父親がおらず、病身の母親がいる。母の世話をするのは長女と幼い次女。
大切な母だ、それ自体には文句はないが、長男が。
自分が愛した男たちをことごとく、追い払ってしまう……
母の介護、愛する母の介護とは言え、精神的には苦痛も伴うもの。それをやわらげてくれる恋人ぐらい、ほしいに決まっている。
けれど長男はそれを許してくれなかった。
「兄さんが死ねばいいのに」
ただその一言が――クロークの広げた幻惑の香によって、ひと時叶う。
クロークはただの調香師ではない。
彼の生み出した特殊な幻惑の香は、よくも悪くもその者の願望を実現させてしまう。――夢の中で。
そう、夢の中で。
彼女は何度も、長男が死ぬところを見た。
けれど……
何度も何度もそれを繰り返している内に、幻と現実のさかいが見えなくなってしまう者が多いことも、確かで――
――毒を、ちょうだい
と、彼女は言った。
クロークは何も言わず、それを叶えてやった。彼の持つハーブには有毒性のものも多数ある。たやすいことだ。
ただし、彼女が後悔してすぐに戻ってきてもいいように、遅効性のものを。
思えばそんな猶予を与えることも、クロークには珍しいことかもしれないけれど。
しかし、兄のいない夢に酔った彼女は後悔などしなかった。もっと早く効く毒を、もっともっとと何度もこの店にやってきた。
――彼女は、知らなかった。
彼女が足しげくこの店に通っている間に、同時に彼女の兄たちもこの店に来ていたことを。
次に来たのは、長男だったか――
「妹を殺したい」
見るからに気の荒そうな、長男のくせに母の面倒など一切看ていないのもうなずける男は、クロークの前でそう言った。
幻の夢を見に来たのではなさそうだった。最近ではクロークの評判は、裏で妙な方向にねじまげられて広がっているらしい。
長男は毒をくれる店だと、そう思って来たようだった。
クロークは肩をすくめて、ただ幻だけを見せてやった。
すると妹が死ぬ幻を見た長男は、夢から覚めるとにたりと笑った。
――やっぱり殺さなくちゃな
「どうしてそんなに殺したいのかな」
クロークは冷めた口調で問う。
決まってら、と男は言った。
母はもうすぐ死ぬ、もしもあの女が自分が一番介護していたと主張して、ましてや男なんぞ連れていたら遺産が遺産が遺産が――
クロークはそのまま意気揚々と出て行く長男の背中を見送った。
遺産。そう言えばこの兄妹は、金持ちの子供たちだった。
次に長女がやってきた時、クロークは何気なく「リラックスできるお茶だよ。眠る前に毎日飲むといい」と言い含めて解毒剤入りのハーブティーを渡した。
そして最後に通ってくるようになったのが、次兄だった。
彼は、
「妹が毒で兄を殺そうとしている、解毒剤をくれ」
と依頼してきた。
こちらも幻が目当てではないらしい。クロークは軽く肩をすくめて、
「妹さんに直接やめろと言えばいいんじゃないのかな」
次兄は苦しそうな顔をして、
妹を傷つけたくない
と言った。
クロークは嘆息した。それなら母親の面倒を手伝ってやればいいのに、などと思いながらも苦笑して、「ほら」と解毒剤を渡してやった。
長男がどこで毒を調達しているのかは知らないが、長女に渡した解毒剤は効いているらしい、長男が死亡したという噂は聞かなかった。
長女と次男はどちらも競争のように通ってきた。毒を、解毒剤を、毒を、解毒剤を――
やがて、
「そろそろあの兄妹も飽きてくる頃じゃないかな――」
とクロークが何気なしに思ったその日。
長女死亡の報せが届いた。
金持ちの家の娘の死亡事件だ。それは城下町でもそれなりの噂になった。
しかしそれだけでは終わらない。次には次男が死亡した。
そして――最後に長男が。
クロークは不審に思った。その家へ出かけた。そして、メイドたちに話を聞いた。
長女死亡の理由は簡単だ――母親の容態が悪化して、彼女は夜にあの解毒剤入りのハーブティーを飲む暇がなかったのだ。
問題はその先。なぜ兄たちが死なねばならなかったのか。
メイドたちの話をよく聞くと、その原因らしき片鱗が見えた。
何でも、長女がまだ生きていた頃――次男が、間違えて自分のワイングラスではなく長女のワイングラスを持って行ったことがあったらしい。
それはおそらく、長男が長女を殺そうと毒をしこんでいたはずのグラス。
今までの様子を考えれば、毒は遅効性。
たまたま長女の死の後で――
次男に、その毒の効果が出てしまった。
そして次男がいなくなればもちろん――
解毒剤を入れてくれる人間がいなくなって、長男にも今更の毒の効果が……
最後に、相次いで子供たちを亡くした母親はショックで亡くなった。
そして残されたのは、4番目の子、まだ十代半ばにも満たない末娘だけ……
■□■ ■□■ ■□■
ああ、そこにいるのねお兄ちゃんお姉ちゃん
あっ、お母さんも――お父さんまでいる!
みんな、戻ってきてくれたのね
――あれ……?
どうして? あたし近づけない 足が動かない
みんなのところへ行けない
ねえみんな どうしてそこから動いてくれないの?
あたしも連れて行って ねえ!
■□■ ■□■ ■□■
少女が、緩慢なしぐさで瞼を上げる。
「おはよう」
クロークは穏やかな声をかけた。「気分はどうだい?」
「………」
少女はゆっくりと顔を巡らせた。
そこは最初に入ったクロークの店とは違う、ランプの明かりひとつで薄暗く、たくさんの瓶が置かれた棚で囲まれた部屋だった。
「ああ、ここは店の奥だ。心配しなくていい」
クロークは少女の不安げな視線を、優しく解いてやる。
「場合によってはこっちの方が落ち着くこともあるからね」
――嘘だ。
単に幻惑を見せる時には、こちらの部屋を使うというだけのことだ。
少女は泣きやんでいた。すん、と鼻をならす。
「……家族みんなが、生きてる夢、見た……」
はかない夢、幻――
「でもあたし、近づけなかった……みんなのところに」
クロークはばさっと新聞を広げる。
1面に踊る文字。『呪われた兄弟!』
もう一種の新聞も手に持った。そちらには『最後はやはり末娘か!?』などと不謹慎極まりないことも書かれている。
最も――
「疲れたかい? 警察に追われるのは」
尋ねると、少女はこくんとうなずいた。
毒死した兄姉、たとえ十代半ば――新聞によると13歳――でも、一番の容疑者に決まっている。
「もう、死にたくなった?」
クロークは穏やかに問う。
少女は視線を下に向け、泳がせた。
それからゆっくりと顔を上げた。
――泣きそうな顔だった、けれど。
「死にたくない……」
「どうして?」
「みんなのお墓、守らなきゃ……」
お父さん、お母さん、お兄ちゃんたち、お姉ちゃん。
まだかすかに残っている幻の残滓が、彼女に大切な家族の姿を見せている。
クロークは微笑んだ。
「そうだね。貴女は死んではいけない。辛くても」
――幻の中で、家族と仲良く過ごすことを夢見なかった彼女はまだ、家族の元へは行かぬ方がいい――
「安心して。僕も協力するから」
リクライニングチェアから、クロークは立ち上がって少女の手を取った。
「僕の仕事は調香。香りに限らず飲み物や石鹸もあるよ。貴女の心を休める手伝いならいくらでもできる」
まだ幼さの残る手を優しく握りながら、そっと。
「……貴女の心を温める手伝いなら、いくらでもできる」
そして店の表側に出て、彼女の気を紛らわすように色んなものを紹介し、そして今回はただであげることにした。
それは少女の兄姉たちを死なせてしまった懺悔かもしれず――
ただ単に、数奇な運命をたどった彼らの人生に関わらせてもらった礼かもしれず――
少女は、笑顔で店を出て行く。たくさんのものを抱えて。
何もかもなくして泣きながら店のドアを開けた時とは反対に。
何もかも、反対に。
クロークはゆっくりとチェアに座る。
店には相変わらずの、ゆったりとした――まるで時間などないかのような、不思議な時間が流れていた。
―FIN―
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