<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


記憶を開くための鍵 〜 black pain 〜



 日も没し、闇に染められ始めた窓の外をチラリと見やり、ルディア・カナーズはオレンジ色に近い金色の髪を編み直すと、あと数時間後にはてんてこ舞いの忙しさになるであろう白山羊亭の中をグルリと眺めた。
 少し時間は早いが、今から飲んでいる人もチラホラ見え、押さえ気味の話し声が低く聞こえてくる。
 店内にかかっているのは落ち着いたクラシックで、今は疎らにいるお客さん達の声に柔らかいベールをかけるかのように小さく聞こえてきているが、数時間後の混雑時には人々の声にかき消され、聞こえなくなることだろう。
 昼食時からずっと立ちっぱなしだったルディアは、今のうちに休んでおこうと椅子に腰掛けた、その時だった。
 遠慮がちに扉が開かれ、漆黒の髪の少年と淡いピンク色の髪の少女が店内に入って来た。
 思わず頭を撫ぜ回したくなるほどに愛らしい少女は、ルディアを見つけるとパァっと顔を輝かせた。
「ルディアちゃん!良かったのー!」
「シャリーちゃん、どうしたの!?」
 ここからかなり離れた喫茶店の看板娘・シャリアーは自分よりもかなり身長の高い少年の腕を引っ張ると、ルディアの前に立たせた。
 ルディアよりもやや若い、15か16歳くらいの外見の少年は、透き通った青色の瞳をしており、身長はルディアよりもやや高い程度、160cmはないくらいだった。
「んっとね、迷子さんを見つけたの。鍵をなくしちゃってね、大変なの。シャリーね、一緒に探したのよ。でもね、見つけられなかったの」
「迷子って言うか‥‥」
「レインちゃんが言うにはね、鍵って、幸せとか、愛とかなんだって。‥‥ねぇ、ルディアちゃん、愛ってなぁに?」
 突然わけの分からない事を言われたルディアは、困惑しながら目を伏せた。
「えっと‥‥ちょっと待って。鍵が幸せとか愛‥‥?」
「幸せと愛の鍵があれば、レインちゃんは自分が誰なのか分かって、家にも帰れるんだって。でもね、分からないと、ずっとずっと帰れないんだって。迷子さんになるんだって」
 一生懸命説明をしようとするシャリアーだったが、彼女が何か言うたびに頭の中が混乱していく。
 グルグルと回る言葉に翻弄されかけた時、レインがふっと窓の外を見ると険しい表情になった。
「ところで、シャリアーを家に帰した方が良くないか?」
「えっ?あぁっ!!」



 シャリアーを知っていると言う冒険者の女性が家まで送り届けると言い、ルディアは彼女にシャリアーを頼むとレインに向き直った。
 綺麗な顔立ちの少年は、名前をレインと言い、鍵を見つけない限り家に帰れないのだと繰り返した。
「鍵は気持ちなんだ。幸せだとか、愛だとか、そう言う感情を取り戻せれば俺は全てを思い出せる」
「‥‥レインさん、記憶が‥‥」
「ないと言うより、封じられていると言った方が良いな。その記憶を開ける鍵が必要なんだ」
 レインはグッと手を握ると、真剣な眼差しをルディアに向けた。
「幸せとか、愛とかの感情を取り戻せば良いんだよね?‥‥誰か、そう言うの得意そうな人いないかなぁ‥‥」
 ルディアは小さく呟くと、賑わい始めた白山羊亭を見渡した。


* * bonheur noir * *


 幸せ、シアワセ、しあわせ‥‥‥
 その形は色々で、その色は様々で
 時に指間を零れ落ち、時に至福の快に包み込む
 幸せがあれば満足ですか?
 幸せになりたいですか?
 幸せが欲しいの?
 あなたの欲しい幸せと、私のあげる幸せが、同じとは限らない
 ――― それでも欲しいと言うのなら、いくらでもあげる
 そう、いくらでも‥‥‥‥‥‥‥‥


* * * black pain * * *



 賑わい始める白山羊亭に、細い竪琴の音が響く。人々の会話に埋もれ、かき乱されながらも、真っ直ぐに響く音は魅力的で、会話を割って入って来た音に気づいた数人が顔を上げ、店内の端に上品に腰掛けた漆黒の髪の青年を見つけて口を閉ざした。
 長く艶やかな髪、青白い肌は病的で、絃を弾く指先は少女のソレと変わらないほどに細く頼りなげだった。切れ長の黒の瞳が、視線に気づきユルユルと上げられる。
 黒真珠を思わせるほどに高貴で透き通った瞳は、暫し人々を見渡した後で細められた。
 中性的な外見をした歌姫は、髪や瞳と同じ漆黒の羽を微かに動かすと、息を吸い込んだ。
「♪If sie run after a blanco nuage」
 異国の言葉は柔らかく、高すぎもせず低すぎもしない歌声は美しい。
「♪The ciel cambio into a sunset」
 語りかけるような曲は、白山羊亭にいた全ての者の耳に届き、瞬時に魅了する。
「♪Under the rouge sunlight」
 薄く微笑み、シットリとした視線を向ける。
「♪If sie close your ojo,It is already nacht」
 誰もが美しい歌声と容姿に心奪われる中、歌姫は内心の冷たい感情を外には出さずに、優しく歌で語り掛ける。
「♪Sie wear dunkelheit」
 裾の長い服は、鱗に覆われた足先と、そこに鋭く伸びた鍵爪を隠している。
「♪Dors peacefully oggi」
  白い雲を追いかければ
  夕焼け空に変わる
  赤い日差しの下で
  目を瞑ればもう夜
  闇を纏い
  今日も安らかにお休みなさい
 最後の一音を歌い終わり、歌姫・トリ・アマグは上品な動作でお辞儀をすると、ルディアの姿を探した。
 歌い始める前に既に報酬は受け取っていたのだが、何も言わずに帰るのも失礼だし、可愛らしい彼女に一言二言声をかけてから帰るのも悪くない。
 肩にかかる長い髪を背に払い、ゆっくりと見渡した先、カウンターに座る少女の姿を見つけて立ち上がった。
 オレンジ色に近い金色の髪が、ボンヤリとした灯りを受けて、夕焼け時の空のように複雑で美しい色に染まる。
「ルディアさん」
 ストンと背中にかけた声に、ルディアが振り返る。
「アマグさん、お疲れ様です! 凄く素敵でしたよ! 本当、今日は来ていただいて有難う御座いました」
「そんな、お礼を言うのは私の方です。 とても有意義な時間を過ごせたよ」
 頭を下げるルディアに、顔を上げるようにやんわりと言ったトリは、彼女の隣に座っていた男の子に視線を向けた。
 透き通った青色の瞳に、漆黒の髪。15、6歳程度の外見年齢の彼は、ルディアと並べばそこそこ大きく見えるが、一般的なその年代の男の子からすれば大分小さかった。トリよりも15cmは低いだろう少年は、色白で華奢で、儚気な雰囲気を纏っていた。
 その儚さゆえか、少年は少女のようにも見え、どこか虚ろな瞳は艶っぽくもあった。
 あまり他人に興味を示すことのないトリだったが、彼にはふと興味を覚えた。
 心の奥深く、普段ならば決して表に出しはしない感情が疼く。
 上辺だけの笑顔を作り、ルディアに視線を向ける。
「こちらの方は?」
「レインさんと仰るんです。その、なんと言うか‥‥‥」
 口をすぼめ、眉を顰めたルディアが必死に言葉を探す。
 明るくて、無邪気で無垢で、そんなルディアを、トリは嫌いではなかった。けれど、好きでもなかった。ただ、彼女との関係を悪化させるのは自分にとって不利だと言うことは十分理解していた。
 歌う場所なら他に幾らでもあるが、白山羊亭は騒がしくなる時間さえ外せば穏やかで落ち着いた雰囲気の場所で、どちらかと言えば好きな場所だった。店内にかけているクラシックもトリの好みのもので、朝の早い時間などに来ると、鳥達の歌声が凛とした朝の空気を震わせる。
 それに何より、ここには面白そうな人達が集まる。彼らの話にほんの少し耳を傾ければ、時折とんでもなく楽しそうな話を聞く事もある。
 ――― そう、まだ、この場所は私にとって必要な場所‥‥‥‥‥
 手放すには、まだ惜しい場所。だから、ここで働く彼女とは良い関係を築いておいた方が良い。例えそれが、中身の伴わない上辺だけの代物であろうとも。
「記憶を一部無くされているようで‥‥‥」
「無くしているんじゃなく、封じられているんだ」
「封じられている、ですか」
「それで、その封印を解くための鍵が必要なんですが、それが少し難しいものなんです」
「どんな物なの?」
「愛とか、幸せとか、そう言う感情が必要なんです」
 難しそうですよね? そんなルディアの瞳の訴えに、薄い笑いを返す。
 光りの宿っていない瞳はどこまでも闇が支配しており、感情は全く読めない。
「そう‥‥‥キミは、幸せ?が、欲しいの?」
「欲しいって言うか、必要って言うか‥‥‥」
 歯切れの悪い物言いをするレインの膝の上、握られていた手にそっと手を重ねる。
「いいですね。私も欲しいと思っていたところ。 探しに行こうか」
「え? 探すって‥‥‥」
「私は、幸せと感じる事が少しあるよ」
 そっと手を引っ張る。
 体系的にはさほど変わらないトリとレインだったが、身長の違いからか、レインはあっさりトリの力に負けると、転びそうになりながら立ち上がった。
「あの、アマグさん?」
「彼のことは私に任せて。ルディアさんは、お店を」
「お願いしても宜しいんですか? あの、報酬は‥‥‥」
「報酬なんて、必要ありません」
「でも、なんだか押し付けてしまっているようで心が痛むなぁ‥‥‥。 あ、そうだ! 明日の夜って何か予定あります? 大した物はお出し出来ないかも知れませんけど、夕食をぜひどうぞ」
「そうですね、では、お言葉に甘えて」
 その時に何か曲を披露しよう。 今夜きっと、素敵な一曲が出来るはずだから、それを明晩歌ってあげれば良い。
 賑わい始めてきた白山羊亭の中、ルディアが深々とお辞儀をしてから忙しく動き始める。
「ほら、いらっしゃい」
 動こうとしないレインの腕を引っ張り、冷たい夜の街に誘い出す。
 空には無数の星と、チェシャ猫の笑いのような細く鋭いカーブを描く三日月。
 風は切り裂くように冷たく、トリの美しい髪をかき乱す。
「あの、何処に行くんです?」
 どうやら勘の良いらしいレインは、半信半疑の視線でトリを見上げている。
 口調も敬語に変わり、身を硬くして警戒心をむき出しにしている彼に、トリは艶やかで残酷な笑顔を向けながら、ギュっと強く手首を握った。
「とても素敵で、良いところだよ」
 ――― それがあなたにとっても良いところになるかどうかは、分からないけれども‥‥‥



 赤く揺らめく炎と、シットリと草を濡らす赤い血と、夜は何処までも暗く、この場にはトリの好きな色が溢れていた。
 トリの背丈と同じくらいある大きな鎌は、逃げ惑おうとする男性の背中を斜めに切り裂き、赤黒い物を流れさせた。
「‥‥‥果たして何を思い出すのやら」
 ポツリと呟き、振り返る。
 透き通った大きな青の瞳が見開かれ、ヘタリとその場に腰を下ろしたレインは、どうやら腰が抜けてしまったらしい。声も出せず、目を逸らす事も出来ず、凍りついた表情で座り込んでいる。
 一時前までこの場を支配していた音は、全て消え去った。
 エルザードから北に離れたこの場所は、夜鳥の鳴く声と、薪が爆ぜる音、風のささやきしか聞こえてこない。時折獣の鳴き声が風に運ばれてくる事があったが、鳴き声の主はここからかなり離れた山の奥にでもいるのだろう。
 トリとレインがこの場所に来るまで、ここは人々の話し声で賑わっていた。
 この界隈を荒らしていた盗賊達が、今日の成果を高らかに語り合いながら酒を飲み、明日の事を相談しては取らぬ狸の皮算用、一生安泰だと下卑た笑い声を上げていた。
 羽は悪魔、容姿は天使と見紛うばかりのトリが、死神が持っているものと同じような大鎌を片手に、美しい少年を連れてこの場に足を踏み入れた時、盗賊達は突然の闖入者に驚きはした物の、酒の勢いと彼らの美しい容貌にすっかり警戒心を無くしていた。
 レインの手を離し、あまり近付かないようにと言い置いてから、トリは薄く微笑むと大鎌を取り出し、手前にいた男の胸を切り裂いた。
 突然の展開に、レインが小さく息を呑む音が聞こえてくる。
 早まる鼓動と、怯えているらしき様子と、トリは彼の素直な反応に微かな満足を覚えた。
 足元に倒れこんだ肉塊を跨ぎ、ゆっくりと男達に近付く。
 何が起きたのか分からない様子で、ポカンとトリを見つめている彼ら。
「盗賊をしている割に、鈍いんですね」
 頭の回転が速くなくては、盗賊なんてやっていけないのではないか。 ふと浮かんだ疑問に、トリは自分自身で答えを見つけ出した。
 人を傷付けない、俗に義賊と呼ばれる人達は、頭の回転が速くてはならないのかも知れない。人目から姿を隠し、綿密な計画を立てて忍び寄り、宝を奪う。それは、並大抵の頭の持ち主では出来ないことだろう。
 けれど、人を簡単に傷付け、特に殺害も厭わない盗賊達にとっては、何の計画性も必要ない。 必要なのは、相手をねじ伏せるための力と、良心と言うモノを殺す力、そして、同じような性質を持つ仲間達。
「良いですね。 私もあなたたちの考えが、理解できないわけじゃないんですよ」
 むしろ、理解できる方だ。
 ただ、彼ら言う“仲間意識”はよく分からないが、理解することなら出来る。 こんな風に思っているのか、こういう感情があるからこそこう考えるのか、全ては客観的な目で味わう事が出来る。
 屈強な男が一人、意味の分からない言葉を叫びながら襲い掛かってくるが、彼が持っているのは短剣だ。トリの持つ大鎌とは、リーチの差が全然違う。
 あっさりと倒された男を前に、盗賊達が数人束になってかかってくる。
「そんな風に来ても無駄。 それに、全然楽しくない」
 平坦な声に、不満の感情が薄っすらと滲む。
 トリは、人の怯える顔と心臓の音が好きだった。 心地良く響く心臓の音に、蒼白の顔、極限まで見開かれた目で必死に助けを請う、あの時の瞳の色。表面上は決して分からない、トリの隠された嗜虐心を満たしてくれる、あの時のなんとも言えない快。
 襲い掛かってきた盗賊達を一斉に鎌で切り裂き、トリは長い髪を風に靡かせると薄く微笑んだ。
 焚き火の周りに集まっていた盗賊達が、突然の死神に奇声を上げながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
 やっと満足の行く反応を返してくれた盗賊達に、トリは唇を舐めると、逃げていく盗賊を追って走り出した。
 見た目では分からない俊敏さと、例え暗闇に隠れたとしても見つけてしまう夜目に、敏感な感覚。
 哂う三日月が見守る中、半刻ばかりの殺戮ショーは最後の一人を切り裂いた事で幕を下ろした。
 ――― 赤く揺らめく炎と、シットリと草を濡らす赤い血と、夜は何処までも暗く、この場にはトリの好きな色が溢れていた。
 ザリっと砂を踏みながら、レインに近付く。
 青白く細いトリの手は、血に濡れている。
「‥‥‥愛とか、幸せとかが、あると思っているの」
「 ―――― っ、あ‥‥‥っ‥‥‥‥」
 すっかり声を失ってしまったらしいレインは、トリの疑問の言葉に返すだけの力はなかった。 立ち上がろうと手に力を入れるが、上手く力が入らない。
「それ自体がしあわせなことかもしれないのに」
 目の前に立ち、大鎌を片手に持ったトリが、三日月をバックに艶やかな微笑を浮かべる。
 レインの青色の瞳から、大粒の涙が溢れ、白磁のような頬を滑り、細い顎から地面へと落ちる。
「‥‥‥さあ、もしあなたが私だったなら、きっと記憶を取り戻せるよ」
 血に塗れた手をレインに差し出す。
 ビクリと肩を震わせた少年は、イヤイヤをするように顔を振ると、縋るような瞳でトリを見上げた。
「思い出せない?」
 ややあってから、コクンと頷くレイン。
 蒼白の肌と、細く柔らかそうな黒い髪の毛と、恐怖に怯える青色の瞳。細かく震える体は華奢で、トリは彼の様子に柔らかく微笑むと膝を折り、彼と視線の高さを合わせた。
 大鎌を地面に置き、両手でレインの頬を包み込む。頬に出来た涙の跡を親指で拭い、代わりに赤い血が頬を濡らす。
「そう、思い出せないの‥‥‥残念だな」
 心臓が早鐘になり、淡い桃色の唇が震えている。薄く開いた唇からは真っ白な前歯が覗いており、カチカチと小さな音を立てている。
「‥‥‥もしかして、あなたは私側ではない人間なのかな?」
 底なし沼のように深い色をしたトリの瞳に、残酷な光りが宿る。
「あなたは、彼らのようにされるほうが好き?」
 背後に横たわる無数の屍を前に、レインが息を呑む。
「ふふ。安心して、死ぬことはありません。 私だって、加減くらい出来ます」
「 ――――― っや‥‥‥っ‥‥‥‥だ、っ‥‥‥だれ、か‥‥‥」
「呼んでも、誰も来ません。 なぜなら、あなたを助けられるような人はこの場にはいないから」
 この場に人間は二人しかいない。 かつて人間だったものならば、無数に転がっているけれど。
「死ぬことは有りません。亡骸は実に面倒。 ‥‥‥ところで、お散歩は好きですか?」
 唐突に切り替わった話しにレインがついて行けなくなり、困惑する。 年齢不相応の幼くあどけない表情に、トリは目を細めると足元に置いてあった大鎌を取り上げた。
「私はお散歩も好きですけれど、隠れんぼとか、鬼ごっことかも嫌いじゃないんですよ。 どっちも、鬼をするのが好きなんだけれどね」
 さぁ、逃げてください。 私に見つからないように隠れて、走って‥‥‥
 捕まったらどうなるの? そんな事も分からないのですか?
 愚かな質問をする人は嫌いです。 もっとも、分かっていながらあえて聞いていると言うのならば、答えてあげましょう。
「真っ赤なお花は、泣くんですよ。 ‥‥‥ふふ」
 レインが脚に力を入れ、立ち上がると駆け出す。 盗賊達の亡骸に躓きながら、それでも暗い道を聖都・エルザード目指して走り出す。
 トリは楽しそうに数を数え始めた。
 それがレインの心を焦らせ、行き場のない恐怖に突き落とすと知って、数え始めた。
 数の進行は緩やかで、楽しんでいるように囁かれる数は、1秒が3秒ほどの重みを持っていた。
 10までを数え終わる。 時間にしたら30秒ほどはかかっただろう。
「もう探しても良いですかね?」
 呟く。 その質問に答えが返ってこないのは、分かっていた。
 この場には誰もいない。 鬼と、逃げる者と、そして無数の屍達と。
 屍達は少年に語りかける。 こっちに来れば楽だと、お前も一緒に逝こうと。
 風は囁く。 あの人から逃げられるはずがないと。逃げるだけ無駄だと。
 三日月が嘲笑う。 高鳴る鼓動と詰まる息を隠せもせずに、それでも隠れた気になっている可哀想な兎を。 頭隠して尻隠さず。どんなに身を隠そうとも、心臓が、呼吸が、彼の存在を雄弁に語っている。
 ――― 愉しい
 トリは心底そう思った。 盗賊を倒した時とは違う、ゾクリと背筋を震わせる快に口元に薄く笑みを浮かべる。
 追い詰められた彼の心は純粋で、荒れる呼吸は恐怖を纏い、鼓動は喧しく絶叫している。
 大きな木の根元、ポッカリと開いた穴の前に立つと、トリは鎌を地面に突き刺した。
 「ひっ」と息を呑む音が、穴の奥から聞こえてくる。震える彼の歯の根は合わず、カチカチと可愛らしく鳴いている。
「もっと本気になって逃げてくれないと、困ります。 さぁ、また10数える間に逃げて、隠れなさい」
 鎌を引き抜き、穴の中に手を入れて少年の華奢な腕を掴むと引きずり出す。
 森を駆けている間に転んだのか、ズボンの膝部分に赤黒い染みが出来ている。 顔にも小さな切り傷が出来ており、折角の綺麗な肌が台無しだった。
「‥‥‥も‥‥‥もう‥‥‥たすけ‥‥‥」
「何を言っているんです。夜はまだ長いんですよ。 ‥‥‥幸せを、見つけたいんでしょう?」
 透き通るような青い瞳から、絶望が滲み出す。
 泣きながら立ち上がった彼は、聖都・エルザードに背を向けて走り出した。
 方向感覚は既に失われ、三日月と星の輝きしかない地上はあまりにも暗くて。 いつ明けぬとも知れぬ夜を逃げ惑ううち、涙はは枯れ果て、瞳からは光が失われて行った。



* * *



 三日月と星の明かりが弱まり、空が徐々に明るくなる。
 木の枝に服を引っ掛け、木の根に足を捕われ、それでも逃げ続けたレインは、ボロボロになりながらその場にへたり込んだ。
 ガサリと背後の木々が揺れ、砂を踏みながら誰かが近付いてくる音を聞きながらも、レインは動こうとはしなかった。 鬼は、獲物を生かしも殺しもしない。生かし続けては逃げられてしまうから、殺してはそこで終わりだから。 レインは最初、そんなトリの態度が怖かった。殺されたくない、その一心で逃げ惑った。 しかし、逃げ惑ううちに疲れが体を蝕み、心を蝕んでいった。いっそ殺してもらった方が楽だった。けれど、鬼が獲物を殺さないことを、レインは知っていた。
「夜が明けますね」
 息一つ乱さず疲れた様子も見せずに、トリは柔らかく微笑むとしゃがみ込み、レインと視線の高さを合わせた。
 綺麗な綺麗な青色の瞳はもうどこにもない。 色はあれども光りは宿らないその瞳は、トリと同じ、一筋の光りさえも差さない漆黒の瞳と似ていた。
 目と目が合う。汚れたレインの顔は、会った時のような無邪気さも精悍さも失われていた。虚無的で、退廃的で、けれどどこか艶っぽい、年齢不相応の儚く女性的な色香が滲んでいた。
 レインの淡い桃色の唇が、三日月のようになる。 目は笑っていないけれども、他の部分が笑い出す。肩が振るえ、口が開き、そこから笑い声が溢れ出す。
 恐怖と疲れで歪んだ精神は、全ての現象を快へと変える。
 切り傷の痛みも、目の前にいるトリのことも、何もかも全て ――――――
 そうしていないと自分が保てないから、快へと変える。けれど、全ての物事が快へと変わった時点で自我は崩壊し始める。最初の一片が崩れさえすれば、後はなし崩し的に全てのものが、凄まじい勢いで崩れだす。
 レインの瞳から涙が零れ落ちる。 複雑に絡まった感情の中、まだ正常などこかが涙を流させているのかも知れない。 頬についた赤い血に、透明な線を描いていく涙は、濁りながら顎に滑り、地面に薄い赤色の雫を落とした。
「あぁ、どうしましょう‥‥‥」
 まさか壊れてしまうなんて ――― そう思う反面、分かっていたことでもあった。
 暗闇での終わることなき隠れ鬼が、少年の純粋な精神をどれほど蝕むのかと言うことを、トリは理解していた。
「‥‥‥幸せを欲しいと言っていましたが、あなたは本当に幸せの感情を無くしてしまったの?」
 トリの言葉は、レインには届かない。 既に彼の精神は、どこか遠くへと旅立ってしまったから。
「あなたは、元から幸せだったんではないですか。 でなければ、他の感情なんてきっと表れなかっただろうから」
 クスっと、背後で誰かが笑う声がした。
 トリは大鎌を構えると振り返り ――――― 目を見張るような美しい少年が、天使のような微笑を浮かべながらゆっくりと手を上げた。自分は何もしないから、鎌を下ろせと言う意思表示らしいが、得体の知れない人物を前に、容易に武器を下ろすべきではないと言うことはトリだって知っていた。
 彼は足音一つ立てず、気配一つ滲ませずにここまで来たのだ。 すでに生きていない人間か、それとも相当な力を持った人間か、あるいはこれが実体ではないのか‥‥‥。
「凄いや。まさか、こんな幸せがあるなんてね‥‥僕も驚きだよ」
 凛と良く響くテノールに、さらりとした金髪。象牙のように白い肌に、血のように透き通った赤い瞳。睫は少女のそれよりも長く、華奢な身体は今にも折れそうだ。
「あなたは誰です?」
「僕の名前はクロード。クロード・フェイド・ペディキュロージア。魔術師だよ。 そのこ王子様に魔法をかけたのは、僕だよ」
「王子様‥‥。レインが?」
「そう。本名はレイン・ラズ・フィロルド・アイドバーグ。 まぁ、本名はもっと長いみたいだけれど、これで通しているみたいだから、これが本名って事で良いよね。 アイドバーグ家の長男。って言っても、お姉さんは上に6人もいるし、妹だって5人もいるんだけどね」
 クスクスと、何が可笑しいのかクロードは肩を揺らすと、音もなくレインに近付いた。
「アイドバーグ家の男はレインだけ。 そんな大切な王様候補の精神を破壊しちゃって‥‥可笑しいったらないね。 僕、ずっと君達の追いかけっこを見てたんだけど‥‥最高だったよ。レインの怖がって、苦しむ顔‥‥大好きだな」
 容姿の美麗さとは違い、瞳にはどす黒い感情が滲んでいる。
 レインの髪に触れ、何処を見ているのか分からない瞳を覗き込む。
「壊れたレインも素敵だね。なんか、ゾクっとするよ‥‥‥。 でも、君にはもっともっと苦しんでもらわないと、僕の気は晴れないんだ。こんな簡単に狂ってもらっちゃ、困るんだよ」
「あなたは彼の何なんです?」
「死神、悪魔、疫病神‥‥‥アイドバーグ家に、恨みを抱いている者とでも言っておこうかな。 君は、トリ・アマグさんだよね? あぁ、どうして名前を知っているのかなんてくだらない質問はしないでよね。知る方法なんて、いくらだってあるんだから。 ‥‥君と僕は、少し似ているけれど、全然違うね」
「えぇ、そうですね」
 トリは薄く微笑むと、クロードがレインの顔に手を翳し、何処の言葉とも分からない呪文を唱えているのを聞いていた。 淡黄色の光りはレインの身体を包み込むと、ふわりと溶け消えた。 意識を失ったレインが支えを失い、倒れ込みそうになるのをクロードが受け止める。
「目が覚めた時、レインは鬼ごっこをしたことだけを覚えている。ただの楽しい鬼ごっこをしたとね。 でも、記憶ってそんなにすぐに消せるものじゃない。今夜の記憶も、鍵さえあれば開けるんだ」
 レインの身体についていた血が消え、切り傷が閉じていく。切り裂かれた服も元に戻り、クロードは優しくレインの華奢な身体を地面に横たえると立ち上がった。
「トリさんって、吟遊詩人なんだね。それじゃぁ、僕の歌を歌った事があるかも知れない」
「有名な歌の登場人物なんですか?」
「そうだよ。英雄と言われていた時があった‥‥‥もう大分昔のことだけれど」
 クロードの横顔に、刹那だけ寂しそうな表情が浮かぶ。人間味を欠いた彼の容姿や言動からは想像も出来ないほどに、感情的で素直な表情だった。
「英雄はやがて、貶められる。時は英雄を風化させ、黒く塗り上げる。足掻くことは滑稽で、だから僕は時代に従った。 ‥‥‥僕は誰にも裁かれるつもりはない。僕を唯一裁けるのならば、時、ただそれだけ」
「私の記憶の限りでは、クロードと言う英雄はいなかったはずですが」
「時は風化させる。名前を、存在を。黒く塗り上げられた英雄を、誰が持ち上げようか?そんな英雄を持ち上げた過去を、誰が受け入れられようか? 歌は変える。英雄の名を、英雄のその後を」
「‥‥‥また、会えますか?」
 トリの口から、自然にそんな疑問が零れ落ちた。
 美しい魔術師は、ほんの少しだけ驚いたように目を見開くと、すぐに口元に笑みを浮かべた。
「時がそう決めたのならば‥‥‥」
 また会えるかも知れない。 皆まで言わずに、クロードは最後にトリの耳元でそっとある言葉を囁くと、差し込んできた太陽の光りに溶け消えた。 まるで雪の結晶が一瞬にしてなくなってしまうように、あっけなく、何の前触れもなく。



 白山羊亭で歌いながら、トリは今朝方あった事を思い出していた。
 クロードが消えた後、すぐに目を覚ましたレインは満面の笑みで記憶が戻ったと喜び、トリを恩人だと言って、城に招待したいと言ってきた。瞳には光が戻り、女性的な色香は消え去り、少年独特の瑞々しさが溢れていた。
「近くに来た際には、ぜひ寄ってください!」
 幸せの鍵で開けられた記憶の中、レインの一人称は僕となり、口調も穏やかで丁寧なものに変わっていた。
 光りの宿らないトリの瞳を見ても臆することなく話しかける彼に、一瞬悪魔が囁く。
 ――― 記憶が戻らない時の方が、綺麗でしたね‥‥‥
 今の彼なら、怯えずに立ち向かってくるだろう。鼓動もきっと、強い響きになるのだろう。
 竪琴を、青白い指が滑る。 紡がれる幻想的な曲は、昨日の出来事を淡く暈し、甘く染め上げたもの。
 花畑を走り回り、森で隠れんぼをする、そんな可愛らしくも綺麗な光景の歌。
 クロードが最後に耳元で囁いた言葉を思い出す。
『哂う三日月の下 終わりなき隠れ鬼は 楽しいですか?』
 その言葉一つで、レインの記憶の鍵は開かれる。
 狂うほどに闇夜を走り回った、あの時の記憶が ―――――――



END


 ◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  3619 / トリ・アマグ / 無性 / 24歳 / 歌姫 / 吟遊詩人


 ◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

 こんな風で良かったでしょうかと、少々不安に思いますが‥‥
 艶やかで不思議なトリさんの雰囲気を損なわずに描けていればなと思います。
 最後の言葉は、今回の出来事の記憶を開けるための鍵です。
 レインの耳元でこの言葉を囁いたが最後、再び狂い始めてしまいます。
 今回、大分書き方を変えてみました。
 レインを儚く書き、トリさんを艶やかに書くことで、全体的に耽美な、幻想的な雰囲気になっていればと思います。
 この度はご参加いただきましてまことに有難う御座いました!