<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


遠い満月 〜 love and thorn 〜



 無数の星よりも、たった一つの月が美しい。 夜空を見上げ、ふとそんな事を考える。
 闇を切り裂く淡黄色の光りは柔らかで、延々続く道をほの暗く照らしている。
 冷たい風を受け、トリ・アマグは目を閉じた。 長い睫が頬を掠り、目を開けた瞬間、風が孕んだ血の臭いに気が付いた。
 耳を澄ませば、荒い息遣いが聞こえてくる。足を引きずるような音、荒れ狂う心臓の音。 苦しそうな呼吸が一瞬止まり、むせながら何かを吐き出す。 おそらく、血を吐いたのだろう。内臓に深刻な怪我を負った可能性がある。
 雰囲気からして、怪我をしたのは男性。 そう、少年と言っても良いくらいの年齢かもしれない。
 ドサリ、何かが崩れ落ちる音がし、トリは少年が力尽きた事を知った。 けれどまだ、息はある。
 刹那考える。行くべきか、行かざるべきか。 このままトリが見捨てれば、少年はあと数刻の後に息絶えるだろう。 この寒さと、止まらない血が彼の体温を奪い、いつしか意識を、そして命も連れ去って行くだろう。
 知らない相手にかける情はなく、まして知らない誰かが死のうとも、関係はない。
 けれどトリは気まぐれで、少年の顔くらいは見ておこうと、暗がりに倒れる彼の傍に近付いた。
 銀色の細い髪が、地面に流れている。白い肌は月光に照らされて官能的なまでに艶やかに輝き、華奢な身体に纏っているのは薄手の ――― こんな寒空の下を歩くのには向いていない ――― シャツとズボンだった。 寝巻きと言うほどラフなものではなかったが、部屋着と言われれば納得できる、そんな格好だった。
 閉じられた瞳が、耳元で聞こえた砂を踏む音に開けられる。
 透き通った青い瞳を見下ろしながら、意外にも整った顔立ちの彼に興味を覚える。
 見た目には特にコレと言って目立ったところはなく、顔つきもいたって善良な市民のソレと同じ。誰かに嫌われた事も恨まれた事もなさそうな無垢な瞳は、外見に反して幼い光りを纏っている。
「こんばんは」
 トリの発した言葉は、いささかこの状況では浮いていた。 今にも息絶えようとする少年を前にかける言葉にしては、あまりにも平穏な夜の挨拶過ぎて、少年の顔がクシャリと歪む。 痛みの為に上手く表情が作れないらしいが、笑顔と言われれば笑顔にも見える、そんな表情だった。
「どうしました、こんな寒い夜に、そんな薄着で」
「俺だって‥‥‥」
 ゲホっと、苦しそうにむせながらどす黒い物を吐き出す。喉からは虎落笛のような細い音が聞こえており、少年はゴクリと喉を鳴らすと再び顔に歪な笑いを浮かべた。
「俺だって、こんな格好で‥‥‥地面に寝転がってなんて、いたくないですよ」
「‥‥‥なにか、理由がおありなんでしょうね」
 そりゃそうでしょう。 少年が冷笑を浮かべる。
 銀色の髪がシットリと濡れ、冷や汗が頬を滑り落ちる。 強い痛みは、いつしか曖昧に揺れていく。苦痛はやがて穏やかな波となり、それに絡め取られたが最後、呆気なく意識は闇に呑まれ、魂は身体を離れるだろう。
 少年は今どの段階にいるのだろうか。 ふと、そんな疑問が浮かぶ。
 意識はまだクリアなようにも見えるが、時折ぶれる焦点。青色の瞳は今にも瞼の裏に隠れてしまいそうだ。
「何かお困りの事がありますか?」
 沼の底のように光りの差し込まない黒い瞳は、周囲の闇すらをも凌駕するほどに深い。 晴れた日の高い空のような瞳の色をした少年とは、対極の位置にあるような錯覚を受ける。
「シャリアーが‥‥‥妹みたいな存在なんです‥‥‥その子が、攫われたんです‥‥‥」
「誘拐ですか。穏やかではないですね」
「誘拐って言うか‥‥‥シャリアーの身体に、何かが乗り移って‥‥‥」
 途切れ途切れの説明からも、トリは何とか状況を理解すると空を見上げた。
 無数の星と、唯一つの月と、それらを縁取るかのように高く腕を伸ばす木々と。
「その子は、どの方向へ向かったのかな。‥‥‥ああ、それならきっと、あのカラスの沢山いるところだね」
 指をさされても、少年の目にはカラスは見つからない。 闇に潜む彼らは、闇と同じ羽色をしているから。
「飛んでいけばすぐですよ。それに、カラスたちに道を聞く事も出来る」
「助けてくださるんですか?」
「その子に興味があるんです」
 シャリアーではなく、彼女の身体を乗っ取った誰かさんに ―――――
「有難う‥‥‥御座います」
 複雑な表情でお礼を言った少年が、深く溜息をつくと懐から小さな折鶴を取り出した。 白い鶴は羽の部分に細かな模様が入っており、便箋の端を千切って作ったような物だった。
「俺は、リンク・エルフィアと申します。‥‥‥ここから少し行った所にある喫茶店で、ウェイターをしています」
「私はトリ・アマグ。吟遊詩人をやってます」
 リンクの手から折鶴が放たれる。 頼りなげに浮遊した生命体は、小さな羽を大きく羽ばたかせると高く高く空へと上って行った。
「面白い魔法ですね」
「俺がかけたものではありません。 もしもの時の為にと貰った物です」
「どうして最初にアレを使わなかったの?」
「アレを飛ばし続けるのには、体力を使うんです。助けが来た時には、もう喋れもしないでしょうね」
 自嘲気味な笑いを浮かべ、リンクが辛そうに胸に手を当てる。
「‥‥‥トリさんに、会えて良かった」
「私もキミに会えて良かった」
 膝を折り、そっとリンクの髪に触れる。シットリと汗に濡れた細い髪から手を滑らせ、皇かな頬を撫ぜる。柔らかな弾力と冷たく凍った体温は、不釣合いなようでいて危ういバランスを保っている。 命の炎が消えるか消えないかの瀬戸際は、何故か美しい。
 トリは立ち上がると、大きな対の漆黒の羽を羽ばたかせた。
 空へと上がって行くトリを見上げながら、リンクは今にも呑まれそうになる意識の中、ボンヤリと考えた。
 月をバックに飛ぶ鳥は、果たして幸運の鳥なのだろうか、それとも ――――― ?



 黒い森の上を飛ぶ。風が吹くたびにザワリと揺れる木々は、まるで緑色の不安定な地面のようだった。 冷たい風がトリの長い髪を靡かせ、服にあしらわれたレースを波打たせる。
 永遠に続くかのように思えた黒の森は、唐突に開けた。 地面を覆っていた木々が左右に分かれ、細い道が現れる。道は次第に太くなり、赤く彩られていった。
 すっと高度を落とし、薔薇の道の真ん中に降り立つ。雨でも降っていたのか、地面はシットリと濡れていた。
 息を吸い込めば、甘い薔薇の香りと土の匂いが複雑に絡まり合い、不思議な匂いを紡ぎ上げる。
 そっと薔薇に手を伸ばす。柔らかな手触りの花弁と、その下に隠れている鋭い棘と。 美しい花は、美しいだけでは身を守れないから棘を持っているのか、それとも血を欲する棘を隠すために美しく花開いているのか、どちらなのだろうか。
 血のように赤い薔薇が造り出す道は迷路のように複雑ではあったが、トリは迷わずに白亜の城まで辿りつく事が出来た。 それは上空から城の場所を確認していたからであり、風に含まれる悲しい匂いを敏感に察知していたからでもあった。
 見上げるほどに大きな城は、既に住む人を失って長く、所々崩れている。 風雨に耐えて来た城は扉を失い、窓ガラスは割れ、空に伸びる一本の塔だけが昔の威厳を物語っているかのようでもあった。
 塔の先端にチラリとオレンジ色の炎が灯る。 ガラス窓が外側へ開かれ、中から桜色の髪をした小さな少女が顔を覗かせた。
 トリは軽く地を蹴ると空に浮かび上がった。一気に塔の窓まで飛び上がり、金色の瞳をした少女と視線を合わせる。
 ふわふわの桜色の髪は細く美しく、華奢な身体は突風が吹けば容易く飛ばされてしまいそうだ。 金塊を髣髴とさせる瞳の色は鋭く、外見年齢に反して表情は酷く大人っぽい。
「こんばんは。今日は良い月夜ですね」
「こんばんは。そうね、見ている分には良い月夜かも知れない。私が地上に生きる人間ならばの話しだけれども」
「あなたは月に帰るべき人なんですか?」
「そうよ。私の居場所はここにはない。私は既に、地上から離れたの。月へ続く道を閉ざされなければ、あそこまで上っていたはずなのに」
 寂しそうに目を細め、シャリアーに宿った誰かは手を伸ばした。 見ようによってはトリに伸ばされたかのようだったが、彼女はトリの向こう、闇を切り裂く月へと手を差し伸べていた。
「あなたは、悲しい幽霊さん」
「悲しくない幽霊なんて、いるのかしら? ‥‥そうね、もしかしたらいるのかも知れない。悲しい死に方をした私には分からない事だけれども、幸せな死に方と言うのも世の中にはあるのかも知れない」
 私には分からない。私は悲しい死に方しかしなかったから。 もし生き返れたならば、幸せな死に方をしてみたい。
 彼女はそう呟くと、魅力的な微笑を浮かべて窓から身を引き、トリを手招いた。
 小さな窓から入った先は、まるで牢獄のような冷たく無機質なレンガの部屋で、天井からぶら下がったランプと部屋の隅に置かれた丸テーブルの上の花瓶だけが異質だった。
 ツルリとした白の花瓶には赤い薔薇が一輪飾られており、少女はそれを花瓶から抜くと、棘を取り、茎を折ると髪に挿した。
 淡い桜色の髪と、血のような薔薇の花と、鋭い金色の瞳と、蒼白の肌と ―――――
「貴方は私を見つけてくれた」
「あなたが見つけてほしいと思っていたから見つけられた」
 現にあなたは、私が城の前に着いたら塔から顔を覗かせた。
「貴方はきっと、私を助けてくれる。月に帰してくれる」
「あなたがそう望むのなら」
「私を殺した誰かがすぐ近くに居る。私はあの人から呪いをかけられた」
「けれどあなたは、その人を恨んではいない」
「憎んではいるわ」
「愛憎は紙一重だから」
「愛なんてもう忘れたの。あの人が私をこの場に留まらせ続ける限り、私は憎み続ける」
「‥‥‥愛するひとに殺されるのは辛いことだ。それが深い深い愛もしくは哀によるものならば尚更だ」
「まるで知っているかのような口ぶり。貴方は愛する人に殺された経験があるの?」
「あるいはその逆ならば」
「貴方は愛する人を留まらせ続けるの?月には帰さずに?」
「それが許されるのならば」
「許されるはずがないわ。死者は空へ帰るが道理。それが世界の決まり」
「世界などどうでも良いのです。許しを請う相手は世界ではなく、愛するひと、もしくは私の心」
 胸に手を当てる。穏やかな微笑みは先ほどから少しも崩れてはいない。それと同様に、瞳には微かな光りすらも見えない。
「流れる血は赤い色。赤い薔薇は美しい。‥‥‥薔薇の花言葉、ご存知ですか」
「赤い薔薇の花言葉は愛情、情熱、熱烈な愛‥‥‥けれど‥‥‥」
 少女の髪から薔薇の花が落ちる。 ハラリと、一瞬にして崩れた花弁はレンガの床に落ち、黄色く色づいた。
「黄色い薔薇の花言葉は愛情の薄らぎ、嫉妬」
「深い愛は惑わせる。些細なことで、ひとを狂わせる。 愛は薔薇に似ている。美しい花の下に鋭い棘を隠しているところが」
「美しいが故に棘を持っているの?それとも、棘を持っているが故に美しいの?」
「それは誰にも分からない」
 愛は美しいが故に狂いやすいのか。それとも、狂うが故に美しさを纏っているのか。
「あなたが月へ帰る事を望むのならば、私は鎮魂歌を歌います。それで、出来ればあの空へ返します」
「出来なければ?」
「月夜の幻をあげよう。出来るだけ美しい月を。鳥たちと共に歌います」
 両手を広げれば、暗がりから無数の鳥たちの羽ばたく音が聞こえてくる。 寝静まる森を揺るがした鳥たちは、それきり沈黙した。息を潜め、合図を待っているかのように、静止した時が緩やかに流れる。
「‥‥‥たとえ私が恨まれようとも」
「誰から恨まれるのかしら? 叩き起こした鳥たちに?それとも人々が寝静まった夜に鎮魂歌を聞かされる月に、星に?それとも私にかしら?もしくは私をこの場に引きとめようとしているあの人に?」
 少女の歌うような質問には答えず、トリは軽く息を吸い込むとアカペラで歌い始めた。
「♪I clear the shut way」
「♪If you expect it, I lead you by the hand and take it」
「♪Because it seems to be far, and the sky is very near」
「♪I put up plenty it if I say that you want the moon」
「♪If you can sleep peacefully, I will grant all your wishes」
「♪f you can sleep peacefully ‥‥‥」
 ♪閉ざされた道を開いてあげる
 ♪貴方が望むなら、手を引いて連れて行ってあげる
 ♪遠いように見えるけれど、空はとても近いから
 ♪月が欲しいと言うのなら、いくらでもあげる
 ♪貴方が安らかに眠れると言うのなら、願いを全て叶えてあげる
 ♪貴方が安らかに眠れると言うのなら‥‥‥
 アカペラで始められた歌は、鳥たちの囀りに彩られ、穏やかで優しい曲へと変わった。
 目を閉じて聞いていた少女は、金色の瞳をゆっくりと開けると小さな手を胸元に当てた。
「月夜の幻をあげるなんて、無茶な事を言う人だと思った」
「嘘は言いません」
「魔法みたいに綺麗に、瞼の裏に浮かんだ。綺麗な月。手を伸ばせば届きそうなくらい近くにあったのに、手がなかった」
「目を閉じていても、手は描く事が出来ます」
「えぇ、そうね。普通なら、目を瞑っていても自分の手を思い描く事が出来る。 けれど今、私は自分の身体ではないの」
「でも、あなたはもう自分の足で歩いて帰れる。違う?」
「‥‥違うわ。私には足なんて必要ない。私には、翼があるから」
 桜色の髪を掻き分けて、純白の対の羽が背に生える。 どこまでも黒いトリの羽とは対照的な色をしたそれは、ランプのオレンジ色の光を受けて不思議な輝きを発した。
「月へ行く道が開けた。私はこの淡黄色の道を飛んで行く事が出来る。私はこの地上から解き放たれるの。再び私の肉体を取り戻し、生まれ変わる、その日まで」
 月へ行く道を遮っていた雲が、鎮魂歌によって取り払われた。
 もう迷うことなく飛んで行ける。私の足に嵌っていた枷は、外れたのだから。
「お礼は言わない。何故なら、貴方は私が頼んだ相手とは違うから」
「お礼など必要ありません。私は既に、ある少年からその言葉を貰いましたから」
「この子の大切な人ね。父のようであり兄のようである、大切な家族。 ‥‥‥優しい愛情は、私の心を責める。あの子達の温かな愛の連鎖が、羨ましかった、妬ましかった」
「でも、もうあなたに彼女の身体は必要ない」
「私を愛してくれるのは、月だけ。そして私もそれ以上は望まない。 牢獄の扉が開かれた今、足枷が外れた今、私はあの人の愛から解き放たれた。そして同時にあの人の心も、私から解き放たれるはず」
 カタンと微かな音がし、トリは振り返った。
 20代後半から30代前半程度の外見年齢の中肉中背の男が、手に赤い薔薇の花を何本も抱えて立ち尽くしていた。
「お前達は誰だ?エリーンをどうした!?」
「姿かたちが変わろうとも、僕は君を見つけ出すよ。 そんな戯言を聞いていた時代が懐かしいわ」
「‥‥‥エリーン?」
「私が貴方から解き放たれた時、貴方も私から解き放たれる。 だってそうでしょう?貴方が永遠を望み、牢獄に押し込めた私は、鍵を奪い、永遠の望みを断ち切り、月へと行くのだから」
「ずっと一緒にいてくれるって、言ったじゃないか!」
「死が二人を別けたあの時から、もう一緒にはいられなかったのよ、ジェイク」
 純白の羽が震える。 金色の瞳がふっと閉じられ、華奢な体が支えを失ってレンガの床に倒れこもうとする瞬間、トリは反射的に彼女の身体を抱き止めた。驚くほど軽い身体をその場に横たえ、瞳と同じ黄金色の髪をした女性に目を向ける。
「その子が目を覚ました時、伝えて、有難うって。エリーが言っていたって言えば伝わるわ」
「‥‥‥わかりました、伝えましょう」
「貴方は不思議な人。天使でも悪魔でもない」
「私はただの吟遊詩人ですよ」
「そう‥‥‥吟遊詩人なの。だから歌があんなに上手かったのね。 最後に、貴方の名前を聞いても良いかしら?私の名前はエリーン・ティファレシア。吟遊詩人の貴方なら、この名に心当たりはないかしら?」
「南国の姫君。悲しい愛の物語の主人公」
「禁じられた愛の主人公。愚かで幼い恋物語の主人公。‥‥‥血の繋がった兄妹の恋物語の主人公」
「私はトリ・アマグと言います。 ‥‥‥あなたに会えて良かった、エリーン」
「二人が国を追われたところで歌は終わる。その後の行方は誰も知らない。 貴方以外は‥‥‥」
「他言はしませんよ」
「違うわ、歌って欲しいのよ。 出来る事なら、貴方のあの美しい声で、鳥たちと一緒に」
 ふわりと柔らかな笑顔を浮かべ、エリーンは窓に手をついた。
「私も貴方に会えて良かった。トリ・アマグ、貴方の名前は忘れないわ。 私が再び肉体を取り戻し、全ての事を忘れ去るその日まで」
「エリーン!!」
 ジェイクの悲痛な叫びを穏やかな微笑で制し、エリーンはスルリと窓の外に身を滑らせた。 純白の羽が大きく震え、高く飛び上がって行く。月明かりを身に纏って羽ばたく彼女は、絵画の一場面のように美しく高貴だった。
「エリーン!!」
 赤い薔薇の花を足元に撒き散らし、窓から手を伸ばすジェイクだったが、エリーンが振り向く事はなかった。
 彼女は真っ直ぐに愛しい月を見据え、懸命に羽ばたくと手を伸ばした。 月光が眩しく輝き、一瞬夜の闇を全て取り払う。寝静まる黒き森が光りに切り裂かれ、集まっていた鳥たちが驚いて四方に飛び去って行く。 刹那の動はすぐに静に変わり、美しき天使を呑み込んだ月は再び元の穏やかな表情に戻ると、まるで何事もなかったかのように闇をも腕に抱き、夜の世界に薄いヴェールをかける。
「あ‥‥‥あぁ、エリーン‥‥‥どうして‥‥‥どうして僕を置いていくんだ‥‥‥」
 その場に膝を折り、肩を落としたジェイクにそっと近付く。生気を失った彼が顔を上げ、トリの深い闇色の瞳を見つめると今にも泣き出しそうにクシャリと顔を歪めた。
「君は悪魔だ。僕から大切な人を奪った、悪魔だ」
「私はただの吟遊詩人。それ以上でも、それ以下でもない」
「エリーン、僕のエリーン‥‥‥大切な‥‥‥」
「あなたは周りが見えていない。ほら、足元を見てごらん。あなたの言う愛が何だったのか分かるから」
 ランプの炎が揺れる。オレンジ色の揺らめきの中で、足元に散った青薔薇が冷笑を浮かべているように見える。
「どうして‥‥‥何故なんだ!?僕がもって来たのは、赤い薔薇で‥‥‥!!」
「あなた達の愛の結末は、青い薔薇。果たしてその意味は何でしょう?」
 希望? 可能? 不可能?
 絶望に顔を歪め、青薔薇を手でぐしゃぐしゃにかき回すジェイク。そんな事をしても薔薇は消えはしないのに、エリーンが去って行った事実を消せはしないのに、棘に傷つく指は気にせず、ひたすら薔薇を壊していく。
 きっと彼の指先の痛みはもう感じられないのだろう。 強い痛みは、いつしか曖昧に揺れていく。苦痛はやがて穏やかな波となり、呆気なく意識は闇に呑まれ、魂は身体を離れるだろう。
 魂が身体を離れたが最後、残るのは悲しい抜け殻だけ。 壊れた精神を引きずりながら虚ろに動く、肉の塊だけ。
 ヒステリックな笑い声を上げる彼をその場に、トリはシャリアーの華奢な身体を抱き上げた。 羽のように軽い少女は、トリの腕の中で小さくなると無意識のうちにギュッと胸元を掴んだ。
 窓から空へと飛び立てば、突風が吹きつけ、壊れた人間と壊された青薔薇が座っている塔の中、ただ一人だけ正常を保っていたランプを揺るがし、床に叩き落した。ガラスが飛び散る音と、炎が燃え上がる音。床に撒き散らされた青薔薇が瞬く間に火の中で命を消す。 燃える青薔薇の中央には愛しい恋人を失った男が恍惚の表情で座り込み、炎をボンヤリと見つめている。
 ひび割れた唇が紡ぐ言葉は、愛しい妹の名前。けれど差し出された指先は、妹の美しい金色の髪には届かない。
 彼は月へは行けない。一度別けられた二人はもう一緒になる事はない。 彼女を閉じ込め続けた彼は、今度は逆に自分が牢獄に捕らえられる事になる。炎と言う名の牢獄の中、不可能と言う青薔薇の足枷を嵌められて。
「あなたは彼女を愛していたわけではないのではないですか? あなたはただ、無条件で自分を愛してくれる人を愛したかっただけ。自分の意のままになるお人形を愛でていたかっただけ」
 赤い薔薇は黄色い薔薇に変わる。心の移ろいを無理に止めることは青い薔薇。それなのに無理に貫いた。
「あなたは結局、可能にも、奇跡にもする事が出来なかった」
 だから行き着く先は牢獄。貴方が愛した赤い薔薇と同じ色をした炎の牢獄の中で、貴方が忌み嫌う青い薔薇の足枷を嵌められて。
 トリは穏やかな微笑を浮かべると、燃える塔をそのままに、薔薇の迷路の上を飛び、黒き森の上を飛んだ。 空を見上げれば無数の星と唯一つの月。足元を見れば緑の絨毯、前を向けばはるか遠くに微かな灯り。
 腕の中のシャリアーが小さな呻き声を上げ、目を開ける。 金色の瞳ではなく、透き通った紫色の瞳に驚く。
「‥‥‥あれぇ?ここ、どこぉ? シャリー、飛んでるぅ?」
「お目覚めですか?」
「えっとぉ、確かティクルアにいて、白い靄にわぁって包まれてぇ、真っ白な空間の中でね、エリーちゃんが泣いてたの。 胸が痛いんだって言ってね、心臓を刺されちゃったから、とっても大好きだった人に刺されちゃったから、涙が止まらないのよって言ってたの」
「彼女の涙はもう止まりましたよ」
「本当?エリーちゃん、もう痛くないの?」
 良かったぁ。 そう言って微笑む無邪気な彼女の背に、純白の羽が見えたような錯覚を受ける。
「私はトリ・アマグと言います」
「トリちゃん‥‥‥覚えたの! シャリーはね、シャリアーって言うの!」
 にっこり、無邪気な笑顔は大輪の花のよう。けれど決して、薔薇ではない。彼女の笑顔の裏に棘が隠れているような事は、ないのだから。
「エリーンが‥‥‥いいえ、エリーが、あなたに有難うと言っていました」
「シャリー、有難うって言われるような事、何もしてなによぅ?」
 きっと彼女の泣いている心を励まし続けていたからですよ。 そうは思ったものの、口には出さなかった。



 月と薔薇が支配したあの夜、シャリアーをティクルアまで送り届ければ、そこには治癒魔法を施され、何とか立てるまでに回復したリンクがいた。 折鶴は彼の命の炎が吹き消される前に、所定の相手の元へ届いたらしい。
 お礼の言葉を軽く受け流し、トリはまた来ると言ってその店の前を後にした。 ご来店時はお食事のサービスをさせていただきます、そう言って微笑んだリンクの表情には、微かな警戒の色が見て取れた。
 彼はきっと、頭の回転が速くて勘が良いのだろう。 穏やかな表情の下に隠したトリの心の奥底を敏感に感じ取っているらしい。
 そう言う人は嫌いではなかった。愚鈍な人よりは、よっぽど話をしていて飽きない。けれど取り分けて好きと言うわけでもなかった。 ただ、シャリアーもリンクもトリの名前を覚えてくれている。その点に関して言えば、嫌いでも好きでもないという曖昧な場所から少し好き寄りに傾いていた。
 トリは黄昏に染まる草原を見ながら、踏み均された土の道を歩いた。 草と土の匂いのみを運んできていた風は、いつしか甘いお菓子の香りを纏うようになり、御伽噺の中から抜け出てきたかのような丸太小屋、喫茶店・ティクルアの店先に立った時には、空気そのものに匂いが染み付いてしまっていた。
 木の扉を開ければ、可愛らしい鈴の音が鳴る。 薪が爆ぜる音が小さく響き、奥に暖炉があるのが見える。
「いらっしゃいま‥‥‥トリさん!」
「こんばんは」
「どうぞ、あちらの席に」
「今日は、聞いて欲しい歌があるの。あの女の子はいる?」
「えぇ、いますけれど‥‥‥」
 不思議な顔をしながら階段を上がって行く彼と入れ違いに、金色の髪の少女がトリの前に立った。
「トリ・アマグさんですね。先日はシャリアーとリンクが大変お世話になりました。 私はここの店長のリタ・ツヴァイと申します」
 丁寧な挨拶をした少女は、まだ10代後半くらいの外見年齢だった。 全体的に華奢で頼りなげな少女は、厨房へ取って返すと紅茶とケーキを持って出てきた。熱々の紅茶からは細く湯気が立ち上っており、オレンジケーキは見るからに美味しそうだ。
 紅茶に口をつけた時、階上からトタトタと可愛らしい足音が響いてきた。
「トリちゃん、お久しぶりなのーっ!」
 桜色の髪を頭の高い位置で二つに結び、真っ白なワンピースを着たシャリアーがトリのテーブルに走って来る。 満面の笑顔を浮かべて「いらっしゃいなのー!」と明るい声を出す彼女に笑顔を向ける。彼女のそれとは違う口元だけの薄い微笑ではあったが、この場所はトリのそんな微笑すらも優しく包み込み、全てを穏やかなものに変えているかのようだった。
「それでトリさん、聞いて欲しい歌ってなんです?」
「ある悲しい恋のお話の結末だよ」
 トリはそう言うと、竪琴を取り出し、細い指を絃に滑らせた。



END


◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 3619 / トリ・アマグ / 無性 / 28歳 / 歌姫 / 吟遊詩人


◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

 前回とは変わって、穏やかな雰囲気を目指してみました。
 エリーンもトリさんも、歌うような台詞をと思いながら書きました。
 全体的に、幻想的で耽美な雰囲気になるようにと心がけたのですが‥‥
 シャリアーが全てをぶち壊しにしているような気がしてなりません。
 今回もトリさんの雰囲気を壊していなければと思います。
 ご参加いただきましてまことに有難う御座いました!