<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


24時間の幻衣

「随分と疲れた顔をしているね。あぁ、もしかして眠いのかい」
 貴方はある依頼をやっと終え、街の酒場で一息いれているところだった。精神的肉体的にもハードな仕事で、つまりは酷く疲れていた。話しかけてきたのは酒場で歌を唄っていた吟遊詩人。人好きのする笑みを浮かべ、貴方の横の椅子を引き腰掛けた。
「そんな君にぴったりのモノがある。先日手に入れたんだがどうにも試す勇気が……ではなくて、そう。君のような日常に疲れた人を私はずっと待っていたんだ」
 胡散臭い。貴方はそう思いながらも差し出されたモノを見てみる。
 葉に包まれた焼き菓子のようだ。砂糖漬けの果物で飾られていて、受け取ると甘い匂いが鼻先を掠めた。

「それを食べて、今夜はゆっくり眠るといい。……君ではない何かに、なれるかもしれないよ」
 断るのも面倒だと菓子を口に放り込む。味は悪くない。滋養のある菓子なのだろうか。
 
 ――そして、次の日。



 窓から入り込んでくる肌寒い風で、フィリオは目が覚めた。
 伸ばした腕はあまりにも短く、身体を覆う掛布から抜け出るのにも労力が要る。ぶるりと頭を振り、部屋に備えつけられていた鏡の前に立つ。人の姿ならばちょうど良い大きさのはずだが、小さな獣になった今では不気味なほどに大きく感じられる。
(さて、どうしたものだろう)
 夜は眠りの時間。昼間賑やかに街を彩る店も、子供たちの遊ぶ公園も、闇一色に塗り潰されていた。同じ場所なのにこうも違う顔を見せるものなのかと、フィリオは内心驚く。
 生きてきた時間の中で、たくさんの人間と関わった。たくさんの顔を見てきた。ならば動と静の二色今更知ったとて、何を驚くことがあるだろう。
 公園の端には大きな池があり、白い雲に時折遮られながらも細い月を映し出していた。落ちないように気をつけながら近付いていくと、己の顔が水面に映される。薄く青を乗せた銀の毛並みに、夜の闇に似た青い瞳。ふわりとした尻尾がゆらりと揺れた。
(そういえばこの姿は……ウィル)
 いつだったか、依頼の途中で出会った小さな獣を思い出す。あの夜も確か、こんな風に美しい月の夜だった。
「……っ」
 伏すに突き刺さるような殺気を感じ、思わずフィリオは振り返る。
 見ればそこには金色の眼をぎらつかせた猫が一匹。人間の姿ならばどうということはないが、今夜は力ない獣の身。獲物として狙われているのだと察し、背筋がぞくりと震えた。
 蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事。張り詰めた空気が痛い。猫は姿勢を低くして、今にも飛びかかってきそうだ。
「キュイ!」
 突然鋭い鳴き声と共に、闇から白っぽい影が飛び出してきた。
 体当たりでも食らったのか、猫は不意打ちを受け体勢を崩してしまっている。逃げるならいこの瞬間をおいて他にない。だが、何処に?
(――え?)
 白っぽい影は猫の横を走り抜け、フィリオの方に駆けて来た。攻撃を恐れ咄嗟に目を瞑るが、頭の中に響いてきた声は何処かで聞き覚えのある声だった。
「走って! 逃げるんだ。話は後だよ!」
 キュ、キュイ!という鳴き声に、人の声が重なって聞こえる。もしかしたら、獣の姿になったことで、人以外の存在とも言葉が通じるようになったのだろうか。白い獣は道案内をするように、少し先の路地へとフィリオを招いている。
 一体誰なのだろうかと請えの主を思い出す。そんなことを考えている余裕はなかった。
 ただ、この声は信じられる。根拠もないそんな想いが、フィリオを突き動かしていた。

 灯りのない真っ暗な街を走り抜け、気がつけばフィリオは森の入り口にたどり着いていた。月はまだ高く昇ったままで、先ほどの逃走劇ならさほど時間が経っていないことを示している。樹の上では小鳥たちが休み、弱い夜風がさらさらと木々の葉を揺らし子守唄を歌う。
「……ウィル?」
 息を整えたフィリオは、白い獣にそう問いかけてみる。
 確信はあった。記憶が間違いでなければ、以前受けた依頼で一緒にこの森に来たことがある。
「そうだよ。覚えていてくれたんだね。……もう二度と会えないと思っていたのに」
 青い瞳を水の膜で潤ませ、ウィルはそう言ってフィリオに鼻先を摺り寄せた。
  


 高い樹の幹にできた洞(うろ)の中、フィリオとウィルは遠く遥かな月を見ていた。
 外から見たより中は広く、小さな葉が敷き詰めてある。吹き抜ける夜気は少しだけ冷たいが、ぴったりと身を寄せ合っていれば気にならなかった。互いの温もりが寒さを打ち消してくれる。
「あの日からずっと、君を想っていた。同じ高さの視線で、同じ夜を過ごせたらどんなに良いだろうって、ずっと思っていた。月が願いを叶えてくれたのかもしれないね」
 ウィルは青い目にフィリオだけを映し、淡く微笑む。食料として備蓄していたのか、可愛らしい笠をつけた木の実を差し出した。
「私は、……」
「知ってる。君は獣じゃない。街に住む一人の人間。……そんなことどうでもいい。他の誰でもない、君が好き」
 昔、何かの書物で読んだことがある。
 森のある種族は求愛の印に特定の木の実を選び、伴侶とする相手へ贈るのだと。となれば、この実を取ることが即ち求愛の受け入れに結びつく。フィリオは迷った。この身は人のモノ、仮初の姿を月が照らし出そうとも、朝になれば元に戻ってしまう。夢のような時間の終わりが見えているのに、一時の感情で応えるのは残酷極まりないのではないだろうかと。
 けれどウィルには全て解っているようだった。その上で、契りの証である木の実を差し出している。青い瞳は儚く揺れて、今にも涙が零れ落ちそうだった。
 こみ上げてくる愛しさの衝動はもう無視できず、フィリオは木の実を受け取った。
「せめて月が沈むまで、此処にいて。……お願い」
 心を満たす幸福感に浸りながら、フィリオは何も言わず頷く。
 細い月は無言のまま、冷たく大地を照らしている。祝福を言わない代わりに、愛を呪うこともしない。
 たとえ夜の女王でも、今夜の二人を引き離すことはできないだろう。
 最後に見たのは青白い月だったか、それともウィルの瞳だったか。眠気に似たまどろみの中、引き込まれるようにしてフィリオの意識は落ちていった。



 翌朝。
 フィリオが目を覚ますと、そこは森の入り口だった。既に太陽が空の真上に昇っていて、正午が近いことがわかる。
「――夢だったんだろうか」
 ゆるりと首を振る。あの言葉が、あの夜が、夢幻だったとは思えない。思いたくない。偽りだと決めつけてしまうより、思い出だと信じていたかった。
「忘れない。だからどうか、貴方も忘れないでください。……ウィル」
 頬に伝う涙を拭いもせず、フィリオは静かに拳を握り締めた。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3510/フィリオ・ラフスハウシェ /両性/22歳/異界職】

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■         ライター通信          ■
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ご参加ありがとうございました。
ウィルとの邂逅、如何でしたでしょうか。またのご縁を祈りつつ、失礼致します。