<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


遠い満月 〜 meet again 〜



 冷たい風に身を任せながら、リルド・ラーケンは右の眼帯を持ち上げると、黄金色に燃える竜の瞳で上空の月を見上げた。 もっとも、視力の殆どない魔力の源である瞳に、月の形を宿すことは出来なかったが。
 強く目を閉じ、静寂に沈む闇の世界に身を浸す。 木々が騒ぐ音、鳥の羽音、昼間は気にもしない、自身の鼓動と呼吸が急に大きくなる。
 冬の夜は凛と澄んでいて、無と言う一文字が脳裏を過ぎる。 喧騒や人込みからは無縁のこの場所にいると、なおのこと強く無を思う。 まるで世界にはリルドしかいないかのような錯覚。全ての生きとし生けるものが消え去ってしまったかのような幻。
 死と無は同じなのだろうか。 ふとそんな事を思う。
 今の自分が死によって消された先にあるのは、何なのだろうか。
 鎖骨と鎖骨の間に刻まれた傷痕を指でなぞり、リルドは眼帯を元に戻すと歩き出した。
 砂を踏む音がやけに五月蝿く聞こえる。 自然の音以外の全てを拒絶しているかのような空間の中、リルドの足音は完全に浮いていた。
 ――― 拒まれている‥‥‥
 何故だかそう感じ、リルドは足を止めた。 ザァっと風が吹き、目を閉じる。視界が閉ざされた事によってやけに研ぎ澄まされた聴力が、微かな音を捉える。
 ――― 誰かが来る
 重たそうな足取りは、時折縺れて乱れる。風に乗って荒い息遣いと血の臭いが運ばれ、相手が怪我をしている事を知る。 思い切りむせ、何かを吐き出す。湿ったその音は、リルドの勘違いでなければ血だろう。
 ――― 内蔵をやられてそうだな‥‥‥
 しかも、一刻を争うような状況だろう。
 リルドはゆっくりと目を開けると、月光に照らされた薄暗い世界に目を凝らした。 濃い闇にくり貫かれた人型が、よろめきながらもこちらに近付いてきている。
 身長はそれほど高くなく、体型は細身だ。
 一瞬月光が鋭く輝き、朧に相手の顔を浮かび上がらせる。 歳の頃はリルドよりやや下くらいか、少年と言う部類に入る彼は、明らかに非戦闘員の顔つきをしている。
 銀色の細い髪と、華奢な身体。瞳の色までは分からなかったが、着ているものはこの寒空に出てくるにしてはあまりにも無防備な薄手のシャツとズボンだった。 寝巻きと言うほどラフなものではなかったが、部屋着と言われれば納得できる、そんな服装だった。
 胸部を押さえ、必死に前へ進もうとするその姿が自身と重なる。 けれど彼は、自分が助かりたいから前に進んでいるわけではないのだろう。意味もなく、リルドはそう思った。
 ゆっくりと歩を進め、リルドは少年の前に立った。 少年の高い空を思わせる綺麗な青の瞳が揺れ、焦点の定まらない視線をリルドに向ける。
「‥‥‥何があった?」
「シャリアーが‥‥‥」
 言いかけた少年の言葉が止まる。 その場に膝を折り、苦しそうに胸を押さえてむせ返る。
 唇の端から鮮血が流れ、むせるたびに血が伝う。喉からは虎落笛のような細い音が聞こえており、息をするたびに苦しそうに眉を寄せている。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている彼は、少し背中を押されれば死に転落してしまいそうだった。今なら、手を伸ばせばまだ届く。
 ――― とりあえず、ここに置いておくのはマズイな
 冷たい風は少年の体温を奪い、死の世界へと手招いている。 名も知らない少年だが、目の前で死なれては寝覚めが悪い。
「おい、この近くに休めそうな‥‥‥」
「シャリアーが‥‥‥攫われ、たん‥‥‥です」
 血は繋がってはいないが、妹のような存在だと言うと、少年は強く目を閉じ、開いた。眩しいものでも見るかのように細めている彼は、唇を噛むと再び数度瞬きをした。 おそらく、目が霞んできているのだろう。
「盗賊でも出たのか?」
「違うん、です‥‥‥実は、シャリアーの‥‥‥中に、誰かが‥‥‥乗り移って‥‥‥」
「乗り移った?」
 そうとしか考えられない。 確かに外見はシャリアーで、声もシャリアーだったけれども、あの瞳は、雰囲気は、喋り方は、純白の翼は、全く知らない誰かだった。 少年は途切れ途切れながらもそう説明した。
「迷路のような森、ね。‥‥‥わざわざ森を抜ける必要はねぇな」
「 ? 」
 キョトンとした顔の少年にニヤリと笑顔を向けた後で、リルドは上空を仰ぎ見た。
 ――― この月が隠れる前に、か‥‥‥
 おそらく、朝になる前にと言うことだろう。夜はまだ長いが、術者を倒してとなると、それほど時間があるとは言えない。
 ――― それに、もしかしたら‥‥‥
 死者を繋ぎとめておく呪魔法は、かなり高度なもののはずだ。 反射的に眼帯に手を触れ、苦々しく顔を歪める。
 “君のその瞳、気に入ったな”凛とよく響くテノールが、耳の奥で確かに聞こえた気がした。
「俺がお前の代わりをする。シャリアーを助け出せば良いんだな?」
「有難う‥‥‥御座います」
 リルドの表情に困惑の瞳を揺らした少年だったが、それでも安堵したように肩の力を抜くとお礼を言った。
「俺は‥‥‥リンク・エルフィアと、申します。‥‥‥ここから少し、行った所にある‥‥‥喫茶店、で‥‥‥ウェイターを、しています」
 リンクはそう言うと、懐から小さな折鶴を取り出した。 白い鶴は羽の部分に細かな模様が入っており、便箋の端を千切って作ったような物だった。
「俺はリルド・ラーケンだ」
「リルドさん‥‥‥」
 リンクの手から折鶴が放たれる。 いかにも頼りない様子でふわふわと浮遊した生命体は、小さな羽を大きく羽ばたかせると高く高く空へと上がって行った。
「‥‥‥特殊な魔法だな」
 けれどコレは、アイツの使う魔法とは根本的な性質に差がある。リンクが今使った魔法には、なんら邪悪な部分は含まれていない。
「俺がかけたもの、では‥‥‥ありません。 もしもの時の為に‥‥‥と、貰った物、です」
「何でもっと早く飛ばさなかったんだ?」
「アレを飛ばし続けるの、には‥‥‥体力、を‥‥‥使うん、です。 助けが来た時、には‥‥‥もう、喋れもしない‥‥‥でしょう、ね‥‥‥」
 自嘲気味な笑いを口元に浮かべ、リンクが辛そうに胸に手を当てて息を吐き出す。
「リルドさん‥‥‥あなたに会えて、良かった‥‥‥」
「こっちもある人物に会いたくてね。もしかしたら、シャリアーに乗り移ってる誰かに呪いをかけたヤツがそいつかも知れねぇ」
 彼に関して、普通に生活していては手がかりは何もない。 知っていることは、名前と、彼がかなりの力を持った術師だと言うことだけだ。
「シャリアーを‥‥‥宜しくお願いします」
 念を押すようにそう言ったリンクの顔は、青白い。 助けが来るまで、果たして彼は無事でいるのだろうか。 今にも瞑ってしまいそうな目と、今にも止まってしまいそうな弱々しい呼吸と。一瞬、助けが来るまでここに残っていようかと考える。 けれども月が隠れる前までにシャリアーを救い出さなくてはならないリルドは、その考えを頭から追い出すとリンクの肩をポンと叩き、森に向けて歩き出した。

 そんなリルドの背中を見送りながら、リンクは今にも呑まれそうになる意識の中、ボンヤリと考えた。
 呪いと言えば、あの人が得意だった。クロード・フェイド‥‥‥ ―――――



 迷路のように複雑な黒い森の上空を飛行しながら、リルドは金髪の美少年の事を思い出した。
 血のように赤く透き通った瞳、白い肌、華奢な肢体は肉体的には脆そうで、それでも彼にはとてつもない力が隠されている。残酷な笑みと、背筋が寒くなるような殺気。
 ――― もしアイツだったら‥‥‥
 果たして自分は勝てるのだろうか。刹那そんな事を思う。あの白の空間で会った彼は、一瞬にしてリルドの動きを封じるだけの魔法を展開した。
 奥歯を噛み、視線を下に向ける。 月光さえも嫌う黒い森の中に、ぽっかりと白亜の城が姿を現した。
 今にも崩れ落ちそうな城を前に、高度を下げながら様子を見る。 人に見捨てられて長い城内は、周囲の闇と同化している。もう少し高度を下げて様子を見てみよう、そう思った時、視界の端にヒラリと揺れるオレンジ色の光りが映った。
 右へ左へ揺れる光は、まるでリルドに手を振っているかのようで、そちらに視線を向ける。
 大きく開け放たれた窓、風に靡くボロボロのカーテン、一部手すりが崩れたバルコニー。 手すりに手を乗せ、桜色の髪をした少女がリルドに向かって必死に手を振っている。
 ――― あれがシャリアーか‥‥‥?
 小柄で華奢な彼女は、確かにリンクから聞いたシャリアーの容姿とぴったり一致していた。金色の瞳は彼女本来の色ではなかったけれども、眼下にいる少女の瞳は金塊のような黄金色だった。
「早く私を月に連れて行って」
 少女の細い声が風に乗ってリルドの耳に届く。 口調は必死さと言うよりは笑いを多く含んでおり、まるで楽しんでいるようだと思いながらも、リルドは見張り塔に降りると、魔法で錠前を破壊した。 もっとも、ボロボロな木の扉は乱暴に蹴飛ばせば呆気なく開いてしまいそうだったが、乱暴な振るまいをすればするほど、扉だけでなく塔自体が崩れてしまいそうだった。
 雨水を吸い、踏むたびに不快な音がする赤絨毯を進む。 赤絨毯は茶色や緑色に変色しており、かつては美しかったであろう面影は何処にもない。
 ――― まずは、術者を探すか
 ここから真っ直ぐ行った先の扉を開ければ、シャリアーを攫った誰かがいるバルコニーに出る。 あの雰囲気から考えて、彼女が何処かへ逃げると言うことはないだろう。
 ――― いるとしたら、どこだ‥‥‥?
 普通の部屋にいると言うことはないだろう。 いるとすれば、城主の部屋か宝物庫、広間の可能性もある。
 耳を済ませたところで、隙間から入り込む風の音以外には聞こえない。
 彼女がいるのだから、この階にはいないのかも知れない。 漠然とそんな事を思い、リルドは緩やかなカーブを描く階段を1歩1歩慎重な足取りで下りた。
 下の階は先ほどの階とは違い、1つ1つの部屋がかなり大きい。 扉も両開きのものが多く、蜘蛛の糸が絡まったドアノブは金色だ。
 一番近くの扉を開ければ、食堂のようだった。 長い机が幾つか並び、丸椅子がそこらじゅうに転がっている。燭台は倒れ、小振りのシャンデリアは床に砕け落ちている。
 次の部屋は、木のダンボールが積み重なっているだけの、ガランと広い部屋だった。 次の部屋は広間のようで、壁には蜘蛛の巣と埃、雨水によってボロボロにされた肖像画がかけられていた。もっとも、斜めになりながらも壁にしがみ付いている枠が残っているためにそう想像するだけであって、実際には絵の部分は判別不可能なまでに汚れてしまっている。
 次の部屋に入った瞬間、リルドは剣を構えた。 赤絨毯が続く先、大きく立派な椅子に座っている人影が見えた。華奢なシルエットは“彼”を思い出させるものであったが、座っているために身長はどれほどなのかはっきりしない。
 ピンと張り詰めた空気が室内に溜まった時、ポッカリと開いた四角い穴 ――― かつてはガラスがはめ込まれ、窓としての役割を果たしていたのだろう ――― から月光がするりと忍び寄ってきた。
 椅子に座っている青年の顔が闇に浮かび上がり、リルドは思わず肩の力を抜いた。
 そこに座っていたのは、あの少年とは似ても似つかない青年だった。 茶色の髪に、グリーンの瞳。体つきは華奢だが、はっと息を呑むような美青年ではない。いたって普通の、どこにでもいるような青年だった。
 温厚そうな緑色の瞳が、眼鏡越しに妖しく輝く。口元に浮かべた薄い笑みは、まるでリルドを馬鹿にしているようでもあった。
「君が僕とナンナの絆を断ち切ろうとする悪魔だね?」
「そんな詩的な悪魔になったつもりはねぇんだが。‥‥あんた、何者だ?」
「シヴェル。小さな村の村長の息子さ」
「変なことしてなきゃ、いつかはあんたも村の王になれるじゃねぇか」
 もっとも、座れる椅子は王座の椅子などとは比べ物にもならないくらい小さく粗末なものだろうけれども。
「村長は長だ。王なんかじゃない」
「一目置かれる存在であることは違いない」
「それはどうだか。‥‥‥それで、君は?」
「リルド・ラーケン。ただの冒険者だ」
「冒険者は人助けまでするのかい?」
「気分次第でな」
「今回は気分が乗ったんだね?」
「あぁ。でも、当てが外れたな」
「 ? 」
「とある魔術師を探してんだ。あんたとは比べ物にもならない力を持ったやつであることは間違いない」
「僕は魔術師なんかじゃないよ。言っただろ、小さな村の村長の息子だって」
「‥‥‥ナンナに呪いをかけたんだろ?」
「あぁ、それは僕がやったんだ」
「死んだ後も縛る呪いをかけるなんて、力のある魔術師にしか出来ない。違うか?」
「あぁ、違わないね。その術はとても難しいから」
 シヴェルが立ち上がり、服についた埃を払うとブレスレットに触れた。 赤や緑、黄色の宝石をはめ込まれたブレスレットはいかにも高価そうで、彼には分不相応な品だった。
「それは?」
「ある人に貰ったんだ。 ナンナを僕の元においておく術を教えてもらったのと、同じ人だよ」
 ブレスレットが妖しく輝き、リルドは咄嗟に右に避けた。 ブレスレットから発せられた光りは絨毯を焦がし、リルドが元いた場所の壁を砕いた。 体制を整え、床を蹴る。リルドの素早さに驚いたらしい青年がブレスレットに手を翳し‥‥‥リルドは彼を蹴り飛ばした。上へ向かって放たれた魔法弾によって天井に穴が開き、パラパラと埃が舞う。
 立ち上がろうとする彼を押さえ込み、ブレスレットを奪い取るとそれを床に投げ捨てた。
 ――― なんだ?あの馬鹿でかい魔力の塊は‥‥‥
 月光にキラリと光るブレスレットを視界の端に、リルドは組み敷いた相手を見下ろした。 勝てないのが分かっているのか、彼は特に抵抗する様子もなく、大人しくリルドの青色の瞳を見上げている。
「あんたに訊きたい事がある」
「ナンナの呪いを解く方法なら、僕は知らない。解き方なんて教わらなかったからね」
「違う。お前に呪いを教え、あのブレスレットを渡したやつの名だ!」
「あぁ、彼の名前は、クロ‥‥‥」
 うっと低い呻き声を上げた後で、彼は突然苦しみ始めた。
「どうしたんだ?」
 蒼白な顔と、荒い呼吸と、ただならぬ気配を感じて手を放せば、シヴェルは喉を押さえてのた打ち回った。 何が起きているのか分からないリルドの前で、彼は凄まじいスピードで歳を取っていくと、ついに骨になった。
 ――― な、なんだったんだ、今のは‥‥‥?
 奇妙な形のまま固まった骸骨を前に、リルドは唾を飲み込むと瞬きをした。
 身動ぎ一つ出来ないリルドの背後に、突然誰かが立った。敵意は感じられないが、存在感のあるその雰囲気は ―――
「やっぱり、魔力のない人間が使うとこうなっちゃうか」
 金のブレスレットを拾い上げ、彼はそう言うと、血のような赤の瞳を細め、リルドの前に立った。
「また会ったね、リルド君。僕のこと、覚えてる?」
 にっこり‥‥‥完璧な笑顔でそう言った彼、クロード・フェイド・ペディキュロージアを前に、リルドは剣を掴むと立ち上がった。剣を横に払うが、いつの間にかクロードはリルドの隣に立っており、素早くそちらに向き直って剣を振り下ろすが、手応えはない。
「またそうやって剣を振り回す‥‥‥もっと平和的に話をしようよ。ね?」
「‥‥‥さっきのは何だったんだ?」
「何って、見たとおりだよ。魔力のない人が魔法をばんばん使っちゃって、生気がなくなっちゃった。ただそれだけのことだよ。このブレスレットは、ただの魔力発生装置なんかじゃない」
「持ち主の生気を奪いながら魔力を発動させるってことか?」
「そう言うこと。何事もギブ&テイクだからね」
「どうして呪術を教えた?」
「必要としていたからだよ。彼はナンナちゃんが好きだった。でも、ナンナちゃんは村の精霊‥‥‥聖なる儀式を執り行う巫女のことを、その村では精霊って呼んでるんだ。精霊は神にのみ仕える定め。だから、彼らは一緒にはなれない」
「彼らはって、ナンナもシヴェルと一緒になる事を望んでいたのか?」
「いや。ナンナちゃんは、シヴェル君のことは、村長の息子以上には思ってなかったはずだよ。でも、シヴェル君はナンナちゃんも自分が好きなんだと思い込んでいた。妄想って凄いよね。僕、あんまりにも必死なシヴェル君が面白くって‥‥‥」
「術を教え、ブレスレットを渡した」
「そう言うこと。リルド君は頭の回転が速くて助かるな」
「そんなの、誰だって分かるだろ」
「シヴェル君が死んだ以上、ナンナちゃんの呪いはこれで解けたよ。‥‥‥リルド君は、ナンナちゃんを月に帰し、シャリアーちゃんを助けるために来たんだよね?」
「‥‥‥シャリアーの名前を、どうして知っている?」
「僕は大抵、何ても知ってるよ。 ‥‥‥なんてはぐらかしたところで、いつかは分かっちゃうことだから、教えてあげる。僕はね、リタ・ツヴァイと同じ血をひいているからだよ。もっとも、リタは随分血が薄くなってしまって、魔術は使えないけれどね」
「リタ・ツヴァイ?」
「そう。 ‥‥‥さぁ、お喋りはここまでだよ。僕はもう帰らないと。リルド君も早くしないと、ナンナちゃんを月に帰しそびれてシャリアーちゃんを連れて行かれちゃうよ?」
 クロードが不敵に微笑みながら、除々に薄くなっていく。
 ――― おそらく、あれは実体じゃねぇ。映像だ‥‥‥
 いくら斬りかかったところで、彼の息の根を止めることは出来ない。
「また会えたら良いね、リルド君‥‥‥」



 波が月光の道を揺らめかせ、不鮮明に溶かす。
「これで、月に帰れる‥‥‥」
 ナンナが嬉しそうにそう言い、純白の羽を背から広げると微笑んだ。 桜色の髪が風に揺れ、甘い香りが広がる。
「ねぇ、リルド、1つだけお願いをして良い?」
「なんだ?」
「この子に‥‥‥シャリアーに、お礼を言ってほしいの。有難うって」
「あぁ、伝えておく」
「有難う。宜しくね‥‥‥」
 シャリアーの身体がグラリと傾き、リルドは慌てて手を差し伸べた。 危ういくらいに華奢で軽い身体は地面にぶつかる前にリルドの腕の中に納まり、すやすやと気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。
 金色の髪に金色の瞳をした天使は、リルドとシャリアーを見下ろして胸の前で祈るように手を組むと、羽を数度羽ばたかせ、揺れる月光の道に足を踏み出した。
「おい、これ‥‥‥」
 彼女が迷わないようにと、満月が刻まれた短刀を一本差し出す。
「優しいのね、貴方」
「‥‥‥たまたま持ってたからってだけだ」
 素直じゃないのね。 クスクスと笑い声を上げたナンナが、短刀を胸に歩き出す。不安定な月光の道を保つために、リルドがそっと力を貸す。 ゆっくりとした、それでも着実な歩みで月へと近付くナンナ。 彼女が細い腕を月に差し伸べた瞬間、月光が眩しく輝き、一瞬夜の闇を全て取り払った。寝静まる世界が光りに切り裂かれ、安らかな夢の世界にいた鳥たちが驚いて四方に飛び去って行く。 刹那の動はすぐに静に変わり、美しき天使を呑み込んだ月は再び元の穏やかな表情に戻ると、まるで何事もなかったかのように闇をも腕に抱き、夜の世界に薄いヴェールをかけた。
 ――― 月まで帰れた、か‥‥‥
 暫し月を見上げた後で、リルドは羽のように軽い少女を腕に歩き始めた。
 踏み固められた道を黙々と歩いていた時、、腕の中で眠っていた少女が突然目を開き、リルドを見上げた。
 ナンナが宿っていた時とは違い、透き通った紫色の瞳をしたシャリアーはキョロキョロと戸惑ったように視線を彷徨わせると、首を傾げた。
「えぇっと‥‥‥ティクルアにいて、白い靄にわぁって包まれてぇ、真っ白な空間の中でね、ナンナちゃんが泣いてたの。一人は寂しいよって、胸が痛いんだって。涙が止まらなくて、ずっとずっと泣いてたの」
 たどたどしい口調でシャリアーはそう言うと、彷徨わせていた視線をリルドに向けた。
「シャリーがいーこいーこしてあげてたら、急にいなくなっちゃって‥‥‥」
「ナンナなら、月に帰った」
「つきに、かえった‥‥‥のー?」
「それと、シャリアーにナンナから伝言がある」
「でんごん?」
「有難う、だと」
「ナンナちゃん、もう涙は止まったのかなぁ‥‥‥」
 ボンヤリと考え込むシャリアーが、はっと何かを思い出したように顔を上げ、リルドの青い瞳を覗き込んだ。
「あのね、シャリーはね、シャリアーって言うの!喫茶店・ティクルアの“かんばんむすめ”なの!」
「俺はリルド。リルド・ラーケンだ」
「リルドちゃん、覚えたの!」
 ――― リルド“ちゃん”!?
 一瞬反論しかけたリルドだったが、相手は子供だ。 はぁ〜、と溜息をつくだけで口を噤む。
「それでリルドちゃん、ここはどこなのー?」
 困惑したようなシャリアーが可愛らしく眉を顰めると、小首を傾げた。



 少女の魂を月へと帰したあの夜、シャリアーをティクルアまで送り届ければ、そこには治癒魔法を施され、何とか立てるまでに回復したリンクがいた。 折鶴は彼の命の炎が吹き消される前に、所定の相手の元へ届いたらしい。
 お礼の言葉を軽く受け流し、ぜひまた来て欲しい、ご来店の時はお食事のサービスをさせていただきますからと言うリンクに、それじゃぁまた来ると言って、リルドはその場を後にした。
 クロードの言っていた“リタ”の姿は、その夜はそこにはなかった。

 あの夜から幾日か経ち、リルドは黄昏に染まる空を見上げながら、踏み均された土の道を歩いていた。草と土の匂いのみを運んできていた風は、いつしか甘いお菓子の香りを纏うようになり、御伽噺の中から抜け出てきたかのような丸太小屋、喫茶店・ティクルアの店先に立った時には、空気そのものに匂いが染み付いてしまっていた。
 今日ならばリタに会えるだろうと、気を引き締める。どんな人物なのかは知らないが、クロードと同じ血を引いているのだ。緊張しながらも、木の扉を開けた。可愛らしい鈴の音が店内に響き渡り、それに被せるように薪の爆ぜる音が小さく響く。 奥に小振りの暖炉が置かれているのが見える。
「いらっしゃいま‥‥‥リルドさん!」
「あぁ」
「どうぞ、あちらの席に」
 リンクが笑顔で席へと案内し、彼と入れ違いに金色の髪の少女が紅茶の乗ったトレーを持って現れた。
 穏やかな表情と良い、ふんわりとした雰囲気と良い、彼女を見ていると何故だか和む。
「リルドさんですね。先日はシャリアーとリンクが大変お世話になりました」
「いや、大したことはしてねぇ。それより、リタ・ツヴァイってやつに会いたいんだが」
「私がリタ・ツヴァイですが?」
 ここの店長をしておりますと、丁寧に挨拶をした少女は、まだ10代後半くらいの外見年齢だった。 全体的に華奢で頼りなげな少女は、驚きに固まるリルドの前に紅茶とケーキの乗ったお皿を置いた。熱々の紅茶からは細く湯気が立ち上っており、チーズケーキは見るからに美味しそうだ。
「あんたが、リタ‥‥‥?」
 階上からトテトテと足音が響き、桜色の髪をしたシャリアーが走ってくる。
「リルドちゃん、お久しぶりなのーっ!」
 抱きついてきたシャリアーを受け止め、リルドはリタを見上げた。
「なぁ‥‥‥あんた、クロードって知ってるか?クロード・フェイド・ペディキュロージア‥‥‥」
「いいえ。‥‥‥どなたですか?」
 キョトンとしたリタの背後で、苦々しい表情をして俯いたリンクの顔が見えた ―――――



END


◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


 3544 / リルド・ラーケン / 男性 / 19歳 / 冒険者


◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

遅くなってしまい、申し訳ありませんでした
クロードとティクルアの関係をここで出すか出すまいか迷ったのですが‥‥
リタはクロードの事は知らないようですが、リンクはどうやら知っているようです
この度はご参加いただきましてまことに有難う御座いましたー!