<東京怪談ノベル(シングル)>


□ 微睡む月と共に □



 空には月。
 人の往来も無くなった聖都。
 昼間は暖かかった聖都も夜になればまだ肌寒く、寝入る時間も早い。
 そんな季節の中、一人、佇んでいる影。
 時折、薄雲が月を覆い隠すのを隠れん坊のようだと、ルーン・ルンはうっすらとその面に笑みを刻む。
 噴水の石縁に座り、水の音と、弾ける水飛沫に気持ちよさを感じていた。
 風がふわりと髪を遊ばせ、揺らす。
 噴水の向こうに広がる街並みは、水を通して見ると、歪んで見え、何処か違う世界へと繋がる扉のよう。
 風は次第に強くなり、ルーンの瞼を閉じさせる。

 けだるげに髪を掻き上げ、風が収まったのを肌で感じると、ゆっくりとその瞼を開いた。
 見上げれば、いつもと変わらぬ月。
 けれど、その姿が違うと本能的に感じたルーンは、あぁ、そうか、と自然に受け入れる。
 幻視、とでもいうのだろうか。

 長く長く歩いてきた旅路の中、繰り返される問い。
「まぁだだよ」
 決まっていた答え。
 けれど、あのときは違った。
「もぉいいよ」
 もぉいいよ、と答えが出るまで続く巡礼という名の旅路。
 いつまで続くのだろう。
 いつまで続ける?
 もう、いいか?
『もぉいいよ』
 ようやく出た言葉。
 その言葉に反応し、聖痕が淡く光を湛える。
 世界に還えそうと。

 ふと訪れる、現から幻への訪れ。
 ここは何処だろうと、呼び起こされた自分の記憶を手繰る。
 幻視行。

 緑深く広がる森。
 奥には、煌めく水面を見せる湖。
 湖が抱くのは、空に浮かぶ月。
 ここはあの場所だ。
 ルーンは記憶を再生し、広がる世界へと再び足を踏み入れた。

 湖へと続く道を歩き、ルーンに語りかける声に耳を傾ける。
 囁くような声は、内なる自分の声でもあり、今ある世界の声でもあった。

 私は、様々な出会いと別れを繰り返し、いつ終わるとも知れない旅を続けていた。
 一人で旅することに、何も孤独は感じなかった。
 一人で居るのに、一人ではないからだ。
 声を掛ければ、答える声。
 オレにだけ聞こえる声なき声。
 そして、今日も問いかけるのだ。
 もぉいいかい、と。
 私は、決まっている言葉を紡ぐ。
 ゆっくりと。
 まぁだだよ、と。

 繰り返される月と太陽のダンス。
 世界の営みを受け入れ、巡ってくる幾つもの夜。
 月の綺麗な夜には、優しく湛える湖畔で、その身を浸し、世界と同化する。
 湖底に沈む神殿跡。
 崩れた石柱を住処にする淡水魚達のように、水の中を緩やかに泳ぎ、戯れる。
 湖面に現れれば、月に私の姿が抱かれる。
 ぱしゃんと湖面に還る水。
 優しく撫でる風を感じながら、空に浮かぶ月へと手を伸ばす。
 月に抱かれながら、月を恋う。
 愛しさを込め、微笑んで。

 オレはゆっくりと月の影に寄り添う私に問う。
 いつものように。
 月を見上げていた私が振り返った。
 言葉を紡ぐ私の口元をオレは見る。
 そして、私からオレに届いた言葉を聞いたとたん、情景が変わった。

 ざあっ。

 森がざわめき、風が強く吹いた。
 花の香り。
 運ばれてきた花の花弁がまるで花雪のよう。
 ふわりとオレの身体が軽くなる。
 世界に同化し、私から離れていく。

 これは、あの花の香りだ、そう思ったときには、オレは聖都に還ってきていた。
 噴水の水に手を浸し、還ってきたのだと実感する。
 しゃらしゃらと流れる水。
 空気に溶け込む水飛沫を肌寒い夜の中、気持ちよさそうに目を閉じる。
 満足げな表情。
 幻との邂逅に心が満たされたからか。
 存在が鮮やかになる。
 静かにあったものが、すこし色づくようなそんな彩。
 それはルーンもわかっているのだろう。
 いつもより、ほんのすこし軽い気持ちでオレは問う。
 もゥいいかい?、と。

 沈黙。

 答える声が無いのに、面白いとでもいうようにオレは笑う。
 芝居がかった仕草で、くつくつと。
 見守る月を見上げ、どうだい?、と。
 ひとしきり笑ったあと、その笑いは段々と穏やかなものに変わっていく。
 付き合ってくれた月にお礼をいうように、親しみを込めた笑みを浮かべて。
 ふわりと漂ってくる花の香。
 誘うのは月。
 そっと手を差し伸べ、風が運ぶ花雪を掌に招く。
 まるでそこが花雪の中心とでもいうように、集まってくる。
 花雪を見守る月へと捧げ、その身を緩やかに同化させる。
 まるで、オレが私になるような、そんな感覚。
 全てを受け入れ、私がそこにあった。

 私がいう。
 さっき、応答の無かった答えを。
 差し伸べた掌に、降ってきた花雪を乗せて。

 それは……、まぁだだよ、と。

 緩やかに舞う花雪を風が攫う。
 そこに残ったのは、――月だけだった。



□ END □