<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>
『彼女の声』
宮殿のテラス。
時刻は深夜と呼んで良い頃。
少女はひとり、欠けた月明かりに照らされている。
けれども、少女と月は決定的に違っていた。
月は、時が満ちれば満ちるけれども、
少女は、満ちない。
「夜は死」
欠けた少女はそっと呟いた。
それは自分に囁かれたのだろうか?
鳥篭の中で彼は考え、小首を傾げる。
夜は死。
それはどういう意味だろう?
彼は考えるけれども、
彼は所詮は、
鳥。
考えるべくも無い。
推し量れるべくも無い。
そして、
彼にとっては世界の全てである鳥篭の天上が取り払われた。
彼にとっては世界の神である少女の手が、そっと彼を包み込んだ。
「お行き」
少女はそう言った。
―――言われた意味は分からなかった。
彼にとっては少女は神様なのに。
神様と離れてしまったら生きていけないのに。
なのに………
それなのに………
少女は、そんな彼に、行ってしまえって。
行くってどこに?
どこかに行かなくちゃいけないの?
ここに居ちゃダメなの?
彼は彼の神様を見た。
彼女は泣いていた。
寂しいの?
どこか痛いの?
わからない。
わからない。
わからない。
でもね。
あなたにお行きって言われた僕の心は、ものすごく痛くって、
そしてね。
寂しいよ。
寂しいよ。
寂しい。
すごく寒い。
寒い。
寒い。
寒い。
どこに飛んで行っても寒いよ。
あー、寒い。
彼は少女がいつも己が身を抱きしめて泣いていたことを思い出した。
そうか。彼女は、寂しくって、寒かったんだ。
―――じゃあ、どうして彼女は自分を鳥篭から出したんだろう?
彼は不思議に想いながら翼を動かしていたけど、
でも、ふいに身体を貫いた衝撃に目を見開き、
そしてその身体を穿った穴から滲み出す死にぬめり、沈みながら、すぐに翼を動かすのを辞めた。
だって、
寂しいから。
独りは。
だって、
寒いから。
独りは。
ダカラ、
ヤメタンダヨ。
イキルノヲ。
彼は、千獣に、そっと囁いた。
自分を牙で穿ち、喰らったそれをさらに喰らった千獣に。
恨み言を言っているのではない。
ただ彼は自分では分からないから、形だけは彼の神様と同じ形をしている千獣(それ)を使い、知ろうとしているだけ。
伝えようとしているだけ。
彼だけの神様である、彼女に。
+++
私が彼の妃に選ばれたのはただ単に身持ちが良かった、というただそれだけの事なのよ。
そしていつもぼーぉとしていて、何の取り得も無い事も。だって、だから私は大臣たちの陰謀とは離れた場所にあったんだから。
そしてだからこそ私は新たに勢力を拡大させた彼らの手駒にされた。妃にされた。ただ、そう、ただ私がどの勢力にもそれまでは相手にされていなかったから。
ねえ、あなたにはわからないでしょう? 皆に愛されて育ったあなたには。
私はいつも独りだった。
誰からも相手にされていなかった。
誰にも相談できなかった。いつも笑われていた。いつも独りで泣いていた。
ねえ、同じお姫様でも、あなたにはわからないでしょう?
彼は、私の旦那様は、私と同じ様なものだわ。誰からも王とは認められず、駒としか見られてはいない。
でも、あなたとは違っていた。
彼は私と居ても私のことなんか少しも見てはくれなかった。
きっと私の名前も顔も、覚えてはくれてはいないわ。
だけど彼は、彼は、彼は、あなたの前では満ち足りたように笑っている。あなたの名前を愛しげに呼んでいる。
独りなのは、
独りなのは、
独りなのは、
私だけ!!!
私は、私もあなたのようになりたかった。
温かな家族に、みんなの中に生まれたかった。
さようなら。
そして彼女は異世界から流れ着いた鎧を駆り(17メートルある女性を模した鎧(ロボット)の子宮の位置にあるコクピットに乗り)、暴れ出した。
彼女にはもはや意識は無い。その鎧は乗り込んだ者をエネルギー源としか見なさず、乗り込んだ者は命を吸い尽くされるまで心の中の闇だけを増幅され、それに狂うからだ。
手紙を握り締めて泣いているエルファリアを慰めながらエスメラルダがあなたを見た。
そしてあなたはエルザード城に街を壊しながら進む鎧を見た。
やるしかない。エルファリアの、そして彼女の心を救うために。
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今も覚えている。
深い森に捨てられていたときにただ感じていた恐怖を。
その時はそれを恐怖とは思っていなかった。
ただ寒かった。
どれだけ枯れ草の布団に潜っても、
木の根の中に潜り込んでも、
その寒さは消えなかった。
ただ、小さな小鳥と出会って、それを胸に抱きながら眠ったその夜は、寒くなかった。
凍った冬の月明かりに照らされながら眠ったあの夜。
どうして寒くなかったんだろう?
千獣はその夜のことを思うと、胸の奥がざわつくのを覚える。
そしてそのざわつきを彼女の心と一緒に起こす彼の存在に彼女は、色んな人間たちと出会い、その絆が出来上がってきて、それを絆―人間の結ぶものであるモノということを分類学上は人間である彼女の未熟な知性と感性で理解してからというもの、彼が彼女の中に浮上してくるようになった。
夜が寒いのは、
千獣の感性か、
彼の感性か―――。
ただ、一緒のベッドで眠る彼の服の裾をそっと小さな女の手で握りしめながら、彼の広い胸に抱かれながら、眠ったあの夜、瞳から大量の水が零れ落ちた意味は、新たな疑問符を千獣に投げかけた。
その日ほど夜が怖いと思った事が無かった。
その夜に彼が解けて消えてしまうことが怖くって、千獣は彼の服の裾を掴んでいたように思う。
彼の腕の温もりが、
重ね合わせている肌から移る温もりが、
愛しいからこそ、
憎たらしくって、
それが消えてしまうのが怖くて、
なら、
いっそうのこと、
彼を殺して、
喰らって、
永遠に自分の中(子宮)に閉じ込めてしまいたくなる衝動が、
喉の渇きのように、
千獣を襲った。
それは間違いなく母性を持ち、妊娠が出来る女の性ゆえの感情だけれども、
その時の千獣には理解できなくて、
ただただ人間としては未熟な知性と感性しか持ち合わせないからこそ、
幼児のみが抱く純粋無垢だからこそ綺麗で、だから残酷なまでに欲望に素直な心は、より複雑化していくばかりで。
それに千獣は溺れていくばかりで。
そして、
今、エルザードの街を壊す彼女もそうなのだと、だから千獣は気づいた。
ああ。もしもこの胸に広がる淡く形の無い名前の無い感情を明日の自分なら理解できるのだろうか?
千獣は鎧を操り、感情のままに暴れる彼女を前にしてそう思う。
無論、感覚でだ。
人の心の機微など人として育てられてこなかった千獣にわかる訳が無い。
そして、だからこそ、彼女はいつだって人が目を逸らしている事の真実、矛盾点に気づく。
それを見つけられる。
人の心の機微を理解していないからこそ。
そして、
だから、
人を救いもすれば、
人を壊しもする。
救いもすれば、
壊しもする。
「どうして………自分じゃない人間に…期待するの?」
どうして自分じゃない人間に期待するの?
そう問われた彼女は、そんなことはわかっていた。
本当は、居場所は、自分で作らなくてはいけないことなんて百も承知だった。
誰かの生れが羨ましいなんて甘えている。
それを羨む自分よりも不幸な人がいることを、
なのにがんばっている人を、
知らないふりするなんて、
それで被害者意識丸出しで癇癪を起こすなんて、
本当に甘えている。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
自分が痛い。
そして他人は、自分じゃないから、そういうこと全てをひっくるめて、何も、彼女の感情の機微なんて、理解なんてしてくれはしない――――。
だから………
「寒いの。ここは寒いのぉー」
彼女は泣き叫んだ。
千獣は彼女を優しく無い目で見据えている。
「だから壊すの? この街を。エルファリアは…それが………嫌で、あなたも、この…街も………救いたくて、それで戦っているのに。あなたは、それでも…逃げるの? なら私は…あなたを討つ」
身体に封じられている千の獣が蠢き出す。
甘く暗い衝動の誘いに心の全てをもっていかれそうになりながら、彼の顔を思い出す事で理性の手綱を取り、
そして、
千獣は獣の牙と爪で、鎧を破壊した。
もはや胴体だけとなったそれは、卵の殻だった。
死んだ、卵の殻。
死んだ卵の殻は、死んだ雛しかいないのか?
ううん。違う。
生きる意志があれば、それは死から再生する。
そう。彼が千獣の中で息づいているように。
「あなたがかつて放した鳥は………あなたを思って、とても哀しがっていた。だから寒がっていた。今も。それを救ってあげられるのは………あなただけ。あなたのその姿が彼を救う…。そして、そのあなたの姿が他の多くの人を救う。あなたはそうやって、他の人を温かくする…」
他の人を温かくする。
―――他の人に居場所を作る。
しかし彼女は幼い子どものようにイヤイヤをした。
「他の人が私に居場所を作ってくれないのに、どうして私ばかりぃッ」
だけどそんな彼女に、
「それでも、許さないと、進めないんだ」
千獣ははっきりと言った。
それは彼と出会い、
故に自分の出自を呪った彼女が導き出した結論。
許す事で、そうする事で、前に進める。
今度こそ彼女は泣いてしまう。
哀しげに。
哀しげに。
哀しげに。
+++
小さな教会がある。
美しい金髪をショートカットにした少女がたくさんの身寄りの無い子どもたちと一緒に、仲良く暮らしていた。
それを見守るのは、千獣の中で息づく彼女に恋をしていた鳥。
千獣は温かな温もりに包まれる自分の中の彼に目を細め、一緒になって新たな道を歩き出した彼女を見守るのだった。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号・3087 / 千獣 / 性別・女 / 年齢・17歳 / 職業・異界職】
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■ ライター通信 ■
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いつもお世話になってます。
この度もご依頼、本当にありがとうございます。
草摩 一護
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