<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


out of your images -定離-

 何時来ても、ベルファ通りは独特の重い空気。
 否――依頼を終えた体に疲労を覚えているのだろうか。
 私は黒山羊亭への階段を下りる。報酬を受け取る為だ。
 特に大きな仕事でも無かった。何時もの様にエスメラルダから受け取り、受け取ったその後は仕事での出来事の記憶もやがて薄れて行く――
 そんな事をぼんやり考えていた。
 その時だ。
 入口でふとすれ違った者――
 お互いの右肩が触れるか触れないかだった。
 私もしばらく気付かなかった。
 相手の方も。
 だが――

 私が先に振り向く。

 私がいた…。

 私と同じ姿をしていた。
 間違いなく私の様だ。
 だが向こうはまだ気付かず、 ベルファ通りへの階段を登る所だった。
 ――何者…。

 しばらく呆然と眺める。
 私は――
 声を掛けていた。

 向こうは丁度階段を登り終えた所でこちらを振り返った。
 黒山羊亭から漏れ出た明かりがその四肢を薄らと浮かび上がらせる。
 影が濃くてはっきりとは見えない。
 だが私を見下ろすその顔は、紛れも無く私――
 光の無い、感情の見えない、黒い両目。
 だが…私に呼び止められて――
 何かが変化したのか。
 私を見つめて何かを思案している。
 もしあれが私そのものであるならば私と同じ望みを持っているに違いない。今の様に仕事の疲労で体中の感覚が鈍っている時の方がかえって思考が鋭くなる時がある。それは就寝の直前に次々と折り開かれるあの際限ない想像力にも似ていて、そうした想像の流れに身を任せているだけで自分の身体が今まさに疲労の渦の只中にある事を忘れさせる様な、そうした感覚をいつも覚えるのだった。そしてその思案の中で思い付きで生まれた考えが独り言の様にポツリと出る事もある。そう云う時こそがもしかしたら自分自身との対話であったのかもしれないと思った。
 もし目の前の相手が私と同じ思考の持ち主なのだとしたら…。
 丁度良い。
 自分を見つめなおし掘り下げる良い機会。
 まずは、彼と対話をしよう。これが自分自身との対話となる事を願いつつ。
 私は彼に名を問う。

 ――トリ・アマグ。

 予想通りの答え。
 その名だけでなく、声の抑揚まで、私の想像の範囲を超えなかった。
 私は次に、何者か、と問う。

 ――私が私自身であると認識する当の存在だ。

 …それがキミの固有性を決定しているのだろうか?
 ――キミの考えている通りだ。私は有翼人で性を持たない。そしてトリ・アマグと云う固有名も持つ。ただし、それだけでは私が唯一の存在であるとは見做せない。…キミもそう考えるだろう?
 確かに。現に目の前に私と姿形一寸違わぬ存在がある。声も同じ。思考も同じ。性格も同じ様だ。…まさか、記憶まで同じだと云うのだろうか?
 ――例えば、楽器を演奏してみれば判然とする…。

 私たちはしばらく間を置いた後…。
 ある楽器に手を掛けた。
 二人とも。
 リュートだった。
 彼は階段に座って楽器を構える。私も近場の壇に腰掛ける。
 そしてまた、しばらくお互いが静止する。確かめ合うかの様に。
 
 ――弦を同時に弾く。

 ――ユニゾン。

 次は、迷った。お互いに迷っている様だった。
 私から始めた。

 ――まず、私が四小節弾く。彼はじっと聴く。

 ――五小節目に差し掛かる時、彼の左手の指板を押さえる指が定まる。

 ――私は演奏を彼に委ねる。彼の演奏に引き継がれる。彼も四小節。

 ――九小節目を私が引き継ぐ。二小節。

 ――十一小節目。彼。二小節。

 ――十三小節目。私。一小節。彼。一小節。私。彼。私。彼。私――

 ――二十小節目。彼。…リタルダント。時間を引き延ばした様な、時間。

 ――そして。

 …だが、私は、まだ弾き始めない。

 ――フェルマータは無いはず。
 そう、後から付け足した覚えも無い。
 ――付け足そうとした事は三度ある。そうね?
 四度よ。
 ――何時の事だ?
 たった今。
 ――…なるほど。記憶の齟齬も無いらしい。
 そのようね。
 ――では、演奏を止めたのか?
 ええ。
 ――何故止めた?
 キミの考えている通り。
 ――疲労、だろうか。
 …キミも疲れている様だ。

 だが、彼のリタルダントは疲労を忘れさせてくれた。まるで一人で弾いている感覚だった。

 私たちは各々の楽器を仕舞う。
 
 名だけでは無い。私と同じ容姿、性格、思考、記憶。これだけでは確かに彼や私の固有性を保証する事は出来ない。
 しかし。
 視覚等五感を共有出来ていない点で、彼はどこまで私に似ていても私ではない。ただ、第三者から見れば今のところ彼は私であり私は彼であると云うだけの事。
 感覚器官を共有しない事、これも自己の固有性を裏付ける要素。
 だが――

 私は云う。
 自分と云う存在は曖昧である。本来私は何物でも無い。
 他人と言う存在は本当にあるのか?
 それは…自分が自分である以上確かめようがない。自分が今この瞬間に自分でいる事。これは自然にとっては悉く必然。だが、自分自身の視点から見れば偶然としか云い様が無い。ならば、今私が正に生きていると云う事実は、他人にとって、或いは自然にとって、一体何の価値がある? それとも、価値は作られて行くと云うべきだろうか。他人によって、自然によって。…それとも、私自身によって。

 一つ云えるのは、全ての命は、生きるべきでも無いし死ぬべきでも無い。生死を義務と見做すのは生きる者の自由な解釈の一つに過ぎない。

 だから――私はどんな出来事も受け入れよう。少なくとも、私はこれまでそう生きてきたし、これからも恐らくはそうあり続けるのだろう…。

 目の前の彼が同じ考えを持っていたかは定かでは無い。しかし彼がこれに反論するはずも無かった。彼は私の言葉を静かに聞いていた。まるで音楽を聴く時の様に私の言葉の流れに身を任せているかの様だった。

 さて、私たちは別人として生きよう。これからは別々の出来事を経験して、別々の道を歩む。

 大丈夫。

 …この世に楽園なんか無いのだから。

 ――楽園、か。想像も出来ない。
 仮に存在するとして、私たちに何の価値がある?
 ――それこそ、義務とは無関係の事だ。
 あるはずの無い物に生を費やすのは最早生ではない。
 
 彼は階段から腰を上げた。
 私は彼の立ち去る背中を見る。騒々しいベルファ通りに紛れた後は、二度とあの姿を見る事は無いのだろう。だがそれも必然の事の様に感じられた。
 私は自分の疲労感を漸く思い出す。音楽を聴いていた時の様な陶酔感を味わっていた事に気付く。
 私も立ち上がる。
 疲れた右腕で、私は黒山羊亭の扉を開けた。

■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
 整理番号/PC名/性別/年齢/職業

 3619/トリ・アマグ/24歳/無性/歌姫/吟遊詩人