<東京怪談ノベル(シングル)>
愛しきあなたの夢を見て
――めでとう、おめでとうレイジュ――
立派な紳士のいでたちの父が、
麗しい淑女のいでたちの母が、
可憐な娘のいでたちの姉が、
揃って笑顔を浮かべて自分たちを見ていた。
レイジュ・ウィナードはそっと、恋人の手を取る。
彼にしては珍しい白のタキシードを着たレイジュに、エスコートされるのは素朴ながらも綺麗な刺繍のほどこされた純白のウエディングドレス姿の少女。
彼女は白い頬を柔らかく桃色に染めて、軽くうつむいている。
「顔を上げて」
レイジュは優しく囁いた。「もっと顔を見せてくれ」
「恥ずかしい……」
「恥ずかしいことなんかない。僕がついてる」
言いながら、レイジュは辺りを仰ぎ見た。
城の中は婚礼の儀の華やぎに、いつになく輝いている。ああ、僕の住んでいたこの城はこんなにも明るかったか。初めて知った。
彼は恋人の、否、今宵からは妻となる女性の名を囁く。
彼女の耳元で。
甘い香りが、彼女の首筋から匂い立つ。香油は最上級のものを使った。彼女は自分にはもったいないと、ウィナード家が用意した花嫁衣装に気後れしたようだった。
ドレスの刺繍が翼を描いている。ウィナード家はウインダーの家系だ。そこに入る恋人は、普通の人間だけれど。
彼女には目に見えない最高の翼があることを、レイジュは知っている。
アップにされた髪に、歩くとしゃらりと鳴る金の髪飾り。蝶をかたどっていた。
「よく……似合う」
彼女の花嫁としての準備は、母と姉がしてくれたはずだ。
ここまで彼女を美しく引き立ててくれて、感謝している。
さあ――、とレイジュは城の中にある女神像の前へと、婚約者を促した。
行こう、と。
あの像の前まで行って、自分たちは永遠の愛を誓う。
永遠にともに在ることを誓う。
伴侶となり、
互いに支えあって、この先を生きていくことを誓う。
頬をピンク色に染めた彼女は嬉しそうに微笑んだ。何とも愛らしく、同時に艶やかで、レイジュの心をつかんで放さないその笑顔。
この城に華やぎを与えているのは彼女に違いない――そう思った。
うっそうとした森の中に建つこの暗い城が、こんなにも明るいのは、彼女のおかげなのだ。
愛おしい、大切でたまらない婚約者……
ようやく彼女と、愛を誓える。
手に取った彼女の手は柔らかく繊細で、今にも壊れそうだけれど、護ると決めた。
さあ、2人で歩いていこう。
女神像の前まで歩いていこう。
女神像が壊れる前に。
壊れる前――に?
レイジュの血の気が急激に引いていく。あんな女神像はこの城にあっただろうか? 両親たちが用意してくれたのか? いや――
気がつくと、手にあった繊細な感触がなくなっている。
はっと横を見ると、純白のドレスを着た娘はどこにもいなくなっていて。
ただ、村人の服を着た娘が、親に引っ張って行かれるのを見た。
レイジュは彼女の名を呼んだ。悲痛な声で呼んだ。
彼女は振り向く。涙のしずくが、風に吹かれて空中に散った。
レイジュ――
耳に残る愛する人の声。ああ――
引き裂かれていく。彼女との仲、心、世界、何もかも。
■■■ ■■■
……瞼が重い。
目が覚めていると分かっているのに、なぜか開かない、彼の視界。
胸の奥が痛い。腕が動いて、自然と胸元をわしづかんでいた。服を引きちぎらんばかりに。
ようやく開いた視界に映る世界は、暗くて。
ぼんやりと霞がかったようで。
――あの白く華やかな世界とは大違いで。
毎晩、彼女との夢を見る。
小さく小さく、彼女の名を呼んだ。応える声はない。そのことがレイジュに、奈落の底にいるかのごときひやりとした独りぼっちの心地を与える。
あれほど、あれほど焦がれた相手だったのに。
彼女さえいれば、自分は傷を癒せると思っていたのに。
――それは許されなかった。
世界はレイジュから両親を奪い、そして最愛の人さえも奪い去った。
……ああ、月のしずくのような彼女の涙を思い出す。
別れ際、虚空に散った彼女の涙を思い出す。
しずく。
せめて、この手に受け止められたなら……
「レイジュ。――レイジュ!」
部屋の外から、姉がドアを叩いているのが分かった。
けれどレイジュは返事をしなかった。ここ数日ずっとそうだ。世界に唯一の確かな存在となってしまった姉のことさえ、今は受け付けられない。
姉はしばらくすると、諦めて部屋の前から去っていく。食事だけを、ドアの前に残して。
けれど、その食事を口にすることさえ滅多にない彼は、日に日に痩せていった。
■■■ ■■■
ベッドに横になり、目を閉じれば、彼女との世界が待っている。
幸せで――そして胸が引き裂かれんばかりに狂おしい悲劇。
レイジュは痩せこけた己を自嘲する。――馬鹿だ、僕は……
大切な人とともにあること。自分のひそかな願いはいつも、叶わない。
分かっていても愛さずにいられなかったひと。
この胸の奥に笑顔を残し、そして涙のしずくを残していったひと……
――ねえ、レイジュのお城にはたくさんの本があるんだっけ。
不意に彼女の声がよみがえった。
無邪気に笑う彼女は、好奇心も旺盛だった。
――いつか、私も読んでみたいな。
「本……」
レイジュはベッドから起き上がった。
せめて、彼女の代わりに本を読もうか。
心の中の彼女は喜んでくれるだろうか。
それはどうしようもなく詮無い自己満足だと、分かっていても。
■■■ ■■■
城の蔵書は、おそらく一生かかっても読みきれないほど。
レイジュは元々本が好きだった。幼い頃から読んでいたものだ。
そして、彼女にもよく、読んだ本の内容を語って聞かせたものだった……
(心の中の彼女に、話して聞かせてみようか)
そんなことを思う自分をまた自嘲しながら、1冊1冊本を取り出し、めくっていく。
丁寧にページをめくり、文字を目で追っているはずなのに。内容が頭に入ってこない。
「………」
それでもレイジュはぼんやりと、同じことを繰り返した。
今の自分には何も糧がない。まともに動くことさえ難しい。
そんな自分に読書が出来るはずがない。だから――
この状態で、正常なんだ。
おぼろげにそんなことを思いながら。
そんな時、
ふと――ひとつの単語が目に留まった。
『遠見の塔』
一度読んだことのある本だと、しばらくかかって気づいて、それからみるみる内にレイジュの意識がはっきりする。
遠見の塔。これは確か――
そうだ。とある兄弟が住む塔の話だ。
遠見の塔にもたくさんの蔵書があると書いてあったから覚えていた。そして、そこに住んでいる兄弟の能力が特殊だったから覚えていた。
そう、そこに住む兄弟は賢者と呼ばれる兄弟で――
特に弟は、魔法の知識に深いと言われている。
魔法。それがあれば。
賢者の魔法があれば。
この苦しみから、逃れられるだろうか?
彼女との別れの記憶を、忘れられるだろうか。
いてもたってもいられなくなった。レイジュはその本を抱え、数日振りに服を整えると、城を飛び出した。
何日も使っていなかった蝙蝠の翼を背に開き、一気に上昇して。
ユニコーン地域南西、遠見の塔へと翼をはためかせる――……
■■■ ■■■
遠見の塔。高い高い白亜の塔だ。
翼のある身、そうしようと思えば塔の上から入れるが、レイジュは厳しい父に紳士的な振る舞いを教え込まれていた。
上から入るなんて失礼な真似は出来ない。ちゃんと、1階の扉から入ることにしよう。そう決めて。
扉を開けると、吹き抜けと螺旋階段が待っていた。
思わず緊張する。背筋にぞくっと悪寒が走った――誰かに見られているような。
賢者は、すべてを見通している。
脇に抱えた本には、こう書かれていた。興味本位で階段を昇ってくるような者は、魔法にとらわれ生涯兄弟の住む階にはたどりつけないと。
自分はまず、試される。
――興味本位なんかじゃない!
大丈夫だよ、と彼女の声が聞こえた気がした。
ああ、とレイジュは切なく苦笑する。
こんな時でさえ、自分は彼女に励まされるのか……
ぐっと上階を見すえて、螺旋階段に足を乗せた。
一歩、一歩、踏みしめるように上へと。上へと……。
■■■ ■■■
もうどれくらいの時間が経っただろう。
息が上がって、レイジュは呼吸をするのが苦しくなっていた。
脇に抱えている本が重い。邪魔だ、そう思うけれど捨てられない。
螺旋階段は上へ上へと続いていて、終わりが見えない。
足を、ひとつ上の階段に乗せる。
たったそれだけの行動がひどく辛い。
自分は魔法に捕らわれたのだ。そう思うと絶望的な気分になって、レイジュは絶壁の淵に立たされる。
淵から下を見下ろせば、冷たい奈落が待っている。いっそ落ちてしまえば楽になれるのか。否、自分は今までずっと奈落の底にいなかったか。
冷たい冷たい世界に浸って、彼女との別れに苦しみ、毎日過ごしていたのではなかったか。
――それ以上苦しい世界に行くのか?
心が震えた。
彼女の笑顔が、ガラスの破片のように胸の中でひび割れる。
「僕は――」
彼女の笑顔が壊れるのを必死で押し留め、肺が引き裂かれるかのような思いでレイジュは叫んだ。
「僕は貴方たちに助けてもらいたい!」
いちかばちかの賭け。
いや、そんなことを考える余裕もなかった。ただ心の内を素直に吐き出しただけ。
――ふっ、と体が浮遊感に襲われ、
視界が一瞬灰色に染まったかと思うと、次の瞬間には乳白色の世界に覆われた。
「いらっしゃい、ウインダーのきみ、レイジュ・ウィナード」
と、目の前の明るい金髪の青年が、青い瞳をにこりと微笑ませてレイジュを見た。
■■■ ■■■
白亜の塔の中、兄弟の居住地。
レイジュはそこに招かれた。
賢者の兄弟の内、弟によって。
――名乗ってもいないのに名前を呼ばれ、レイジュは面食らうとともに、相手の力を思い知らされた。賢者。本物の――
兄の方は、部屋の隅で本を読んでいる。特にレイジュに興味を示している様子はなかった。
ただ弟の方が、青い瞳を輝かせて興味深そうにレイジュを見ていて。
「僕たちに助けてほしいとのことだったが、どんなご用件だい?」
見抜いているくせに――
けれどレイジュは、くっと唇を噛んだ後――まず部屋に入れてくれた礼を言い、それから語り始めた。
彼女との出会い、彼女に惹かれていったこと、彼女との楽しかった日々、
そして――引き離されたこと。
「どうか……」
レイジュは重い体をおして、必死に背筋を伸ばし、青い瞳の賢者に言った。
「彼女との別れの記憶を、消していただけないだろうか……」
これ以上苦しい思いをしたくない。それは自分勝手この上ない願いだったのかもしれないけれど、死の淵にいる彼にはもうそれしか道はなかった。
青い瞳の賢者は目を細めて、微笑んだままレイジュを見ていた。
しばらくの間――
そして、近くの机に手を置き、とんとんと指先で机の上を叩き。
小首をかしげて、賢者は言った。
「……出来ないことはないよ」
レイジュは勢いこんだ。
「それなら……!」
「ただし」
青い瞳はレイジュを制止する。レイジュは視線の圧力だけでぐっと押さえ込まれた。
「――ひとつ、言っておくよ。彼女との記憶を消そうと思ったら、別れの記憶だけではない。彼女とのすべての記憶が消える。それでもいいかい?」
「すべての――」
その言葉が、レイジュの頭の中をめぐる。
すべての記憶。すべて。すべて――?
彼女との記憶、すべて?
出会いも楽しかった日々も、すべて?
彼女を愛した、この気持ちごと?
すべて? すべて? すべて――?
不意に手に冷たい感触を覚えて、両手を見下ろした。
月のしずくに見えた涙の幻が、掌に落ちて消えた。
ひび割れかけた彼女の笑顔。
けれどまだ、心の中にある。確かにある。
ガラスのように繊細な彼女の笑顔は、それでも奈落の底にいる彼にとっての灯火だ。
それをすべて、手放す……?
レイジュは、ふ……と悲しく微笑んだ。
――できるわけ、ないじゃないか……
「すみません……僕には、彼女との記憶を忘れることはできない」
頭を垂れた。詫びの思いとともに。
「お願いしたこと……忘れて、ください……」
視線を感じた。青い瞳の賢者の視線。じっと、レイジュを見つめている。
やがて、
「顔を上げて、レイジュ」
賢者に言われて、レイジュは顔を上げた。
そこに、穏やかに光る青い瞳があった。
「僕がきみをここに入れたのはね。きみはきっと、そう言うだろうと思ったからさ――」
「………」
「本気で忘れると言うようなやつだったら、入れていないよ。永遠に螺旋階段を昇っていてもらうね」
「―――」
「レイジュ」
青い瞳の賢者は、優しい声で。
「きみの、彼女を愛しいと思う気持ちを忘れてはいけない。それはきみの心を大きくする。穏やかに、優しくする。そして成長させるだろう」
「僕の……」
「愛した人を忘れてはいけない。その存在は尊い宝、光だ。そうだろう?」
「……はい」
レイジュは素直にうなずいた。
賢者は微笑んだ。
「呪いにも、別れにも負けないきみに祝福を――レイジュ」
どうか、
もうひとつの大切な存在を忘れずに、
その存在とともに幸せであれるよう、我々兄弟は祈ろう。
レイジュの脳裏に、ずっと心配してくれている姉の姿が思い浮かんだ。
――ああ、もう何日話していないかな。どれだけ心配しているだろう。
「さあレイジュ。今は休んで……心を休めて。目が覚めた時には、もう一度彼女の笑顔を光として素直に受け止められるように……」
すうと意識が遠のいていく。魔法をかけられた――
レイジュは抵抗しなかった。このまま眠ればいい、悪夢は見ない。きっと。きっと……
■■■ ■■■
目を覚ました時、ベッドの近くにある窓からは月の光が差し込んでいた。
自室だ。賢者はこの城まで送り届けてくれたらしい。
――青白い月光は、幻想的で美しく。
心の中にいる彼女と会う時はいつも夜だったことを思い出させる。
レイジュ。
彼女の声が聞こえる。
ひび割れていた笑顔が、戻った。
レイジュは笑みをこぼした。ほんのわずかな、唇だけの……
こんこんとひかえめにノックする音がする。
姉の気配がする。弟の名前を呼ぶのを、ためらっているようだ。
彼はベッドからおりた。そして、ドアまで歩いていった。
内側からドアを開けると、姉が仰天した顔でそこにいた。
その表情がおかしくて、レイジュは笑った。
笑顔をくれる、大切な人はここにもいる。
――それでも、ああ、愛する貴女は。
永遠に僕の心の中で、繊細で可憐な笑みを僕に向けてくれるのだろう。
このうっそうとした森の中の暗い城に住む僕に、ほのかな灯火を。
窓を見ると三日月。
月のしずくがその表面をするりとすべって落ち、夜空に散ったような気が、した――
<了>
ライターより-------------
ご発注ありがとうございます、笠城夢斗です。お届けが遅れて申し訳ありません。
シチュノベの制約により、キャラクターの名前のほとんどは出せないまま終わってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
少しでも切ない雰囲気に近づいているとよいのですが;
書かせて頂けてとても嬉しかったです^^
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