<東京怪談ノベル(シングル)>
砂色の空の下で 〜Evergreen of under the sandsky.〜
今でも時々夢に見る。
鮮やかな緑と青に覆われた、美しい世界の光景を。
※
かたかたと、ささやかな癇癪を起こしたように窓が揺れる。
チャイの仄かに甘い香りが漂う部屋、その窓辺に椅子を置いて、スラッシュはぼんやりと外の風景に目を向けていた。
珍しく、風の強い日だった。
駆け抜ける風が細かな砂を攫い、青空を砂色に染めて行く。
一歩外に出れば、たちまち全身が砂だらけになってしまうだろう。この風では、買い物に出かけることさえもままならない。
スラッシュとて、己の工房の斜め向かいにある、この孤児院まで辿りつくのがせいぜいだった。
表通りまで足を伸ばそうものなら、それこそ、衣服が砂色に染まるだけでは済まない。
無論、スラッシュも何も用がなければこんな風の日にわざわざ家から出たりはしなかっただろう。
用事があったから足を運んだだけのことで、その用事もすぐに済んでしまったから──雨宿りならぬ風宿りをしているというわけである。
このような日は、外に出ないに越したことはない。
けれど、そう考えるのはどうやら大人達だけのようで、このスラム街でたくましく生きる子ども達は、そんな風の中でも構わず、元気に外を駆け回っている。
「……元気なものだな」
穏やかにひとりごちる。
彼らの賑やかな声を遠い所で聴きながら、スラッシュは砂色の空を窓越しに見つめていた。
──砂色の空。
ここではないどこか。
今ではないいつか。
同じような空を、同じような景色を、同じような場所から見ていたことを、思い出す。
それは遠い、過去の記憶。
※
全てが砂となり、還って行く世界。スラッシュが生まれたのは、そんな世界の片隅だった。
僅かに残る自然がひっそりと息づく以外には、全てが砂に覆われた小さな集落──その、孤児院。
物心ついた頃には、既にそこが彼にとっての『家』だった。
スラッシュは、自分を生んだ親の顔も知らない。
ただ、自分を生んだのではない、けれど『おとうさん』や『おかあさん』と呼ばれる大人と、自分と同じくらいの年の子ども達と共に暮らしていた。
皆のいるありふれた光景と、ガラスの窓越しに見える外の景色。毎日決まった時間に鳴り響く、鐘の音。
それが、幼少のスラッシュにとって世界の全てだと言っても、過言ではなかった。
スラッシュは外に出ることが出来なかった。正確には、太陽の下に出ることの叶わぬ身だった。
アルビノである彼にとって、太陽の光は例えば作物にとってそうであるように、生きるための力をもたらすものではなかった。
灼熱の太陽は、容赦なく彼の肌を焼いた。大地を乾かし、砂に変えるその光は、彼を傷つけるものに他ならなかった。
大人になり、ソーンへと足を踏み入れ、あの頃より多少は強くなったが、それでも、やはり無闇に肌を晒すようなことは出来ない。
今でもそうなのだから、子どもの頃は、太陽が顔を覗かせる時間帯に外に出ることなど出来るはずもなかった。
スラッシュの居場所は、いつも太陽の手の届かない、屋根の下だった。暑い日でも服は全身を覆い、砂色の世界を駆け回る友人達の姿を、遠くから見ていることしか出来なかった。
どこまでも楽しげな輪の中に、彼の居場所はなかった。
一緒に遊びたいと、その輪の中に自分の居場所が欲しいと、何度思ったかわからない。
太陽が沈んだ後、夜にこっそりと孤児院を抜け出したのも、一度や二度ではない。
濃紺の空。微かに瞬き、時に尾を引いて流れる星に、何度願いを捧げたかわからない。
遠い金色の月の輝きに、何度祈ったかわからない。
しかし、その願いや祈りは決して届くことはなかった。いつまで経っても、彼がおひさまの下で皆と遊べるようにはならなかった。
願いが叶わないことに悲しさと虚しさばかりを覚え、いつしか、彼は星や月に願いをかけることすら忘れてしまっていた。
己から世界を取り上げたにも等しい太陽を、恨みさえもした。
全てが砂に還り行く世界の中で、彼の心もまた、砂となり、零れてしまっていたのかもしれない。
自分は皆とは違う、皆よりも『少し身体が弱い子』だから。
だから、皆と一緒に遊べない。
皆と同じ舞台に立つことが出来ないというのは、幼いスラッシュにとって、まるで生きることそのものを拒絶されたに等しかった。
「ねえ、スラッシュ、いっしょに遊ぼうよ」
「俺が外に出られないって知っているくせに、何でそんなこと言うんだよ……!」
差し伸べられた手のぬくもりを、彼は知らない。
知らないのも当然だ。彼は、その手を取ることなく、振り払ってしまったのだから。
※
いつの間にか新しく淹れられていたチャイの香りに、遠い所に飛んでいた思考が、現実へと引き戻される。
スラッシュは無言のままで室内に視線を巡らせたが、これを淹れてくれたであろう少女の姿はどこにも見えなかった。
おそらく、物思いに耽る自分の邪魔をしないようにと、要らぬ気を遣ってくれたのだろう。
小さく息をつき、カップを持ち上げた。口をつけると、甘い味が瞬く間に広がっていく。
遠い昔のような気さえするのに、優しかった少女の声も、突き放すような自分の声も、まるで昨日の出来事のように覚えていることに苦く笑う。
(……子どもだったんだ)
そう、精神的にも、肉体的にも、自分はとても、とても幼い子どもだった。
今でこそ、つまらない意地を張っていたと笑うことも出来るだろう。零れてしまったものを再び拾い上げて、手に入れることだって──決して、不可能ではない。
だが、あの頃は、今よりも幼くて、世界を知らない子どもだった。
伸ばされた腕のぬくもりを、己へと手向けられた優しさを、確かめようともせず、振り払うことしか出来なかった。
自分の傷ばかりを舐めようとして、他人の傷には目を向けようともしなかった。
優しさに何の疑いも持たずに縋るのが、怖かったのだ。
今でこそ、と思ったところで、あの頃に戻れるわけではない。
あの場所に、帰れるわけではない。
あの場所は、もう、どこにもない。
そこはかつて在った場所。今はもう、どこにもない場所。
名前も存在すらも忘れられた、一つの世界。
鬱蒼と緑が生い茂る森も、無数の光が灯る青を映し出す湖も、長い年月をかけて築き上げられてきた街も、人々の声すらも──全てが緩やかな時間をかけて、砂へと還り行く──否、還ってしまった世界。
全ては砂となり、散ってしまった。忘れ去られてしまった世界は、この手で掬い上げることももう、叶わない。
だが、そこに生きていた人々は、滅びて行く運命を嘆いてなどいなかった。
明日もわからぬ世界の中で、今あることを大切に、生きていた。
そこには確かな命の輝きがあり、営みに、満たされていた。
命もまた、砂へと還る──その瞬間まで『生きよう』とする意志に、満ちていた。
スラッシュが己の身体を受け入れることが出来たのも、そんな彼らと共にいられたからに、他ならない。
あるものを、あるがままに受け入れる。考えてみれば単純で、簡単かもしれない。だが、とても難しいこと。
※
時折、夢に見る。
いつか砂の中から一つの種が芽を吹いて、小さな花を咲かせることを。
見たこともないのに、夢見てしまう。
黄土色の大地が、砂色の空が、鮮やかな緑と青に覆われる夢を。
ささやかな願いだとわかっていても。叶わぬ夢と、知っていても。
それでも、時折、夢に見る。
ここではないどこか。
今ではないいつか。
差し伸べられた、あたたかな、──陽だまりのような、小さな手。
決して届かないと思っていた、輝き。
それは、憧れだった。
Fin.
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