<東京怪談ノベル(シングル)>


そして白羊亭の夜は更けて

 目を覚ました時、最初に見えたのは、古い天井だった。小さくてほの暗い、それでいて温かい部屋。そうだ。白羊亭に戻ってきたのだと思い出して、雷歌はほっと息を吐いた。物置を改造した小さな部屋は、雷歌が初めて得た、安住の地だ。小さなテーブルの上には薬瓶。ヒーラーが調合してくれたものだ。先日の戦いで、皮膚が炭化しかけるほどの酷い火傷を負った。戻ってきた雷歌を見た時の彼女の表情は忘れられない。あんなに心配してくれるなんて。寝ずに看病してくれた事も知っている。優しく語りかけてくれた声は、ヒーラーの薬に勝るとも劣らない癒しを与えてくれた。怪我は、癒えた。だから今度は、彼女のために何かしたい。そう思うとじっとしていられずに、雷歌は久しぶりにベッドを降りた。彼女、ルディア・カナーズはもう、起きているはずだ。

「私にお店を手伝わせて下さいませんか?」
 風変わりな居候、紅乃月雷歌が深紅の瞳をキラキラさせてそう言った時、実を言うとルディアはほんの少しだけ、躊躇った。何といっても雷歌はついこの間まで、動けないほどの怪我人だったのだ。だがそう言うと雷歌は、大丈夫、と言ってにっこり笑った。
「もう動けるようになりましたし。火傷もほら、この通りほとんど治ってしまいましたから。私、ルディアさんにご恩返しがしたいんです」
 そう言われては、可愛い店子の申し出を断るなぞ出来るはずもない。元々忙しくて手が足りなかったこともあり、ルディアは喜んで承諾した。制服を引っ張り出して、渡す。
「じゃあ、まずこれを着てね!サイズはたぶん合うと思うから」
 この間やめた女の子の背丈は、確か雷歌と変わらないくらいだ。きっと似合うに違いない。接客業をしたことはなさそうだけれど、美人だし丁寧だし、うまくやってくれる。今日はきっと楽しい日になるだろう。


「子羊のグリルのランチ。飲み物は黒スグリのジュースで」
「はい。付け合わせは何になさいますか?」
「ザウアークラウト。ちょっと多めにね」
「飲み物はお食事の後でよろしいですか?」
「一緒にお願いします」
「俺はシチューね。パン、1個増やして」
「はい、お飲物は何になさいますか?」
「うーん。紅茶。ジュースと一緒な」
「ママ、パフェ食べたい!」
「私は…」
「おーい、こっちも!」
 昼時の白羊亭は、戦闘なみの忙しさだ。おかげで注文を取るのにもすぐに慣れたが、メニューを覚える暇もなかったものだから、最初はなかなか苦労した。だが幸い、記憶力は悪い方でもなかったし、要領が特別悪いわけでもなかったから、仕事上、困ることはなかったのだが…。
「ま、また…」
さっきから感じる視線。振り向くと、愛らしいふわふわ栗毛の男の子が、じっとこちらを見つめていた。
「な、なにかな〜?」
 最初は何か用事があるのかと思って聞いてみたが、彼はあわてたように首を振って母親の影に隠れてしまった。なぜ、と強張る雷歌の傍でルディアがくすくす笑った。
「あの子、雷歌のこと気に入っちゃったみたいね。可愛いもんなあ、雷歌」
「か、可愛い?確かに服は可愛いですけど」
 雷歌はふるふると首を振った。ルディアも着ている白羊亭のウェイトレス服は、見事なまでのふりっふりだ。小柄なルディアにはよく似合うし、可愛らしいと評判だ。雷歌だってそう思う。けれど、見ると『着る』とは大違いなのだ。鏡を見た瞬間、雷歌は全身が髪と同じ色になりそうなくらい、赤面した。は、恥ずかしい。ふりふりのイメージと雷歌自身が見事なまでにミスマッチに思えて仕方がない。なんだかお客がこちらを見る視線が、痛い気がする。
「私その、厨房を手伝った方が…」
「ダメ。あっちは手が足りてるもん。可愛いんだから自信持って!ほら、注文取ってくる!」
 ばん、と背中を叩かれて、雷歌は再びテーブルに向った。そうだ。いくら恥ずかしかろうが何だろうが、構ってはいられない。すべては、ルディアの為なのだ。たとえ火の中、水の中。…いや、水はちょっと勘弁だが。決意も新たに、雷歌はひたすら働いた。注文を取り、厨房に伝え、料理を運び…
「ありがとうございました!」
 ランチタイム最後の客を送り出したその時、準備中の札をかけに出た雷歌の目の前に現れたのは、あの栗毛の男の子だった。
「うっ…」
 またも向けられた真っ直ぐな視線に、忘れかけていた己の格好を思い出してたじろぐ雷歌に、彼がぐっと差し出したのは、小さな花束だった。
「?…これ…」
 小さなスミレの愛らしい花束は、買ってきたものではないようだ。
「くれるの?」
 彼は頷くと、雷歌の手にそれをぐっと持たせると、思い切ったように叫んだ。
「およめさんになって!」
 目を見開いた雷歌の後ろで、ルディアが歓声を上げた。雷歌がようやく息をつけたのは、逃げるように走っていく彼の後ろ姿が曲がり角に消えた後だった。
「まさかプロポーズするとはねえ!かっわいい〜!」
 ルディアはそう言ってスミレの花束を覗きこむと、うん、と頷いて、
「雷歌の髪に合いそう。来て。コサージュにしてあげる。これで夜はまた、モテモテだよ?」
 と笑った。

 白羊亭には二つの顔がある。夜、冒険者の集まる酒場となった白羊亭に、雷歌も何度となく顔を出していた。もしかすると、なれない昼間よりも気楽かも知れないと思ったのだが…。
「甘かった…」
 頼まれた酒をトレイに載せながら、雷歌はがっくりと肩を落とした。よく考えればわかることだ。普段の雷歌を知っている人間にこそ、ふりふりウェイトレスバージョンは見せてはいけないものだったのだ。その肩をぽんぽんと叩いて、ルディアがなだめる。
「まあまあ、みんな雷歌が可愛い格好してるから喜んでるんだよ」
「喜んでる?」
 確かにある意味そうですが、と言っているそばから、声が聞こえる。
「おーい、ウェイトレスさーん。ワインまだ〜?」
「俺も俺も!」
「ついでくれよー!」
 テーブルから手を振る赤ら顔の中には、クエストで一緒に戦った者もいれば、一度か二度酒場で顔を合わせただけのほぼ他人もいた。だが、常に危険と隣り合わせの冒険者稼業にはノリの良すぎる人間は多いようで、男も女も皆、『新しいウェイトレスさん』を一目見た途端にこの調子だ。
「なあなあ、今度この服でクエストしようぜ?依頼料、3:7でいいから!」
 と言う者がいれば、
「いや、俺なら1:9」
 と張り合う者もあり、しまいには
「僕は全部あげる」
 とウィンクする者までいる始末。挙句の果てには見知らぬオジサンにじっと見詰められた上、
「ある意味、バニーちゃんより色っぽいぜ」
 とウィンクされる始末。
「…酔っ払いなんて…酔っ払いなんてっ…」
 拳を握りしめ、わなわなと震える雷歌にルディアが笑いながら、
「雷歌が恥ずかしがるからいけないんだって。堂々としてれば誰もからかったりなんかしないよ」
 ともっともな忠告をしたが時既に遅し。白羊亭の『ウェイトレス雷歌ちゃんで遊ぼう』的な盛り上がりはとどまることを知らなかった。本人の希望とは裏腹に、雷歌は一躍、売れっ子ウェイトレスとなったのだ。赤面しつつも一重にルディアの為、と恥ずかしさこらえて飛び回る雷歌に、また酒場は盛り上がり、とうとう大宴会が始まった。飛び交う酒。明るい自慢話に歌が入り、誰かが楽器を出し、そして…。

「眠っちゃった」
 片隅の椅子に座ったまま、こてん、と眠っている雷歌に、ルディアはそっと毛布をかけてやった。既に宴は終わり、店内の片づけも終わっている。
「今日は頑張ってくれたもんね」
 頬に落ちた深紅の髪をかきあげてやる。スミレを使ったコサージュは思いの他よくなじんだし、本人は恥ずかしがっていたけれどフリルの制服だってとてもよく似あっていた。おとなしそうな雰囲気とは裏腹に、冒険者としての腕や強さは半端ではない。それでも、あんな怪我をして帰ってくると、やっぱり心配になる。だから一生懸命看病したのだが…。かえって気を遣わせてしまったようだ。
「気にしなくていいのに」
すやすやと眠る雷歌の頬に触れたその時、首筋にうっすらと残る痣が目にとまって、ルディアは少し眉をひそめた。だが、火傷の痕ではなさそうだ。もっと古い。たぶん、あまり良い記憶ではない、何かの痕跡。そう思えた。ソーンを訪れる冒険者の多くがそうであるように、彼女もまた、辛い過去を持っているのかも知れない。
「おやすみ、雷歌」
 深紅の髪をなでながら、ルディアは囁く。今だけは、安らかに。そして、白羊亭の夜は更けていく。まだ見ぬ明日を迎える為に。

<終わり>