<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


     見たいもの、お見せします

 地底の奥深くへと無限に続く地下迷宮『ラビリンス』には当然ながら朝も昼も夜もなく、あるのは迷宮のいたるところに設置された、闇をはらう魔法のぼんやりとした黄昏のような明りだけである。そんな世界では時間という存在は影のように薄く、一時間や一日という区切りがあいまいで、ただ長い長い探索の歴史だけが着実に積み上げられていくばかりだが、その歴史の作り手である探索者たちの中で唯一、『ラビリンス』において正確に時間を知る者がいた。
 たえず神秘的な微笑を見せる、黒衣が印象的な長身痩躯の青年、エル・クローク。決まった性別を持たず食事も睡眠も必要としない、古い懐中時計の精霊である。クロークは穏やかな風貌と性格でありながら思いがけず旺盛な好奇心の持ち主であると同時に、たとえ訪ねる相手が地下迷宮の中にいて昼も夜も関係なく生活しているとしても、地上に住む知人の家を訪れて非常識だと非難されることのない時間帯に姿を見せるという礼儀正しさも兼ね備えていた。
 「いらっしゃい、そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ。」
 『ラビリンス』の中でただ一人店を構える道具屋の主レディ・ジェイドは、会う約束をしていたわけでもないクロークが突然現れても、驚いた様子もなくそう言ってにやりと笑ってみせた。もちろん彼女はその身体の大きさこそ人間規格外だが、正確に時間を知る能力や未来が判る力を持っているわけではない、ただの人間である。
 「まるで僕の来ることが判っていたみたいだね。」
 興味深そうな面持ちでクロークが尋ねると、女店主は声をあげて笑いながら答えた。
 「少し前にうたた寝をしていたら、あんたが夢に出てきたんだよ。それで何となく会えるような気がしただけさ。予知夢とでも言うのかしら……そういうことってあるだろう?」
 これにクロークは小さく首をかしげてみせただけである。レディ・ジェイドの言葉は、睡眠をとることがなく、また動物的な感覚を持たないクロークには実感のないものだったからだ。
 もっとも、だからこそクロークは今ここに来ているのだが。
 「夢を見る……というのは、一体どんな気分なのだろう。」
 ぽつりとそんなことを口にしたクロークの赤い瞳を覗き込むように、ジェイドが目を向ける。クロークはそれを真っ直ぐに見返して言葉を続けた。
 「僕は眠るということをしないから、いまいち感覚が良く判らなくて。僕自身『夢』を売っているようなものだというのに、可笑しな話だと自分でも思うのだけれど、ね。」
 そう言って苦笑にも見える微笑を浮かべる。
 クロークは地上では調香師として店を構えているが、さまざまな香りを商品として売る以外にもう一つ、仕事として行っていることがあった。それは、特殊な香を焚いて客の求める夢や幻を見せることである。望みの内容は問わない。良い夢も悪い夢も、ささやかな望みもあさましい望みも、人間が種族としての経験をもとに築き上げた善悪や道理の枠を超えて叶える。それがエル・クロークの調香師としてのもう一つの顔だった。
 しかし、クローク自身は肉体的に眠ることがないため、当然ながら一度も夢を見たことがないのである。
 「幻影、とはまた少し、違うような気もするし……――そう思った時にふと、ここを思い出してね。」
 クロークはそう言うと迷宮の壁に無造作に貼られた一枚の紙に目を向ける。そこには『見たいもの、お見せします』という簡潔な文句が飾り文字で書かれていた。レディ・ジェイドはそれを目で追い、得心したというように頷く。この店では地下迷宮には決してない『空』以外の物なら何でも手に入ると言われており、見ることのない光景でさえその目にすることができると請け負っているのである。
 「どうだろう、僕に『夢』を見せては貰えないだろうか。お礼は金銭と……前に此方へ来た時に入手した花、あれで香水を作ったのだけれど、それでどうかな。」
 「ずいぶんしゃれたお代だね。あんたらしいと言うべきかしら?」
 女主人は少女のようにくすくす笑うと、「いいとも。」と答えた。
 「あたしの『万見の鏡』であんたに本当の『夢』を見せてあげるよ。」

 クロークは気がつくと『見覚えのない自分の店』の前にいた。確かにそれは現実の地上と記憶の中にある店の外観とは異なるのに、何故か『自分の店』だと判るのである。手を伸ばしたドアノブにも馴染みがないのに、違和感もない。扉を開けて中に入ると見知ったアンティークの調度品に混じって、そ知らぬ顔で現実の光景に紛れ込んだ夢の産物が座り込んでいる。棚に陳列されている香水瓶を見やり、こんな瓶は扱っていなかったと思うと同時に、それがここにこうして並んでいるのが当然のようにも思えた。矛盾や、現実とは違う偽物たちが違和感なく存在している、何とも奇妙な空間だった。
 「面白いな……。」
 店の中を見渡し、クロークが声もなくそう呟いた瞬間、視界に映った光景が瞬きのうち一変した。
 「あら、本当に来て下さったのね!」
 突然目の前に現れ、夢も覚めそうなほど高らかな声でそんなことを言ったのは、赤い髪がいかにも快活な印象を与える十代半ばほどの少女だった。
 「言われた通りこれを届けに来たよ。」
 玄関の扉らしい物を前にして立っている少女に、まるで決められたせりふを役者が口にするように無意識に言ったクロークは、いつの間にか手にしていた香水の瓶を彼女に差し出していた。それが先ほど棚に並んでいた見知らぬ瓶だということには気づいたが、商品の配達などしていただろうか、という疑問は何故か浮かんでこない。ただ香水を受け取って嬉しそうに笑う少女に誰かの面影を見たような気がしただけである。
 彼女はお礼を言うなり満足そうにかわいらしい香水の瓶を持ち上げて光に当て、それをためつすがめつしていたが、やがてひときわ明るい口調ではたと声をあげた。
 「そうだわ、せっかく届けてもらったんだもの、良かったらお茶でも一緒にいかが?」
 そう言う少女の顔は「まさか断ったりしないでしょうね?」と念を押すかのような、いたずらっぽい笑みに満たされている。クロークは本来自分が飲食できないと判っていたが、これが夢なら可能かもしれないと、さして迷うことなく頷いた。
 「もちろん、喜んでいただくよ。」
 「そうこなくちゃ!」
 少女は小躍りでもしそうな勢いで、クロークの手を取り家の扉を開いた。
 しかし、その扉の奥に広がっていた景色にクロークは言葉を失ってしまった――というのも、建物の外観からは到底予測できない光景がそこにあったからである。少女が開いた扉の向こう、目の前に広がっていたのは、海よりも明るく澄んだ青い空だった。
 「お茶会をするなら外が一番。それも空の上なら最高じゃない?」
 扉をくぐった少女はそう言っていたずらっぽく笑い、手をさっと振ってみせる。するとそこにはもう白いテーブルクロスのかかったかわいらしい卓とおしゃれな椅子、そして温かな湯気をたてているポットにお茶菓子までがきちんと用意された状態で二人を待ち構えていた。
 「さあどうぞ、入って座ってちょうだい。」
 まだ扉の前にいるクロークに向かって少女が言う。そんな彼女の足下には地面などなく、目のくらみそうな底抜けの青い空があるばかりだった。そして、それを見ても何故か恐怖はわいてこない。
 「これが夢というものなのかな。それなら……。」
 クロークは内心でそう呟くと、ためらうことなく空の中へと足を踏み出した。そこに何かを踏んだという感触はない。夢というのははじめから終わりまでそういうものなのかもしれないが、その現実味のなさと不思議な違和感のなさにクロークは大いに興味をひかれた。数歩進み出て軽く飛び跳ねてみると、ふわりと身体が浮き上がるのを感じる。自在にどこまでも飛んでいけそうなその感覚は、現実では決して感じられない解放感にあふれていた。
 黒い上着の裾をひるがえしてクロークが少女の傍に降り立つと、「あなたの服、とても素敵ね。青空にとても映えるもの。あたしは空と、空に似合うものが好きなの。」と少女が笑う。
 「でも、お茶とお菓子はもっと好きよ。」
 少女はそう言って椅子の一つに座ると、二つのカップになみなみとお茶を注いで一方をクロークの方へ押しやった。その優雅さには欠けるが無邪気な様子に思わず笑みを浮かべ、クロークも席につく。そして少女にすすめられるままにカップに口をつけ、傾けた。
 温かいお茶が柔らかな香りをほのかにただよわせて喉の奥を滑り落ちていく。何かを味わうのは初めてのはずなのに、それをおいしいと感じられるのはとても気分が良かった。お菓子は少女の手作りで、よく見るとはしの方がこげていたが味には何ら問題はなく、とりとめもないおしゃべりを交えたお茶会の和やかな雰囲気は新鮮だがどこか懐かしくて、人間として生きていたらきっと度々こんな穏やかな気分を味わっていたのだろうと思うと、これが夢であることが少し淋しく感じられる――と同時に、夢であるからこそなのか、特別に楽しいとも感じられた。
 現実にはない感覚が、現実によく似た鏡の中のような世界に夢の産物と混ざりあって存在している。そのあいまいさは理性をあざむいてすべての違和感をなくし、安らぎと、やがてゆるやかな倦怠感をクロークへ投げかけた。
 クロークは半ばほどまで目を伏せ、この感覚は何だろうと考える。しかし思考がまとまらず、ぼんやりしていると、少女がくすくすと笑って言った。
 「何だか眠そう。おいしいお茶を飲んで、たくさんお話ししたから、眠くなったのね。あたしも眠くなっちゃった。」
 そう言って少女は頭を卓の上に乗せ、目を閉じた。いつの間にかポットやカップは消えてなくなっている。
 「あなたも少し眠るといいわ。お店に帰るのはそれからでもいいでしょう?」
 そんな少女の言葉を聞きながら、クロークも心地よくあらがいがたい倦怠感――眠気に誘われて、ゆっくりと眠りの中へ落ちていった。

 「いい夢は見られたかい?」
 聞きなれた女店主の声にふと我に返り、閉じていた目を開いてクロークはどこかぼんやりとした様子で周囲を見渡した。そこは抜けるような青空の世界ではなく、黄昏に似た薄明かりが灯る地下迷宮の一角である。顔を正面へと戻すと、古ぼけた鏡を手にしたレディ・ジェイドが話を聞きたそうな様子でクロークのことをじっと見ていた。
 「夢の中で眠ったの? それじゃあ今ここにこうしているのが実は現実でなく、夢かもしれないね。この夢が覚めたら、あんたは空の上にいるかもしれないよ。」
 なんてね、と笑って言う女店主の表情はどこか夢の中の少女に似ている気がした。
 「そうだ、お礼を渡さないと。望み通り夢は見られたからね。」
 クロークがそう言うと、レディ・ジェイドは不思議そうな顔で見返してくる。
 「何言ってるんだい、お礼ならもうもらったよ。」
 そして、小さな香水の瓶をクロークの前に差し出してみせた。それは夢の中で少女に渡したあの香水瓶であるようにも、まったく違うようにも思える。目が覚めてしまうと夢というのはひどくあいまいになり、しかし、何かしら強い印象だけが心に残るものだ。クロークには彼女の持つ香水瓶が本当に自分が今日持ってきたものなのか、それとも夢で見たものであるのか、判らなくなってしまった。ただ、「とてもいい香りだね。何だか地上にいて空を見上げていた頃を思い出すよ。あたしは空が好きなんだ。」と嬉しそうに言う女店主の顔を見ると、夢か現実かなど大した問題ではないようにも思えたのである。
 「また夢を見たくなったら来るといいよ。あんたならいつでも大歓迎さ。」
 女店主のその言葉に、クロークはいつもの穏やかな微笑を浮かべて頷いた。




     了




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【3570 / エル・クローク / 無性 / 18歳(実年齢183歳) / 異界職【調香師】】

【NPC / レディ・ジェイド / 女性 / 自称30歳 / 道具屋店主】


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■         ライター通信          ■
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エル・クローク様、こんにちは。
この度は素敵なプレイングをありがとうございました。
夢の中で夢を見るという大変興味深いシチュエーションの中で、夢でしかできないこと、また人間にはできる当たり前のことを、新鮮な気持ちで描かせていただくことができて、とても嬉しく思います。
満足のいく夢であったのなら良いのですが、いかがでしょうか。
また何らかの形でお会いできれば幸いです。その場所が現実でも、夢の中であっても。
それでは最後に、語られなかった秘話を一つ。

 ――「香水を届けに来てくれたら、ついでにお茶に誘っちゃおう!
 ――という案までは良かったけど、あたしはお菓子を作ったことがないのよね。」
 ――うまくできるかしら、と材料を前に首をひねりながら少女が呟いていたとか。

ありがとうございました。