<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


一日院長、募集中


 その日、白山羊亭で冒険者として仕事を引き受け小さな町へやってきたレイジュ・ウィナードは戸惑っていた。
 当然である。孤児院の世話、というから彼はてっきり孤児院を何者か、およそ魔物か盗賊の類から護衛する仕事だとばかり勘違いをしていたのだ。普通、冒険者に孤児院の子供の世話を依頼しようなんて考える人間はまずいない。
 ところが、街道を外れた小さな町、クールウルダに到着した彼を待っていた依頼人は、彼の姿を見るなり真っ先にこう言った。
「ああ、ベビーシッターの人?来てくれて助かったよ」
 耳慣れぬ単語に、は?とレイジュが問い返す暇は、なかった。依頼人二人はどうやら火急の用事であるらしく、レイジュにろくな説明もせぬままどたばたと出て行ってしまったのだ。「今日一日、チビ共の世話を頼むよ」と言い置いて。
 レイジュは困惑したまま、残された子供達に恐る恐る目をやる。ベビーシッター。およそ自分とは全く縁のない言葉の響きだった。
 振り返った先に居て、レイジュをじっと、恐ろしい程まっすぐに見返している子供達は、五人。家の中に赤ん坊が居るということだったので、合わせて六人。一番年上の少女でさえ、十をやっと過ぎたくらいの年頃に見えるので、これまたレイジュは戸惑った。彼は姉こそ居るものの下に兄弟が居ない。こんな年頃の子供達と、接した経験がなかったのだった。
 それでも、レイジュはいっぱしの冒険者であった――この仕事が冒険者向きかどうかはともかくとして。引き受けてしまった以上、仕事は仕事だ。責任を果たさねば、そういう想いから、彼は子供達に手を差し伸べた。
「レイジュ・ウィナードだ」
「…はい、今日はよろしくお願いします」
 年長の少女は見知らぬ大人に身構えた様子で、レイジュの伸ばした手をとることはしなかったけれども、きちんとした挨拶を返した。お辞儀をしてから、
「私はイングリッド。母さんと父さんはイング、って呼びます。そっちの双子はジェーンとエド。その隣がアルフレート、それと…駄目よ、アーネスト、隠れてないで出ていらっしゃい。最後に家の中に居るのが、リシュです」
 落ち着いた口調は大人びており、「子供の相手」という言葉に戸惑っていたレイジュは少なからず安堵した。言葉が通じない訳ではないのだ、と当たり前のことを再認識したのである。
「そう言う訳で今日一日、ここを預かることになったから。よろしく頼む」
 言いながら全員の顔を見渡す。顔と名前を一致させようと先程の、イングリッドの紹介を思い返しながら一人一人を確認していたのだが、イングリッドが双子だと言っていたよく似た顔立ちの二人の男女の片割れは、レイジュと目が合うなり舌を出して見せた。
「あんたなんか、だいっきらい」
 吐き捨てるように言って、少女、ジェーンは踵を返してしまった。レイジュが引き留める間もない。
 唖然としてその背中を見送るレイジュを憐れむように、ジェーンの双子の片割れ、エドが肩を竦めた。そういう所作は大人びていて、子供らしくない。
「ごめん。ジェーンは、あんたみたいなタイプが嫌いなんだ」
「タイプ?…すまないが意味が分からないんだが」
 まるで未知の人種でも相手にしているような気がしてきた。今日一日、という長い時間をこれから共に過ごすというのにと考えると、気が遠くなってさえ来る。
 エドは、そんなレイジュの戸惑いを察しているのかいないのか、矢張り大人びた調子で返した。
「あんまり気にすんなって。あんたが悪い訳じゃないんだから。それよか、昼飯の準備の時間だ」
 そういう訳にもいくまいとレイジュは思ったのだが、彼が何かを言うより先に、イングリッドの年の割に落ち着いた声が割って入った。
「そうね。先にご飯の用意をしなくっちゃ」
 見れば、アーネストやアルフレートといった幼い子らも、先程のジェーンの激昂などさして気に留めた様子もない。アルフレートはイングリッドの言葉を受けて、「じゃあ僕、卵とってくるね」と出て行ってしまった。柱の陰にいたアーネストも、何もしないでいる訳にはいかないと思っているらしい。幼い足取りでアルフレートの後を追っていく。
 それを見送っていたレイジュは、後ろから服の裾をひかれて振り返った。イングリッドだ。
「すみません。手伝って頂けます?」
 言いながら、彼女はレイジュの返答など待たずにぐいぐいと彼の服裾を引いた。孤児院を飛び出して行ったアーネスト達の方も気にはなったものの、レイジュとしてはこの場で、大人としてどう振舞うべきなのかなど見当もつかない。仕方無く彼女に従うことにする。


「ジェーン、と言ったか、彼女のことはいいのか?」
 台所でエプロンを押し付けられたレイジュは、白い布切れをどうしたものかと手にしたままイングリッドに問いかけていた。
「いいのかって言われても、ジェーンの癇癪はいつものことですから」
 台所は、あまり広いとは言えないものの、床板が腐りかけていたり壁に穴があいていたりする他の部屋の惨状に比べると、遙かにマシな状態だった。それなりに立派だと言ってもいい。かまどや大きめの鍋は育ち盛りの子供達を食べさせるためのものなのだろうと、レイジュは辺りを見渡しながら思った。
 料理器具も使いこまれたものがたくさん、並んでいる。――残念ながらレイジュには家事についての知識はろくになかったので、それが何のためのものなのかピンとは来ないが、よく使いこまれていることだけは分かった。
「ジェーンのことはエドに任せておけば大丈夫です。…あ、そこの床下を開けて貰えますか?」
 戸棚からエプロンを取り出して、イングリッドは手慣れた様子でそれを身につける。そこ、と指を差されたのはちょうどレイジュの立っていた場所で、一歩退いて足元をよく見るとそこの床板が取り外せるようになっていた。
 外してみると、冷やりとした地下の空気が頬に触れる。床下は小さな収納スペースがあって、野菜やハムが並んでいた。イングリッドは少し考え込んでから、ジャガイモとハムをそこから取り出し、レイジュに「もういいですよ」と告げて立ち上がる。レイジュが床板を元に戻す頃には、彼女は台所にあったらしい小さなナイフを手にジャガイモの皮をむいている最中だった。そのまま、手元に視線を落したままで、彼女はレイジュが手にしていた白い布切れを指差す。
「エプロンつけた方がいいですよ」
「え、ああ」
 レイジュは改めて手にした白い布、実用性重視でフリルのひとつもついていない(レイジュの知っているエプロンの多くはフリルがついていた)エプロンへ目を落とす。そのまま眉根を寄せて固まってしまったのは、別に、彼がエプロンの付け方を知らなかったからという訳ではない――いくら普段は家事と無縁であるとはいえ、レイジュもそこまで世間知らずではない。
 ただ、そのエプロンが女性物であったので、素直にイングリッドに従うべきか否かを迷っただけのことだ。
「……男性用のものはないのか?」
 それでつい、そんな風に問い返すと、イングリッドがくるりと振り返った。青い瞳に小馬鹿にするような色が浮かんでいることにレイジュは多少なりとむっとしたものの、それまで大人びて落ち着いた様子だった彼女の変化に驚いても居た。彼女も、やっぱり子供なのだ。
「ある訳、ないでしょう。ウチは余計なものを買うようなお金はないんです。レイジュさんの家はそういう余裕があるかもしれませんけど」
 言うだけ言ってつん、とそっぽを向いてしまう。
「ウチで料理をするのは父さんだけだし、大人用のエプロンがあるだけでもマシだと…あ、父さんって、さっき出て行った二人の小さい方なんですけど」
「ああ。見ていた。ハーフエルフなんだろう?」
 レイジュの言葉に、イングリッドの青い瞳にそれまでと同じ、明晰そうな落ち着いた色合いが戻る。
「よくわかりましたね。耳がほら、父さん、尖ってないでしょ?よく誤解されるんですよ」
 種を明かせば、事前にルディアから依頼主について聞いていた、というだけのことなのだが、それを素直に披露するのは躊躇われた。イングリッドはどうやら本当に感心しているようなのだ。
「…しかし俺の家の事なんて、どこで分かったんだ」
 それで、そんな話題で、少々不本意ながら誤魔化すことにする。イングリッドは彼の問い掛けに、青い瞳を悪戯っぽくきらめかせた。ジャガイモをひとつ、皮をむき終えて流しに置いていく。
「私じゃないわ、ジェーンです」
「どういう意味だ?」
 問い返しながら、レイジュはジャガイモをひとつ取った。迷った末にエプロンだけは身につけている――折角の少女の好意を無碍にすることは、彼には出来なかった。
 ナイフを手に取りジャガイモにあててみる。ゴツゴツとした輪郭のせいで、どこから切り始めたものか分からずにぐるぐると回しながら、彼は得意げなイングリッドの言葉に耳を傾けた。
「ジェーンはね、お金持ちが嫌いなの。レイジュさん、お金持ちなんでしょう」
「……。どうだろうか」
 ぴたりと手を止めて、レイジュは思わず考え込んだ。お金持ち――なんだか耳慣れない単語のような気がする。
「そうだな。食べるに困らない程度には、持っていると思うが。使用人や姉を養える程度の収入はあるな」
 あまり自分の財産のことなど関心はなかったのだが、改めて指摘されれば、衣食住に事欠いた記憶は無い。それを「金持ち」と呼ぶのであれば、きっとそうなのだろう。少なくとも、この孤児院のように、床板や壁の修理費用に困窮したことはない。
 思い切ってナイフを差し込んだジャガイモを、見よう見まねでくるくると回す。
「ジェーンとエドはね、お金持ち相手の、ドロボウさんだったんです。…これ、私が言ったってナイショにしてくださいね」
 悪戦苦闘していたレイジュは、イングリッドが突然そんなことを言い出したもので驚いてジャガイモを床に落としてしまった。その拍子に指先に小さな痛みが走る。白い肌の上に、小さな血の赤い珠がぷくりと膨らんでいた。
「ドロボウ?」
 銀の瞳を僅かに瞠ったレイジュに対して、イングリッドの方は落ち着いたまま、床に落ちたジャガイモを拾って顔を顰めた。――レイジュがむいたジャガイモは、皮の方が体積があるだろうほどに小さくなってしまっている。
「あら、あら」
 レイジュの怪我に対してか、それともすっかり小さくなったジャガイモに対してか。イングリッドは呟いてから、エプロンで手を拭った。
「…仕方ないわね。レイジュさん、もう台所のお仕事はいいですから、…そーですね、ジェーンの方を手伝ってもらえません?」
「だが、火を使うだろう。ナイフも。…一応、俺は今日ここを預かっている身分だ。危険がないように見ている必要がある」
 そう反論したのだが、イングリッドは取り付く島もなく腰に手をあてた。自分より頭ひとつは大きいレイジュにも臆せず、ぴしりと人差し指を突きつける。
「レイジュさん、私はこれでも、5年間父さんにみっちり料理を叩きこまれてるんです。多分あなたより、キッシュやアップルパイの作り方については心得てます。それより、ジェーンを手伝ってあげてください。あの子、今日は町で買い物をする担当なの」
 そこまで言われると、確かに料理のことなど何一つ知らない彼が台所に居るよりは、幼い少女のために荷物を持ってやった方が余程、役に立てるようだ。渋々とレイジュは頷く。
「そうか、分った。…何かあったら呼んでくれ」
 それでも一応そう言い置いて、台所を後にした。その背中に、イングリッドの声が飛んでくる。
「あ、エプロン置いて行って下さいね!」
 ――そういえばエプロンをつけたままだった。

 

 それからしばらくたって。
 町から帰ったレイジュは、孤児院の屋根の上に居た。ジェーンも一緒だ。
「えっとね、次はあっち!」
 屋根の上という足場の悪さをモノともせずに身軽に跳ねるジェーンに、内心危なっかしさを感じつつも、レイジュは彼女の指示に従って板を抱える。
 ふわりと、その身体が浮いた。

「え?レイジュ、飛べるの?」
 ジェーンが担当している「買い物」とは、町の大工から余り物の板や木切れ、釘を貰うことだった。どうやら孤児院の修繕に使うものらしい。
 その他にも、パン屋で大量の黒パンを、畑では形の悪い、商品に出来ないような虫食いのある野菜をバスケットに詰め込んでもらい、レイジュはバスケットと木材と、更に背中に野菜かごを背負う羽目になった。ジェーンはといえば、大工の男性に「オマケだよ」と山のように貰った釘を詰め込んだ缶をひとつ、それにパンを詰めた小さなバスケット一つだけ。
 その、帰り道のことだ。何の気なしに、ジェーンが「屋根の上も修理したいけど、ハシゴがないからなぁ」と呟いたのだ。
「…良ければやろうか、屋根の上の修理。ハシゴが無くても、飛べばいいからな」
 それでそう提案したところ、それまで冷たかったジェーンの瞳の色が一変したのだ。
「じゃあ、あたしも一緒に飛ぶ!屋根の上に乗りたい!」
「いや、それは…足を滑らせたりしたら危ないぞ」
「乗りたい、飛びたいー!いいじゃない別に、子供一人くらい面倒みられるでしょ!」
 その言い分はいくらなんでも無茶じゃないか、とは思ったものの、レイジュは仕方なく頷いた。
「…分かった。だが、あまり動き回るなよ。いいな?」
 
 それから少し経った頃、レイジュは正直、ジェーンを抱えて屋根に飛んできたことを後悔し始めていた。何せ、幼い暴れたい盛りの子供なのだ。彼の指示通り大人しくしていたのは最初のうちのほんの数分だった。
「ね、レイジュ、あたしあっちの丘の上も見てみたい!」
「少し待ってくれ。ここに板を打ち付けて…」
「もう、そんなの後でいいわよ!どうせそこ父さんの部屋なんだし!!」
(それはまた、酷い扱いだな)
 ないがしろにされている彼女の養父に対してなのか、それとも動き回るジェーンに神経をすり減らす自分に対してなのか。レイジュの胸中の独白はどちらとも知れない。
「あー!ジェーンだけずるい、何やってんだよ!」
 ――屋根の上の二人にどうやら誰かが気付いたようだ。ばたばたと足音が響いて、イングリッド以外の三人が庭からこちらを見上げている。アルフレートといったか、幼い少年がぽかんと口を開けて、その拍子に抱えていた鶏を落とした。(恐らく、孤児院で飼っているものだろう)
「えへへ、いいでしょ」
 自分で登った訳でもないのに妙に得意げなジェーンが可笑しい。
 そこへ、表の騒々しさを聞きつけたのか、イングリッドが顔を見せた。大人びて落ち着いているこの少女だけは、屋根の上のジェーンに呆れたようだ。
「ジェーン、あなたって子は…もう。またワガママを言ったんでしょう!」
「違うもん、レイジュが良いって言ったんだもん」
「いや、俺は…」
 言ってない。そんなことは断じて言っていない、のだが、残念ながらレイジュの抵抗は子供達のブーイングにかき消された。鶏を追いかけていた男の子達である。
「ずるい、ジェーンばっかりずるい!」
「そうだよ、ジェーンばっかり!俺も屋根の上乗ってみたい!」
「ずるいー」
 最後に舌足らずの幼い声が唱和する。レイジュは頭を抱えたくなってきた。足場の悪い屋根の上(しかも時々、思いもよらぬ場所が腐っていたりするから洒落にならない)に、足元もおぼつかぬ幼子を含めた子供を三人、なんて、想像するだけでぞっとする。
「…参ったな」
 かといって、そんな理屈が地団太を踏む子供達に通用するとは思えない。どうしたものか思案していたレイジュの目に、ふと、孤児院の裏手の丘が目に入った。木々もまばらな小さな森があり、この時期、日差しを透かした新緑が目にも鮮やかだ。
 眩しさに銀の目を細めながら、レイジュはこう提案した。
「分かった。ただし、屋根の上は駄目だ、危ないから。代わりに――あの丘の上まで空中散歩、というのはどうだ?」
 
 
 

 そして間もなくレイジュは早くも二度目の後悔を始めていた。先のジェーンの一件で、子供が決して大人しくなどしていないことを嫌というほど思い知ったというのに我ながら、学習が足りない――などとちらと思うものの、そんな反省は今この瞬間何の役にも立たない。
「コウモリみたーい、おもしろーい!」
 一人ずつだぞ、と念を押したレイジュは、その子供達一人ずつから乱暴な洗礼を受けていた。まだジェーンとエドは飛んでいる最中は大人しかったから良しとしても、残る幼い二人は幼いだけに、手加減というものを知らない。
 アルフレートははしゃいで腕や足をばたばたと動かすものでレイジュは何度もひやりとしたし、アーネストに至っては、容赦なく彼の、コウモリの被膜によく似たなりの羽根を引っ張るのである。それも飛んでいる最中に。
「こら、やめろ。落ちてしまうぞ」
 脅すように言えども、相手はまだ3歳。レイジュの言葉に不思議そうに首を傾げるばかりだ。結局、レイジュは羽根やら髪やらを引っ張られるという不当な暴力に耐えながら、必死で飛ぶより他になかった。
 こうして軽く息を切らしながらレイジュが丘の上に到着した時には、既に昼食の時間を回っていた。エドが「はらへった」と唸りながら、木々の開けた野原の草の上に転がる。
「それは良かった。お昼にしましょう」
 そこへ、「高いところは苦手だから」とレイジュの提案を一人だけ辞退したイングリッドがやってきた。両手にはバスケットを、背中には赤ん坊をおぶっている。レイジュは慌てて、少女に駆け寄った。バスケットは何が入っているのやら、ずっしりと重たい。それを受取って、
「そういえば、リシュのことを忘れていたな…。すまない」
 依頼書の内容を思い出す。確か、赤ん坊に問題があるとかいう話ではなかったか。子守を頼まれた自分が見ているべきだった、と頭を下げるレイジュに、イングリッドは笑って首を振った。
「ジェーンやエドはともかく、アルやアーネストをかまってくださってありがとうございます。私一人じゃ、全員は見て居られません」
 レイジュを気遣ってそう言ったのかは定かではないが、イングリッドはそれきりレイジュに反論をさせずに彼に水筒を押しつけた。それから、赤ん坊をそっと差し出す。
「お昼を準備するので、その間だけ、この子を抱いててください」
 リシュは目を覚ましていたようだ。外の風に触れて機嫌は良いらしく、「あうー」と意味の分からない声をあげながら自分の指を涎まみれにしていた。イングリッドが苦笑する。
「…洋服、汚れちゃうかもしれませんけど」
「いや、気にするな」
 元より、本来なら警護のつもりだったのだ。衣服の汚れなど気になるはずもなかった。
 それにしても、これほど近くで人の赤ん坊を見た経験はレイジュの記憶にはない。姉は居るが下に兄弟は居ないし、子守の経験なんてあるはずもなかった。
 それでも不思議と、赤ん坊から漂う独特の匂いは、奇妙に懐かしいもののような気がする。
 歯の生えきっていない小さな口をあけ、レイジュの腕の中に移動した赤ん坊は「だー」と声をあげた。レイジュの抱き方が悪かったのか、それとも見知らぬ他人に抱かれていることを理解しているのだろうか。もぞもぞと動きだす。地面に落とせば怪我をさせてしまいそうで、レイジュは慌てて、腕に力を込めた。――と。
「ふ…う…うー!」
「あれ、リシュ?…」
 不穏な気配にエドとジェーンが顔を上げた直後のことだ、辺りに爆音が響いたのは。唐突な衝撃に、森の木々から鳥が一斉に飛び上がった。
 皮膚に触れる衝撃が過ぎてしばし、鼓膜が痺れて辺りの音が判然としない状況だったが、レイジュはまず自分の腕の中の、体温の高い塊を確認した。えぐえぐとぐずる声を聞くまでも無く、幼子には傷一つないと確認してほっと安堵の息をつく。
「…だ、大丈夫?」
 咄嗟の判断で膝をついて、爆発から赤ん坊を守る格好になっていたレイジュの肩に手を置いたのはジェーンだった。
「大丈夫だ。…しかし驚いたな、依頼書には書いてあったが、これが『暴発』なのか」
 ぐずる赤ん坊の脇の下を支えて高く持ち上げながらレイジュはそう応じ、まだ痛むような気がする右耳の辺りへちらりと視線をやった。少しばかり、咲いていた黄色い花が吹き飛んでしまったようだが、幸いにしてさほどの被害は出ていない。
 依頼書によればこの赤ん坊は、どうやら生まれついて魔力が高いものらしく、こうして癇癪を起す度に暴発している、とのこと。それが原因で捨てられたのだろうか、そんなことを思うと自然とレイジュの表情も少しばかり険しくなった。
 レイジュに持ち上げられた赤ん坊は、泣いていたことなどすっかり忘れたように今は笑っている。
「だー?」
 少し力を込めれば折れてしまいそうな、どこを支えていいかも戸惑うほどに柔らかな身体。自分の魔力さえ制御できないこのか弱い生き物を、どうして捨ててなどしまえるのだろう――。
「他の皆も、無事か?」
 レイジュの問いかけには、思ったよりも平然とした答えが戻ってきた。彼らは彼らで、リシュとの生活に慣れているから、当たり前かもしれないが。
「良かったわ、孤児院の中じゃなくって。せっかく直した壁にまた穴があいたらたまらないもの」
 ねぇ、レイジュ。とジェーンなどは陽気に笑って見せる。
「確かにな。…しかし、毎度これだと大変じゃないのか?」
「結界で封じ込めてることもあるし、あとは適当に母さんが外に連れ出してガス抜きしてるから。何とかなってるよ」
 そう言ってエドは、あっさりとした調子で付け加えた。
「まぁ、こんなんじゃ、捨てられても仕方ないよなぁ」
「エド!なんてこと言うの!」
 たしなめる鋭い声はイングリッドのものだ。
「事実だろ。俺が親だって、捨てたくもなるさ」
「…そういう言い方は感心しない」
 低く、レイジュの呟いた声は彼が意図したよりもはっきりと響いた。エドがぱちりと瞬いて顔をあげる。
「どんな親であれ、子を捨てるのは…よくないことだろう」
「そうかしら」
 硬い声でそう言ったのは、ジェーンだった。
「…子を売る親だって世の中には居るのよ。そんな親なら、捨ててくれた方がよっぽどマシだわ」
 この双子は一体、孤児院に来るまでに何を見て来たというのだろう。ふと、台所で聞いた単語が頭をよぎる。二人は、金持ちを相手にドロボウをしていたのだ、と。それだけでも悲惨な境遇にあったことを想像するのは容易い。
 だが、レイジュは改めて腕の中の小さな赤子を見た。大人よりも体温の高いリシュははっきりと暖かく、レイジュを見てふにゃりと相好を崩すのを見れば、子供慣れしていないレイジュですら絆されそうにもなる。
「――それがジェーンの不幸だというなら、尚更だ。不幸を比較するようなことをしてはいけないし、自分の不幸を押し付けるようなことを言うのも良くはない。捨てられた方が幸せだったかどうかは、いずれ大きくなってリシュが決めることだからな」
 らしくもなく説教のようなことを言ってしまったのは、だから多分、赤ん坊の笑顔に絆されたということなんだろう。
「……うー。何よ。分かったようなこと言ってさ」
 ジェーンは口を尖らせてはいたものの、レイジュの淡々とした物言いにかえって何かを感じたのかも知れなかった。それ以上は反論もせず、ただ俯く。彼女の心理を双子ゆえの鋭敏さで察したのだろう、エドが呟いた。
「でも、俺はリシュはここに居る方が、幸せだと思うんだ」
 これ以上、説教の真似事をするのは気が乗らなかったが、レイジュは遠くを見ながらその呟きに答えた。
「不幸を並べるよりは、そうやって、幸せなことを並べた方がいいぞ」
 
 
 
 初夏の陽光の下、風の吹く丘の上で食べるサンドウィッチは決して豪華ではなくとも十二分に美味しいものだった。すっかり食べて満足した子供達は、めいめい走り回り、赤ん坊をあやし、花や蝶や小鳥を追いかけまわしていたが、やがて陽が少し傾き始める頃には疲れてしまったのだろう。
 野原に敷いた大きな布の上で、ごろごろと横になってしまった。
 イングリッドさえ、疲れていたらしい。可愛らしい欠伸をした後、「少しだけ休みますね」とレイジュに恥ずかしそうに言い置いて、丸くなって眠ってしまった。
 リシュもミルクを飲み終えて、小さな寝息を立てている。
「子供はね、お昼寝しなきゃ発育に良くないのよ」
 得意げにそう説明して、年下の二人を寝かしつけたジェーンもその隣で眠っていた。
 並んで眠る子供達。警護のつもりが、とんだ仕事になってしまったものだ。彼らの寝顔を見ながらレイジュは胸中にひとりごち、それから、傾き始めた陽に銀色の目を細めた。――少しの間ならともかく、もう少ししたら起こしてやらねば、初夏の夕暮れは外で眠るには少々冷える。子守が風邪をひかせてしまうようではまずいではないか。
 そんなことを思っていると、唐突にむくりとジェーンが顔をあげた。
「…レイジュ?」
 寝ぼけた声で呼ばれて振り返る。彼女はそれほど深く寝入っていた訳でもないのだろう、寝起きにしてははっきりとした声と目線で、レイジュに問うた。
「レイジュは、自分が不幸だと思ったことはある?」
 ずいぶんと突然の問い掛けだ。レイジュの迷いを察してか、彼女は俯いて寝癖のついた銀髪をいじりながら、付け加えた。
「……さっきね。ちょっとだけ気になったの。お金があっても、不幸なことはあるの?」
「あるぞ」
 その質問には、レイジュは即答する。
「お金で買えないものはたくさんある。衣食住に不足しなくても、不幸せな人間はたくさんいるんだ」
 遠くを見るような目をしていたつもりはなかったが、それでも矢張り、今この瞬間ではないどこかへレイジュは意識を馳せずにはいられない。
「…だが、だからといって、自分が不幸だと嘆くばかりでは…何一つ、前には進まないからな」
 胸の奥から押し出すようにそれだけ告げて、それきりレイジュは沈黙した。
 ジェーンはしばしその言葉の意味を考えるように黙り込んでいたが、やがて、思いきったように勢いをつけて立ち上がる。
「そうよね。ウチは貧乏だし、辛いこともあるけど、だからって不幸だって泣いてても仕方ないものね。…うん、レイジュ、ありがとう!」
 礼を言われるようなことは何もしていない、とレイジュは黙って首を横に振った。――子供達に人生を説くことができるほど自分は偉くはない、と彼は自覚している。
「…そろそろ冷えて来たな。孤児院に戻らないと」
 だから代わりにレイジュはそう提案し、膝の上で穏やかな寝息をたてているリシュをそっと、抱き上げた。鼻先に、あの赤ん坊独特の匂いがする。
「エド、起きて!…あれ珍しい、イングリッドも寝てる」
 初夏の昼下がりの日差しは眩しい。強い日差しの不得手なレイジュは目を細めながら丘の下、町の外れの孤児院を見やった。屋根の上に継ぎはぎされた妙な色は、自分が修繕した箇所だろう。そう思うと奇妙な気もする。
(とんだ護衛仕事だったな――)
 城に戻ったら、久し振りに台所へ顔を出してみようか。幼かった頃のように。そしてジャガイモの皮むきくらいは、教わってみてもいいかもしれない。


 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3370 / レイジュ・ウィナード / 男 / 20歳 / 異界職(蝙蝠の騎士)】



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■         ライター通信          ■
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初めましてこんにちは。今回はご参加いただき、ありがとうございます。
…納品が遅れてしまって本当に申し訳ありません…!
少しでも楽しんで頂ければ、嬉しいです。
では、またご縁があれば是非。