<東京怪談ノベル(シングル)>


雨宿り

 細い雨が、降り続いている。
 太陽が昇ろうが沈もうがお構いなしで、天は飽きることなく涙のような雨を流し続けて今日でもう一週間になる。時折日が差すことがあっても、少女のように気紛れですぐに顔を隠してしまう。春が終わり、大地を濡らす梅雨の季節が訪れていた。
「明けない夜がないように、止まない雨もない。……君は嫌いかい、こんな天気は」
 呼びかけられトリ・アマグは声の主を見遣る。黒い闇を閉じ込めた瞳は考えるように暫し瞬き、ゆるりと首を振って答えた。
「いいえ、嫌いではありませんよ。太陽ばかりが顔を出していたら、地は乾き人は飢え鳥は歌わなくなってしまう」
 シズ・レイフォードは赤い瞳を満足そうに細め、小さく頷く。

 六月も半ばのこの日、トリ・アマグはシズからの招待を受け静寂の森にやってきていた。小鳥を眺め歌を歌い、シズが作った手作りのサンドイッチを食べて邂逅を楽しんでいたのだが、午後を過ぎたところでどうも雲行きが怪しくなってきた。小鳥たちは羽が濡れるのを厭い木の枝へ避難するのを見て、二人もそれに習って大樹の下へと身を寄せたのだった。

「恵みの雨がなければ人は生きてはいけない。なのに、人とは全くもって我侭なものだよ。乾けば水を、濡れれば太陽をと求める。その内、天は人に愛想を尽かしてしまうのではないかと、私は常々心配しているんだが」
「いつかそうなってしまうかもしれませんね。……一度だけ、乾いて死んだ森を見たことがあります。薪を取ったり畑にするのに、木という木を切り崩し、都合良く使った結果。しかも死んでしまったらおしまいと、人々は森を生き返らせようともしなかった。可哀想に。人はどこまでも残酷になれる生き物ですよ」
 森で一番古い大樹は、悠然と緑色の葉を広げそびえたっている。雨宿りにはちょうど良い場所で、トリ・アマグがちらと見上げると黒い羽の鴉や鳩といった異なる種の鳥たちが集まり雨を避けていた。シズの肩には小さなリスの子供たちが遊び、足元には飼い主のいない猫が行儀良く座って霧の向こうを見つめている。どの獣も、雨が上がるのを待っているようだ。この場所ではどんな獣であっても争わないのが暗黙の掟になっているらしい。
「自分の利益の為ならば、と?……そうだね。確かにそれは人の一面だけれど。それを含め、私は人とこの世界を愛しているよ。ところで、ちょっとだけ話は変わるんだが。聞いてくれるかい」
 トリ・アマグは太い幹に寄り掛かり、何だろうと首を傾ぐ。
 しばらく雨は止みそうにないし、無理をしてまで街に帰る必要はないだろう。良ければ泊まって行くと良いとシズからの誘いも受けている。言葉を受け、そして返して繋がるシズとの会話。何がどう面白いのかと問われれば即答は難しいが、トリ・アマグはこんな時間も悪くないと思っていた。
「もちろんです。断るという選択肢は存在しませんでした。どうぞ続けてください」
「驚かないで、そして出来れば変人を見るような顔をしないでくれると嬉しいんだが。恋と愛とはどう違うと思う?」
「――……恋と、愛」
 トリ・アマグは問いを口の中で反芻し、唇を閉じる。
 さて、一体どう答えれば良いだろう。古から歌の素材に「愛」は良く使われてきたし、吟遊詩人として世界を巡った経験から、人が抱く感情――特に愛情に関しては多く触れる機会があった。どんなものか、その輪郭をなぞることはできる。けれど恋との違いは一体何なのか。トリ・アマグは自らの答えを口に乗せる代わりに、まずシズに訊ねてみることにした。
「貴方はどう思う」
「私の考えでは、恋は欲するもの、愛は与えるものだと思うのだよ。もちろん人によって答えは違うだろうし、そもそも正解はどこにも存在しないのだがね」
 トリ・アマグが視線だけ横に向けると、シズはごく薄く目を開き、首飾りの先についた石を指先で弄んでいた。下へ向けられた視線はかといって、何を見ているわけでもないようだ。もしかしたら遠い昔のことでも思い出しているのかもしれない。
「恋をすれば、相手の心や温もりが欲しくなる。それがやがて愛になると、今度は相手にいろいろなものを与えるようになる」
「私は……答えを形にするのには、まだ少し時が足りないようです」
「いや、いいんだ。私こそ、つまらないことを聞いてしまってすまないね」
 シズは首飾りを服の中にしまいこみ、小さく笑った。
「何か思い出が? もしも悲しい記憶なら、今日の雨に流してしまってはどうですか」
「ありがとう。でも……どんなに悲しくとも辛くとも、思い出は取っておきたいんだ。私が忘れさえしなければ、色褪せることはないからね」
 くしゃり、とシズは前髪に指を入れて後ろへと流す。
「もし良ければ」
 トリ・アマグは静かに唇を開く。小さく息を吸うと、水気を含んだ森の空気が肺を満たした。
「歌を唄いましょう。この雨が上がったら、貴方の部屋で。ハープを奏で、声を乗せて、私が二度とない曲を歌いましょう。死んだ森への、鎮魂歌を」
「それは楽しみだね。そう、とても……楽しみだ。それではもう少し、此処で雲が行ってしまうのを待つとしようか」
 そうしてトリ・アマグとシズはずっと黙り込んだまま、酷く心地の良い沈黙の中でしばらくの間、細く儚い雨の音を聞いていた。