<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
『幸運な日』
< 1 >
涼しい風がナーディル・Kの黒髪をなびかせた。雨上がりの柳の枝も一緒に揺れて、水滴のプリズムが踊った。彼女は広場で足を止め、渡された地図を確認する。
吟遊詩人はある商家に呼ばれ、夕餉の席で歌うことになっていた。竪琴を抱えて依頼主の屋敷へ向かう途中だったが。
・・・また同じ広場に出てしまった。
紫のベールで髪を覆う中年の占い師が、小さな台に乗る水晶を退屈そうに撫で回していた。女は塀にぴたりと背を付けて座り、黒別珍の狭いスペースからはみ出ようともしない。
と、ベールの奥の太いアイラインの眼差しがナーディルを捉えた。
「お嬢さん、道に迷ったのかい?」
「ええ。ここなのだけど。わかりますか?」
ナーディルが依頼主の描いた地図を見せると、「おやおや」と女は顔を崩した。
「地図の天地が違っているようだよ」と、くいっと紙を動かして、「あんたが入るのはあっちの道さ」と明快な解答をくれた。
「ありがとう」
「あんた、占いをやってかないかい?すぐ済むよ」
道に迷ったのは数分で、まだ約束に余裕はあった。道を教わった礼に、見てもらってもいいかもしれない。
「頼むわ」と、ナーディルは銀貨を差し出す。
女は聞き慣れぬ言葉を唱えながら水晶を擦り、半透明の貴石を瞳を寄せて覗き込む。そして唐突に背を正して「おやまあ」と大げさに驚いて見せた。
「今日は五年に一度のラッキーデーだってよ。賭け事すれば大勝ち。酒場ではイイ男と出会える。仕事も大成功だそうだ」
「へええ。それは素敵だわ」
ナーディルはつきあいでにっこり笑ってみせた。占いを鵜呑みにするほど子供ではなかった。
その日の仕事は、商人の妻の誕生日の為に歌うというものだ。
会食の席は、夫妻と10歳位の息子と5歳位の妹と。4人きりの内輪のものだった。
「ご足労いただいて申し訳ないです。妻が身重なので、家の中でいい音楽を聴かせてやりたくて」
主人は裕福そうだが高飛車なところはなく、丁寧で礼儀正しい男だった。今日で幾つになったのか、幸福な奥方は大きなお腹に細い指を置き、深く腰掛けたままで会釈した。子供達は大きな白い襟の改まった服を着せられ、緊張したように背を延ばして座った。兄は母親譲りの黒絹の髪をきっちり撫でつけ、妹は柔らかそうなブロンドを二つ結びにし、お行儀よくおとなしくしている。
甘いラブソングと、幸福を神に感謝する歌と、家族を想う暖かい歌と。ナーディルは適切な数曲を選び、演奏を始めた。竪琴の音は飴色の床を気持ちよく滑り、声は純白のテーブロクロスに優しく染み込む。
夫は口許をほころばせ、妻はハンカチで目元を抑えた。子供達は口をちょっと半開きにして、夢中で聞き入っている。お腹の赤ちゃん・・・彼らの弟か妹にも、歌は届いただろうか。ナーディルにも自然に微笑みが浮かぶ。
帰りは宿まで馬車が送るという高待遇だった。謝礼の袋もずしりと重い。『確かに今日はラッキーデーだわ』と、ナーディルはくすりと笑った。
今夜は少し贅沢をしよう。いいレストランに行って御馳走を食べて。ナーディルは部屋に楽器を置くと街へ繰り出した。
< 2 >
今日は何をやってもダメだった。マーオは髪を覆う三角巾を外すと深くため息をついて厨房のテーブルに突っ伏した。まっすぐな金髪がさらりと頬にかかった。
スポンジは焦がすし。パレットナイフもクリームつけたまま取り落とすし。主任には「集中力が無い」と叱られた。
「こんなことでは、いつまでも『見習い』だよなあ」
いや、調子が悪い理由はわかっていた。ここ数日体調が思わしくないのだ。
幽霊に『体調』というのも変なものだが、精神にも波があるから、体調の良し悪しだってあるのだろう。マーオは物をすり抜けるので、道具を掴む為にかなりの神経を必要とする。今日はうまく集中できなかったし、物を掴む時にはいつもの倍疲れた。
昨日も一昨日も、仕事の後に病院には行ってみた。だが夜勤の医師達には「うちでは幽霊は診れませんから」と門前払いされた。まるでペットの診療を断るような口調だった。
厨房の片付けを済ませ、店長や主任に「お先に」と声をかけて職場を後にした。幽霊を診てくれる病院のことを尋ねようかとも思ったが、失敗を病気のせいにしてと思われるのも不本意だし、何より心配させたくなくて口をつぐんだ。
まっすぐ宿へ帰ってすぐに横になりたかった。きっと生きた人間と同じで、いっぱい眠ればよくなるだろう。だが、だるい足はなかなか前へ進まず、背に負う大きな計量スプーンも重い。靴の先が広場の石畳にいちいち引っ掛かり、その度につんのめる。生温かい汗が額をつたい、マーオはシャツの腕でそれをぬぐった。
ナーディルは五つ星レストランに向かいながら、掌の袋の重みを確かめ、唇が微笑みの形になるのを止められなかった。メインは肉料理にしようか。それとも高級魚?ワインは何にしよう。
広場へと差しかかり、閑静な辻を、踊る足取りで曲がった。
マーオはめまいに襲われ、道端で腰を降ろす為に適当な路地に入った。もう立っていられず、膝をついた。目さえ霞んできた。
向こうから、死神が近づいて来る。黒い服に黒い髪。『もう僕は死んでいるから、役に立てないよ』、そんなことをぼうっと思って、そして気を失った。
目の前で、子供が倒れた!こちらを向いて、道にゆっくりと崩れ落ちていった。
ナーディルは慌てて駆け寄った。
「坊や、どうしたの?しっかりして!」
そっと揺するが応えは無い。金色の睫毛が震え、薄い唇が動く。息はあるようだ。
「医者!医者に連れて行かなくちゃ!」
歳は先刻の家庭の兄より少し上だろうか。女のナーディルが抱きかかえるのは無理そうだ。
「肩を貸すわ。立てる?」
そちらも無理のようだった。少年はぐったりと石畳に横たわる。よほど具合が悪いのか、儚げで淡く、精気が薄いように見える。
「ええいっ、やってやれないことはないわよ」
きっとこの子の母親なら、必死で抱き上げる。
あの商家の団欒が目に焼きついていた。ナーディルの中の母性が刺激されたのかもしれない。女だからって抱きあげられぬこともないだろう。
ナーディルは銀貨の袋を袂へ投げ込むと、少年の体の下へと腕を差し込んだ。
「なんでスプーンなんてしょってるの!邪魔ね!」
だが背にしっかりくくりつけられるそれは、大切な物なのだろう。もし倒れたのがナーディルで、竪琴をこの場に置いていかれたら困る。そう思うとこのスプーンも置き去りにはできなかった。仕方ないのでスプーンごと抱き上げた。
足を踏ん張り、腰を落として。若い娘としては、あまり人に見られたくない姿だ。
『あら?意外に軽い、この子』
マーオは、死神に抱き上げられる夢を見ていた。死神だから幽霊でも抱けるんだなと、ぼんやりと考える。普通の人は体をすり抜けてしまうのだから。
これで僕は昇天するのかもしれない。
死神ってもっと怖いかと思っていたけれど。綺麗なひとだ。それにいい匂いがする・・・。
「先生!確かに時間外だけど、診れないってどういうこと!子供がこんなにぐったりとしているのに」
耳元の声で、これは夢ではないことに気づく。薄く目を開くと、黒い衣服の女性が自分を抱え、診療所の玄関で医者と揉めていた。
「しかしわたくしは人間の医者でして。幽霊なんてどう診察していいか」
「・・・はぁっ?」
怒りのせいか、女性の語気はまだ荒い。医者は気弱そうな口調で続ける。
「この子、昨日も来たのです。幽霊なので、お断りしました。ほら、体が透けているでしょう?」
「・・・幽霊?」
女性がまじまじと自分を見降ろす視線を感じた。だらんと下がる半ズボンの足の向こうに、レンガの壁が見えただろうか。
「えっ、幽霊?だって、そんな。幽霊!?」
幽霊の自分を、この女性は何故にすり抜けずに抱えることができるのだろう。
「昼間のラッキーレディじゃないか。大声出して、どうしたんだい?」
ナーディルが振り向くと、広場で会った占い師だった。事情を聞いて女はにやりと笑い、「そりゃあ確かに医者には無理だ。魔術師・呪術師の患者だ。この子はあたしの専門分野だね」と得意気にベールを被り直した。
「診てくれるの?」
女はちらりとナーディルの袂の弛みに目をやり、「高いけどいいかい?」と紫の口紅を歪ませた。
その診療所で少年の為にベッドを借りると、占い師(本当は呪術師だそうだ)は手持ちの香を焚き、呪文を唱え例の水晶を擦った。
「坊や。あんた、病気ではないね。どうも呪いのせいだよ」
少年は半分瞳を開け、呪術師の言葉を受け取った。
「邪気を払う香を焚いたから、少しは気分が良くなったろう?」
ゆっくりと頷く。だがまだ気分はすぐれない様子だ。
「呪い?あなたは厄払いはできないの?」
『高い金を取ったくせに』と、ナーディルの口調には恨みがましさがこもった。前払いと言われ袋の八割の銀貨を支払ったのだ。ちなみに一割を場所を貸してくれた医者に払った。
「あたしみたいな町の呪術師の太刀打ちできるレベルじゃない。自然現象による呪いか人為的な呪いかさえ読めないが、人為的なものだったら、解除しようとしたらあたしの命も危ないさ」
「・・・。」
そんな重いものが、この華奢な少年にのし掛かっているのか。ナーディルは愕然として少年を見降した。少年の前髪が汗で額に張りついていた。ナーディルは母か姉がするように、髪を整えてやる。
「あんたがそうして幽霊に触れられることも不思議さ。そういえば、あんたにも何か呪いがかかっているように感じるよ」
「私に?」
心当たりの無いナーディルは小首を傾げた。
「まあ、あたしの勘違いならいいけどね」
夜が深くなると呪術師は四方に札を貼って香の量も増やした。見守るナーディルはいつしかソファで眠ってしまい、窓から洩れる太陽の光で目が醒めた。
少年は朝と共にはっきりと意識が戻った。呪術師は彼に十日分の香を分け与え、洞窟や沼などの邪気が強い場所に近寄らないこと、健全で善良な人々と接することなどを忠告した。
「病院は負の気が強い。歩けるなら、早く家に戻った方がいいよ」
少年はベッドから体を起こし、恐る恐る足を床に降ろした。
「うん。大丈夫みたい」
「私が家まで送ろう」
ナーディルも立ち上がった。
呪術師と医師に礼を述べて建物を出ると、朝の光がまぶしく二人を包み込んだ。ナーディルは少年を気づかってゆっくりと歩いた。財布はだいぶ軽くなってしまったが、少年を助けることができた満足感は大きかった。
少年は下宿屋らしい屋敷の前で立ち止まった。
「ありがとう、おねえさん。お金は少しずつ返していくからね」
「いいのよ、どうせ胃袋に消えるお金だったし。坊やが無理して働いて、また倒れたら大変だわ」
少年はその親切に屈託なく微笑むと、大きく頷いた。
「じゃあ、お礼にお菓子を焼くよ。僕はパティシエの見習いなんだよ。
それから、『坊や』はよして。僕の名はマーオ。もう、14歳なんだから」
「ごめんなさい、マーオ。子供扱いして。私はナーディル・K。お菓子は好きよ」
数日後に少年と会う約束をして別れた。
マーオの順調な回復を祈ろう。
健全で善良な人々と接すること。私は彼と接するのを許される人間だろうか。少なくとも、そうあるよう努めよう。
そうだ、竪琴を持参して歌ってあげよう。私は、いい人の時とそうでもない時があるけれど。私の歌は。歌だけは必ずマーオを癒すだろう。
< END >
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