<東京怪談ノベル(シングル)>
全て、あなたの望むように。
「そう。楽にして、僕の言葉に耳を傾けて――」
僕はエル・クローク。職業は調香師。
「怖がる必要なんてない。僕はただ、貴女の苦しみを取り除きたいだけ」
調香師とは、読んで字の通り。あらゆる香りを作り出す専門家。香水や洗髪剤、食品などに使われる香料すべてを扱っている。
「さあ、深く息を吸って――そう」
だけど今は、ほんの少しだけ特殊な時間。表向き、僕は香物全般を取り扱う店を営んでいる。その『裏』で、僕がしていること。
「落ち着いたら、周りを見渡してごらん。貴女の救いは、ここにあるよ」
特殊な香を焚いて一時の夢や幻を見せ、障害の解消や願望を満たす。
「貴女は恋人を失った。その事実は動かない」
そこで、何を欲する? どんな変化を望む?
慎重に『願い』を読み取り、夢の中で叶える。それが、僕の『裏』の仕事。
「そう……貴女は、救いが欲しいんだね」
想いを正確に把握する、それが肝要。間違った処方は意味を為さない。むしろ、悩みをこじれさせてしまう可能性が高い。
「失った恋人の『穴』を埋めたいと願っている」
だから、慎重に。けれど円滑に。語りかけながら、頭は常に目まぐるしく回転させ、手は香りの瓶を探す。
「少し考えてみて。貴女の世界には、その恋人しかいなかったのかな」
今回のお客さんは馴染みの女性だった。僕の店を懇意にしてくれているようで、香水や紅茶など色々なものを求めにしばしばここを訪れている。
「探して。何処かに、光があるはず」
そんな彼女が、今日は沈痛な面持ちをしていた。『いらっしゃい』と迎えたらいつもは軽く会話を交わすのに、それもない。
それで、彼女を奥の部屋へ招き入れた。贔屓にしてもらっているお得意様への、日頃の感謝の気持ちもあるから。
「きっと――それは、貴女にとっての『希望』であるはず」
ひとつ。ふたつ。みっつ。
心の中で数を数え、頃合いを見計らって香炉に蓋をした。ふっと彼女が目を覚ます。
「気分はどう?」
夢現の表情で、彼女がこちらを向いた。ぼんやりしている顔に微笑みかける。
「ええ……何だか落ち着いているわ」
彼女が微笑み返した。艶やかに、どことなく妖しく。
様子を見るため、何気なく彼女の顔を覗き込む。熱を帯びたその瞳にとらわれ、瞬間、背筋に悪寒が走った。
それから、何事もなく日々は過ぎた。否、何事もないということはないか。だけど少なくとも表面的には、僕の周りに変わりはない。
「そうだね、これなんてどうかな。柑橘系の香りは、爽やかな気分になると思うよ」
そう勧めると、お客さんは笑ってその洗髪剤を買った。足取りも軽く店を出て行くと、店内に僕がひとり残る。僕は棚から香物の瓶を数個取り出し、カウンターに並べた。
乾いた布で瓶を拭く。きゅっきゅっと小気味の良い音。お客さんがいない時は、こうして品物を手入れしている。僕にとって安らぐ間でもあった。
布をカウンターに置き、綺麗にした香物の瓶を棚にしまう。ことり、ことりという音だけが響く静けさの中、穏やかに時が流れた。ふと、店の扉に付けられた小さな鐘が鳴る。
「いらっしゃい」
先日失恋を癒した女性が店を訪れた。ああ――変化があったとすれば、ここだろうか。
「こんにちは。今日も、構わないかしら」
日傘を折り畳んで傘立てに入れる彼女に、微笑み返す。彼女は変わらずここを贔屓にしてくれているようで、頻繁に訪れる。それは、先日の件以前からのことだ。
「ご予約を承っているからね。勿論、どうぞ」
ただし『裏の仕事』に通い詰めるようになったことを除けば、の話。今まで買っていた香水や紅茶の他に、もう一つ彼女は求めるようになった。
奥の部屋へ彼女を誘い、扉を閉めた。カーテンも全て閉め切り、暗闇の空間と成す。彼女をリクライニングチェアに座らせると、僕はランプに明かりを灯した。
「さて……始めようか」
慣れたものだ。僕の呟きを聞き取ると、彼女はこくりと頷いて瞳を閉じた。幾度となく重ねた行為に、彼女は飽きもしないのだろう。
彼女の望みは、寂しさを癒すこと。だから僕は彼女が『希望』の幻を見ることが出来るよう、香を焚く。初回から今まで、同様に。
仮定の話だが、もしかしたら彼女の夢の中に『僕』がいるのかもしれない。彼女が救いと見なした存在が僕だというなら、何て皮肉な話だろう。
恋人はいなくなった。商売で世話をした僕を慕った。だけど手に入らないのはわかっている。結果、夢の中だけでもと狂気的に通いつめる。
恋人以外に彼女が癒されると思う存在が、ただひとり僕だけだったなら。それはどんなに、孤独だろう。
「君が、そう望むのなら……」
優しく聞こえるように囁いた。あくまで手は香料を繰る。まるで、首から上と下が別物みたいだ。
「叶うよ」
彼女の頬に朱みがさした。うわごとのように、彼女が唇を動かす。
「エル……っ」
熱っぽく呟く彼女に、僕は何も言わず微笑んだ。
夢の中にいる彼女には、微笑む僕の瞳に何が映っているかもわからないことだろう。
そして彼女が目を覚ます頃には、この瞳に宿った微かな嫌悪も、跡形もなく消えてしまうだろうから。
「こんなところにいたのか、探したぞ……!」
その男性が乱暴に扉を開けて店に入ってきたのは、『裏』の仕事を終え『表』の店で彼女に香料についてアドバイスしていた時だった。突然の闖入者に驚いていると、彼は彼女の腕をぐいと引いた。
「帰ろう。君が最近妙な店に通い詰めていると聞いて、探した」
言いながら、じろりと僕を睨む。僕は苦笑して、肩を竦めた。
「でも、私には帰る場所なんて……私にはあの人しかいなかったの。貴方の弟は、私の全てだったの。世界だったの!」
「そんな、視野の狭いことを言うなよ」
彼が嘆息する。女性が眉を吊り上げたが、彼はそんな彼女を諌めるようにその肩に手を置いた。
「私は――私だけじゃない、君の家族だって君を心配している。君ならわかるだろう?」
「そんなこと……今更じゃない」
二人のやり取りを眺めながら、素知らぬ顔でカウンターの下を探った。手に触れた香料の小瓶の蓋を開ける。
「言葉が足りなかったのは謝ろう。弟を――恋人を亡くした君を、皆腫れ物のように扱った」
香炉を探り当て、香料を振りかけた。その間、けして俯かない。微笑みを絶やさず、二人を見ている。そして、さっと香炉に手をかざした。
「寂しかったか」
香が広がる。あくまで控えめに、二人が意識しないくらい微量に。気持ちを落ち着かせ、郷愁を誘う香り。
「寂しくなんかなかったわ」
ちらり、と彼女がこちらを見る。
「逃げるのはよすんだ」
彼女が口をつぐんだ。肩に置かれた彼の手を、じっと見つめる。やがて、悲しそうにかぶりを振った。
「ええ……虚しいのはわかっているわ」
吐露するんだ、素直な心情を。
「私は世界を失くしたんじゃない。世界から閉じ籠っていたのよね。私の家族や、貴方がいたことも心から押し出してしまって」
思い起こすんだ、懐かしさを。
「どうしても、すがるのをやめられなかったの……」
それは、彼女が弱かったから。簡単に癒しをくれる甘い誘惑に身を委ねてしまった。だけど、もう平気そうだね。
振り返った彼女は儚く微笑み、けれど瞳にしっかりした光を湛えていた。
「ごめんなさい……ありがとう。クロークさん」
彼に手を引かれ、彼女が店を出て行く。その後ろ姿を眺めつつ、カウンターの下の香炉を取り出す。かたんと、その蓋をした。
「結局は生身の人間には敵わないということかな……寂しいものだね」
そんなことを言いながら、微笑みは絶やさない。もう彼女が『裏』の仕事を依頼することはないだろう。
次に店を訪れる人を待ちながら、少しの間、郷愁の残り香に包まれていた。
《了》
|
|