<東京怪談ノベル(シングル)>


魔わんことランチ

「そこにいるのは千獣(せんじゅ)ではないか?」
 日ざかりの街路を歩んでいた千獣は、聞き慣れたきんきん声に反射的に視線を落とした。しかし、夏の陽に白茶けた敷石に見慣れた姿はない。
「バロ、ッコ……?」
「ここだ、木の下だ」
 呼ばわる方を眺むれば、なるほど、少し先の木陰に黒白チワワが“咲いて”いる。近づくにつれ、体にあわせて掘った穴から顔を覗かせているのだとわかった。
「貴様、よく日向を歩けるな。暑くないのか?」
 呆れ半分に感心してみせるロングコートの超小型犬は、常に似ず動作が緩慢だ。
「暑い、けど……平気……バロッコ、は……?」
 大丈夫なのかと気遣う響きに、
「ふん、我輩とてこれしきの陽気、どうということもないわ。只今はその、ちと思索に耽っていたのである。決して暑さ負けして涼んでいるうちに腹が減ってにっちもさっちもいかなくなったわけではない」
 相変わらず語るに落ちる魔わんこである。
「私、は、これから、ご飯、なん、だけど……」
 そう水を向けられ、穴の縁に顎を乗せたまま、きょろりと上目を使う。
「おすすめの、店とか、あったら……一緒に、どう……かな?」
「そうさな、紳士たる者、婦女子のたっての願いとあらば深遠なる考察は一時中断と──おう!?」
 もったいぶった口調と裏腹に揺れだした尾を確認し、千獣は乾いた泥からバロッコをつまみ上げた。
「じゃあ……案内、して、ね……」


 様々な商家が軒を連ねる賑やかな通りに入ったところで、千獣はまず麻布を買い求めた。それを肩から斜めがけし、絞って結んで腰の上あたりに作った袋状の部分にひょいとチワワを放り込む。熱い路面に苦戦している様子と、以前どこかで見かけた母子連れの記憶が結びついたためだ。
「我輩、赤子ではないのだから……」
 と、はじめは渋っていたバロッコも、舗装の照り返しから解放されたと気づいたとたんに機嫌が直った。ついでに、穴のあくほど眺めていた切り売りの西瓜も買って、半分ずつ分ける。
「先にデザートというのもなかなか……ふむ、我輩、紳士であるからして、馳走してもらうからには──してくれるのであろう?──貴様の舌を優先して店を選んでやろう。どんな料理が好みか申すがよい」
 前足で器用に挟んで齧りながら、同じくみずみずしい果肉を頬張る千獣へバロッコが言った。
「好み……?」
「うむ、遠慮はいらぬぞ。いかに我輩おすすめとはいえ、口に合わねば始まらぬでな」
「口に……合う……?」
 首をかしげる千獣を見上げ、バロッコもまた首をかしげた。
「もしや、味には頓着せぬ性分か?」
「毒か、毒でない、かは……わかるよ……」
「また根源的なところから回答しおったな」
「それ、だけ、わかれば……命を、取り、込める、し……」
「確かに腹に収めてしまえば高僧もごろつきも等しく一つの命ではあるが、どうせ食うなら美味い方が楽しいぞ」
 傍目には抱っこ布から伸び上がったチワワと飼い主のアイコンタクトもばっちりなお散歩風景だが、会話の内容は例によって物騒である。
「うまい……って、楽しい、の……?」
 千獣は軽く眉根を寄せる。正直なところ、人間のいう美味不味については随分疎いのだ。それでも、近頃ではようやく、なんとなく“味”を味わう感覚が芽生えてきてはいた。バロッコを誘ったのは彼が腹ぺこで──当人は絶対に認めないだろうが──困っていたからだが、自身の好奇心もないではなかった。
「ま、積極的に食いに出るからには賞味の欲求はあると見た。ならば我輩に任せてもらおう。次の角を左へ……水菓子で腹が冷えたゆえ、体を温めねば」


 暑いさなかに熱い物を食すが通である、とはしゃぐバロッコが案内したのは、小さな立ち食いの店であった。二、三人並ぶのがやっとの狭い空間には熱気が渦を巻いている。
「日替り大盛り麺多め、二人前である!」
 カウンターに飛び移り偉そうに注文する犬に動じるふうもなく、寸胴鍋をかき混ぜていた仏頂面の男が頷く。待つことしばし、湯気の立つ鉢が現れた。トマトをベースにしたスープに、柔らかく煮込んだ肉や野菜がごろごろ入っている。バロッコの分はいくらか冷ましてあるようだ。
「これ、は、お米……?」
「否否、我輩がすすめるからには麺である」
 米粒大のショートパスタはつるつるした食感で、スープもあっさりしており食べやすい。若い娘には無理とふんでいたか、ぺろりと平らげ額の汗をぬぐう千獣に店主が目を見張った。一方、やはりきれいに食べきったバロッコはせわしく息を吐きながら舌を垂らしていた。
「ぬう……また暑くなってきたな。これはたまらん、元の木阿弥である」
「熱い、のが、通、って……」
「そんな昔のことは知らんぞ、千獣。このままでは我輩、茹で犬になってしまう」
「いつも、は、犬、じゃない、って……」
「心は、な。だがあいにく体の方は華奢でいたいけなわんこなのだ」
 ぐっ、と喉をつまらせたような音をたて肩を震わせる店主をじろりと睨み、
「やはり季節に逆らわず涼を求めるが吉とみた。千獣、次に行くぞ、次に!」
 カンガルーの子よろしく布袋に這い戻り、自称いたいけなバロッコが吠えた。


 今度の店は先程とは対照的に構えも大きく、いかにも由緒ありげな趣であった。植栽や池で深山を模した庭をのぞむ落ち着いた座敷に当然のごとく案内されたばかりか、
「本日のさっぱりをたっぷりである!」
 あやふやきわまる注文がまかり通ってしまうあたり、魔わんこは常連らしい。
 ほどなく、白糸のような麺を盛った氷を思わせる透明な大皿を中心に、数々の料理が運ばれてきた。食器はガラスで統一されており、目にも涼しげだ。
「その器のめんつゆ、即ちソースにつけて食べるのだ。そちらの小皿は薬味ゆえ好みでな……刻み葱に茗荷、おろし生姜、大葉に擂り胡麻に諸々。こっちは鱧の梅肉あえ、小茄子の漬物、それから……まあ片っ端から箸をつければ自ずと──箸は使えたか、千獣? フォークを用意させるか?」
 そう言うバロッコ自身はさすがに箸は無理なので、口にくわえたスプーンであらかじめ別に分けられた麺につゆを振りまいている。
「……見た、こと、ある、から……」
 大丈夫だ、と千獣は答えた。都たるエルザードには国内はおろか様々な世界からの来訪者がひしめいており、異なる文化や習慣に触れることも少なくない。記憶に引っ掛かっていた映像をもとに、これもガラスでできた箸で細い麺を掬い取り、さらりとした甘辛いソースをからめた。よく冷えた麺は驚くほど喉ごしがよく、薬味それぞれの歯触りや爽やかな香りとあいまって、いくらでも入る。
 明らかに一人と一匹分以上はあった皿が全て空になるのに、そう時間はかからなかった。
「うむ、美味であった!」
 満足げにふんぞり返る黒白チワワの腹は、ぽっこり膨らんでいる。
「茹で犬、じゃ、なく、なった?」
「ふっ、もはや我輩、無敵である」
 これで晩まではもちそうだ、と口のまわりを舐めるバロッコをよそに、千獣はテーブルの上を眺めやった。
「……人間、は……獲って、きた、ものを……料、理、する……焼い、たり、煮、たり……いろんな、もの、かけて、混ぜて……」
「ふむ?」
「そんな、こと、しなく、ても……」
「命を取り込めるのに、か?」
 頷いて、千獣はともすれば散らばりがちな思いを形にしようと試みる。
「変、なの……でも」
 よく知る方法からすれば面倒で不可解だったたくさんの工程を経ることで、よく知る方法では得ようのなかった多様な味ができあがる。
「……料理、も、悪く、ないね……」
 そう、“味”を味わい、経験として蓄える──こんな気分は、悪くない。
 千獣の言葉に、バロッコが得たりと飛び跳ねた。
「さもあろう! ではぼちぼち食後の甘味大会といくか?」