<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


泡沫人魚姫

◇ Introduction ◇
 星々も雲間に隠れた、そんな夜。
 闇に紛れて見分けの付かない曇天に、憂う女が一人居た。
 冒険者達の集う酒場、黒山羊亭の踊り子であり、同時に女主人でもあるエスメラルダだ。彼女は店の奥のカウンターで、酔った男達が絡んでくるのを適当にあしらいながらため息をつく。
 何やら、微かな胸騒ぎがする。当たらなければ良いのだけれどと苦笑した矢先に、彼女は不穏な話を耳にすることとなる。
「なぁ、エスメラルダさん。もう聞いたか?」
「何の話かしら」
「港に出るって人魚の話だよ」
「……人魚?」
 あぁ違う、セイレーンだったか?
 とにかく水妖のたぐいの生物だ、と適当に説明して、怪訝そうに首を傾げたエスメラルダへにっ、と歯を見せて笑う男。酒はまだそう回っていないらしく、呂律がしっかりしている。
 酔っぱらいの妄想話とは、少し違うようだ。
「半魚人……でなければ、誰かの守護聖獣でも見間違えたのではないかしら?」
 疑いの方が割合高い確率で先行して、女は男へそう尋ねた。しかし男は、ちちち、と舌を鳴らすと、内緒話をするように口元に手を当てて小声で続ける。
「何でも、上半身は美しい人間の娘、下半身は魚のひれで、美しい歌を歌うんだそうだ。うっかり聞き入っちまってる間に、船ごと沈まされるんだと」
「まぁ、本当に?」
「実際に沈んで溺れかけたって男が居たんだ。漁師だそうだがな。これじゃあ漁ができないってんで、近々漁業組合から依頼が出るって噂だ」
「あら。ここを通して出してもらえると嬉しいのだけれど」
「でもなぁ…。なんというか、歌を聴いた奴らの話じゃあその人魚、悲しそうな声で歌うんだと」
「ふぅん……」
 話半分に聞きながら、けれど心の内では、どこか信じ始めていたのかもしれない。
 気付けばカウンターに頬杖をついて、男の話に静かに耳を傾けていた時だった。
 喧噪だらけの店の入り口から、微かに扉の開く音が聞こえる。決して大きな音ではなかったが、何故だか耳についたエスメラルダは、顔を上げて入り口を見た。
 そこに立っていたのは、四、五名の男達だ。
 皆中年から高年の男達だが、面々は一見したところ衰えた様子もない。ざわりと再び胸の中がざわついて、女はごくりと息を呑んだ。
「あんたさんがここの主人か」
「ええ。あたしが黒山羊亭の主人のエスメラルダですが、何か?」
「依頼を出したい。冒険者を募ってくれ。このままじゃあ、儂らは魚一匹獲りに行くことができんのだ!」
 酒場中のどんちゃん騒ぎにも負けない、行き場をなくした怒号が響き渡る。それと同時に突き付けられた紙切れを見て、女は愕然と目を瞠った。
 まさしくついさっきまで男と話していた話題が、そっくりそのまま依頼書に載っていたのだから。

◇ 1 ◇
「ありがとうございました。それでは……」
 それは、人々が朝市で賑わう時間の出来事である。
 話を聞かせてくれた漁師の男に手を振りながら、みずねは笑顔で男を見送った。
 豊に波打つエメラルドグリーンの髪を靡かせる彼女は、先日出たばかりの漁業組合からの依頼に手を焼いていた。
 人魚が起こしている港での騒動に、胸を痛めたことから引き受けた依頼だったが、情報が予想以上に集まらないのだ。
「問題の人魚が現れるのは、決まって同じ港なのよね。時間は、夜の七時頃……悲しそうに歌う人魚かぁ。これだけの情報じゃ、闇雲に行動できないかも」
 噂の人魚が、どのような意図でこんな騒動を引き起こしているのかもわからない。
 困ったように海を眺めるみずねだったが、彼女はふと、地面に落としていた視線を上げた。前方に、つい昨日知り合った男の姿が目に入る。
 小走りで駆け寄ってきた男は、淡いブルーの髪を乱しもせずに、みずねへと向かってきた。
 フィリオ・ラフスハウシェ。彼もまた、人魚についての依頼を受けた人物だ。
 同じ依頼を受けた者同士、港周辺で手分けして情報を集めていたのだが……窺える表情から察するに、どうやら彼の方もあまり収穫がなかったようである。
「フィリオクン、どうだった?」
「どれも似たような情報ばかりですね。人魚は同じ港にしか現れないこと、彼女が現れるのは大体夜の七時前後であること、いつも悲しい声で歌っていること。それから、一週間ほど前から現れ始めたそうです」
「似たり寄ったり……よね」
 フィリオも、彼女とあまり変わらない情報しか得られなかったようだ。何となく予想はしていたが、実際に聞くと少しばかり滅入ってしまう。
 みずねがあからさまに肩を落としかけた時、「あ、あと……」と、青年は何やら思案顔で付け足した。
「この事件での死者は、奇跡的に出ていないようですよ。ただ、船を沈没させるほどの波が荒れ狂ったそうで、乗船していた漁師の方も無傷というわけにはいかなかったようですが」
「そうなの? ……でも、誰も亡くなっていないのならよかったわ」
「港湾に叩き付けられた船はぼろぼろで海の底ですから、組合の方達には大分つらいようですけどね」
 女性が胸を撫で下ろす傍らで、青年は苦笑してから行きましょう、とポケットから一枚の紙切れを出した。
 メモ用紙にミミズがのたくっているようなそれを見て、みずねが無言で首を傾ぐ。
 先を促すように彼女がフィリオを見ると、彼は先程までの苦笑もどこへやら、表情を引き締めて手短に言った。
「最後に人魚の被害に遭った方が、ここに書いてある病院に入院していらっしゃるようです」
 紙に乱暴に書き殴られている住所は、今居る港からそう遠くない場所にある病院だった。

◇ 2 ◇
 歩くこと約二十分。果たして白亜で固めたような病院が、確かにそこにあった。
 この町一番の大きな病院のようで、人の出入りも多いようだ。
 何でもフィリオの聞いた話では、昨日漁から帰った折、人魚の歌っていた場面に出くわしてしまったらしい。慌てて海の方に引き返そうとしたようだが、時既に遅し。
 荒れた波に船ごと揉まれ、その際頭を強か強打したとのことだ。
 頭蓋骨に少々ヒビが入ったようだが、幸い脳にも命にも別状はないということだ。念の為の入院ということだが、意識もしっかりしているそうで、二人は話を聞きに来たのだった。
 受付の看護婦に事情を説明し、聞かされた部屋番号に足を運ぶ。
 個室らしく、ネームプレートには一人分の名前だけが入っていた。
「失礼します」
 フィリオの声と、みずねが会釈をしながら病室へ入ってくる。
 頭に包帯を巻かれベッドで新聞を読んでいた人物は、驚きを隠そうともしなかった。
「あんた方は」
「初めまして。私はフィリオ・ラフスハウシェと申します。漁業組合からの依頼を受けて、人魚の情報を集めている所です」
「同じく、依頼に基づいて例の人魚の調査をしているみずねと申します。お休みの所申し訳ありませんけど、お話を聞かせてもらえませんか?」
 やはり中年の男――部屋のネームプレートにはクラウス・パジェットと書かれていた――は、二人の言葉を聞くなり表情を険しくする。怒っているわけではなさそうだが、できるだけ思い出したくはないのかもしれない。
 船をも呑み込む荒波に揉まれたのだから、仕方のない話だ。
 唸り声を上げて暫く思案していたクラウスだったが、やがて沈黙を破りぽつぽつと語り始めた。
「実際の所、あんまり覚えてねぇんだ。海に放り出されてから病院に運ばれるまで、意識が飛んじまってたからなぁ」
「覚えていることだけでも、話して頂きたいのですが……」
 フィリオが神妙な顔付きでそう尋ねると、クラウスはうーん…と眉間を指で押さえる。
「漁を終えて、港に船を着けようとしてたんだ。そしたら、噂に聞いた人魚らしき女が、漁港の先に腰掛けて歌ってたんだ。まずいと思って船を引き返そうとしたんだが、遅かった。辺りに繋がれてた船もろとも、波に呑まれちまったってわけさ」
「人魚は、どんな様子でしたか?」
「そうだな……船から投げ出された時にちらっと顔が見えたんだが、泣いてたような気がするよ」
「他に、何か感じたことがあれば、教えて頂けせんか?」
 青年の矢継ぎ早な質問に、クラウスも若干戸惑っていたようだが、フィリオの問うた言葉に窓の外を伺うと、「そうだなぁ」と呟いて至極穏やかに言った。
「こんなことにはなっちまったが、不思議と人魚を怖いとは思わなかったなぁ。寧ろ、可哀相だって思ったよ。歌声まで泣いてるみたいだった」
 それくらいだ、と男が話を締めくくると、二人は控えめに礼を言ってクラウスの病室を後にする。
 やはり大きな情報は得られなかったが、足を運んだ甲斐はなきにしもあらず、だ。
 病院から出てきた二人は、しかつめ顔で考えた。
「人魚が歌うと、船が沈む……何か魔法めいたことでもしているのかと思いましたが、人魚のせいではないのでしょうか」
「うーん……仕方ないわね。出し惜しみしても意味がないし、少し過去を見てみましょうか」
「過去を見る、ですか?」
 みずねの告げた言葉に、フィリオがオウム返しで首を捻る。
 彼の疑問に、彼女はただただ慈愛の色を孕んだ笑みを浮かべるだけだった。

◇ 3 ◇
 再び漁港へと引き返してきたみずねは、水際に座り込んで紺碧に広がる海を覗き込む。その背後から、いまだよくわかっていない様子で疑問符を掲げているフィリオが同じように水面を眺めた。
「一体何を?」
「こうしてね、過去を視るの。水や風を介して、この景色が見たものを運んでくれるのよ」
 みずねは微笑んで告げると、ゆらゆらと揺らめく海水に指を浸す。
 彼女が静かに息を吐くと、暗色の海面に波紋が広がった。
 鏡のように二人の顔を映していた水に、浮かび上がるのは美しい姿の少女。水を染み込ませたような紙の娘は、漁港に腰掛けて歌を歌っている様子だ。
 声が聞こえることはないが、少女は楽しそうに歌を口ずさんでいる。
 ふと、少女の唇が歌を奏でることをやめた。一瞬閉口した唇は、しかしすぐに満面の笑みを形作る。
 立ち上がった少女が駆け寄ったのは、闇色の髪の男だった。上背のある男は少女を見た瞬間、やはり嬉しそうに笑う。
 男がごく自然に伸ばした手は、少女の肩に掛かるか否かの髪を優しく撫でた。
 その雰囲気から、ヴィジョンを視ていた二人は少女と男が他人ならぬ関係なのだと理解する。
 やがて娘の髪から手を離した男は、港に停められていた漁船へと乗り込んだ。それを心配そうに見送る少女へ、男は安心させるよう笑顔で手を振った。
 船が遠ざかって暫く。
 残影も見えなくなると、少女はまだ不安げな表情で海の中へ飛び込む。
 飛沫を上げて沈み、すぐに海面へ顔を出した娘の耳は――魚の鰭のようなそれへと変容していた。
 それは、水に棲まう者特有の身体的特徴だ。
 娘が何事かを呟いたところで、水面に映るヴィジョンは途切れた。
「今のが過去ですか?」
「ええ。噂の人魚があの子かも。さっきの黒髪の男の人が、何か関係してるのかな?」
「この港で何かあったのか、或いは近海に異変でも起こったのか、ですね」
 うーん、と口元に指を当てて、何くれとなく考えていた時。
 不意に近付いてきた影が、フィリオの肩を叩いた。
「黒髪の男って、ウィルのことか?」
「ウィル?」
 振り返ると、漁師にしては年若い男が、魚の入ったカゴをかかえて立っている。
 魚の量から察するに、漁ではなく釣りのようだ。
「何だ、違うのか? 漁港で黒髪の男なんて呟いてるから、てっきり供養にでも来たのかと思ったぜ」
「供養って、どういうことかしら?」
「知らないのか? ウィルは一週間くらい前、近海の嵐に巻き込まれて……。ここからは少し離れてたし、小規模なもんで夜明け前には収まったしで、知ってる奴は少ないみたいだが。少し前には、可愛い恋人もできてたんだぜ」
 みずねの問いに、語尾を濁して答えた漁師の顔が暗く沈む。
 どうやら、不幸にあったらしい。あ、と閉口した二人の中で、けれど次第にカチリカチリと何かのピースがはまっていくように思われた。
 悲しげに歌う人魚。
 沈む船。
 死人の無い事件。
 嵐に消えた男。
 そして一週間前というキーワードが、霧のかかったこの事件の端々を繋いでいくようだった。
「みずねさん」
「噂の人魚姫に、会ってみましょう」
 女性がスローテンポに――だがしっかりとした声音で――告げる。どうやら青年が言わんとしていたことも同じらしく、フィリオはただ黙って頷いた。

◇ 4 ◇
 澄んだスカイブルーの空が、茜色からマゼンタの暗い紅に染まる。
 午後七時より十分前の今は、それもすっかり紺青色へと変化していた。
 幾つか停船していた漁船は、万が一の時の為に別の船着き場へと移させた。そしてあらかじめ人払いを行った漁港で、佇むのは一人の青年と一人の女性だけだ。
 二人は静かに水面を見つめて、来るべき時を待つ。
 どちらともなく港の片隅に立てられた時計を見れば、刻々と時間は過ぎていく。
 ついに七時五分前に至った時、フィリオが一歩前に出て空中に手を突き出した。彼が何事かを口の中で呟いた瞬間、場の空気が刹那にして張り詰めるのを肌で感じる。
 キンと耳鳴りに似た痛みが鼓膜を通って、みずねは一瞬の違和感に整った眉宇を歪めた。
「今の……何かしら。変な感覚」
「すみません、少しの間我慢して頂くしか。この辺り一帯に音による魔力干渉の遮断を施したので、暫くの間でしたら人魚の歌による影響を封じられる筈です」
「なるほどぉ」
 みずねが感心したように手を打つ。ぽん、と小気味よい音がした、ほんの一瞬のことだ。
 時折小さく波立っていた海面が、小刻みに震えてやがて大きく飛沫を上げる。
 ハッと息を呑んだ二人がそちらへ顔を向けると、アイリスブルーの水面に揺られながら顔を出す少女――みずねの過去視で見たままの、美しい人魚の少女だ――がそこに居た。
 水をそのまま髪に溶かし込んだような、不思議な青の髪。耳は確かに魚の鰭の形で、ここからでは見えないが下半身は恐らく魚の尾と同じなのだろう。
 纏う雰囲気は清廉ながら普通の人間の娘と何ら変わりなく、くりくりとした瞳が港に立つ二人を見上げていた。
「あなたが噂の人魚ですか?」
 弛んでいた緊張が徐々にピンと張り詰めていくが、フィリオは腰に差した刀を抜く気配も見せずに尋ねる。いつもと違う港の様子に加え、青年に問われたことで、人魚の少女はびくりと華奢な肩を震わせた。
「あなた、たちは……」
 つかえるように絞り出される人魚の声は、なるほど、外見同様美しい。
 この声が歌を奏でたなら、どんなに心がすくことだろう。
「どうぞ、警戒なさらないでください。私はフィリオと申します。漁業組合から依頼を受けて参りました」
「最近、人魚が歌を歌って船を沈めていると噂が立っているの。漁港の人魚は……あなた……えぇと」
「……マリン、です」
「そう。マリンちゃんのことよね?」
 暫く黙っていたみずねが、フィリオの言葉を継いでマリンと名乗る人魚へ呼びかける。少女は小首を傾げる女性へ、幾らか躊躇った後「たぶん」と小さく答えた。
「漁師の方達は、あなたが歌を歌って故意に船を沈めているのだと思っているようです。ですが見たところ、マリンさんが悪意を持って歌っているようには思えません。何故船を沈めるのか、もし理由があるのでしたらお聞きしたいと思っています」
 唐突なことで怯えている様子のマリンへ、フィリオはできるだけ優しく、また自分達に害意がないことを証明するように告げる。
 彼の言葉に驚いたのだろう。瞠目した少女は、一瞬何を言われたのかわからないとでも訴えるように二人の顔を交互に見つめた。
「わたしは、ただ歌っていただけです。……ここで」
「じゃあ、嵐はどうして起こったのかなぁ」
「きっと、わたしが泣いていたから」
「え?」
 他意の無い純粋な疑問が、みずねの口からこぼれる。
 それに答えたのは、意外にも状況をよく理解していない様子のマリンだった。
 フィリオが聞き返すのとみずねが首を傾ぐのは同時で、少女の顔には迷情の色が滲んだ。
「強い感情で心を荒立てると、人魚の歌に海は呼応します。わかってはいたんです。でも、どうしてもこの心を落ち着けることはできなかった。歌を歌うことを、やめることができなかったんです」
 それで、この漁港で船を沈めるほどの波が立ったというのか。
 少女の語る話にどうしてと問う代わり、フィリオ達二人はじっと黙っていた。
 その意を酌み取ったように、マリンはまた唇を開く。
「これはわたしへの罰だから」
「罰?」
 今度はみずねが問い返して、少女はしおしおと頷いた。
 少女の、髪と同じ不思議な色の瞳がどこか遠くを見つめる。
「わたしには、好きな人が居ました。どうしても彼に近付きたくて、人魚であるのに歌の下手だったわたしは、髪と引き替えに魔女から綺麗な歌声をもらいました。数日おきにここにやってくる彼を待って、わたしは毎日ここで歌を歌ったんです。図ったような出会いは、望み通りの結果を招きました。彼の恋人となれて、毎日が楽しかった」
 まるでいつか読んだ童話のお姫様のようだ。助けた王子に恋をして、声と引き替えに人間の足をもらった人魚姫。
 けれど、人魚姫の恋は、出すことができない声の前にあっさりと破れてしまう。
 対するマリンは、恋人となったそうではないか。想いの通じ合った二人に、一体何があったと言うのだろう。
 二人が考えた矢先、「でも」とくぐもった少女の声が静寂を掻き消した。
「あの日、一週間前。わたしはいつものように漁に向かう彼を、黙って送り出してしまった。夜には海が荒れそうだと魚達が教えてくれていたのに、わたしは大丈夫だからと笑った彼を引き留めることができなかったんです」
 そして男――恐らく彼がウィルなのだろう――は、その日嵐に身を投げ出され、そのまま帰ってくることはなかったのだと少女は告げた。
「きっと彼は、わたしを恨んでるわ。知っていたそぶりだったのに、どうして教えてくれなかったのかと。だから私は、ここで鎮魂歌を歌っているの。せめて彼が苦しみを持って逝かなくて済むように、私が自分の罪を忘れないように。彼と最後に言葉を交わした、この場所で」
 まるで心底からの罪悪感が、彼女をがんじがらめにしているようだ。
 今度こそ閉口したマリンに、二人は途方を失った。
 彼女の中の優先順位では、どうやらウィルが圧倒的にマリンの胸の内を占めているらしい。果たして歌うことをやめてほしいと頼んだ所で、彼女は素直に聞き入れてくれるだろうか。
 現に今だって、少女は話は終わったとばかりに息を吸い、美しい声で哀歌を奏で始めた。
 今はフィリオの力で声による一切の魔力干渉を断絶しているが、それを解けば再び港は荒れるだろう。
 どうすれば、誰もが一番最良の道を選べるのだろうか。
「あ!」
 今にも唸りそうな相貌で考え込んでいた時、不意にみずねが声を上げた。
「どうかしましたか?」
「うん、その……彼女の心の救いになるかは、わからないけれど。マリンちゃん!」
 みずねが少女を呼ぶや、マリンは歌声をピタと止めた。ゆうるりと見上げる先で、女性が屈託無く笑っている。
 少女は訝りの眼を寄越すが、みずねは気にした様子もなく少女の前まで進み出た。
「マリンちゃんの恋人は、マリンちゃんを恨んでないかもしれないよね?」
「恨んでるわ、きっと。ううん、絶対」
「それは、恋人さんに聞いた言葉かな?」
「聞けるわけがありません。でも、それくらい、少し考えれば誰だってわかると思うわ」
 存外きっぱりと答えたマリンへ、みずねは「そうかなぁ?」と首を傾げて見せる。
 何をするつもりなのだろう、と不思議そうに成り行きを見つめていたフィリオは、しゃがみ込んだみずねが海面へ手を翳すのを見逃さなかった。
 ふわり、と風が起こったかと思うと、暗い影を落とした海面に、陽の下ほどの明るさでヴィジョンが映し出された。
 ずっと遠くまで広がる海の上に、漁業用の小さな船が一つ浮かんでいる。船上では、昼間見た黒い髪の青年が漁の為の仕掛け網を準備しているのが窺えた。
 不思議なことに、二人が先程見たヴィジョンとは違い、今度は音までもが鮮明に耳へと入ってくる。
「海と風が、きっと彼の心を運んでくれるわ。これが私の千里眼」
 しっかりと聞いていて。
 人差し指を唇に当てたみずねがマリンへそう囁くと、やがて波間に映し出されたヴィジョンの中で、ウィルの乗る漁船が大きく揺れ始めた。
 空には暗雲が立ちこめ、映像の中でだけ、波が高く荒れる。
『そんな…! 今夜は波も風も良好だと言っていた筈なのに……』
 踊る船上で豪雨の音に掻き消されながら、男は驚きを隠す様子もなく狼狽えた。準備していた網を急いで仕舞いながらも、嵐は刻一刻と風力を強めてくる。
 渦を巻く風。飛び散る飛沫。
 そして四苦八苦しながら漸く道具を片付け終わった時、ついに船が一際激しく揺れた。
 縦に横に揺さぶられれば、人の身体などいとも容易く放り出されてしまう。
『うわぁあ!!』
 力の限りに叫んだウィルは、そのまま叩き付けられるようにして海の中へと沈んで行った。
 身体が痛い。海水が鼻から咽喉へ流れ込んできて、息を吐けば尚内蔵を圧迫する勢いで水は体内を駆け巡る。
 男は声を出したわけでもなしに、何故かヴィジョンを視ていた三人には、彼の感じているだろう感覚まで容易に伝わった。
 朦朧とする意識の中で、ウィルはすっかりもがく力も失せた様子で考える。
 思い出されるのは、港を出る直前の光景だ。
 愛しい少女と、交わした会話。
 彼女は頻りに、海に出るならば明日の方が良いと言っていたではないか。もしかすると、マリンはこうなることを予感していたのかもしれない。
 ウィルがそう思うと同じくして、みずねが千里眼と言ったヴィジョンを視ていた少女は、表情を渋く歪めて俯いた。
 やっぱり、予想していたとおり。きっとこの後に続くのは、何故無理にでも引き留めなかったのかという怨嗟だろう。
 悲痛に引きつった顔のマリンが、強く目を瞑った時だ。
(あぁ……マリン。あの子は嘆くだろうか)
「……え」
 まるでテレパシーのように頭へ直接響く声。男のその言葉は、マリンの心を揺さぶるには十分だった。
 ウィルは胸元に下げた、人魚を模した首飾りを握りしめる。無意識のことなのだろうが、それが彼の溢れんばかりの想いを表しているように思える。
(それとも、起こるだろうか。引き留めたのにと)
「そんな、怒るだなんて! それはあなたの方なんじゃ……」
 少女はそれがみずねの見せる過去の映像だということも忘れて、彼の言葉を否定しようと強く頭を振る。
 マリンの言葉が届く筈もないだろうに、彼女の言葉の直後、苦しそうに――けれど最大限の優しさを感じ取れる様子で――微笑んだウィルは、海面へ手を伸ばしながら、揉まれる荒波の中瞳を閉じた。
(僕の、愛しい人魚姫。どうか泣かないで)
 君の笑顔が好きだから。
 声にならずに唇だけがそう動くと、ついにウィルは意識を手放した様子で、力なく深海の底へと沈んでいく。
 手にしていた首飾りが、彼の手を離れるように首からするりと滑り落ちた。
 そこで、ヴィジョンは途切れる。
 後に残ったのは、はらりはらりと大粒の涙をこぼす人魚姫の悔恨だけだった。
「ウィルクンは、最後までマリンちゃんのことを想っていたのね」
「まだ、泣きながら鎮魂歌を歌うのはやめられそうにありませんか?」
 みずねの言葉に重なるように、フィリオがハンカチを差し出しながらマリンへ告げた。それは問いかけと言うよりも、答えを確認するようなそれだ。
 案の定、マリンはふるふると首を振ると、涙の残る真っ赤な目で二人へ微笑んで見せた。

◇ Outro ◇
 さざ波の音を聞きながら、フィリオは海岸沿いに足を運んだ。船を沈める人魚の依頼を完遂してから、数日後のことだった。
 今は閑散とした浜辺で、青年は何かを探し歩いている様子だ。
 入念に波の寄せる海辺に目を配りながら、運ばれてきた流木の間に、彼はきらりと光るものを見付ける。
 木製の、小さなペンダントトップの付いた首飾りだった。
 トップの部分は、元は緻密な細工が施されていたのだろう。波に揉まれた今は、何となくそうだとわかる程度の形しか残っていない。
 けれど、フィリオはそのペンダントの原型をしっかりと覚えていた。
 半信半疑だったけれど、間違いない。それはつい先日解決した事件に関わる、人魚の恋人が持っていたものだ。
 ペンダントを手にしたフィリオは、大事そうにハンカチにくるむと、漁港の方へと走り出す。
 事件の解決と同じくして流れた噂によれば、消えた人魚の代わりに、天使の歌声を持つ少女が港で時折凱旋歌を歌っているということだ。
 ならばきっと、あの港へ行けば彼女に会えるような気がした。
 市街を抜けて、海沿いを暫く。
 果たして、彼の予想通りそこに見知った少女の姿があった。恋しそうに、けれど確かな光を瞳の内に秘めて、海を見つめる横顔が眩しく見える。
「マリンさん」
 息せき切った様子もなく、声をかけたフィリオへ、少女はハッと弾かれたように彼の方へ視線を向けた。青年が微笑んで見せると、マリンもまた同じように微笑む。
「フィリオさん」
「こんにちは。実は、あなたにお見せしたいものがありまして」
 何故ここに、と驚愕の眼で青年を見たマリンへ、フィリオは懐にしまっていたハンカチを取り出した。丁寧にハンカチをめくると、くるまれていたものがその姿を現す。
「これ、は」
「ウィルさんが持っていた首飾りの筈ですが……違いましたか?」
「いいえ……いいえ、確かにこれは彼のものです!」
 そっとペンダントを手に取った少女が、まるで奇跡でも起きたかのような形相でペンダントを手に取った。
 否、事実、奇跡だったのだ。
 嵐の起きたという海流は、巡り廻ってフィリオがペンダントを見付けたあの浜辺へと続いていく。けれどあの激しい嵐の中、確実にそのペンダントがあの浜辺へ辿り着くとは限らなかったのだから。
「ありがとう、ございます」
 今にも泣き出しそうに呟いた少女へ、フィリオが数日前同様、ハンカチを差し出す。
 けれどマリンは、今度こそ涙を流すことは無かった。
「大丈夫です。もう泣かないって、あの人に誓いましたから」
「そうですか」
 青年の安堵混じりの返答に、マリンはこくりと頷き返す。
 涙を押し殺して微笑む人魚は、それでも尚美しかった。

◇ Fine ◇
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【3510 / フィリオ・ラフスハウシェ / 両性 / 22歳 / 異界職】
【0925 / みずね / 女性 / 24歳 / 風来の巫女】

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■         ライター通信          ■
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 フィリオ・ラフスハウシェ様、みずね様。
 初めまして、こんにちは。
 この度は、「泡沫人魚姫」への参加依頼ありがとうございます。
 お仕事もプレイングストーリーの作成も初めてで、まるっきり新参者ですので、これで良いのか、あれで良かったのかと試行錯誤しながらも、楽しく書かせて頂きました。
 今回は、序章・本編ストーリーは同じもので、Outroのみ、それぞれ個別に書かせて頂きました。
 初めて尽くしで「上手く書けたかしら、いえやっぱりまだまだかしら」とドキドキしておりますが、大事に暖めた作品ですので、少しでもお二方のお気に召されましたら幸いです。