<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


宵闇のレディ・ファントム

 己の影すら溶け込むような闇の中、聖都エルザードの裏路地に複数の足音が鳴り響く。
「ま、待てぇーッ!!」
「相手は女一人だぞ! 万が一逃げられでもしたら俺たちの立場が危うくなる!」
「なんとしても捕まえろ!!」
 屈強な男たちは彼らの先を走る女の背中を目指して、走る速度を上げた。

 同じ頃、少し高い建物の上に立つ一人の女がいた。そこからは件の路地の様子がよく見える。
「待てと言われて大人しく待つ悪党がこの世界にいるのかしら」
 フフ、と不敵に笑った女が、パチンと指を鳴らす。すると、女と寸分違わぬ姿形で路地を走っていたモノがふっと消え去った。男たちは突然消えた目標を見失い狼狽えている。
 女はカードを取り出すと虚空に投げた。宙を舞う白いカードはまるで意志を持っているかのようにすぅっと夜の闇を泳ぐと、間抜けな男たちの背後にゆっくりと落ちていった。
「愚鈍なあなたたちに私が捕まるわけないわ」
 そう嘲笑うと、女は身を翻して夜の闇に消えた――


「レディ・ファントム?」
 カウンターに座る男はエスメラルダの顔を見返しながら怪訝そうに呟いた。
「そう、最近現れた神出鬼没の女悪党だそうよ」
「神出鬼没、ねぇ……それでそのレディ・ファントムがどうしたんだよ」
「それが――」
 エスメラルダは男の耳元に口を寄せると、『右斜め後ろの男』と耳打ちした。同時に男の手を握り、金属製のライターを渡してきた。男はそのライターを品定めする振りをしながら、鏡のようにして右斜め後ろにいる男を確認した。
「強面……何やったんだ」
「何もしてないわ。どうやらアイツあたしがレディ・ファントムなんじゃないかって踏んでるようなの」
「お前なの?」
「違うわよ! ただ、レディ・ファントムは顔を仮面で隠していて、スタイルが良い若い女らしいって事しかわからないみたいで……」
 なるほど、と思いながら男はエスメラルダを頭の先から足の先まで眺めた。聖都エルザードでスタイルが良い若い女と言われたら、エスメラルダの姿を思い浮かべるかもしれない。
 エスメラルダは困った様子で溜息を吐き、
「あの男、最初の一杯頼んだっきり何か頼む訳でもない、仏頂面でずっとあたしの事見てるだけ。あんな白けた顔で店にいられたら空気が悪くなるわ! 全く、営業妨害よ!」
と話の途中からやや興奮して捲し立てた。男は彼女を宥めながら、良い考えがある、と言った。
「今度レディ・ファントムが現れた時、お前は別の場所にいたって証言する第三者がいれば、奴も納得するんじゃないかな。つまり――アリバイがあれば良いんだ」


 エスメラルダからの突然の呼び出しに黒山羊亭を訪れてみれば、なにやら面倒な事になっているようだった。同じように呼び出されたらしいステイルと共に、エスメラルダから話を聞く。
「わかったわかった! 任せとけって」
「アンタほんとにわかったの……って、ちょっと!」
 虎王丸は立ち上がって、エスメラルダを監視しに来ている強面の男に近付いて行く。その背中を踊り子が小声で呼び止めるが全く気にしなかった。
「よぉ、随分シケた面してるけどちゃんと楽しんでんのか?」
 虎王丸は男にそう声をかけた。男はピクリと眉を動かしただけで何も答えない。そんな男の肩に馴れ馴れしく腕を置き、ちょっと男同士の話しようぜ、と笑いながら言うと、虎王丸は男を店の外に連れ出した。
 不機嫌そうな顔をした男は、黒山羊亭を出るとすぐに虎王丸の手を振り払った。抗う事もなくすんなり手を離した虎王丸は、お前さぁ、と男に言う。
「お前のやりたい事はわからねぇ事もねぇよ。でもよ、スタイルの良い若い女だって曖昧な情報だけでエスメラルダをレディ・ファントムだって決めてかかるのはどうなんだ?」
「決めてかかっている訳ではない。ガキが大人の問題に口を挟むな」
「そのガキから見ても、お前のやってる事は迷惑以外の何ものでもねぇな」
「なんだと……!」
「黒か白かもはっきりしてねぇ状態であんな犯人見張ってますみたいな顔してたら、営業妨害で訴えられても文句言えねぇぞ。せめて仲間なり友達なりと来てきちんと注文しろ、客としてな」その間にレディ・ファントムが出ればいいんだろ、と虎王丸は男の目を真直ぐ見つめて言った。
 男は何も言い返せないようで、バツの悪そうな顔を背けた。話がわからない奴ではないようで、虎王丸は安心する。一先ず、この男の問題は解決だ。
「と、こ、ろ、で」一歩ずつ男に近付く。「お前はレディ・ファントムとやらを見たわけ?」
「あぁ。俺が用心棒をしている屋敷に奴が現れて、もう少しで捕まえられると思った瞬間ふっと消えちまったんだ」
「なんで女だってわかったんだ? その、仮面で顔隠してたんだろ?」
「そりゃお前」男はにやりといやらしい笑みを浮かべる。「体の線がはっきり出る黒っぽい服を着てたんだ。ありゃ相当良い女だよ」
 虎王丸は急上昇したテンションが表に出そうになるのを堪えながら、次にレディ・ファントムが現れそうな場所はないのかそれとなく訊ねてみた。神出鬼没のレディ・ファントムは、怪盗の類にありがちな予告状のような物は出さないため確実ではないという前振りをしてから、男はエルザードの北にある一番大きな屋敷が怪しいという噂話を教えてくれた。
 なるほど、と頷いていると、男が「じゃあな」と踵を返した。
「帰んのか?」
「あぁ。踊り子さんによろしく言っておいてくれ。次はちゃんと客として来るってな」
 凶悪そうな面構えの割に良い奴なのかもしれない。男の背中が見えなくなってから、虎王丸は黒山羊亭の扉に手を掛けた。男の言葉を思い出して、再び上昇したテンションを今度は抑える事なく発散する。
「すごい俺好みの怪盗じゃねえか、燃えるぜ!」
 元々、年上のセクシーなお姉さんがタイプの虎王丸である。今回の仕事は楽しくなりそうだった。


 次の日の夜、ステイルと連れ立って男から教えられた屋敷に向かった。
「おぉ〜いるいる」
 虎王丸は目の上に手を翳して、楽しそうな声を上げた。門の前には屈強そうな男たちが落ち着かない様子でうろうろしている。
「あれでは何かに狙われていると言っているような物だな……」
 ステイルは少し呆れながら言う。確かに、男の話ではレディ・ファントムは予告状の類は出さないようだし、確実にこの屋敷が狙われるという訳ではない。これだけの厳戒態勢では、もしかしたらレディ・ファントムは現れないかもしれない。
 屋敷の塀沿いに進み、レディ・ファントムが現れるまで薄暗い路地で待機する事にした。
「よ……っと」
 虎王丸は両手を伸ばし、石積みの塀の上に手を掛けた。勢いを付けて体を持ち上げ、顔だけを塀の上に出すと中が一望できた。
 屋敷はひっそりと静まり返っていた。二階の、虎王丸から見て一番手前の部屋の灯りが点いていた。場所から考えて、恐らくこの屋敷の主人の部屋だろう。窓際には、門前にいた男たちとは違って身なりの良い、しかし鍛えている事が一目でわかる男が目を光らせていた。
 覗き見を怪しまれても困る。虎王丸はひょいと地面に足を下ろした。
「厳重だよな。本当に来るかね」来なかったら残念すぎる、と思いながら虎王丸は呟く。
「さぁな」
「さぁな、って……」
 隣に立つステイルは涼しい顔で言い放った。彼が再び口を開こうとしたその時――

「奴だ! レディ・ファントムが現れたぞ!」

 男の怒号と共に、ガラスの割れる音がした。
「俺は上から行く」
 虎王丸は足を限定獣化して、塀の上に飛び乗って言う。ステイルが真剣な目で頷くと、虎王丸に向けて手を出した。
「逃がすなよ」
 まるで自分の思惑を知っているかのようなステイルの言葉に、虎王丸は何も答えずニヤリと笑うと、出された手をパンと叩いた。


 電気の点いていた部屋の窓が割れていて、外に向かって開かれていた。部屋の電気は消えている。
 男たちが何事か叫びながら西の方向へ走って行く。それを確かめて、虎王丸は塀伝いに走りそのまま建物の屋根伝いに男たちの集団を追いかけた。
 もう少しで集団の先頭に追いつくという所で、集団が二つに分かれた。挟み撃ちにするつもりなのだろう。一度、通りが見渡せるくらいの屋根に飛び乗りレディ・ファントムがいる方向を確かめようとした虎王丸は、
「はァ?」
と間抜けな声を出した。
 二手に分かれた男たちの前、そのどちらにも、黒っぽい服を着た人間が走っている。
「なんだなんだ? レディ・ファントムって一人じゃないのか!?」
 スタイルの良い若い女悪党が何人もいるなんてすごく嬉し――
「じゃなくて!」
 虎王丸は自分の考えに自分でツッコミを入れた。
 ブンブン、と頭を振って気を落ち着かせると、背筋を伸ばしてすっと立った。辺りをぐるりと見渡す。
 地面を走る男たちの声。
 月の光が作る影。
 浮かび上がる建物の形。
「……あれは」
 この辺りで一番高い建物の上に、人影が見えた。随分離れていて顔は確認できないが、虎王丸の直感がアレだと告げていた。
 虎王丸は進むべき道を決めた。迂回して、出来るだけ身を隠して走る。人影の背後から近付き、少し距離を取った所で止まった。
 一呼吸。ターゲットを見定めて、足に力を込めた。
 虎王丸の足は今、限定獣化している。瞬発的だが脚力が上がり、高速での移動が可能である。ジャンプして人影に接近した虎王丸は、そのままの勢いでターゲットに飛びかかった。
 気配を察して人影が振り返った。仮面を着けた顔が虎王丸に向けられたが、この至近距離ではもう逃げようがない。
(いける……!)
 両手を広げ、抱きすくめるように腕を動かした。が、虎王丸の腕は空を切った。
「あれ?」
「初対面の女性に突然抱きつくなんて無粋じゃなくて?」
 声は背後から聞こえた。勢い良く声のした方向を振り返ると、そこには仮面を着けた女が立っていた。
 体の線が出る黒っぽい服装。顔を隠す仮面。間違いない、レディ・ファントムである。
「あ、あはは……いやぁ、闇夜が似合う女性は素敵っすね!」
 抱きつこうとした事を窘められ、それを笑って誤魔化しながら虎王丸は言った。元々、エスメラルダの無実は証明するつもりだったが、レディ・ファントムを捕まえて役人に突き出すつもりは更々なかった。
 年上の、セクシーなお姉さんとお近づきになりたい――それが虎王丸の目的であった。
「あらそう? ありがとう。私も威勢の良い坊やは嫌いじゃないわ」
「マジすか!? じゃあ、俺ん家隠れ家にしたらどうっすか!?」
「それもいいかもしれないわね。でも――」
 その時、レディ・ファントムが立っていた場所に大きな水の塊が出現した。
「逃がすなと言っただろ」
 水の塊が現れたのと同じように唐突に現れたステイルは、少し呆れた声でそう言った。この水の塊は、ステイルが魔術で作った檻だった。
 虎王丸は軽く笑って誤魔化す。
「全く……」
 またしても、声は別の方向から聞こえた。ステイルの水の檻の中には、先程までレディ・ファントムが着けていた仮面の、鼻から下半分だけが浮かんでいた。
「もう少し優しく扱わないと、女の子に嫌われるわよ?」
 溜息混じりに言ったレディ・ファントムは、顔の上半分だけ残った仮面を右手で外した。
「すげぇ美人!!」
 虎王丸は思わず声を上げた。切れ長の瞳は妖艶な光を称えている。虎王丸の言葉に、レディ・ファントムは赤い唇をニィと笑みの形にした。
「エスメラルダとは別人だな」
 ステイルがレディ・ファントムを睨み付けながら言った。確かに、仮面の下から現れたのはエスメラルダとは似ても似つかない顔だった。
 エスメラルダ、と呟きながら、レディ・ファントムは首を傾げた。どうやら彼女の事を知らないようである。
「アンタの所為で疑われてる女がいるんだ」
「そう」レディ・ファントムは全て理解したようで、薄く微笑む。「彼女の疑いを晴らす為に、私を捕まえようって事ね」
 そういう事だ、とステイルは彼女に意識を集中したまま言った。するとレディ・ファントムがちらりと視線を寄越してきて、虎王丸は困った顔で笑いながら頭の後ろをかいた。
 虎王丸としては捕まえなくても良い。寧ろ、もう会えなくなってしまうかもしれないなら捕まえずにエスメラルダの疑いを晴らした方が良い。
「でも残念ね」
 レディ・ファントムはカツカツとヒールの音を響かせながら歩き、建物の端まで行くと立ち止まって振り返った。
「まだ捕まる訳にはいかないの」
 にっこり笑った彼女は、そのまま後ろに倒れて行った。
「ちょ……!」
 咄嗟には動けなかった。慌てて駆け寄って下を覗くと、丁度、ドスッと重い物が地面に落ちる音が聞こえた。



「レディ・ファントム、捕まったらしいわね」
 疑いは晴れたのだが、エスメラルダの声は少し沈んでいる。レディ・ファントムは捕まった――しかし彼女が捕まったとき、彼女は生きてはいなかった。
 あの高さから真っ逆さまに落ちたのだ、助かるなんて奇跡以外には有り得ない。
(はぁ……)
 虎王丸は大きくショックを受けていた。まさかあんな事になるなんて思ってもみなかった。
 ステイルと二人、黒山羊亭に来ていた虎王丸は、出された飲み物をぼんやり見下ろしながら溜息を吐いていた。
「あの威勢の良さはどこへ?」
 聞き覚えのある声が突然聞こえ、項垂れる虎王丸の肩に手が置かれた。驚いて振り返ると、そこには紛れもなく、
「レ、――」
「それ以上口にしてはダメ」女は虎王丸の唇に人差し指をチョンと触れさせた。
 見間違える筈がない。そこには、あの夜、虎王丸とステイルの目の前で飛び降りた、死体となって捕まったと思われていた、レディ・ファントムの姿があった。ただ一つあの夜と違うのは、セクシーなナイトドレスに身を包み金色の髪をアップにしている事だけ。
 虎王丸は驚いて言葉を失った。隣に座るステイルも、僅かだが目を見開いて驚いている。エスメラルダだけが、何の事かわからずに不思議そうな顔をしていた。
「生きていたのか」
 ステイルが漸く言葉を絞り出した。レディ・ファントムは不敵に笑って、捕まる訳にはいかないって言ったでしょ、と言った。
「今日はあなたたちに用があるんじゃないの」そう言って、レディ・ファントムは踊り子に近付く。「あなたが、エスメラルダ?」
 エスメラルダが頷くと、レディ・ファントムは彼女を抱き寄せてハグをした。エスメラルダの耳元で何か囁いたかと思うと、体を離して、それじゃあ、と言いあっさりと去ろうとする。
「あの!」その背中を、虎王丸は呼び止める。「良かったっす、無事で……」
 本当に死んでしまったのだと思っていた。安心したような嬉しいような、そんな感情が綯い交ぜになってつい本音が漏れた。
 レディ・ファントムは薄く笑みを浮かべると虎王丸の前に戻ってきた。
「また会いましょう、元気な坊や」
 そう言って、虎王丸の頬に軽くキスをした。


 後日、人伝に聞いた情報によると、レディ・ファントムとして処理された死体は、虎王丸が出会ったレディ・ファントムとも、勿論エスメラルダとも全く異なる顔をしていたらしい。ステイルの話では、あの死体は作り物なのだそうだ。
 また会おうと言って去って行ったレディ・ファントムを思い出して、虎王丸は急に思い立って顔を上げた。
「やっべ、部屋片付けておこう!」
 社交辞令だったのかもしれないが、虎王丸には彼女の言葉が本心のように感じたし、なんとなく、また会えそうな気がする。
 自分の頬に触れ、彼女のキスを思い返しては頬が緩むのを止められない虎王丸であった。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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[PC]
・虎王丸 【1070/男/16歳/火炎剣士】
・ステイル 【3654/無性性/20歳/マテリアル・クリエイター】


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■         ライター通信          ■
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虎王丸さま

 今回は「宵闇のレディ・ファントム」にご参加いただきましてありがとうございました! はじめまして、ライターのsiiharaです。
 大変お待たせしてしまい申し訳ありませんでした…!
 とても素敵なプレイングをありがとうございました。虎王丸さんの性格もとても素敵で、本当に楽しく書く事ができました。気に入っていただけたら嬉しいです。

 それでは、またの機会がありましたら宜しくお願いします!