<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>
紙一枚の、その価値は?
昔、むかし。と言ってもせいぜい20年ほど前のこと。ある作家が死んだ。彼の手がけていた物語は未完で遺された。
そして彼の遺した未完の物語、その原稿は、行方知れずとなり――20年の時が過ぎた。
「よぅエスメラルダ、聴いたかい?」
常連の客の一人が店に入るなり言い、エスメラルダはとうとう笑い出してしまった。
「やだわ、もう、皆して店に来るなり同じことを言うのね」
「…何だ、聴いたのか」
「噂は風より早いのよ、お兄さん。無名の物語の原稿の話でしょう」
行方知れずだった無名の物語、その未完の物語の作家直筆原稿が発見された。その噂は既に店の誰しもが耳にしていて、多分明日の朝には王都全体に広がっているだろう。ころころと笑いながら「何だぃ、つまらねぇな」と頭をかく常連にエスメラルダはカウンターの席を指し示す。
「どうせならもっと面白い話があるのよ、聴いて行かない?」
彼女がそう言うなり、周りの常連客までもが一緒になって身を乗り出す。エスメラルダは一身に注目を浴びながら、いかにも勿体つけた風に語りだした。
「その原稿を見つけた大富豪なんだけどね、今度、屋敷で交霊術を行うそうよ。死んだ作者の魂を呼び出して、物語の続きを書こうと言う試みらしいけど…」
「けど?」
話を促す客の一人にエスメラルダは「急かしちゃ駄目よ」と微笑み、
「――過去にもね、何度も何度も、色々な人が交霊術を試みているの。だけどこの作者の魂を呼び出すことの出来た術者は誰一人として居なかった」
「大方インチキだったんだろ」
「さぁて、どうかしらね。所詮は噂だもの、本当の所は確かめようが無いわ。ただ、何でもこの交霊術、やろうとすると必ず邪魔が入るんですって」
「へぇ。邪魔っつーと何かい、亡霊が暴れたりするのか?」
「いいえ」
噂を思い出して、エスメラルダは頬杖をついた。
「――灰色の猫みたいな悪魔が、現れるらしいわ」
そこまで語り終え、エスメラルダはあらいけない、と口に手をあてた。悪戯っぽく微笑む視線が新たに入ってきた客に注がれている。酒を飲む為に、ではなく、この黒山羊亭に依頼を求めてやってくる客だ。
依頼書を張り出したコルクのボードへ向かうその人物を、彼女の言葉が呼び止めた。
「いらっしゃい、依頼を探しにいらしたの?ちょうど今、話に上がっていたのが一件あるのよ」
彼女はカウンターから真新しい依頼書を取り出してひらりと振ってみせる。
「未完の物語の、作者直筆原稿。これを交霊術の日まで護衛して欲しいそうよ。どうかしら?」
***
屋敷の中ではパーティが二日目の晩に突入していた。舞踏会や豪奢な食事や、それからとにかく高価な芸術品をこよなく愛する屋敷の主、豪商ギルク家の当主は、このたび手に入れた「幻の」原稿をお披露目するために、相応しい舞台を作ったつもりでいるのだろう。
飾られた絵画や彫刻は、良く言えば幅広く――ただし悪く言えば節操無く、そんな舞踏会の会場に並べたてられている。
壁際で貴婦人達に捕まりながら横目にそれを見たシルフェは、特にその点について感想を述べるようなことはせず、常と変らぬ穏やかな笑みを浮かべたまま、目の前の、扇の陰に口元を隠した貴婦人へと意識を戻す。不安そうなその瞳に向けて、笑んだまま、彼女は告げた。
「ご安心ください、ご婦人。ご令嬢にはすぐにでも素晴らしい結婚相手が現れることでしょう――いえ、ご令嬢は今、密かに心に決めた方が居られるようですよ」
「まぁ!あの子ときたらいつの間にそんな殿方を見つけたのかしら、水臭い」
眼を輝かせた婦人を笑顔で見送り、その視線が届かぬほどになってようやく、シルフェは少しばかり苦笑気味に、溜息をついた。
「でもわたくし、占い師ではないので、アドバイスに保証は致しかねますけども」
うっかり言い忘れてしまいました、などと白々しく述べる彼女の背後で、まるで独白に応じるように小さな気配が声を上げる。
「ま、未来視も占いも、ああいう人から見れば同じものなんだろうね。…っていうか、未来視の力があるから、って売り込んでパーティ会場内の警備を買って出たのあんただろ」
「ふふ、そんなこと申しましたかしら。わたくしはただ、正直に、自分の素姓を雇い主に伝ただけですよ?」
先に行くにつれて水晶のように透ける青い髪をふわふわと揺らしてシルフェは相変わらず、裏の見えぬ笑みを、背後に立った人物に向けた。
シルフェより頭二つ分ほど下から、彼女を見上げているのは10歳ばかりに見える少年。ただし本人申告によるとハーフエルフであるらしいので、外見は年齢を判別する役には立ちそうにない。
黒山羊亭からの仲介でこの警備の仕事を引き受けたシルフェとは違い、この少年は警備でも何でもない。パーティの余興にと呼ばれたジプシーの一団の、その一人だった。肩に珍しい翠の色をした小鳥をとまらせて、少年はじっと水のエレメンタリスの顔を見上げた。
「で、どうなの、綺麗なウンディーネ。――今日の交霊術、成功すると思う?」
問いながらも興味のなさそうな口ぶりに、シルフェはにこりと笑みを深くした。青い瞳は澄んだ泉に似ているが、あんまり澄み渡りすぎてかえって底の見えないような色をしている。
「さて、どうでしょう?それよりわたくし、例の噂の<灰色の猫みたいな悪魔>さんに少しばかり興味があるんですよね。どうして邪魔をするのか、一度お伺いしたいものです」
窺うように彼女の顔を見上げていた少年が、ふいににやりと笑みを深めた。
「……さて、どうしてだろうね。悪党の考えることなんか、わかりゃしない」
「悪党、ですか」
応じるように笑みをこぼして、シルフェは少年の肩の上の小鳥を撫でた。小鳥は厭がる素振りも見せずにくるる、と可愛らしい声で鳴く。少年が何か言おうと口を開いたのと同時、彼女達の背後で甲高い音が響いた。誰かがグラスを落としたらしい。
「も、申し訳ありませんっ…!!」
メイドの切羽詰まった謝罪は悲鳴じみていた。何事かと目を凝らすと、どうもメイドがグラスを落としたのは、部屋に飾り立てられた絵画の一つであったらしい。野草と少女の描かれた絵が赤いワインを被り、清楚な風景画がその雰囲気を一転、流血でもしたかのような凄惨なものになってしまっていた。
「あれはあれでなかなかの妙味が出ていますわね」
呑気なシルフェの評は幸いにして、メイドを怒鳴りつけた屋敷の主の声に遮られて誰にも聞かれなかったようだ。
「貴様、一体この絵がどれだけの価値があるものだと思っている!こ、これだから美を理解しない無教養な連中は…っ!本来なら貴様らのような人間に見られるだけでも汚らわしいというのに!それを…」
がしゃん、と今度は男がグラスを投げつけた音だった。まだ幼さの残るメイドの少女は、投げつけられたワインに濡れながら小さく縮こまり震えている。
「も、申し訳ありません、旦那様…お許しください…」
歯の根の合わぬ程震えながら謝り続ける少女を遠巻きに眺める人々は誰一人彼女に助け手を延べることをしなかった。扇の陰で囁き合う令嬢たちは、同情するような眼差しをしながら、扇の下で笑っているのに違いない、意地悪い気分でシルフェはそうあたりをつけ、自身の想像につい溜息をこぼしてしまった。
「貴様はクビだ」
床に落ちたグラスを素手でかき集める少女を見下ろしながら、男がそう宣告する。びくりと肩を震わせ、少女は何かを抗弁しようと顔をあげたが、自分を蔑むような視線にぶつかってまた縮こまってしまった。
「…っ、…」
「何だ?その目は。さっさと片付けを済ませて出ていけ。汚らしい」
赤ワインを頭から被った姿は確かに小汚く見えたかもしれない。彼女を濡らしたのは男なのだが、そんなことを抗議できる立場ではない少女は無言で唇をかむしかないのだった。他のメイド達も、主人の怒りを恐れたか気の毒そうな顔こそすれ、濡れたままガラス片を集める少女を助けようとはしない。遠目にその様子を見守っていた少年が、ふん、と鼻を鳴らした。手を差し伸べはしない。彼とてまた雇われの身の上、彼女を気の毒そうに見守っている他のメイド達、侍従達と立場は同じ。
「そうして、こうやって見ているばかりの僕らもまた悪党なり、ってね」
見目の幼さとはそぐわぬ諦観の表情に、シルフェはふっと笑みを消した。令嬢が表情を隠す時にそうするように、掌で口元を覆い隠して、その視線ばかりを鋭く細める。
「あら、あら。わたくしまで悪党にされちゃ適いません」
そう告げる口調だけは、常と変らず笑みを載せていたが。シルフェは一礼してその場を立ち去ると、砕けたガラスを抱え濡れそぼった姿のまま退室した少女の背を追った。
***
砕けたガラス片を屑籠へ捨てた少女は、人の気配の無い廊下の片隅で肩を震わせていた。シルフェは少しばかり思案したものの、結局、ゆっくりと近づいて微笑みかけることにした。
「あ…す、すみません、お客様にみっともないところお見せして!」
彼女の存在に気がついた少女が慌てたように目元を拭う。その指先に血の滲んでいるのを見止めて、シルフェはその手を取った。
「あの赤ワイン、なかなか絵に似合っていましたわね」
「え、あの…?」
全く無関係なことを口にしたシルフェに、少女が困惑を露わにする。そうして少女が固まっている間に、シルフェはそっと小さな傷口に歌いかけるように囁いた。それだけで、簡単に傷口は塞がり、少女は痛みが引いたことに気がついたのだろう。再び目を丸くした。シルフェを見、自身の傷を見、数秒も呆然としてからはっとしたように慌てて頭を下げる。
「すみません、すみません、お客様にこんなことさせちゃうなんて、ごめんなさい!」
猛烈な勢いで頭を下げる少女に、シルフェは苦笑と共にその顔をあげさせた。ワインに濡れた髪がはりついて、そばかすの浮いた幼い顔だちはますますみすぼらしく見える。
「こういう時はお礼を言ってくださると、わたくしも嬉しいですわ」
「あ…。ありがとうございます」
三度頭を下げた少女の、服にまで浸みこんだワインに、シルフェはそっと手をかざす。染みを落とすのは難しいだろうが、濡れた服で少女が風邪を引いてはさすがに哀れだと思ったのだった。水の精霊に語りかけ、余分な分だけ少女の傍から立ち退いてもらうことにする。言うほど容易いことではないのだが、シルフェは顔色ひとつ変えずにそれをやってのけた。それから、気落ちした様子の少女に首をかしげて見せる。さらりと、美しい髪が揺れて流れた。
「ところでお訊ねしたいことがあるのですけれど、よろしいかしら」
「え、あ、はい、あたしで分かることなら」
メイド服のスカートについた赤い染みを気にしていた少女が、力強く頷く。恩義を感じてくれているのだろう、そう思うと少しばかり意地悪をしてみたい気分にもなりはしたが、シルフェは今はその気持を飲み込んでおくことにした。
「――例の、原稿のことなんですの。わたくしたち、警備を任されたのはいいのですけれど、あの原稿がどこにあるのかを聞かされていないんですのよ。あなたはあれがどこにあるか、ご存知ないかしら?」
彼女は僅かに逡巡をしたようだったが、先にクビを宣告され、更にあの仕打ちでは、主人への忠節は薄いのだろう。それでも声をひそめて、「絶対にあたしが言ったって、言わないでくださいね」と前置いてから、シルフェにそっと耳打ちして教えてくれた。
「たぶん、ご当主様の寝室だと思います。ご当主様はあの部屋の金庫に、一部の…あの…『ある種の』コレクションをしまわれていて、メイドや、執事さんでさえ、あのお部屋には立ち入れないのです」
「あら。ベッドメイクはどうするんですの?」
「…ご当主様の…その…親しい、女性のご友人がされておられます…ええと…」
言いづらそうに彼女は辺りを憚ったが、口を濁す彼女の様子にあっさりシルフェはその先を口にした。
「成程、奥様とは別の女性ということですわね。うふふ、不道徳ですこと、感心しませんわぁ」
「あ、あのっ!違うんです、あたしそんな積りじゃ!ああでもメイドの間では有名な噂だしっ…」
慌てて腕を振り回した少女だったが、やがてがくりを肩を落とした。
「…でもあたし、クビになっちゃったし、ご当主様の秘密なんて後生大事に守らなくったって関係ないんですよね」
「そうですわね、ええ、ここですっかり吐きだしてしまったらいかがかしら」
いかにも無害な笑みを浮かべながらさらりと彼女を唆すシルフェの意図に、気付いているのかいないのか。少女は口を開いて何かを吐きだそうとしたが、それは廊下から響いてきた神経質そうな叫びに遮られた。
「ユーリィ、何をしているのっ、いつまでわたくし達の客を待たせる積り!」
ユーリィというのが少女の名なのであろう、哀れなほどに身を竦ませ震えた少女は、それでも叩き込まれたメイドとしての条件反射か、
「はいっ、奥様、ここに!」
背筋を伸ばしてそう応じてしまった。誰もいないはずの控え室で震えるメイドを、現れた婦人――奥様と呼ばれていたからにはこの屋敷の当主の奥方であろう――が、蔑むように見下ろしていた。
「お前ときたらどうしてこう役に立たないのかしら。せめてクビになるまでの間くらいもう少し役に立とうという気はないの?さっさとおし!」
はい奥様、と機械的に頭を下げた少女は、シルフェにすみません、と小さな声で謝罪して部屋を飛び出していく。部屋に残されたシルフェを、婦人は一瞥して、汚らわしいものでも見たように眉をひそめた。
「…夫の雇った護衛とやらね。お前もこんなところで油を売っていないで仕事をしたらどうなの?会場をうろうろしたりして、全く、目障りだわ」
「あら。それは申し訳ありません、奥様。わたくし、会場内の警備を任されていたものですから――ですが奥様のお気を煩わせるのなら、外へ出ることに致しましょう」
場内の警備は不要なんですわよね、と微笑んだシルフェに、憎々しげに、乱暴にぱちりと扇を閉じた婦人は吐き捨てるように。
「……勝手におし」
それだけ告げて、来た時と同じようにヒールの音を高らかに響かせて去っていく。その背中に向けて慇懃無礼な一礼をすると、シルフェは足音もたてずに踵を返した。いかにもエレメンタリスらしい足取りは、それこそ精霊のように軽く、優雅ですらある。
月は既に中天にかかり、交霊術の時間が近付いていることが知れる。
「さて…お客様はいついらっしゃるのかしら」
歓迎の準備は万端。だが十全にすぎるということはない。
会場へ戻る道すがら、通りかかったメイド達の控える一室の扉からは、メイド達の噂をする声が漏れ聞こえてくる。聞くともなしに、シルフェはそれに耳を傾けていた。
***
屋敷を警護する男達の前に現れたのは、フードを目深に被った女だった。長身の女が夜の街並みを、散歩でもするように気軽な足取りで近づいてきて、唐突に男達の前でばさりとそのフードを取ったのだ。
満月の明かりは蒼く辺りを染め上げている。隣の人の顔さえ蒼褪めて見せる夜の空気の中で、だから現れた女の周りだけがごそりと色を欠いている様は、一種の異様であった。
「何者だ」
誰何の声に、女は笑う。猫のそれと同じ形の耳をピンと立てて、牙をむく猫のように笑った。
「私?私は、通りすがりの悪党さ」
言うなり彼女は手にした巨大な剣をひと振りする。それは警護の人間ではなく、屋敷の頑丈な門に当たり、鉄製のはずの門にヒビを入れた。自分の手に返った手応えに女はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。
「あはは、結界を張りやがったな、あんちくしょう、あはははははっ!」
「く、曲者だー!応援を呼べ!!」
「敵は独りだ、一斉にかかれ!!」
高らかに笑う女は手に手に得物を構えて飛びかかってくる男達にも無頓着だ。ただただ気楽に剣を振り回しているだけにも見える。だが、それだけで、大の男達が吹き飛ばされ、地面の石畳が砕け、結界に支えられているはずの屋敷の塀さえヒビが入っている。
「あっははははっ!!」
――彩の無い、灰色の。青い夜にさえ染まらぬ異相は、ただ笑っている。楽しそうに、愉快そうに。
「楽しいね、いい夜だ!さぁ、踊ろうぜ。今日は…本当にいい夜!」
***
交霊の為に蝋燭だけが灯された暗闇が、轟音と共に揺れた。男が立ちあがり、テーブルの中央、大仰なベルベットの台に置かれた古ぼけた紙切れを抱える。
「な、何事だ…!?」
「侵入者です!正門に…!」
報告を聞き終えるまでもなく、屋敷の主は駆け出していた。
「き、き、きゃ、客人達はお前達に任せるぞ…!私はこれを守らねばならん…!!」
ばたばたと駆け去る主人に、騒ぎ出した客人達は幸いにも気付いていなかった。悲鳴をあげて部屋から飛び出すもの、気絶して倒れる淑女と室内は騒然としている。逃げ出そうとした一人が蝋燭を蹴倒し絨毯へ燃え移ったが、これは運良く居合わせたシルフェによって消し止められた。そうしながら、彼女は主の去った方向を一瞥する。メイドが、「ある種のコレクションだけしまいこんである」と言っていた寝室の方だった。
「緊急時ですもの、雇い主を守らなければなりませんわよね」
うふふ、と誰にともなくそんなことを言って、彼女はそのあとを追う。
だが一歩遅かったか――否、ゆっくりと歩いていたのは彼女なので、それはある意味好タイミングでもあった訳だが――彼女が見たのは、廊下にがたがた震えながらうずくまる雇い主の姿である。
「ひぃっ…!助け、助けてくれ、お前、護衛の者だろう!あいつをどうにかしろっ!!」
「あいつ、と申されましても」
おっとり答えながら目をあげたシルフェが見たのは、一頭の狼である。高い天井の室内にあって威圧感さえ感じる、馬ほどもある巨大な体躯の、群青の毛並みの狼であった。自然のものではあるまい、魔物の類に違いない。
「……まぁ、びっくり」
――とはいえシルフェの反応はそれだけだった。淡泊な彼女の反応に、室内からは忍び笑いが聞こえてくる。幼い子供のそれのようだった。
「ええい、どうにかしろと言ってるんだ!!払った金の分は働かぬか!!」
雇い主は原稿用紙を後生大事に抱えたまま、そんなことを喚いている。――先の幼い笑いが、今度は呆れた調子で告げた。
「そんなにその原稿が大事?」
く、と笑って、狼の頭上から顔を出したのは――少年だった。見覚えがある。
「…あなた、ジプシーではありませんでしたの?」
会場に居た、余興にと呼ばれたジプシーの一団。その面子の一人だったはずの、ハーフエルフだった。彼はシルフェを見止めて肩をすくめて見せる。
「あのジプシーの皆は僕の姉妹たちだよ。生憎と、僕はただの悪党の息子でね。…でも、そんなこと、とっくにお見通しなんだろう、ウンディーネ?」
少年の言葉にわざとらしくシルフェは口を尖らせて見せる。
「あらいやだ。雇い主の前でわたくしの怠慢をあげつらうお積りですの?酷いですわ」
声を荒げかけた雇い主を、狼のぐるる、という低い唸りが黙らせた。がたがた震える男を一瞥し、少年は狼の上から降りて来る。シルフェの前で足を止めた。
「…<灰色の猫みたいな悪魔>の動機が、知りたいって言ってたっけ」
呟くような声。シルフェの返答を待たず、彼は淡々と続ける。
「あのバカな灰色猫、…君らの言うとこの<灰色の猫みたいな悪魔>はね、昔の相方の約束を守って、ああして交霊術を邪魔してるんだ。律儀にもね」
――彼の悪口に応じた訳でもあるまいが、外からひときわ大きな轟音が聞こえてくる。
屋敷をぐるりと囲む塀には結界を施してあるとか聞くが、この様子ではそれがいつまでもつものか怪しいところだ。
「昔の…約束、ですの?」
「そ。あれを書いた奴は少しワケアリでね。ぶっちゃけちゃうと、人じゃなかったんだ。でもあいつは、自分の正体が死後も知られることがないようにって、そう願っていたから。…交霊なんかしたら、あいつの正体がバレちゃうし、それは困るんだよ」
それだけ言ってから、彼は一転して冷たい視線を廊下へ、シルフェの背後へと向ける。
「…そしてそいつが後生大事に抱えている紙っ切れは、その『昔の相方』の形見と言う訳だ。その男が盗みだすまで、僕らの財産だったんだよ」
くい、と顎で示された先、男は未だに原稿用紙を抱えたままで必死に首を振っている。
「ち、違う!私は…っ、そうだ、好事家から買ったんだ!」
「買った?冗談じゃない。…僕と母さんが孤児院に居ない隙をついて、雇った奴らに盗ませたんだろう」
冷淡に吐き捨て、少年はちらとシルフェへ視線を戻す。皮肉そうに口元を歪めた。
「……どうする?ウンディーネ。何ならそんな下衆な男を手伝うより、僕らの『悪事』に加担しない?」
「魅力的なお申し出ですこと」
シルフェはふわりと微笑み、窓から外を見やった。視線の先、庭の向こうで、そこだけごそりと色が抜け落ちたような異相の人物が剣を振り回している。無茶苦茶な暴れ方をしているようにも見えたが、その実、警護の人間には最低限の怪我しかさせていない。――ある意味では恐ろしい技量の持ち主なのかもしれなかった。
「そうですわねぇ。確かに御誘いは魅力的なのですが――生憎とわたくし、悪党には向いておりません。ひとさまを裏切れるほど図太い神経を持ち合わせておりませんの、うふふ、ごめんあそばせ」
わたくしこれでも繊細なんですのよ、と微笑んで見せて、シルフェはすっと何かを差し出した。手の上にあるのは小さな海のような青い青い宝玉、それを知っているらしい少年がさすがに目をむいた。
「ちょ、ちょっと、こんなとこでそんなもの使ったら――!!」
彼女が掲げたのは海皇玉(マリンオーブ)。
「た、退避っ!!」
「うふふ。溺れないでくださいましね」
小さな宝玉から、水が溢れた。
***
どぉん。
と、派手な音が響いて、屋敷の外に居た誰もが一斉に顔をあげた。彼らの視線の先、屋敷の主の部屋――があった場所から、何故かものすごい量の水が溢れている。
窓を突き破り壁をぶち壊し、勢いよく溢れた水がようやく落ち着く頃、庭の木には水の勢いで押し出されたらしい屋敷の主が、濡れそぼった惨めな恰好で引っかかっていた。気絶しているが、時折唸っているところを見ると命に別条はないらしい。
何事かと、唖然とする一同の見守る先で、よろよろと壊れた壁から顔を出した少年が居た。自分の背後に控える、彼と同じくらいに濡れそぼってすっかり貧相な姿になった狼に何事か命じると、狼は軽々と壁から木の上へと飛び降り、気を失った屋敷の主が、後生大事に抱えた紙切れを器用にくわえあげる。
室内を襲った局地的な洪水の中で、何かの冗談のように、その紙切れだけが濡れていない。ふざけるなと怒鳴りたくなる気分を堪えて、少年は廊下で、こちらも冗談のように濡れていない女性を見やった。ウンディーネはうふふ、と、相変わらず底の見えない笑みを浮かべている。
「…ホント、最悪の夜だよ、今日は…」
意図していた訳でもあるまいが、表に居る義母と正反対のことを呻いて、濡れた手で慎重に原稿用紙をつまみあげた。
「ウンディーネ。…これは落ちていたから拾っていくよ、いいね」
「ええ、わたくし、雇い主の安否を確かめたりしなければなりませんもの、忙しくって美術品の方にまで注意を払えませんわ」
そんな白々しいやり取りの後、少年が濡れてはりつく髪をかきあげた。苛立たしげに、
「……僕まで巻き込むこと、ないんじゃないかなぁ…」
「あら、だって、悪党に加担しておられるのでしょう?そんな方を看過するわけには参りませんもの」
冗談なのか本気なのかさえ分からぬ物言いに少年は溜息だけをこぼした。濡れた身体を一度ぶるりと震わせ、眼下で未だに暴れまわる女性に目をやる。<灰色の猫みたいな悪魔>こと、実際には悪魔ではなくただの混血である女性は、彼に向ってウィンクすると、茫然としている警備達をふっ飛ばしてから、ぶんぶん手を振った。
「ハニー、例のアレ回収できたかー?」
ご近所の迷惑を顧みない大声であった。少年は頭痛でもするかのように顔をしかめて、彼女を殊更に無視するように背を向けてしまった。あ、こら、ハニーってば無視すんなよ、母さんお前をそんな子に育てた覚えはありませんよ、などと言う戯言が、時折剣戟の音やら破壊音やらを交えて聞こえてきたが、一切合財を無視して目の前の女性に向き直る。
「お母様のお相手はしなくてよろしいのですか?」
「よろしいです、あんな人は親でも何でもありません」
本気なのか冗談なのかはたまた願望なのか。どうともとれる物言いにシルフェは苦笑だけしておくことにした。少年は真顔に戻り、そんなシルフェに、寝室の一角を示して告げる。
「その男はね。他にも盗品をコレクションに持ってるはずだよ。…我ながらこれは余計なお節介だけど、覚えておいてくれると嬉しい」
「…あら、やっぱりそうなのですね。メイドの皆様の情報網もなかなか馬鹿にはできませんわねぇ」
――実を言えば、シルフェはこの屋敷の主が盗まれた芸術品をコレクションに加えていることを聴き知っていたのだ。メイドのユーリィの言葉、「ある種のコレクション」という婉曲な表現が気にかかって、メイド達の噂のやり取りを聴く中で知った事実であった。
「メイド?何のことかよく分かんないけど、まぁいいや、とにかく頼むね」
早口に告げて彼は相変わらず無音で背後に控える狼に手を伸ばした。べったり濡れた毛並みに少しばかり顔をしかめたが、結局何も言わずに壁に空いた穴から庭へと飛び出そうとする。
「お帰りになりますの?」
「まぁ、ね。――貴女みたいに綺麗なレディを、パーティに居ながらダンスにお誘い出来なかったのが残念だ」
濡れてみすぼらしい貧相な姿でも、少年が見せた一礼はなかなかに優雅であった。それでシルフェも、膝を折って一礼を返して笑う。
「あら、残念ですわ。是非また今度御誘いくださいませ。今度はそう、出来ればワルツでも」
「激しいばっかりのフーガなんかより、確かによっぽどいい」
幼い少年は顔立ちの幼さに全く不似合いな表情を浮かべると、今度こそ狼にひらりと騎乗して庭へと降りて行った。
***
交霊術、やっぱり失敗。そんなニュースは翌日には王都を駆け巡っていた。元々豪商ギルク家の評判が良くなかったこともあって、「いい気味だ」なんて褒められたものじゃない言葉が飛び交い、噂は奔る。
「これでこの家も、もう駄目かもしれませんね…元々客商売だもの、評判が落ちちゃお終いだわ」
言いながらも明るい表情で笑っていたのは、一人の少女だった。
――あの屋敷に仕えていたメイドである。クビになったので元・メイドだ。鞄ひとつに身の回りの物を全て詰め込んだ彼女は、屋敷を立ち去るシルフェに「私も出て行くんですよ」と示して見せた。
「行くあてはあるんですの?」
シルフェの問いに、彼女は笑う。
「それ、私も心配してたんです。私には身寄りもないし…でも不思議なんですけど、今朝になって、お仕事の誘いがあったんですよ。――お給料はあんまり出せないし、住むところもここほど立派じゃないけど、三食付きで住み込みで、子供達のお世話をしないかって」
「子供の?」
「ええ、なんでも孤児院を運営していらっしゃるそうで。…昨日のパーティで、お客様の前でみっともない姿を見せてしまったでしょう?…でもあれで、かえって同情してくれた方がいらっしゃったみたいですね」
何が幸運に転ぶか分からないものです、苦笑してから彼女は鞄を持ち上げた。細い少女の腕でも軽々と運べる程度の鞄であった。
その背を見送ってから、シルフェはやや苦笑気味に、ヒビの入った塀の影を見遣る。
――灰色のローブを被った長身の影と、やや小さな少年染みた姿が一瞬だけ見えて、すぐに町中へと消えて行った。
あの二人は孤児院をやっているとか言ってはいなかったかと、シルフェはそんなことを考えたが、深く問い詰めるのも無粋だ。ただ微笑んで、手を振るだけに留めておいた。何れ縁があれば、また会うこともあるだろう。
出来ればワルツでも踊れるような状況だと良いのだが。
***
更に数日後、シルフェは風の噂に、ある小さな町の孤児院から、「無名の物語」の原稿用紙――前に王都を騒がせたものは、いつの間にか噂の中では「偽物だった」ということにされていた――が発見されたという話を耳にした。
何でも原稿用紙は、研究家の集う王都のとある学園の図書館が買い取ったとか言う話である。誰でも自由に閲覧できる場所で、誰もが自由に読むことができるようになったという。
そして噂にはこんな話も付随していた。孤児院では、この原稿を売る条件として、恵まれぬ立場の孤児や貧乏な家の子らでも学園へ入学できる制度を作って欲しいと申し出たらしい。貴重な原稿を受け取る代償として、学園側は要求を受け入れたという話だ。
「まぁ、素晴らしい話ですわ」
うふふ、と笑ったシルフェは、自分を悪党とその息子だと名乗った二人のことを思い出した。
「――悪党というのは色々と手広くやるものなのですわねぇ、大変ですこと」
「?何か言ったかしら」
「いいえ、なんでもありません、エスメラルダ様。それより何を読んでいらっしゃるんですの?」
「これは、冒険者の人が持って来たのよ。どこかの遺跡に落ちていたらしいの。…読まれない本なんて可哀想ですものね」
そっと表紙を上に、彼女は本をカウンターに伏せた。
シルフェは微笑んで本に目を落とす。何の変哲もない恋愛小説のようだ。表紙をそっと撫でて、彼女は目を細めた。
「…本は人の心を充たしてこそ、ですわよね」
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2994 /シルフェ / 女性 / 17歳 / 水操師】
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■ ライター通信 ■
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初めまして、夜狐と申します。
このたびはご参加ありがとうございましたー。
個人的にではあるのですが、シルフェさんはとても好きなタイプのPCだったので、ついつい楽しんで書いてしまったのですが、やり過ぎちゃあいないかと心配です…
もし妙な点、不都合な点ございましたら、お気軽にリテイクをお願いいたしますね。
ほんの少しでも楽しんで頂けたら、幸いです。
では、またご縁がありましたら。
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