<東京怪談ノベル(シングル)>


■巡りの始まり■





 扉越しにも知れる激しい雨音に気付いたエスメラルダが、なんとなし見遣った窓の向こうに覚えのある姿を捉えたのは僅かばかり前のこと。ときおり店で持ち掛ける面倒事を請けて貰っている人々の中のひとり――千獣が雨を避けて佇んでいるのを呼び入れてからこちら、彼女はずっと、静かに工房を見回していた。
「そろそろ雨も弱くなったかしら」
「……そう、だね……」
 それがひとしきり用事を片付けてから声を掛けようと振り返れば、じ、と外へ目線を向けて動かない。
 つと傍らに立ったエスメラルダを千獣は一度見詰め、そうして再び外を見る。空の遠くが明るくなって来ているのは訪れている工房からでも充分に知れたものの、雨はまだいささか大きな粒で落ちている様子だった。
 もう少ししてから出る方がいいわね、と小さく呟くエスメラルダ。
 急ぎの用事があるでもなし、どうせ仕込みの類は任せているのだから。
「…………」
 工房の奥とこちらとを出入りする主も二人に何を言うでもない。
 無言のままに長居を許容しているとは付き合いの長さから判じ、踊り子は意識を佇む千獣へと傾けた。するりと滑らかに流れ落ちる黒髪の下から覗く白い肌。そこに存在を主張する紅の瞳。唇が音も無く何かを呟く様子。それらをさりげなく視界に収めながら、千獣が見る先を辿ってみる。
(?)
 何も無い。ただ空と雲と降り落ちる雨と、ぱらぱらと降りしきるその中を出歩く人影と。
 地上にとても千獣がまじと見るようなものは見当たらない。工房の集まる辺りだから時々には珍しい光景もあるだろうが、それでもこの日には何もない。
 外を見ているというよりも、何事かをか思案しているのであろうか。
 ぱたぱたと雨粒が地を叩く音を聞きながらエスメラルダは思い、ならば去り際にでも改めて声をかければよしと傾がせていた身を戻す。
「……ねぇ」
 と、千獣がそこで声を落とした。
 何気なく髪を手櫛で整えかけていたエスメラルダがそれを止め、目線を向ける窓の前。
 口数のけして多くはない娘が日頃と同じくぼんやりと、一見するに思考の在り処もわからぬ様で外を見るままでいた。訥々と言葉が千獣の唇から零れ出る。空を見るままに。
「なにかしら」
「雨、は」
「雨?外の?」
 ぽつりと落ちていく稚い風情の声に、エスメラルダは再び身体を巡らせて動きかけた場所へと戻った。並び立ち、僅かに身を屈めて窺う外。雲が重たげに広がれども遠くにはそれは見当たらず、軽やかな色を取り戻している。清々しい空の色。
「……雲から、生まれる、ん、だよね……?」
 だけれども、うん、と小さく頷いた千獣は雨の終わりを知らせる遠くではなくて、じりじりと追い遣られる気配の薄暗い空模様、正確には雲を見ていた。ごく自然に、けれどもひたと見定めて。



 行き交う姿の大小。身の内で育む生命。枯れた花。落ちた種から生まれる緑。
 人は巡っている。森は巡っている。世界は巡っている。

 ――繋がっていく。連なっていく。全てが巡り移ろっていく。



 雲から雨が生まれる、という表現は世慣れぬ感受性のようにも思わせた。
 そう。確かに雨が降る理屈は『雲から生まれる』と表現しても不思議ではない。
 エスメラルダには到底浮かばぬ言い様であったけれど、千獣が言うにはしっくりと収まる何かがある。それは、それなりの年齢の姿である彼女が、そのくせ外見から判じる年には似合わぬ――大人びているか、老成しているか、純粋か、稚いか、無垢か、両極端ながら――光を双眸に湛えているのを見ればこそ頷けるものだろうか。
「そうね。間違ってはいないわ」
「……雲、から、雨が、生まれて」
 どこか印象的な空気を持つ人々はエスメラルダが依頼を預ける相手にも多い。
 千獣もまたその一人で、訥々とした調子で語る言葉。相手にも己にも噛んで含めるようなそれ。多くを語らない、けれど何かを内に抱いて生きる彼女。それなりに面識もあるはずの自分であれども呪符に覆われる内側の全てを知りようもなく。
「生まれた雨、は……降って、また、空に、帰って、雲に、なって……」
 だが、雨宿りを兼ねて工房に長居する、今このときには知れずとも推し量ることは出来そうだとエスメラルダは感じていた。どことなし覚えのある表情に重なる千獣のそれ。呟きを小さく紡いだ唇を閉ざして空を見上げる顔。
「それから、また……雨を、生む……」
「くりかえしね」
「……うん。くりかえし」
 相槌の言葉を重ねて千獣は雲をただ見遣る。
 同じではないが似たものを知るはずと、踊り子に思わせるその表情。
「…………」
 ぱくりと唇が音の無いまま動いた横顔。静かに雲が流されていくのを見る姿。
 わかりやすい感情の一つとして刷かれてはいないのに、まとう空気が気持ちの端を覗かせる。
 エスメラルダに出来る事は、千獣が零す心の様子を聞くだけで。

「いい、なぁ」

 妬みも嫉みもなく、ただ純粋に過ぎる声音。
 ああ、と千獣の控えめな言葉を聞いたエスメラルダは知らぬ間に瞳を閉じた。
 ささやかな言葉を発するまでの空白に千獣が何を思ったのか。何を考えたのか。
 足りぬ程に少ない口数ではあっても、今ここで空に広がる雲を見る彼女の胸中にはけして少なくない、多くの言葉だとか気持ちだとか、どれだけのものが溢れているのか。
「羨ましいの?」
「……そう、なのかな……?」
 問うてみても千獣はことりと首を傾けてエスメラルダを見返すばかり。
 彼女自身にも整理しきれていない類の心情の一つであれば、エスメラルダに出来ることは限られる。
「いいなぁ、って言うから羨ましいのかと思ったんだけど」
「うん……そう。いいな……って」
 ときに千獣がエスメラルダに何某かを訊ねてくる、そのときのようにただ話をし、話を聞き、それだけだ。
 視線を緩やかに滑らせる千獣が言葉を探す。探している、と察せられる。ぽんぽんと店で客と投げ合うような調子とは程遠い緩慢な遣り取り。ぱたりぱたりと思い出したように耳を打つ雨音の中で交わす言葉。
「……皆、繋がって……続く、から」
「繋がる、ねえ」
 雲が雨を生む。繋がって。雨がまた雲になって。続いて。繰り返して。延々と。連綿と。
 それはエスメラルダには当たり前の出来事だ。意識するでもない、ごくごく当然に在る形。
 けれど千獣は当然だと思われていたそれを指して『いいなぁ』と評したのだろうか。羨ましいと感じているのだろうか。あくまでもエスメラルダが量る千獣の事柄であるけれど。
「でも」
 雲を千獣に倣って見遣ってみて、そこで耳に届いた声に踊り子はいっとき表情を動かした。正面から見て気付くか気付かないか、その程度ながらも動かして、それから取り繕う。さりげなく窺った相手はただただ空を眺めている。まばたきで揺れた睫毛が不思議と目についた一瞬。
「私、には……出来ない……」
 ぱたた、と晴れゆく空から名残のように雨が強く、落ちた。



 形は変わらない。育む何かを持ち得ない。終わりは遠く、果てが知れない。
 佇んでいる。見送っている。追いつかれ追い越され、置き去られ。

 ――繋がらない。連ならない。巡り移ろう環に届かない。



 なんとなし出歩く最中に降り始めた雨が止むのを千獣は、雨宿りにと呼び招いてくれたエスメラルダ――なにやら所用で店から出ていたというが、店外での遭遇はなんとも稀である――と並んで見る。
 踊り子は店に居ようと居まいと、千獣の言葉を聞き流し、けれど拾い上げ、適切な言い回しを探しては途切れる声を焦れることなく待って聞く。何気ない疑問にも答えをくれる。絶対の答えではないとして寄越してくれる言葉は千獣の、朧気な思考をしばしば固める助けになった。
 けれど今回はそこまでにも至らない。ただ己の中の意識を何某かの思考へと運ぶ、その途上であるような状態だったから、千獣は見上げた空模様から浮かんだことをぽつりぽつりと声にするだけ。それでもエスメラルダは相槌を打ちながら聞いて。
「命……って、巡るもの……でしょう?」
「親から子へという意味なら、そうかもしれないわね」
 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。それ以外もあるかもしれない。
 決め付けないようにと言葉を選ぶ様子のエスメラルダ。この踊り子に限らず、関わるようになった人や物事、場所、それらには千獣の心を揺り動かし意識を刺激するなにかが多く存在している。頭の片隅でちりちりと燻ぶって消えない問いもそれらと関わったからこそ生まれたものかとふと思う。関わる中で己と重ねてみたり並べてみたり、差異を見て考えることがあることもその一端かと考える。
「じゃあ」
 だからこその疑問。だからこその。

「繋がらないもの、は」

 ――自分は。

 千獣の中には言葉に特別含むべき事柄はなかった。
 純粋に、考えていく中での疑問だった。
 命の循環に含まれぬ存在は、ならば何であるというのか。
 そこで終わるもの。そこで途切れるもの。そこで完結するもの。
 繋がる先を持ち得ぬ存在は、と。

 けれどそれを素直に言葉にすればあまりに悲観的に過ぎるように思われて、千獣は続ける言葉に惑った。なにも沈んだ気持ちからの話題でもないのである。ただ単に空を見ているうち、雨の降るに至るを思ううち、ときおり考えるようになった事柄を形にしようとして知らず話していただけで。
「……命、の」
「雨――止んだわね」
 それでも続けようとしていた千獣の言葉を珍しくも遮って、エスメラルダはわざとらしく窓の向こうを覗く姿勢で身を傾がせた。確かに雨は止んでいる。話す間も千獣は外を見ていたからわかっていたというのに改めてわざわざ言うとはどうしたことか。
 不思議そうに見詰めたのかもしれない。くすりと笑ったエスメラルダは手入れされた腕を、千獣の呪符に覆われた身体へと添える。あのね、と言い聞かせるような声。踊り子は微笑んで唇を動かした。
「どうしてそんなことを考えるようになったのか、そこから話して欲しいのだけど」
 いくらだって聞くから、いくらだった言葉にして思考を固めていけばいい。
 そこにちょっとした好奇心を満たすものが混ざっていればばっちりね。なんてことを笑顔で告げるエスメラルダは早々に片付いていた用事の関係物を抱えると、目線で千獣を促した。殊更に話を続けるつもりもなく黒髪をなびかせて後を追う。工房の人間は二人へ視線を投げもせずに手元の作業に集中していた。
「ちょうどお願いしたい依頼があるの。一緒に来てくれると嬉しいわ」
「……うん」
 扉が僅かな軋みと共に開き、踏み出した外は清々しい大気の場。
 雨の降った後に感じられる独特の涼やかさに息を深く吸う。
 かつかつと靴音を少し高く響かせてエスメラルダは続いて出てきた千獣へと振り返って。
「続きは黒山羊亭で」
 何が楽しいのだろうかと思う程に綻んだ踊り子を見詰め、彼女が続けた言葉が理解出来ないながらも千獣は同行を了承する意も篭めて頷いておいた。

「あなたが抱える疑問の始まりは、何か、誰か、興味深いわね」

 だってエスメラルダの微笑みは生まれ落ちた雨の名残の中で優しげであったから。





end.