<東京怪談ノベル(シングル)>


もう一つの顔〜歯車狂想曲〜

 ほとり。
 窓から差した真昼の微かな陽光が、琥珀色に輝く雫を一際輝かせる。最後の一滴とばかりに落ちた液体は、洒落たティーカップの中に静かな波紋を広げた。
「これが、ゴールデンドロップ。紅茶の最後の一滴には、そのすべての香りと味が凝縮されているそうだよ」
 微笑んでポットを置いたクロークが、ティーポットを置きながらそう呟いた。
 淹れたての紅茶を差し出す先には、カウンター席に座る男性。最近、不眠症に悩まされていた彼は、風の噂に聞いたこの店を訪れた客だった。
 手軽な物をと所望されたクロークは、試しにと不眠に効果的なハーブブレンドのフレーバーティーを振る舞っていたのだ。
 男性はありがとう、と一言礼を告げて、勧められた紅茶に口を付ける。
 一口、二口と喉の奥に流し込まれた紅茶は、たちまちにその効果を発揮した。
「美味しいな。それに、すごく良い香りで……何だか疲れまで取れてしまいそうだ」
「それは良かった」
「これと同じものを、三百グラムくれるかな?」
 ゆっくりとハーブティーを嚥下してから、やがて男性はゆったりと告げる。
 彼の要求に答えるよう、クロークはにこりと満足げに破顔した。

 ちらほらと訪れては去っていく客人は、その殆どが某かの悩みを抱えている。ひっそりと路地裏に佇むこの店は、そんな客人の悩みをほどく為の店だ。
 香りというものは不思議なもので、調合次第では高ぶる心を落ち着けたり、疲労を和らげたりといった効果をもたらす。
 調香師であるエル・クロークは、そういった“香り”を扱う少年だった。
 店頭には、先程男性客に振る舞った紅茶の葉から、アロマエキスや香木、石けんに洗髪剤といった香りに関するものが並んでいる。平時はそれらを売って生計を立てているのだが、時折彼には、それとは異なる仕事が舞い込んでくることがあった。
 キィ、と軋む音を立てて、宵闇に染まり始める店内へ足を踏み入れる影が一つ。
 入り口へ目を配せたクロークが認めたのは、ブルネットの髪に青い眼をした十二、三ほどの少女だった。
「いらっしゃい」
 香の瓶を整理していた少年が、無表情で立ち尽くす少女を招き入れる。がらんとした店内を見回すでもない少女は、ただ真っ直ぐにクロークを見つめていた。
 香でも、石けんでも、アロマエキスでもない。
 彼女の願いは、きっと別の所にあることを、少年は直感的に感じ取る。
 こんな真っ直ぐな瞳を、少年は過去幾度も目にしてきた。
「貴女の、望みは何?」
 物腰は優しく、けれど確実に答えを引き出すような問い。
 少女はそれを見透かした上でだろうか、ゆっくりと唇を開く。
「探し物をしているの」
「探し物?」
「私の中に、一つ空いた歯車の痕。失くした記憶を」
 彼女の一言で、クロークは先に続くであろう言葉を理解した。
“その空洞を満たす物を”
 静謐という言葉がぴたりと似合う少女へ、彼はそっと手を差し伸べる。
「こちらへ。貴女の望む、最高の夢を見させてあげる」
 うっすらと笑う瞳は血のような赤。深く底知れない輝きを宿しながら、彼は店の奥へと少女を誘った。進む先にあるのは、クロークの“もう一つの仕事場”だ。
 正確には、これも調香師という仕事の延長線であるのだが。
 客人の願いを束の間の夢の中で叶える、泡沫のような仕事。それは時に人を癒す薬であり、時に人を蝕む毒だった。
 果たして、この客人には薬となるのか毒となるのか。
 開いた扉の先には、闇が影を落とす部屋。壁の棚には無数の小瓶が並び、甘い橙の明かりを放つランプが一つ。それから、中央に据えられているリクライニングチェアを覗けば、他には何もない個室だ。
「座って。楽にしてごらん」
 チェアへ少女を導きながら、クロークは横目で棚の瓶を吟味する。今日はどんな香を焚こうか。そんなことを考えながら、彼は一つ一つ、少女の願いを紐解いていく。
「目を閉じて。静かに、そう。貴女の奥にある穴の中には、何が埋まっていたのかな?」
「……んさま…」
「貴女が見たいもの。見たい風景を思い出してみて」
「ご主人、様」
 鮮やかな夢のレモングラス。
 静寂の面影を落とす伽羅。
 シュガー系にローズを調合した香はどうだろう。歓喜と悦楽のハニーローズ。
 けれどふと、幾つも瓶を持つその手が一つのラベルの前で止まる。彼が見付けたそれは、茶色の小瓶に紫のラベルの貼られたありふれた一本。
 郷愁と安息のラヴェンダー。
 迷わず手にした瓶の中身を香炉に一つまみ入れてから、焚きしめられる香は少女の心へと忍び込む。くゆる香煙に、少年は虚ろな彼女の意識へ囁きかけた。
「貴女は、どうしたい? 貴女の願いは、必ず届くよ」
「会い、たい。……あの人に。あの人は……何を願ったの」
 うわごとのように何度も繰り返される、彼女の願いは
 掠れながらも呟かれた言葉を最後に、少女は眠りの縁へ引き込まれたようだった。
「きっと、貴女は覚えている筈だ。頭を空っぽにして。胸の内は、貴女の求める人で満たして」
「私の、願い、は――あの人は……」
 大丈夫、見付かる筈だよ。少年の付け足した言葉に、少女は物言いたげに唇を動かした。しかし先の言葉が告げられることはなく、代わりにほとりと眦からこぼれた雫は、波紋を描くことなくこめかみを伝う。
 チェアを濡らした一滴の涙に、クロークは何も言わずに微笑んでいた。
 くゆるりと煙る、室内を満たしては消えていく香煙。それがどれだけ繰り返された頃だろうか。
 少女の流した涙の筋が、すっかり乾ききったとき、クロークは少女の瞼を優しく撫でた。
 ぬばたまの睫が震えて、その下から深海の瞳が覗く。香炉から立ち上っていた白煙も、今はすっかり途絶えていた。
「貴女の望む答えは、手に入りましたか?」
「私は……そう、あの人の声が聞きたかったのだわ。あの人が永遠に動かなくなる間際、私に言ってくれたのだもの」
「何と仰ったので?」
「自由に、生きなさいと。だから私は、もう行きます」
「どこへ?」
「ご主人様の元へ」
 今まで無表情を保っていた少女の顔に、本当に微かな笑みが浮かぶ。よく注意していなければ見逃したであろう、僅かばかりの間だけ。
 それでも少年は、確かにその光景を見ていた。
 リクライニングチェアに横たわったままの少女の身体から、きしきしと軋む音が聞こえるのを。
 機械的にぎこちない動きで、少女の瞼が落ちるのを。
 やがてフランス人形のような少女の身体が崩れ、塵となっていくのを、クロークは確かに見ていたのだ。
 その塵さえも光の粒子と消えた時、チェアの上にたった一つ残ったのは、小さな小さな歯車だった。
 少年はそれを拾い上げ、壊れ物を扱うかのように掌に乗せた。まるでほんの短い間の出来事が、白昼夢ではないことを知らしめるかのように。

「彼女は僕に、ほんの少しだけ似ていたよ」
 誰に語りかけるでもなく、クロークは店じまいのなされた店内で独りごちた。カウンターに頬杖をつきながら、空いた片手にはあの歯車一つ。
 これは彼の憶測でしかないのだが、歯車仕掛けの機械人形は、主人を亡くしたその瞬間から時を止めていたのだろう。
 笑うこともなく、泣くことすらできずに、そうして辿り着いたのがこの店だった。あの少女は、忘れてしまった主人の最後の遺言を聞くべく、ここへ来たのではないだろうか。
 例え忘れてしまったとしても、記憶は奥底にしまいこまれているものなのだから。
 願わくば、主人の元へ行ったという少女が、幸せな気持ちでいるようにと祈りながら、少年は手の中にあった歯車をポケットへしまった。代わりに懐から取り出されたのは、何の変哲もない懐中時計だ。
 カバーを開けなくとも、瞳を閉じた彼には今が深夜零時だということがわかる。
「今夜は、もう眠ってしまおうか」
 この時計自身であるクロークは睡眠というものを必要としないのだが、それでも、今日の彼はそういう気分だったらしい。
 懐中時計に触れる指先から、うっすらと薄れゆく色彩感覚。月明かりさえも差し込まない店内で、やがてじわりと水に溶けるよう、クロークは時計の中に意識を鎮めた。
 しんと人気の消えた室内で、後に残るのは、そう。
 溢れんばかりの香りと、鈍い金色を宿した、懐中時計がただ一つ。

◇ Fine ◇



◇ ライター通信 ◇

エル・クローク様。
初めまして、こんにちは。
この度は、シチュエーションノベルの発注ありがとうございます。
サンプルを見て惹かれたとのことで、本作、やる気五割増(当社比)で執筆させて頂きました。
作品の要望や舞台設定がいかにも待雪の好きそうな設定で、アンティーク品のような雰囲気を出せるよう書いてみましたが、如何でしたでしょうか。
既存ピンナップの挿話的作品ということでしたので、タイトルはこういう形になりました。
今回は受注内容とは別に“時計”というキーワードが出ていたので、どうせならと少し(かする程度ですが)そちらも絡ませてみたり…。
曖昧で鮮明、古めかしくも新しい香り。もの悲しいような幸せなようなこの物語が、クローク様の気に入って頂ける作品に仕上がっていれば本望です。