<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>
お使い奮闘記
◇ Introduction ◇
「っきゃぁー!!」
程よく晴れたとある日の正午。客で賑わうここ、白山羊亭に、地を裂くほどの絶叫が木霊した。
店の常連ならば、それが誰の声だったか一瞬でわかったことだろう。
常連でない者達は、その声の主を求めて、悲鳴の聞こえた厨房の奥を覗く。
笑い声や喧騒が、不思議そうな囁きに取って代わるのに、そう時間は掛からなかった。それほどに、その悲鳴が尋常さを欠いていたということだ。
そんな店内の様子もいざ知らず、声の主であるルディアは、大きな小麦粉の袋を覗いて今にも泣きそうな調子で顔を歪めた。
彼女の様子に、料理を受け取りに来たウェイターの青年が首を傾げて問いかける。
「どうしたんだ? ルディア。まさか厨房に虫でも出たのか?」
冗談交じりにカラカラと笑いながらそう言った青年だったが、 当の少女は聞いてさえいなかった。
それもそうだろう。今朝確認を忘れていた小麦粉が、計量カップ一杯ほども残っていなかったのだから。更に言うならば、今は客の多い昼食時間まっただ中だ。誰かが買いに出れば、人手不足にたちまち店内は混雑することだろう。
青年のからかいに首を振ると、少女は困った様子で裏口と店内を何度か見回した。
意を決して料理人に報告に行こうとした、その時だ。
先程よりも少し静かになった店内に、意気揚々と扉の開く音が聞こえた。
「いらっしゃいませー」
厨房から顔を出して告げた言葉に、客はひらひらと手を振る。その顔を見た瞬間、ルディアはハッと見覚えのある顔に息を呑んだ。
よく店に来る客人は、常連とまでは言わずとも少女の顔見知りだった。
天の助けとばかりに、客人へ駆け寄ったルディアはポケットから貨幣を出して突如客人に握らせた。
「お願いします! 後生です! 今からひとっ走りして、五キロの小麦粉を買ってきてください! 報酬も、私のバイト代から出しますから!」
その願いが叶えばもう何も要らないとばかりに、ルディアは何度も何度も頭を下げた。
この剣幕に驚いたのは客人の方だ。訪れた直後の出来事に、客人は目を白黒させながらもゆっくりと顎を引いて踵を返した。
「あ、表通りは今、人通りが多いですから、ぶつからないように注意してくださいねー! 裏通りは人気がありませんから、できるだけ通らないように……って、あーあ、もう行っちゃったか」
たった今鳴ったばかりのドアの音が、再び聞こえて閉じられる。
少女が叫んだ時には既にその姿はなく、ルディアはただただ、自分が使いを頼んだ人物が何事もなく帰ってきてくれることを祈った。
◇ 1 ◇
「ったく、ルディアのヤツ。人使いが荒いったらねぇよなー」
まだ日も高い時間帯。それでも尚静かな裏通りを走りながら、小麦粉袋を小脇に抱えた少年が独りごちた。
少しぶりに訪れた白山羊亭へ入るなり、掴みかからんばかりの剣幕で使いを頼んだ少女を思い出し、虎王丸は苦笑する。友人であるルディアの頼みだと、使いを引き受けたのが十五分ほど前のことだ。
渡された紙切れに書かれた店で小麦粉を買って、少年は比較的近道となる裏通りを駆けて行く。
後はこの荷物を、白山羊亭へと届けるだけ――の、筈だったのだが。
「こりゃ、今度ルディアに昼飯でも奢ってもらうかー……ん?」
日陰の店が連立する通りの一角に、虎王丸は人だかりを見付けて足を止めた。人だかりと言っても規模の大きなものではなく、何かを中心に数人の男がたむろしている様子だ。
遠目に見ても、和やかに談笑しているという雰囲気ではない。
「何だ、ありゃ」
どうも様子がおかしく思えた少年は、眺める先に耳を澄ませてことの成り行きを理解した。
「おっと、逃げるなよ。嬢ちゃん。さっきから言ってんだろ。この辺りは、オレらの縄張りなの。通るンなら通行料払えって」
「どうせ身ぐるみ剥がされたって、生活には困らねぇんだろ? その外套だって上等品だもんなァ。どこの貴族サマだか知らねぇが、ここに足を踏み込んじまったなら仕方ないわな」
「そーそー、郷に入っては郷に従えってヤツだ」
最後の男が言葉を告げた後で、一頻り男達の笑い声が木霊する。
どうやら、この辺りはごろつき達の溜まり場のようだ。
不運にも彼らに捕まってしまったらしい人物の顔は、虎王丸の方からは見えない。
ごろつき達の間から見えるのは、短くはない茶の髪。背の低いらしい小柄な人物は、怯えているのか黙ってやり過ごそうとしているのか、うんともすんとも返さなかった。
これには男達も苛つきを覚えたようで、黙り込んでいる人物の、顔までもを覆うローブの胸倉を掴んだ。
「おい、テメェ、聞いてんのかよ!」
ごろつきの一人が、とうとう凄ませた声を張り上げた。
「ちっと痛い目に遭わねぇとわかんねぇか?」
「ピーピーピーピー、煩いよ」
「あァ? 何だと?」
一瞬、聞き間違いかとも思う程に小さな声で、ついにローブの人物が口を開いた。しかし顔をしかめた男へは二度と答えることもなく、中性的な声の持ち主はローブの中で微かに動く。
ごろつきの脇から僅かに見えたローブの隙間で、銀の銃器が光ったような気がした。撃鉄が引き起こされる。
撃つ気だ。
そう意識で考えるよりも前に、暫く立ち尽くしていた虎王丸は風を切って駆けていた。
咄嗟に投げた小麦粉袋が、一番手前に居た男の頭に命中する。
ぐぁっ、と情けない声を上げて、五キロもある小麦粉袋の直撃を受けた男は頭を抱え込んでその場にうずくまった。
それを皮切りに、何が起こったのか理解していないごろつき達が振り返る。
少年はそれより幾分早く、ごろつきの一人を足払いして転ばせた。
「わぁあ!」
情けない声を出して、二人目のごろつきが顔面から転んだ。その間に三人目のごろつきが虎王丸へと殴りかかるが、彼はそれを難なくかわして男の腕を逆手に取る。
あり得ない方向へ曲げるように僅かに力を込めると、空を裂くような悲鳴が上がった。
出来た隙で、三人目のごろつきの頬を殴り倒す。
丁度二人目のごろつきが起きあがろうとしていたが、殴ったごろつきの襟首を掴んだ少年は、二人の額を強かぶつけた。鈍い打撲音が響いて、二人のごろつきが白目を剥く。
そこで、間髪入れずに四人目が掴みかかってきた。軽くいなすつもりだったが、ごろつきの方がそれよりも一瞬早かったようだ。
虎王丸が僅差で身を翻す前に、羽交い締めにされた身体へ五人目が拳を叩き込む。
息が詰まったが、これしきのことなど少年にとっては痛みと呼ぶに足らないものだった。
ニッ、と口端を上げた虎王丸を、ごろつきがもう一発見舞おうと拳を叩き付ける。だがそれが命中するよりも早く、少年の足がごろつきの股間を蹴り上げた。
あまりの痛みと苦しさに、悲鳴すら出ないのだろう。五人目がその場にくずおれるのも見送らず、彼は自分を拘束している男の顔めがけて勢いよく自分の頭を打ち付ける。
背後に立っていた四人目のごろつきは、ふらりと傾いで地に伏した。
「何だ、手応えねぇなァ」
砂埃に汚れた手をはたいて、虎王丸は地面に転がる小麦粉袋を手に取った。それから改めてローブの人物を見遣ると、そこには逃げることも忘れたのか、棒立ちになって立ち尽くす影が一つ。
手にされた銃を一瞥してから、虎王丸はいたずらっ子のような笑みを浮かべて告げた。
「こういうヤツらにゃ、脅しでもそういう小道具を出すモンじゃねぇぞ。逆上して、何をするかわかったもんじゃねぇからな。大体、そんなデカい口径のリボルバーなんか、女が扱える代モンでもないだろ。護身用にはちっと不向きなんじゃ――」
「女?」
「あ?」
「今、女って言った?」
「あ……あぁ、言ったけど、それがどうか……」
朗々と口上を述べていた虎王丸だったが、それまで口を開かずに乱闘を見ていた人物が小さくこぼす。
やっとのことで紡がれた言葉は、しかし感謝の言葉でも労いの言葉でもない。
純然たる疑問と、僅かに織り交ぜられた静かな怒り。
虎王丸が頷いたかと思えば、そのローブは勢いよくかなぐり捨てられ、それを羽織っていた人物の顔が晒される。
その人物の顔を見て、彼が驚きに目を剥く暇もなく、ローブの人物は怒りも露わに言い放った。
「僕は男だ!!」
沸々と煮えたぎる怒声の後には、ただローブが地に落ちる衣擦れの音だけが響いたのだった。
◇ 2 ◇
真昼の表通りは、売り子や観光客で賑わっていた。
街中をうろつき始めて既に十分。足早に歩いていく少年の後を歩きながら、手持ち無沙汰についていく虎王丸は考えを巡らせていた。
ごろつきに絡まれていた少女を意気揚々と助けたと思ったら、それが自分と変わらない年頃の少年で、しかも何やらわけありらしい。
仮にも貴族らしい少年が、頭からすっぽりとローブを被って人目の少ない裏通りを歩いていたくらいだ。どうしたんだと問うてみれば、返ってきたのは「あなたには関係ないよね」という、さもありなんの一言だけだった。
けれどほんの少しでも関わってしまった以上、何かがありそうな少年を放っておくことなど出来ず。
さっさと歩き出した少年を追いかける為、小麦粉袋を預けて――そこは丁度意識を取り戻したごろつき達へ、白山羊亭に届けるよう丁重にお願いして……凄みを効かせて脅したなんてことはない。断じて。少々睨み付けながら、これでもかという程に声のトーンを落としてお願いしただけだ。ともかく、使いの荷物の心配はなくなった――慌てて少年の後をついてきたというわけだ。
少年の方は始終無言で、丁度昼食時に賑わう人混みを掻き分ける。
目的もなく歩き回っているようではないが、辺りをきょろきょろと注意深く見回していた。
「何だ、もしかして、迷子か?」
快活に笑った虎王丸へ、前を歩いていた少年が突然振り返る。
「そんなわけ……!」
カッとなって反論した少年だったが、言葉を切るなり辺りを見回して、再び虎王丸の顔を一瞥する。
すぐに黙り込んで前を進み始めた少年へ、虎王丸は「お」とこぼしてまた口角を上げた。
「迷子なんだな」
「迷子じゃないって言ってるじゃない。大体、何で僕の後をついてくるのさ。あなた、誰? 何? ストーカー?」
「おいおい、人に名前を聞く時は自分から名乗るのが礼儀だろー?」
如何にも煙たそうに告げた少年だったが、虎王丸はそれを笑って受け流す。
他人に礼儀を説かれたのが癪に触ったのか、少年はじとりと虎王丸を見遣って呟いた。
「アンソニア」
「そっか。俺は虎王丸だ。よろしくな!」
小麦色に焼けた手を差し出して、虎王丸はアンソニアへ握手を求めた。
暫くその手を見つめていたアンソニアだったが、そそくさと踵を返して先へと歩いて行った。
どうやら、悪い人間ではなさそうだが……。
やれやれと頭を掻いてから、虎王丸はもう少し彼に付き合ってみるかと、少年の後を追いかけた。
◇ 3 ◇
「なぁ、腹減らないか?」
二人の会話は、唐突な虎王丸の問いから始まる。
随分な時間街中を歩き回って、もう午後の一時にもなろうかという時だった。
流石に人足も引き始めたあちこちの店では、席がぽつぽつと空き始めている。
少年に問われた言葉を聞いて、アンソニアは何故だか身を竦ませたようだった。ゆっくりと、錆び付いた機械のような動作で、紫の双眸が虎王丸へと向けられる。
「別に」
「でも昼も過ぎたぞ? ずっと歩き詰めだし、俺は腹減ったなー」
「じゃあ一人で昼食にすれば良いんじゃないの? 僕はまだやることが――」
つっけんどんに言い捨てようとしたアンソニアだったが、何というタイミングの良さだろうか。
思っていることを口にできない性らしい主人に代わり、彼の腹の虫は、実に素直に盛大な声で鳴いた。人々の雑踏で紛れはしたが、すぐ後ろを歩いていた虎王丸には十分に聞こえたことだろう。
案の定、噛み殺すように一頻り笑った後で、彼はアンソニアの首根っこを掴んで近くの飲食店へと入って行った。喚きながら何とかその手から逃れようとするが、一介の少年がいかにも身体を鍛えていそうな虎王丸に敵う筈もない。
子猫よろしく引きずられて、少年が落ち着けたのは、店員から水を出された時だった。
「もうちょっと広場に近けりゃ、俺の友達が働いてる店があるんだけどなぁ。……そう言やあいつら、ちゃんと小麦粉は届けてくれたかな。あ、お姉さーん、ランチプレート二つな!」
よく回る口が、次から次へと話題を紡ぐ。
ご丁寧にアンソニアの分までさっさと注文してしまってから、「あ、これでよかったか?」と聞いて返した。
「あのさ、飲食店に入る前に、まずは聞くと思うんですけど。僕、手持ち金ないよ」
呆れた様子で、少年は問われたものとは違う答えを口にした。こうなったら、一々聞き流すのも面倒だと思ったのだろうが、虎王丸はチチチと指を振る。
懐から取り出したのは、五つの小銭袋だ。
「さっきのごろつき達、伸したついでにちょっくら財布を拝借してきたから大丈夫だって」
「はぁ!? 財布を拝借って……それ大丈夫じゃないよね!? スリじゃない、どう見ても」
「世の中にはイシャリョーってもんがあるんだぞ。悪いのはあっちで、おまえは被害者なんだし、ここは貰っておいても悪かぁないだろ」
よく笑う少年は、そう良いながらまたカラカラと笑う。
「それってこじつけって言うんじゃ……」
アンソニアはげんなりとしていたが、運ばれてきたランチプレートを前にしては、それ以上言及する気もないようだった。
二人で昼食にありつきながら、虎王丸が他愛のない世間話を語る。アンソニアはそれに短い相槌を打つ、という会話を交わしていたが、昼食を平らげ終わってから、少年が今更のように虎王丸へと尋ねた。
「あなたは聞かないの?」
「ん? 何を?」
「僕があんな格好で、あんな場所を歩いてた理由」
水を飲み干して、少年はぼそぼそと呟く。ふて腐れているように見えるのは、恐らく、思春期故の反抗心が捨てきれないからだろう。
アンソニアから投げられた疑問には、虎王丸は暫く言葉を探したようだったが、悪びれなくこう答えた。
「だって、おまえが喋りたくなかったんだろ? なら、人がどうこう言うことじゃねぇし。まぁ、気になるっつったら気になるけどな。ただ、アンソニアについていったら、何か面白いことがありそうだったからさ」
「……あなたみたいな人間、初めてだよ」
呆然と呟いた少年は、ため息混じりに肩を竦める。
その言葉には悪意も非難も込められておらず、微かな喜びさえ感じさせた。
「財布をスられたんですよ」
「は?」
「朝。従姉の外出に付き合って、あの通りを歩いてたんだ。けど、ぶつかった子供に財布をスられて」
「なるほどな。それを探してたのか。裏通りはこっちに比べて、治安も悪いもんなぁ。何だ、アンソニア。大金でも持ち歩いてたのか?」
漸く納得した様子の虎王丸だったが、彼の言葉にアンソニアは首を振る。
「お金なんかよりも、ずっと大切なものだよ」
少年の落とした言葉には、どこか悲しみの色すら滲んでいた。
ふん、と会話内容を噛み砕くように鼻を鳴らして、虎王丸は握ったままのフォークに齧り付く。
それからすぐに席を立つと、顔だけでアンソニアを振り返った。
「なぁにボケッとしてんだ。早く行かねぇと、見付けられるモンも見付けられないだろ」
「え」
「大事なモン、探すんだろ? 子供の足じゃ、そんな遠くまで行けないしな。まだ街中に居る筈だ。とっとと捕まえて返してもらえって」
「あ、うん……!」
虎王丸が親指を立ててみせるのを合図に、少年も席を立って、彼の後を追いかけた。
◇ 4 ◇
大通りを端から端まで探し回って、ついには裏通りまで戻ってきてしまった。
それでもアンソニアの言う少年は見付けられずに、細い路地裏までもを走り回る。
三時間走り通しても、生憎収穫はゼロで、二人は広場の噴水に腰掛け休憩をしていた。
「まさか、その子供って人間じゃなかったりすんのか?」
「知らないよ、そんなこと。顔だって、ちらっと見ただけだもの」
「名前もわからないんじゃ、こう広いと骨だよなぁ」
「……これほど探しても見付からないんだ。もう諦めるしか――」
アンソニアが、若干悲観的になっていた時だった。
ふと、虎王丸が視線を上げた先に、小さな人影が一つ走り去って行く。
隣で落ち込む少年から聞いた特徴。長い髪に、着古した服を纏った、アンソニアの胸の辺りまでしかない身長。
それを見事に満たした、まだ十になったか否かというほどの子供だ。
「居たぞ!」
「え? あ、ちょっと!」
言うが早いか、虎王丸は地を蹴って走り出していた。人混みに紛れて遠ざかっていく子供だが、武人である彼の足に敵う筈もない。
あっと言う間に側まで追い付いた虎王丸は、少年の首根っこを掴んでつまみ上げた。
「くぉら、待ちやがれ!」
「わぁあー! 何だよ、兄ちゃん誰だよ!?」
「何だよ、じゃねぇだろ。今朝、あいつからスった財布、返してやれよ」
「うっ……」
犯行がバレたことを悟り、ぶらさがったままの子供は言葉を詰まらせて眉根を寄せた。
頬を膨らませて、不機嫌もあらわに虎王丸を見上げる子供は、駆け寄ってきたアンソニアをちらりと見てからそっぽを向いた。
「その兄ちゃん、金持ちなんだろ? 服が綺麗だもん。だったら、おいらが少しくらい取ったって困らないじゃんか」
「あのなぁ、そういう問題じゃ……」
「だって、母ちゃんがびょーきなんだ! 金がないとヤブ医者だって見てくれないんだから、仕方なかったんだよ!」
人に会話が漏れ聞こえるのも構わずに、子供は大声でわめき立てる。
最後には大声で泣き始めた子供に、虎王丸とアンソニアは互いに顔を見合わせた。
「お、おい、泣くなって! 大体、母ちゃんが病気ってなら、おまえはどうしてこんな所をうろついてんだ?」
「あ、あんな……はした金じゃ、見てやらないって……」
しゃくり上げる子供の言葉に――厳密に言うと、はした金という言葉に――アンソニアがピクリと肩を震わせた気がするのは、気のせいだろうか。
「虎王丸さん」
「あ?」
「放してやって」
「え?」
最後の疑問詞で、見事に子供と虎王丸との声がハモった。
子供を捕まえようとしていた少年が、今度は子供を放してやれと言ったのだ。一体何をするのかと思えば、子供に向き直った少年は面倒くさそうに口を開いた。
「母さん、助けたいんでしょ。だったら、すぐに僕を案内してよね」
「アンソニア……」
「う、うん!」
ぽかんと口を開けたままアンソニアを見上げていた子供は、大きく頷いてすぐに踵を返した。
走り出す子供を追いかけて、アンソニアが、アンソニアを追いかけて虎王丸が走る。複雑な細道を何度も曲がりながら、三人は日の当たらない住宅街に着いた。
貧民街とまではいかなくとも、小さく古びた家ばかりが建ち並んでいる。
「ここだよ。母ちゃん! 助けてくれる人が来たよ! 母ちゃーん!」
「うっひゃあ。天井、穴空いてるじゃねぇか。修理しなきゃ、家の役割も果たせないだろ」
戸口をくぐりながら、虎王丸が驚きの眼で屋内を見回した。
「直せる人がいないんだもん。おいらはまだ小さいから、屋根に上っちゃダメだって母ちゃんが」
「そっか」
「じゃあ、すぐに医者を呼ぶから。その代わり……」
アンソニアは、小さな機械――恐らく携帯型の通信機か何かだろう――を取り出して、同時に子供のポケットの中に手を突っ込んだ。
大きなポケットから出てきたのは、茶色い皮の貨幣入れだ。
「これは返してもらうよ」
それだけを告げてから、通信機の電源を入れる。どこだかに連絡を入れてから、「至急、街の北端の住宅街に医者を一人」と述べていたので、恐らく病院だろう。
通信機を切ってから中身を確認するアンソニアに、虎王丸は昼間から気になっていたことを尋ねた。
「で。おまえの言ってた、金より大事なものって何だ?」
「話さないことは、聞かないんじゃなかったの?」
「いや、まぁ、この程度ならいっかーと思って……って。もしかしてダメだったか?」
好奇心で身を乗り出した虎王丸に、アンソニアが一瞬身を引く。けれどすぐに神妙な顔付きで「悪ぃな」とこぼした虎王丸を見て、少年は財布から取り出した一枚の紙を彼へと突き付けた。
「写し絵」
「絵? お? 何だ、この姉ちゃん。綺麗だなー」
「ダメだよ。興味持つの禁止。それは僕の母さんなんだから」
「へ? どぇえ!? おまえの母ちゃん、若いんだな」
年上の女性に弱い虎王丸だ。しげしげと絵を眺めていた彼だったが、アンソニアはすぐにその絵を財布へしまってしまった。
驚愕に黒い瞳を瞬かせる虎王丸へ、アンソニアは憮然と言い放つ。
「癪だけど、今回のことは、あなたが居なかったら諦めてただろうから。……ありがとう」
「おう!」
紡ぎ出される礼の言葉。最後に、少しだけ笑ったように見えたのは、虎王丸の気のせいだろうか。
錯覚か事実かは定かではなかったが、そこには、確かに彼なりの感謝の気持ちがこもっていた。
◇ Outro ◇
「――ってなことがあってな」
「ははぁ。それであの後暫くして、妙にガラの悪そうな人達が怯えながら小麦粉を置いて行ったのね」
白山羊亭の一角を陣取って、使いの時の宣言通りに食事を奢ってもらっていた虎王丸は、武勇伝を語るように先日の出来事を話した。
昼食を運んできたまま彼の話を聞いていたルディアは、納得がいったように頷く。
見知らぬ男達が小麦粉を持ってきた時は何事かと驚いた少女だったが、謎が解けてすっきりとしたルディアは、オマケのドリンクを持って来て話の続きを促した。
「それで、結局子供のお母さんは元気になったの?」
「さぁな。でも、来た医者はアンソニアの知り合いみたいだったし、回復には向かってるんじゃねぇか?」
その後の経緯を知らない少年は、屈託なく笑ってスープを一口啜る。
少年の為に大量に並べられた皿の殆どが、今は空になっていた。
「ふー、食った食った!」
「虎王丸さん、食べ過ぎですよー」
「これでもかっ! ってくらい食っとかなきゃ、勿体ないだろ」
折角のタダ飯なんだしな、と付け足した虎王丸に、ルディアは勘定を考えてため息をつきそうになった。
彼らの背後から中性的な声が聞こえたのは、そんな時だった。
「へぇ。じゃあ、僕からのお礼は要らないね」
突如聞こえた聞き覚えのある声に、虎王丸とルディアは揃って首を巡らせる。
二人の背後で腕を組んで立っていたのは、ローブでも被っていれば少女とも見まごうような少年だった。
「アンソニア!?」
「あらー、あなたが噂のアンソニアさんですかー」
突然の珍客に、二人はそれぞれ驚愕の顔を見せる。
「勝手に噂にしないでもらえますか」
ため息混じりにルディアへ念を押したアンソニアは、虎王丸へ両手ほどの箱を差し出して告げた。
「あの親子なら心配しないでよ。母親の方は無事に快方へ向かってる」
「そっか、良かったな。で、これは何だ?」
「……あの日のことを話したら、礼くらい持って行けと怒られたんだ。従姉から」
「わざわざ持ってこなくても良いのに、細かいヤツだなー」
箱を受け取った虎王丸は、市販の物なのか、包みをまじまじと見てから快活に笑った。
「要らないなら返せ!」
「やだね、一度もらったモンは俺のだっ」
ぎゃあぎゃあと言い合いを始めた少年達は、端から見ればどういう風に映ることだろう。
「なんだか、兄弟みたいですねぇ」
二人を眼前に、ルディアが呟いた客観的感想は、返すの返さないのと言い合っている当の本人達へ伝わることもなく。
今日も平和な昼下がりは、賑やかに過ぎて行った。
◇ Fine ◇
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1070 / 虎王丸 / 男性 / 16歳 / 火炎剣士】
【NPC / アンソニア・クレスフォード / 男性 / 15歳 / 貴族】
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■ ライター通信 ■
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虎王丸様。
初めまして、こんにちは。
この度は、「お使い奮闘記」への参加依頼ありがとうございます。
乱闘あり、ほのぼのありで、最後にほんのちょっとの友情が芽生えれば、と書き綴らせて頂きましたが、如何でしたでしょうか。
喧嘩シーンなどは待雪自身が久しぶりの執筆で、多少表現力が落ちていたらどうしようと思いつつ。
虎王丸様のキャラ像を崩さずに書けたなら、と思います。
我が家の坊ちゃんがああいった性格でしたので、快活系の虎王丸様のお陰で随分動かし易くスムーズに書けました。
虎王丸様には、ごろつき撃退や少年を捕まえたりと大活躍して頂き、悔いのない作品が書けたことを嬉しく思います。
また、この作品が、虎王丸様にとって心に残る作品となれば幸いです。
それでは、またご縁があります日を夢みて。
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