<東京怪談ノベル(シングル)>


     Phantom below ground

 昼間はのどかな周囲の光景になじんだ穏やかなたたずまいを見せている古いオペラ座は、夜となるとその歴史を感じさせる荘厳な外観や、新しい建物にはない年季の入った汚れや傷のためか、言い知れぬ不気味さをただよわせながら、ひっそりと闇の中に息をひそめている。明日に公演をひかえた舞台の垂れ幕が下がっているが、風にあおられて力なくはためくその様子もどこか淋しい。日中では人よりも目につく鳥や虫たちの姿もなく、草木豊かな公園も死んだように静まり返っていた。地上にある明かりは随所に設置されている街灯くらいのもので、そのぼんやりとした光に数人の男たちの姿が浮き彫りにされたかのようにゆらゆらとオペラ座の前でゆれている。
 その彼らの間を黒い影が風のように駆け抜け、男たちはいっせいに驚きと恐怖の混じった声をあげた。それにかぶさるようにいくつもの蝙蝠の羽音と、ひときわ大きな翼の力強い音が響く。
 しかし、その次に放たれたのは蝙蝠の耳障りなキイキイという鳴き声ではなく、落ち着いた青年の声だった。
 「僕が最後か?」
 そう言って突然闇の中から現れたのは、血のように赤い髪を後ろで一つにまとめ、黒い上質の服に身を包んだ若い男である。背には大きな蝙蝠の翼。その銀色の目が夜の闇の中でも冷やかな光をたたえていることに息をのみながら、先に来ていた男の一人がためらいがちに口を開いた。
 「ああ――あんたが、レイジュ・ウィナード?」
 「そうだ。」
 レイジュが短く答えると、彼と一緒にやってきたらしい蝙蝠たちが示し合わせたようにバタバタと羽ばたきの音も高く飛び立つ。それを不安と安堵の入り混じった顔で見送る男たちに、「それでは仕事といこう。」 とレイジュが呼びかけ、彼らは一様に頷きあうと、視線の先に薄気味悪さをまとってたつオペラ座へと歩き出した。

 劇場の中は、夜だというのに明日の公演の準備でまだ多くの人々が起きてせわしげに仕事をしている。そこにやってきた男たちに真っ先に気付いた一人が、はっとしたような顔で「調査に来られた方々ですね。すぐに座長を呼んできます。」と彼らに言いかけ――最後に入ってきたレイジュを見て表情をこわばらせた。まるで幽霊に出くわしたかのような反応である。
 しかし、それも無理のない話だろう。何故なら今このオペラ座では説明のつかない不気味な現象が頻繁に起きており、幽霊の存在も信じたくなるほど劇団員たちはおびえていた上、レイジュの容姿は彼らにたやすく吸血鬼を連想させたからである。
 そんなレイジュの銀色の目と合うと、彼らはあわてて仕事に没頭するふりをし、最初に声をかけた作業員も逃げるようにして座長のいる部屋へすっとんでいった。
 「どうやら恐れられているようだな。」
 古いオペラ座に起きる怪現象の調査を依頼され、レイジュと共にやってきた男たちのうちの一人が、気持ちは判らなくもない、といった風情で言ったが、レイジュは無言で肩をすくめただけである。彼はウインダー、有翼人という種族で吸血鬼ではないが、その背にある蝙蝠の翼のせいかよく勘違いをされ、もはや恐れられることにも慣れてしまっていた。慣れることと平気であることとは別だが、いつものことだと割り切ることにしている。
 したがって、彼はいたって平然とした様子で作業員の一人に近づき、今回調査を依頼された奇妙な現象について何か思い当たることはないかと尋ねてみた――が、相手はひどく怖がっているらしく、
 「わ、わたしは知りません。他の人に訊いて下さい。早くこの道具の修理を終えてしまいたいんです。」
 と、取りつく島もない。レイジュは「そうか。」と小さく呟き、これでは自ら劇場の人間たちに話を聞くのは難しそうだと苦々しく考えた。これには他の調査員たちも困惑の色を浮かべ、顔を見合わせるばかりである。
 レイジュは小さくため息をつき、そんな仲間の方を振り返って言った。
 「座長とは僕が話そう。事前に調査内容と簡単な事情の説明は受けているから、詳しい情報を聞くのは一人で充分だろう。時間がないという話だ、全員で同じ話を聞いているよりも手分けして聞き込みや、調査をする方がいい。」
 まさか調査の依頼人である座長までがおびえて口をつぐむということはあるまいと考え、レイジュはそう提案し、他の者も賛成した。
 「それでは、何か判ったら報告するということで、早速始めるか。」
 男たちはそう言って劇場内へ散っていった。レイジュはそれを見送り、座長を呼びに行った者が走っていった方へと歩き出す――と、すぐに先ほどの作業員と、品の良さそうな紳士に出くわし、彼が座長と判ると、やってきた調査員の人数と名前を報告し、効率のために手分けしてすでに調査にかかったことを話した後、詳しい情報を求めたのだった。
 その話の要約とはこのようなものである。練習中に突然メインの歌姫が倒れ、次々と小道具が壊れたり勝手に動いたりという奇妙な現象が起き、それでも代理の歌姫を見つけて練習を続けていると、今度は舞台の上にいる役者たちを狙ったかのような攻撃的な現象があって、最後にはカーテンが燃えだし襲いかかってきた、というのだ。
 「代理を引き受けてくれた歌姫は魔法の心得があるようで、風や水、薬でわたしたちを懸命に守り助けてくれました。しかし、本番中にまた同じようなことが起きたとしたら……明日が本番です。それまでに何としてでも原因を見つけて、この現象を止めていただきたい。」
 「判りました。」
 慇懃ながらも彼らしい味気なさでレイジュはそう答えて、座長に案内され、舞台へと向かった。もっとも激しい現象が起きたのがそこであることから、何か手がかりがあるのではと思ったからである。
 レイジュは劇場内に響く二つ分の足音を聞きながら、身をていして魔法で団員たちを守る勇ましい歌姫とは、まるで自分の姉のようだな、などとぼんやり考えた。

 舞台を調べていたレイジュの下に「地下へ通じる道が見つかった!」と叫んで共に調査に来た男の一人が飛び込んできたのは、彼が手がかり残存の可能性を手放しかけた頃である。レイジュはすぐさま男と共に他の調査員を集め、地下通路があるという場所へ向かった。
 「ここは以前、ある貴族の家だったらしい。」
 「当時を知っている身内から、家のどこかに地下へ通じる入り口があるという噂を聞いていた者がいた。それで探してみたら、本当に出てきたというわけだ。そっちは?」
 収穫を尋ねられ、レイジュは心霊現象とでも呼ぶしかない現象が実際に人を襲ったことや、代理の歌姫がいることなど、座長から聞いた話を手短に告げ、最後に推測を付け加えた。
 「劇団員以外から代理をたてたのだから、メインの座をめぐっての騒動というわけではないだろう。ライバル劇場の妨害と考えるには、最近のオペラの人気は下火すぎる。今回のことが公になって、オペラ全体からいっそう客足がひく可能性を考えないはずがない。」
 「ということは、他に原因となる何かがあるということか。」
 「その何かが地下にあることを願おう。」
 感心したように唸る男たちにそう答え、レイジュはたどり着いた地下通路の入り口をのぞきこんだ。ほこりとかびの匂いが冷たい空気と共にかすかに流れてくる。それにわずかに眉をしかめたあと、彼は壁際にかかっていたランタンを手に取り、他の者たちに頷きかけて一番に地下へと降りていった。
 「薄気味悪いな。」
 レイジュに続いて地下へ入ったものの、そのひやりとした空気と息のつまりそうな闇、そして何より周囲をただよう不気味な気配に、他の男たちはすっかりおびえてしまっている。レイジュはそんな彼らを一瞥し、「僕が一人で行こう。」と地下の暗さなどに臆したふうもなく言った。まだランタンに明かりを入れていないのに、彼は周囲の様子が判っているらしいそぶりで進むべき方向を見据えている。
 同行者たちは一人で行かせていいものかとためらったが、闇も彼に牙をむきはしないだろうと漠然と確信し、ついに沈黙のまま頷く。
 レイジュは地上での調査の続きを彼らに任せ、蝙蝠と同じように超音波で地形を探りながら、まるで煌々と明かりのついた通路を行くように迷いなく歩を進めていった。
 しばらくは何もない道だけが続いたが、やがて地下牢らしきものを見つけ、足を止める。中には人骨が横たわっているようだった。
 夜目が利くわけではないので、さすがに『見て』調べるには明かりが必要である。彼は手に提げてきたランタンに魔法で明かりを灯し、朽ちた牢の扉を力任せに押し開けて中へ入った。硬い靴底がパキパキと何かを踏みしめる。どれもこれも乾き、あるいは腐り、また積もる一方であったと思われるほこりと闇にうずもれ、凍えて、生き物の気配がなかった。眼前には無慈悲な鉄格子、その中には一つの人骨と、最低限の身の回り品らしき物の残骸しかない。
 「貴族の館に地下牢……?」
 どうにもいわくありげだと眉をひそめたレイジュは、ぼろをまとった白骨の傍らに片膝をつき、何か手がかりになりそうな物はないかと首をめぐらせる。そこでふと、朽ちかけた服の袖から伸びている手のそばに分厚い本が落ちていることに気がついた。表紙を見ると、どうやら日記であるらしい。レイジュはそれを慎重な手つきで拾ってページをめくった。
 湿気を含んだのか時代のせいなのか、ふくれたように厚い紙面には無念のにじむ文字で、兄との権力争いに敗れ、挙句領主の弟でありながら牢に幽閉されたこと、そして以後日の光を浴びることなく苦渋の日々を過ごしていたことが切々と書かれている。おそらくは地下生活のまま、この者は力尽きたのだろう。レイジュは書かれている内容に眉をひそめ、知らず呟いた。
 「……ひどいものだ。」
 『話が判るじゃないか。』
 突然、背後から人の発するものとはどこか違うくぐもった声が響いた。相変わらず生きた者の気配はしない。レイジュは冷静に顔だけを声のした方へ向け、そこに青白い光を放ってゆらゆらと宙に浮いている男の姿をみとめ、その正体を察した。白骨を手で示し、確認するように訊く。
 「これはあなたか。」
 『そうだ。』
 「舞台の練習を邪魔したのも?」
 『その通り。』
 拍子抜けするほど、目の前の幽霊はレイジュの言葉をあっさりと認めて頷いた。
 しかし、その口調には潔さとは違う、怒りを秘めた開き直りのようなものが垣間見える。その激しい感情があるから、彼はこの劇場が貴族の屋敷だったことすら覚えている者の少ない時代になってなお、朽ちたはずの牢獄に囚われたままなのだろう。
 「……無念は理解するが、あなたをそんな目にあわせたあなたの兄と、今の劇場に携わる者たちは無関係だろう。彼らの邪魔をしても、あなたは救われまい。」
 『救いか。』
 レイジュの言葉に、やや口調を和らげて幽霊が呟くように言った。
 『こんな風になってしまったわたしを救ってくれる者がいるとしたら、それはあの新しい歌姫だろう。天使のような歌声と純白の翼を持った、我が麗しの君。』
 「まさか……。」
 はっとしてレイジュが姉の名を呟くと、幽霊の男は知り合いか、と驚いたようにレイジュを凝視し、それから『いや、血縁か。』と頷いた。
 『髪と目の色が同じだな。彼女は天使だ。姿ばかりでなく、歌も素晴らしい。あの歌声を思い出すだけで、わたしは怒りや悲しみが薄れるのを感じる。彼女がわたしの隣にいてくれれば、この長くつらいばかりであった孤独と恨みに潰された心も癒されよう。』
 「あなたは……。」
 『笑いたければ笑ってもいいぞ。こんな暗い牢獄に囚われた怨嗟の亡霊でも、誰かに胸を焦がすことはある。』
 「彼女をどうするつもりだ?」
 笑うどころか切迫したような鋭い口調でレイジュが訊くと、目の前の肉体を持たない男は、そのぼやけた姿にもかかわらずきっぱりとした表情を浮かべてこう答えた。
 『魂を肉体から解放し、それを我が物とする。わたしは生きている間に望んだ物を何一つ得られなかったのだ。生き方さえも。せめて彼女だけは手に入れたい。わたしはその一つで、これまでのすべての空虚を満たせるだろう。』
 この言葉にレイジュはうなだれ、かすかに肩を震わせる。この幽霊の不遇には少なからず哀れみを感じていたのだが、かと言ってその望みをかなえさせるわけにはいかなかった。彼が望んでいるのは相手の死であり、しかも恋い焦がれている歌姫は、よりにもよってレイジュの姉なのだから。
 「他人から無理に奪って、何が残るというのだ。あなたはそれを一番よく知っているはずではないのか。あなたから領主の座を奪い、人生を奪った人間はもういない。おそらく彼を覚えている者も。力ずくで手に入れた物は、数十年で彼の物ではなくなってしまったというのに。」
 『だからわたしは救われないというのか? いや、救われなくとも構わない、彼女がそばにいてくれさえすれば……わたしの痛めつけられ、すさみ、朽ちた心も少しは癒される。それで充分だ。邪魔をするというのなら先に死んでもらうぞ。もっとも、先に逝ったところで彼女はあとから君の下へは行くまいが。』
 そう言って幽霊が気味悪く笑った瞬間――レイジュは冷え切った銀色の目をさっと上げて、瞬きする間もなく、使用すれば命を削るとさえ言われる禁書魔法の一つ、《死者召還》を発動させた。
 「そこまで言うのなら力ずくでもやめさせる。僕は、あくまで姉を傷つけるという者にかける同情まで持ち合わせてはいないからな。」
 レイジュはランタンの明かりを映して剣呑に光る目で亡霊を睨みつけ、死者を支配し操る魔法によって、自分に従わせようと試みる。
 しかし、相手は最初に垣間見せていた怒りを爆発させたかのような憎悪の表情を浮かべ、それにあらがった。
 『死の果てで得たこの想いさえ失えと言うのか!』
 その叫びには恨み、怒り、ゆがんだ愛情さえ含まれており、それらが強固な壁となってレイジュの魔法の支配を振り払った。そして、さまざまな感情の渦巻く暗い目でレイジュを見やる。
 『わたしの恨みも彼女への想いも、お前に砕かせはしない。』
 憤怒をしぼり出すようにそう言ったかと思うと、幽霊は現れた時と同様唐突に闇の中へとかき消えた。静寂の戻った地下牢で一人、レイジュは鋭く舌打ちをする。禁書魔法を使ってただですむはずはないが、今はゆっくりなどしていられない。代理の歌姫が来る前に練習の邪魔をした理由は判らなかったが、現在のあの男の目的は明白――歌姫を殺し、手に入れることである。そんなことを黙って見過ごせるはずがない。
 レイジュはすぐに駆け出し、もと来た道をたどりながら地上を目指した。

 手近にいた劇団員をつかまえて座長の居場所をきき出し、急いでそこを訪れたレイジュは、開口一番、歌姫専属の護衛になると申し出た。座長は自室で一息ついていたところだったようだが、レイジュの緊迫した様子に顔をこわばらせ、「何かあったのかね?」と不安のにじむ口調で訊いてくる。これにレイジュは手短に地下で幽霊に会ったことを説明し、
 「奴の目的は歌姫を殺し、手に入れることです。僕をこのまま調査員から歌姫専属の護衛に。」と食い下がる。当然ながら座長にも否やはなく「もちろんだ。」と頷き、それを承諾した。
 「よろしく頼む。」
 カーテンの開け放たれた座長の部屋の窓から朝日が差し込むのを、普段とは違う、敵意にも似た感情を持って認めたレイジュは、座長の言葉にただ無言で首肯した。



     了