<東京怪談ノベル(シングル)>


めぐりのかけら


りぃ、と澄んだ音を聞いた気がして、仕事仲間であるところの香炉に手入れ布を滑らせていたクロークは、その幻惑的な赤の瞳をゆるりと上げた。
音…いや、より感覚的に、気配と称するべきものだったかもしれない。彼の仕事に寄せて小洒落た表現をとるならば、香りが揺れた…とでも言うのがいいか。
りぃりぃ、ともういちど。今度は確信して道具を棚へ戻し、椅子を立った。
億劫そうに軋みながら開いた扉の向こうで、白髪の老婦人が、乾いた皺の指を丁寧に揃えて頭を下げた。
「ごきげんよう、香り屋さん」
「いらっしゃい。どうぞ、中へ」

エル・クロークの職業は、一言でまとめると香り全般である。
ポプリやキャンドル、香水に香木、紅茶、香辛料と、扱う品は種々多様。
恋人への贈り物を探す若者からあまり大声で言えない仕事を請け負うような者まで、客層も多岐に亘る。
例えば、夢の残り香を求める者、とか。

「今日は、奥に?」
「いいえ、ここで。そうお時間は頂きませんからね。お茶も結構ですよ」
「そう急くものじゃないよ。ここで流れているのは僕だけでなく、あなたの時間でもある」
「ありがとう。そう言ってくれるのなら、少しだけね」
それでも『奥』へ上がるほどの長居はしないつもりらしい婦人は、カウンターに据えられた椅子の方へ腰を下ろした。
背は曲がっているけれど、立ち居振る舞いに損なわれない気品を感じさせる。
持て成しの用意をするクロークの手元を、年を重ねた者の穏やかな瞳で見つめながら、彼女はぽつりと呟いた。
「もっと早くに、来ているはずだったんだけれどねえ…」
嗄れた声の独白は、誰に聞かせるでもないのだろう。クロークは黙って茶葉を計った。
「このお店は、殊に仲間内では有名でしてね。いずれお世話になることもあるだろうと思っていたんですよ。
でもね、いざとなったら決心がつかないもので。老いさらばえたこの身をいまさら惜しんだりなどしませんけれど…」
一息に話して疲れたのか、ほうと小さく吐息して、
「未練…なのかしらねえ…」
答えの代わりに、淹れたての紅茶を目前に置く。軽く目礼してカップを取り上げた彼女が、今度は疲労とは違う吐息をもらした。
「まあまあ…芳しいこと」
「気に入ってもらえたならよかった」
「ええ、ええ、とてもいいお味ですよ」
ひとくち、ふたくち、決して焦るようにではないが、まるで日照りの大地が久方ぶりの慈雨を喜ぶように喉を潤す。
りぃ、とまた音の気配がして、惹かれるようにふわりと香りが漂い始めた。甘く肌をくすぐる芳香。
「ごちそうさま、ありがとう」
満足そうに息をついた声は、もう年経り枯れたそれではない。
曲がったことなどないようにしゃんと伸ばされた背を、白から鮮やかな桃色に染まった髪が覆う。
カップを置いた指も染みひとつなくなり、見目にも滑らかな質感は白魚の美しさ。
鈴を振るように可憐な乙女の声音で、彼女はもういちど、ありがとうと言った。
「本当に美味しかったわ」
「それがあなたの本来の姿?」
「あらいやだ、最初から偽ってなんかいませんよ。これは狭間の泡沫、消え行く前の最後のご褒美。
貴方もお手伝いしてくれたのでしょう?」
クロークは答えずにただ微笑んだ。彼女も穏やかに微笑み返す。
「未練は、もういいのかな」
「正直に申し上げて、完全になくなることなんてないわねえ」
「そうだろうね」
「けれど…私の体が朽ちて後も残るものが、残せるものがあるのなら。久しく花実をつけることもなかった身にできることがあるなら…と、
今は思っていますよ」
「そう」
頷いて立ち上がり、手を差し出した。ダンスを申し込まれた淑女のように、彼女がそこへ自らの手を重ねる。
「おやすみ」
「ええ、おやすみなさいませ」
りぃりぃりぃ、と一際強くなる音と共に、瞬間むせ返るほどの強い香りが周囲を埋めた。
掃いたように彼女の姿は掻き消え、代わりにクロークの手の中に残ったのは、細い桃の小枝が一本。

滅びは必定、なればこそ残るものもある。

香りを消さないようケースに仕舞うべく陳列棚に手を伸ばしたところで、待っていたように扉が開いた。
見るとちょうどクロークの腰ほどの背丈の少年が、入り口にちょこんと顔を覗かせている。察するに母親のおつかいといったところだろう。
「やあ、いらっしゃい。何をお探しかな?」
「えっと、えっと」
招きに応じてちょこちょこと入ってきた少年は、物珍しげに店内を見回しながら、頭の中の買い物メモを浚い始める。
「いちごのおちゃと、シナモンのこな」
それからおもむろにクロークの手に鼻を寄せ、ぱっと瞳を輝かせた。
「あと、もものにおい! くださいなっ」
では待っておいでと頷いて、クロークは小さな客に少しだけ瞳を細めた。


時も想いもめぐるもの。
継いでゆくもののある限り。


<END>