<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>
緊急募集、使用人よ集え!
◇ Introduction ◇
《急募! 丘の上の屋敷で、すぐにでも働ける方》
そんな貼り紙が白山羊亭に舞い込んできたのは、客もあらかた捌ききった午後のことだった。
テーブルに着いている者と言えば、仕事が休みなのを良いことに朝から晩まで酒を煽るつもりのろくでなしか、買い物の帰りしなにお茶を一杯という女性達が数人程度だ。
そういう理由で今は閑静な店内を見回していた女は、問題の貼り紙を差し出しながらおずおずと言った。
「この貼り紙を、こちらに二、三貼ってもらいたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、それは大丈夫だと思いますけど……どうして突然募集なんて始めたんですか? そういう所で働く使用人さんって、きちんとした教養のある方達ですよね?」
女の対応に出ていたのは、この店の看板娘であるルディア・カナーズだ。
くりくりの瞳を、今は多大な疑問と少しの驚きに見開いている。
曰く、酒場などという冒険者や荒くれ者が多く集う場所で、何故わざわざ人員を募集するのか、という疑問だ。
それに、貼り紙の束を抱えた女は、困ったように苦渋の面で答えた。
「それが……暫く別邸で過ごしておられた坊ちゃんがお帰りになられて。これがまた我が儘な方で、彼に振り回された挙げ句仕事を辞めてしまう使用人が後を絶たないんです。それで、そういった正規の使用人を雇うまでの間、日雇いでも良いので人手が欲しいと、執事のメイソンさんが」
「なるほどぉ」
つまりは、それほど人手に事欠いているのだろう。
「じゃあ、窓の外とカウンターの所に貼っておきますね」
「ありがとうございます!」
ルディアがそう言いながら貼り紙を受け取ると、女性はまさに輝くような笑顔で礼を述べた。
女が別の店へと駆けて行くのを見送ってから、ルディアはテープを持ってきてカウンターに貼り紙を貼り付ける。
果たして、我が儘少年のお守りを引き受けたいという奇特な人間は現れるのだろうか。
少女は一人、そっとため息をつきながら、呼ばれたオーダーに対応すべく店内を駆け回るのだった。
◇ 1 ◇
青い髪を一つに括った女性が、カフスボタンをしっかりと止める。それが合図だったかのように、白銀の髪の少女はスカートを摘んでくるりと一回転した。
長い裾のメイド服が翻ると、少女は楽しそうに笑う。
「メイド服って、一度着てみたかったの」
「だが、少々動きづらくはないか?」
「お掃除くらいなら、ぜんぜん問題ないわよう」
少女――ミルカがおっとりとそう告げると、サクリファイスも不承不承頷いた。
支度を終えた二人が廊下へ出ると、そこには一人の老執事の姿がある。
「サイズはピッタリのようですね。それでは、アンソニア様のお部屋へご案内します」
この邸の人事を一手に引き受ける執事は、踵を返してすたすたと廊下を歩き始めた。老いた見かけによらず身軽らしい。
足の速い執事へ遅れを取らぬように、後に続く二人も小走りで廊下を進んだ。
目的の部屋は、存外近い場所にあった。一枚の扉の前に立った老執事が、念を押すように二人を振り返る。
「坊ちゃまは少々、わがままを仰る傾向にありますが……決して気むずかしい方ではないのです。どうぞ、あなた方が無事に一日を終えられますよう祈っております。あぁ、掃除の手順は先程お教えしたように、上から埃を払って、窓や家具は水拭きを。ベッドメイクは一番最後にお願いしますね」
「あぁ、わかっている」
「お掃除は得意なの。任せてちょうだい!」
先程よりも一段気を引き締めたサクリファイスに、自信の満ちたミルカの声が重なった。
老執事は二人の顔を見比べてから頷くと、軽くノックをして自らの名を告げる。中から気のない返事が聞こえるのを待って、彼は扉を開いた。
「今度は何? 経営学の授業なら午後からだったと思うけど」
三人が部屋へと入るなり、抑揚のない声が響いた。まだ声変わりをしていない少年のものだ。
一つお辞儀をしたサクリファイスとミルカが顔を上げると、その少年の姿が目に入った。
こちらへは視線を寄越さず、何やら紙の束に目を落としている。チョコレートのような髪色の少年。彼が例の、この邸の一人息子なのだろうか。
「お初にお目にかかる。私のことは、サクリファイスと」
「今日だけの臨時お手伝いとして来た、ミルカよう。よろしくね」
二人が交互に自己紹介を終えると、そこで漸く少年の顔が上げられた。
眉のひそめられた表情は、不機嫌を装っているのか、それとも猜疑心の表れなのか。
「臨時、手伝い? それは、一体どういうこと?」
「近頃使用人達が次々と辞めて行くもので。坊ちゃまの周りの手が足りず、急遽臨時の使用人を募集したのですよ」
「別に足りないなら、わざわざ補充しなくてもいいのに。どうせ僕の世話が面倒になっただけでしょう」
「決してそのようなことはありませんよ、坊ちゃま。少々、この邸の仕事が骨だっただけでしょう」
主人の息子にも堂々たる姿勢の老執事を一瞥して、少年は二人の臨時アルバイターを見やった。
ためつ眇めつサクリファイスとミルカを眺めてから、少年は一人鼻を鳴らす。
戸口に並んだ二人の女は、互いに顔を見合わせて少年の言葉を待った。
「まぁ、やれるだけやってみたら? 音を上げずに一日を終えられるかは知らないけれど。精々、僕の邪魔をしないでよね」
返ってきたのは、あまりにもあまりと言えよう台詞だ。
貴族であるから、多少高飛車な部分はあるのだろうが、鼻につく物言いに、ミルカはぐっとこらえて微笑む。
サクリファイスは少女のそんな様子を見て、苦笑しながら告げた。
「では、ミルカ。作業に移ろう」
「え、ええ。そうね」
「それでは、わたしはこれにて」
二人を残して、仕事は済んだとばかりに老執事が部屋を後にする。
彼の後ろ姿を見送る二人は、まだ知らない。
これから怒濤の一日が始まろうとしているなどと、知る由もないのだから仕方がないのだが。
◇ 2 ◇
「メイドと言ったら、これよね」
掃除用具をしまう部屋から、ハタキを二本持ってきたミルカが、手にしたそれを掲げて告げた。
ほうきかモップかはたきのオプションは絶対必須だと思うわ、とは、彼女の弁である。
「そ、そういうものだろうか?」
はたきを渡されたサクリファイスは、知識もおぼろに呟いた。
これには話を聞いていたアンソニアも、呆れた物言いで口を挟む。
「それはあなたの勝手な妄想でしょう」
「そんなことないわよう。あ、そうだわ。あなたのこと、ソニアって呼んでもいいかな? ほら、折角歳が近いんだもの。愛称で呼ぶ方が親近感も湧くわよう」
「突然何ですか。嫌です」
唐突に何を思いだしたのか、ミルカの脈絡のない思いつきにアンソニアは即答した。嫌だときっぱり答えたにも関わらず、少女は嬉々とした様相で室内の清掃を始める。
はたきがけに始まって、本棚周り、机周りの整理、窓ガラスの雑巾がけと、申し訳程度に存在する植物の水やり。
そのどれもを、二人は事前に説明された通り丹念にこなした。
ベッドメイキングまで完了してから、二人は漸く一息入れる。たったの一部屋を掃除するだけで、優に二時間はかかっただろうか。
「ふう、こんなものかしら?」
「こんな部屋を、ここの使用人達は幾つも掃除してるのか。凄いな」
感嘆に似た声音でこぼしたサクリファイスへ、ミルカは同意の意を込めて大きく頷いた。
「お掃除は得意だけど、毎日何部屋もお片付けしてたら時間が足りなくなっちゃいそうねえ」
間延びした調子で、少女が言った時だ。女性はふと、数十分前までは視界の端に居たアンソニアが、室内から忽然と姿を消していることに気付く。
辺りを見回し、テラスまで確認してから、サクリファイスは首を捻った。
「アンソニアが居ない。どこへ行ったんだ?」
「まあ、本当だわ。お邸の中なんだし、危険なことはないと思うけど……」
「何を騒いでるんですか。少し静かにしてもらえません?」
きょろきょろと方々へ視線を巡らせた少女達に、神経質な言葉がかけられる。
声のした方を振り返れば、部屋の奥に続く扉からアンソニアが顔を出していた。何故だか、先程までと服装が異なっている。よくよく注視すれば、その向こうには大きなクローゼットと、彼の従者なのだろうか。見知らぬ男も立っていた。
「ソニア? 物音も聞こえないんだもの。まさかお部屋の中にいるなんて……」
思わなかったのよ、と、ミルカが言いかけて止める。
彼女とサクリファイスの視線は、揃ってある一点を注視していた。
少年の背後の従者が、腕に抱えるもの。彼の顔をも覆う程の布の塊は、恐らく大量の服だろう。しかし侍従はそれを、側にあった丸椅子の上に乗せる。
戦慄するべきは、その後だ。
両手が空いた侍従は部屋の更に奥へ引っ込むと、また大量の服の山を抱えて、今度はチェストの上にその山を乗せた。
その次は別のソファ、更に次はテーブルの上と、積み上げられる量は増していく。
それが幾度か繰り返されて、アンソニアが漸く制止の声を上げた。
「パイソン、もういいよ。あなたは自分の仕事に戻ってくれて。後は……そこのメイド達に持って行ってもらうから」
「はっ」
従者が頭を下げ、居住まいを正して部屋を出て行く。
「じゃあ、これを全部洗濯場に持って行ってね。あぁ、あと、ついでに新しい服が届いてる筈だからそこのクローゼットにかけておいて。良い? 一番端のクローゼットだよ。クリーニングの終わった服があったら、それも持ってきておいて。それから、昼食は今日もここでとるからと、キッチンメイドに伝えておくこと。じゃあ、僕はちょっと庭に出てくるから」
長々と用事を言い付けたアンソニアは、そのまま部屋を後にする。衣類が山積みのドレスルームを目前に、残された二人はただただ目を点にして片付けの算段をする他はなかった。
◇ 3 ◇
何度も何度も行き来した廊下を、幾度か往復して、辿り着いた洗濯場で少女と女性は漸く最後の荷物を下ろした。
「これで全部だ」
「すみませんねぇ、お嬢さん。また坊ちゃんの我が儘に振り回されているんでしょう」
サクリファイスが洗濯かごの中に山と衣類を入れるなり、洗濯場のメイドがそう言った。年配のメイドはやってきたばかりの服を、洗濯方法ごとに分けながら苦笑する。
「なんで、こんなに沢山お洗濯物が出るのかなあ」
こちらは長時間物を持ち運んでいたせいで、すっかり肩が痛くなってしまったミルカの言葉だ。
それに、理由を何となく察したサクリファイスが苦い表情を浮かべる。
「一度袖を通したものは、洗濯場行き、ということだろう」
「まぁ、それも理由の一部さね」
「いちぶ?」
ミルカが首を傾げると、年配のメイドが困ったように呟いた。
「坊ちゃまは、何くれと反発したがるお年頃のようですから。自分の信頼した方以外を、側に置こうとなさらないんでしょうよ」
「つまり、それって……嫌がらせ?」
少女が引きつった笑顔で問いかければ、年配のメイドは苦虫を噛み潰したような顔で笑った。
沈黙は、つまり。
「なるほど、それが使用人の居着かない理由か」
「そんな所ですよ」
メイドの話を聞いていると、二人はどちらともなしに気が滅入るのを感じる。このような状態が、夕刻まで続くのだろうか。
そんなことを思った矢先のことだった。
開けたままの扉から、不意に二人を呼ぶ声が聞こえた。「臨時の人」と叫ばれるのは少々居心地の悪いものだが、雇われている以上、事実を否定することもできない。
「こちらだ。何かあったのか?」
サクリファイスが戸口から顔を覗かせると、丁度廊下を通りかかった華奢なメイドが彼女に気付いた。
「あぁ、そう、あなたたちね。それがちょっと大変なの! さっきアンソニア様が鳩舎に来たんだけど、暫く鳩たちの様子を見ていくからって人払いをされたのよ。鳩舎の見張り係もアンソニア様ならってほんのちょっと目を離した隙に、アンソニア様が鳩を鳩舎の外へ出されて……」
「え? ハトはどうなったのかしら」
「五羽くらいかな。外に出た途端アンソニア様の肩から腕から飛んでいったわ。鳩舎の周りにはネットが張ってあるから、まぁ邸の外には出ないと思うんだけど、高いところを飛ぶせいで捕まえられないの! あなたたち、臨時の人なら手が空いてるでしょ? だから一緒に捕まえてよ。あたし一人じゃ全部捕まえるまでに日が暮れちゃうわ!」
話の概要を聞いた二人は、目を丸くして瞬いた。本当に今日は、次から次へと仕事がやってくるものだ。
ミルカはサクリファイスを横目で見上げ、サクリファイスはミルカを見下ろす。
それから同時に吐き出されたため息は、響く洗濯音に重なって消えた。
パタパタと軽快な足取りで繰り出した廊下を、曲がって降りて真っ直ぐ突き進む。
案内のメイドを先頭に開けた庭へ辿り着いた時には、既に何人かの使用人達があちこちを駆け回っていた。
手に手に虫取り網を持ち、東奔西走と忙しそうだ。
「何人か手が空いた人も来てくれたみたいね。あ、捕まえるのにはこれを使ってちょうだい」
そう言ってメイドが差し出したのは、側に立てかけてあった虫取り網だ。それを受け取った二人は、それぞれに鳩を探して網を掲げる。
「てい、えいっ、てーい!」
気合いの入ったかけ声を上げながら、ミルカは鳩舎の上に止まっていた鳩を捕まえる。先程までのおっとりとした様子とは裏腹に、彼女の芯の逞しさが窺い知れた。
サクリファイスの方はと言えば、小さなかけ声一つかけることなく、軽やかに跳躍した虫取り網が鳩を捕らえる。
それは素人目にも鮮やかな動きで、彼女が武人であることを明言していた。
「こんなものかな」
二羽、三羽と順調に鳩を捕まえたサクリファイスは、最後の一羽が捕らえられるのを遠目に見ながら、ふと視界の端で人影が揺れるのを見付けた。
ぼう、と突っ立ったままのアンソニアが、鳩舎の中からじっと何かへ視線を送っている。
その先を辿って、彼女は首を傾げた。
少年が見つめるもの。それは、今まさに網に掛かった最後の鳩だ。
自由に羽ばたく羽が絡め取られるのを見ながら、少年は矢庭に瞳を曇らせた。
何を考えているのだろう。
彼の表情からそれを読み取ることはできなかったが、サクリファイスには何故だか、少年が泣いているような気がした。
「まさか、な」
独りごちて、首を振る。再び視線をやった先では、ミルカがアンソニアの元へ駆けて行く。
「ねえ、どうしてハトを外にだしちゃったの?」
少女の問いかけには、「別に意味はないよ」とそっけなく返される答え。
少年に尋ねた所で、まともな返答は期待できないと悟ったのか、ミルカはそれ以上問わずに微笑んでからこう言った。
「そろそろ、お昼ごはんの準備ができてる筈だわ。行きましょう?」
庭から見た、アンソニアの部屋のある辺りを指差す少女に、しかし少年はそっぽを向いて先を歩く。
「要らない。食べたくなくなったから、下げておいてよね」
不機嫌な少年の声は、二人の後から駆け寄ってきたサクリファイスにも、確かに聞こえた。彼の言葉には、少女も女性も困ったように少年を見た。
「またそんなわがままを……」
「そうよう。ごはんはちゃんと食べなくちゃ。不健康になっちゃうわ」
サクリファイスが口出ししたことに、ミルカが便乗して念を押す。けれど少年は頑として譲らず、部屋への道中交わしていた言い合いが、功を奏することはなかった。
◇ 4 ◇
結局、昼食は手も付けられないまま下げられて、午後になってもアンソニアは読書に耽っていた。
「でも、何も食べないってわけにはいかないと思うのよ」
ミルカはそう独りごちると、サクリファイスの腕を引いて、とある場所へと向かった。
途中すれ違った使用人達へ道順を聞き、辿り着いた場所は、客室三部屋分はあろうかという厨房だった。
大きなガスレンジに流し。パンを焼く為の巨大な釜や、広い台が余裕を持って並んでいる。食事時には料理人や配膳のメイド達がごった返す為、これでも狭いのだとキッチンメイドは言った。
「ミルカ? こんな所に来て、一体何をする気だ?」
「ほら、ソニアだってこどもだもの。甘いものなら食べるかしら、って」
「……ちょっと待て、ミルカ。甘い物って、まさか」
「うん、作らせてもらおうかなって思ったの」
何食わぬ顔で頷いた少女に、慌てたのは厨房の主ではなくサクリファイスだ。ミルカの見た目は美しい――しかし劇的な――料理の味を知る彼女は、少女に料理をさせまいとやんわり出口の方へ肩を押す。
「それならば料理人に作ってもらおう。私達が作るより、その方がアンソニアも安全……いや、慣れた味の方が受け入れやすいと思うぞ」
「ううん。気持ちを込めた料理は、どんな人にも愛されるものだわ。それにあたし、料理は得意なんだから!」
「だが、厨房も食材も勝手に使うわけにはいかないだろう。第一、邪魔になったらどうするんだ?」
問題ないわと胸を張ったミルカは、サクリファイスの石とは反対方向へ進み出た。食材庫へと続く扉の前には、厨房責任者の姿。
何とか押し留めようと奮起するサクリファイスを、半ば強引に押し退け、ミルカは厨房責任者へ声をかけた。
「あのう……ここの管理者の方かしら?」
「はい。失礼ですが、見ないお顔ですね」
「今日限りの、臨時使用人として入ったミルカよう。ソニ……じゃなくて、アンソニアさまがお昼を食べなかったでしょう? だから代わりに、お菓子でも作ろうかと思って。材料と厨房の使用許可をもらえるかしら」
「名前さえ書いてもらえれば、構いませんよ。お昼時も過ぎましたから、二時までは下準備の料理人達が数名使う程度ですし」
「ありがとう」
すんなりと下りた厨房使用の許可に、サクリファイスはいよいよ止める術を失った。
ボウルに泡立て器にと、準備を始めるミルカを眺めながら、サクリファイスは他にすることもなく。
せめて自分が材料や味の調整をするべきかと、女性は少女の手伝いを始めたのだった。
◇ 5 ◇
「……何、これ」
開口一番に、アンソニアがぽつりと言った。
それは呆れたような訝るような、疑念のこもった問いだ。
少年の目の前には、皿の上に乗った幾つかのマフィン。チョコレートチップやココアパウダーの練り込まれたそれは、茶色にきつね色にと如何にも美味しそうに鎮座ましましている。
マフィンを挟んで向かい側には、それを作った少女達の姿。ミルカは自信作だと言わんばかりに、盆を両手に抱えてふわりと笑った。
「お昼ごはん、食べてないでしょう? お菓子なら、少しは食べられるんじゃないかしらと思ったの。やっぱり、何も食べないのは不健康だわ」
「巨大なお世話」
ミルカが告げると、間髪入れずにアンソニアが続けた。淡々と告げられた言葉には、冷めた感情の片鱗が見え隠れする。
すぐに切り返された言葉には、少女もむっとしたようだが、彼女は諦めずにねばってみせた。
「何をするにも、エネルギーって消費するものなのよ。ごはんを抜いてたら、いざという時に力がでないわ」
「いざという時なんて、ないでしょう。警護の人員も付いてるし、第一、ここは邸の中です。どんな体力を使わなきゃいけないような“いざという時”があると言うんですか」
「でも、折角作ったんだもの。一つくらい、食べてみない?」
「お断りだね」
「なんでよう?」
「僕は頼んでないし、食べたいとも思わない。わかったら早く下げてよ。言ったでしょう、邪魔はしないでよねって」
平行線の会話が続いていたのだが、アンソニアの最後の一言で、少女はとうとう笑みを崩した。
眉間には深い皺ができ、みるみる怒りの様相を現す。どうやらここで、彼女の許容範囲を振り切ってしまったようだ。
「ちょっと、あなたねえ! さっきのお昼だって、これだって、タダで出てきてるわけじゃないのよ? 作ったメイドさん達の気持ちとか、食材とか、ぜんぶムダにしてるのわかってるの?」
「ミルカ、そう声を荒げるのは――」
「今怒らないで、いつ怒るって言うのよう! わがままお坊ちゃんだって話にはきいてたけど、言うべきところはちゃんと言うべきだわ!」
サクリファイスは、険悪になり始めた雰囲気に制止をかけたが、堪忍袋の緒が切れたミルカを、止められる筈もなく。
噛み付かんばかりの勢いで叱咤する少女を、少年は鼻で笑った。
「僕に意見するの。あなた、雇われメイドだってわかってる?」
「いいえ! これは意見じゃないわ。あなたにお説教してるの。人の気持ちも考えられない人が、主人になったって誰もついてくる人はいないわ。わからないの? まいにちまいにち、あなたのごはんを作る人達。洗濯物を洗う人達。お部屋のお掃除をする人達だって、あなたのことを心配したり、快適に過ごせているか気を配ったり、あなたのことを想ってる筈なのよ。なのに、あなたはわがままを言って困らせてばかりなの? そんなことじゃ、いつまで経っても誰のことも理解できないわ」
机に身を乗り出して、ミルカは一歩も譲らないといった風に告げた。
アンソニアは視線を逸らしたが、じっと反論もせずに聞いている。沈黙を通そうとしているのか、少年は少女の話が終わっても口を開こうとはしなかった。
このままでは埒が開かない。
そう感じたサクリファイスは、昼間から気がかりだったことを口にした。
「アンソニア。一つ、聞いても良いだろうか?」
「何」
「どうして、あなたは我が侭を言うのか。問題がなければ、教えて欲しいのだが」
ミルカの真剣な瞳とはまた違った、冷静で真摯な瞳が少年を見つめた。まるでそれは、誤魔化しも効かないと言うように、真っ直ぐと据えられる。
サクリファイスの瞳は、子供だからと軽んじているものではなかった。黒漆の輝きの中には、ひたに向き合う姿勢が見て取れる。
「……別に、気分の赴くままに行動してるだけだよ。それ以上に何があるって言うの」
「だが、あの執事は、アンソニアは気むずかしい人間ではないと言っていた。昼間の鳩舎の騒ぎの時だって、あなたは捕らえられる鳩を見て、泣きそうな顔をしていただろう? 私には、それが鳩を思いやってのことのように思えたんだ。そんな人間が、果たして本心から自分の我が侭ばかりを通そうとするだろうか?」
「それって……どういうこと?」
サクリファイスの弁に、ミルカが首を捻った。
彼女の言葉がいまいち理解できていないのか、少女は女性と少年の顔を交互に見る。
つまりと前置きを据え置いて、サクリファイスは一言続けた。
「我が侭を言わなければならない理由があった、と私は踏んでいるのだが、どうだろう?」
「バカじゃないの!? 買いかぶりすぎだって、自分で言ってて思わない?」
サクリファイスが結論を述べるなり、アンソニアが突然声を荒げる。
驚いて目を丸くしたミルカだったが、少年の目元がうっすらと水気を帯びているのが見て取れた。サクリファイスもそれが見えたのか、動じた様子なく微笑みすら浮かべる。
彼女の表情が、彼への答えだと理解したのだろう。
少年は肩の力を抜いて、ぽつりぽつりと口を開いた。
「何で、よりによって今日入ったばかりの人に気付かれるのかな。ずっと、誰もそんなことには気付かなかったのに」
吐露されたのは、追いつめられた犯人の、自白のような響きを帯びた言葉。
本当は言うつもりなどなかったのだろう、少年の胸の内の本心だ。
「あなたは周りに、何を求めているんだ?」
「……周りの人間は、気付けば僕に優しかった。だけど、そこに愛があるかなんて、誰にもわからないんだ。上辺だけ優しく接する人だって、中には居るかもしれない。そんな猜疑心が、人を寄せ付けたくないって、必至に嫌われようと我が侭を言って寄せ付けないようにしてた。だけど、そう思う半面で、甘えたいとも思ってた」
「気むずかしくないっていう、メイソンさんの見解は、ぜったいに間違いだと思うわ」
「それは僕が気むずかしい人間だって言いたいの?」
「気むずかしいっていうより、むずかしい人よねえ、ってことよう」
「そうだろうね。自分のことだって、よくわからないもの」
腕を組んで逡巡した少年だったが、ふと、答えていなかったことを思い出して更に続けた。
「鳩の件は、羨ましかっただけ」
「羨ましい、とは?」
「ここは窮屈な場所だから、自由に外を飛ぶ鳩が、羨ましくて、綺麗だと思った。……だけどここの鳩は、鳩舎で飼育されているから。捕まえられた鳩は、自由に空を飛ぶことも許されない。狭い小屋の中で日がな一日枝にとまってるしか出来ないんだもの」
サクリファイスが首を捻ると、今更隠すことも無意味だとばかりに、アンソニアはことの真相を告げる。
これには、再び女性が問いかけた。
「可哀相だと思ったのか?」
「違うよ、僕に似てるって思っただけ。僕は生まれてからずっと、この邸から出たことがないから」
「ずっと!?」
不意に、ミルカが頓狂な声を上げる。それもそうだろう。生まれて以来家の中だけで暮らしてきたなどと、常人の常識ではありえない。
裏を返せば、家から出ずとも不自由なく暮らせるという申し分ない環境なのだろうが、心は乏しくなるばかりだ。
「それって、精神的にすごく不健康だわ」
「だって、外は危険が沢山だって口を揃えて言われるんだもの。出たくたって出られない」
唇を尖らせてぼやいた少年に、ミルカは頬へ手を当て考えるそぶりを見せる。
やがて暫くああでもないこうでもないと独りごちていた少女は、よし、と握り拳を作るとアンソニアとサクリファイスの手を引いた。
「だったら、こっそり抜け出しちゃえばいいんじゃなあい?」
「はぁ!?」
「だって、ずっとそんなことじゃ息が詰まっちゃうのは当然のことだわ。そうと決まったらさっそく出発よ」
言うなり、メイド服姿のままで少女はテラスへと駆け寄った。二階にある部屋は、上手く飛べば簡単に着地できる高さだ。
「だが、ミルカ、仕事はどうするんだ?」
呑気に告げたサクリファイスに、ミルカは笑って「これもお仕事だと思うわよ」と手すりに手をかける。
曰く、「使用人なんだから、使える人のお願いは、できるかぎり叶えるべきでしょう?」とのことだ。
それは少々違うのではないだろうか、と考えつつも、サクリファイスも少女同様手すりへと足をかけた。二人が同時に飛び降りると、少年を催促するようにテラスを見上げる。
「ソニアー! はやくはやく」
「日が暮れるぞ」
少女と女性が手を差し伸べる。少年はどこか抵抗があったようだが、やがて吹っ切るように、二人の後へと続いて飛び降りた。
着地によろけた反動で、芝生の上に転がる。怪我はないかと慌てたミルカとサクリファイスだが、覗き込んだ少年の顔は、泣きそうな、それでいて嬉しそうな相好をしていた。
「まったく、本当にあなた達は――滅茶苦茶だよ」
「でも、こっちの方が楽しいじゃない?」
ミルカが笑って、サクリファイスが手を差し出す。二人に助け起こされた少年は、眩しそうに目を細めて苦笑した。
「まぁ、つまらなくはないね」
「あまのじゃくー!」
「ふふ、アンソニアのその性格は、暫く直りそうになさそうだな」
三者が三様にそれぞれ笑って、これから見るだろう外の景色に胸を弾ませる。
少女と女性に連れ出された少年が、新たな風景を目に耳に刻むのは、きっとまた別のお話。
◇ Outro ◇
日も暮れた時刻。丘に赤い夕日が差すとき、三人は漸く邸に帰り着いた。
もう十分もすれば、仕事の終わる時間だ。
他にやり残した仕事はないかと辺りを見回して、ふとミルカは結局手を付けずじまいだったマフィンを見付けた。
どうしようかとマフィンの処遇に困って、持って帰ろうかとも考えた時だ。
「それ、まだあったんだ」
アンソニアが少女の手の中の皿を見て、こともなげに尋ねた。
「そうなのよう。もう、いっそ持って帰って自分で食べようかと思ってたところだわ」
ミルカが頷くと、「ふぅん」と少年が気のない返事を返す。
けれど声とは裏腹に、皿に乗ったマフィンを一つ手にした少年は、そのまま一口それを囓った。
味わうようにゆっくりと咀嚼して、呑み込む。少女が「あ」という間もなく、少年の胃袋へ収まったマフィンに、アンソニアは一言だけ感想を告げる。
「……不味い」
「なあに、それ! 折角つくったのに、お世辞でもおいしいって言うところでしょう」
「お世辞は嫌いだもの」
眉間に皺を寄せたまま、それでも二つ三つと食べてしまった少年は、空になった皿を少女へ押し戻して読みかけの本へと戻る。
呆然とくずだけの残った皿を見つめたミルカに、アンソニアはもう一言だけ付け足した。
「無駄にはならなかったでしょ」
視線は既に本の紙面で、ミルカへ一瞥をくれることもなかったけれど、怒ったような少年の声には、詫びだとか思いやりだとか、そういった色が滲んでいた。
ぽかんと口を開けていたミルカは、しかし彼の言葉ににっこりと微笑む。
そうして元気に告げられるのは、今日という日を締め括る一言だ。
「今日は一日、おつかれさま」
空になった皿と満たされた喜びを抱えて、少女は厨房へと駆けて行くのだった。
◇ Fine ◇
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【2470 / サクリファイス / 女性 / 22歳 / 狂騎士】
【3457 / ミルカ / 女性 / 18歳 / 歌姫/吟遊詩人】
【NPC / アンソニア・クレスフォード / 男性 / 15歳 / 貴族】
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■ ライター通信 ■
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サクリファイス様、ミルカ様。
初めまして、こんにちは。
この度は、「緊急募集、使用人よ集え!」への参加依頼ありがとうございます。
プロットは速攻で出来たのに、短い中にどう押し込むか四苦八苦しながら書かせて頂きました。
どちらの方の個性も生かしたく、サクリファイス様の戦闘の中で培われただろう洞察力、ミルカ様の料理の腕と書きたいものも詰め込んでみました。
別の意味でドタバタとした作品になってしまいましたが、如何でしたでしょうか。
我が家の坊ちゃんが失礼なことを仰ってしまったかと思いますが、キャラの性格と作品の進行上入れざるをえませんでしたので、こちらにて深くお詫びさせて頂きます。
以下個別感想です。
ミルカ様。
コックになったらさぞ面白いことになっていただろうなと思いつつ、どうしても料理のくだりを入れたくてこのような形と相成りました。
同作品登場のサクリファイス様が中立で、アンソニアに問いかけるイメージでしたので、ミルカ様にはここぞと言う時に怒って頂くという役回りをして頂きました。
話を聞くのも大事ですが、時にはきちんと説教をすることも大切ですよね。
それでは、再びのご縁があることを願って、ライター通信を締めさせて頂きます。
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