<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>
黒曜石の円舞曲 obsidian-waltz
黄昏のヴェールがエルザードの裏路地を淡く照らす。
少女はその細くて白い指先を男の頬に添わせた。妖艶な微笑で男の瞳を貫く少女から、数ミリさえも動けない男。
その魅力に惑わされているのか、何か別の力に苛まれているのか。
「ふふ……♪」
薄く開いた唇に靄のようなものが吸い込まれていく。
それは、少女が手を添わせる男の体から吸いだされていた。
男の眼はもうどこも見ていない。
「あ…うわぁああああ!」
路地から全速力で逃げていく青年。
「あら……」
ドサリと地面に崩れ落ちた男。ピクリとさえも動かないが、胸が上下していることで辛うじて生きていることは分かった。
口の端をゆっくりと釣り上げる。
「見られちゃった……わ♪」
少女の声には僅かな感慨さえも無い。
そしてスキップでもするかのように軽やかに歩き出す。
青年の後を追って。
白山羊亭の扉が乱暴に開け放たれた。
「どうしたの?」
息も絶え絶え、汗を拭く余裕さえもなく、青年はルディアが差し出した水をぐいっと飲み干して、
「あ…悪魔だ! あんな、あんな風に……!」
人の生気のようなものを吸い取ってしまうなんて。
カタカタと震える青年に、店の客が顔を合わせる。大小さまざまな事件が起きてきたエルザードだ。青年が言うような事件も過去起こっているような気さえする。だが、それでも青年が震えていることは事実で、その眼で見てしまった光景がいかに恐ろしかったのかを物語っていた。
「見ぃつけた…わ」
鈴を鳴らすかのような透明な声音が白山羊亭に響く。
白山羊亭の中にいた誰もが声がした方向へと視線を向けた。
その瞬間、誰もが時が止まったかのように動きを止める。そんな中、青年の振るえだけが激しさを増していった。
「逃げなくても、良かったのよ」
カツカツとヒールの音を小さく鳴らして青年に近付く少女。青年は振り返れない。
そっと、少女は後ろから青年の頬に触れた。
「っひ……!」
冷たい。まるで死人のように。
「やぁ嬢ちゃん! お前さんもどうだい一杯?」
そんな緊迫した空気を破ったのは、既にいくらか出来上がっていた客の一人が少女にかけた声だった。
「そうね」
すっとあっけなくも青年から手が離れ、少女は客の環の中へ入っていく。
少女を囲んで夜は過ぎていく。
コップを両手で持ち、少女は飲むふりをしながら店内をすっと流し見る。
人の眼にはみえない靄が一気に立ち上る。
ソレは全てコップに隠された少女の口へと吸い込まれていった。
時が止まったかのように止まる白山羊亭。
少女は椅子から立ち上がる。
「美味しくないわ」
この程度じゃ。
「あなたをちょうだい」
そして異様な店内の盛り上がりに、逃げるタイミングを逸してしまった哀れな青年にそっと口付けた。
再び時を取り戻した白山羊亭に、少女の姿はどこにも無い。
客の一人が気がついた。
「お、おい!?」
床に倒れている青年。
揺さぶっても何の反応も返さない青年。
青年の心と記憶は完全に無くなっていた。
それから暫くして、エルザードに謎の奇病が蔓延しているという噂が広まった。
それは、行き成り廃人となって倒れる原因不明の病。
その側で、黒髪の美しい少女が目撃されるようになり、人々はこう口にした。
『夢魔(サキュバス)に襲われた』のだと。
医者は何かしらの病気だと言い張り、夢魔の存在を認めない。
だから有志を募って白山羊亭に広告を張り出した。
夢魔を探し、捕まえて欲しいと。
☆
張り紙を見て千獣は首をかしげた。
「夢……魔……?」
聞いたことのない名前だと思い、誰か教えてくれないものかと辺りを見回す。
「夢魔ってのはさ、寝てる相手の生気だかなんだかを吸い取って殺しちまう悪魔のことさ」
神妙な面持ちで千獣の問いに答えたのは湖泉・遼介だ。その顔が余りにも鬼気迫っていて、千獣はまた別の意味で首を傾げる。
「捕まえるって事は、殺しちゃ駄目ってことだよな?」
遼介は振り返り、給仕にいそしんでいたルディアに問いかける。その声が余りにも真剣で、ルディアは足を止めて、
「書いてある通りだと思うけれど。倒しちゃった方が手っ取り早いのにね」
今エルザードを脅かしているモノを退けることだけが目的ならば。
「そうだよな」
依頼として出ている以上、それを遂行することが第一条件だろう。だが遼介自身、倒すことなら出来るだろうが、きちんと捕まえられる自信はない。ただ、養成学校の生徒にも被害が出たことで、少々過敏になっていた。
「しかし、この夢魔……サキュバスというのは男性を狙うものと思うけれど……女性でも出てくるのかな?」
張り紙に書かれている夢魔の種類がサキュバスであることに、捕まえようにも出てきてくれなければそれも出来ないなと、サクリファイスは張り紙の前でうぅむと唸る。
「男性…襲う、の……?」
そんなサクリファイスの疑問に千獣が問いかける。
「もし狙いが男のみなら、好都合だ。絶対俺が捕まえてやる」
ぐっと拳を握り締めた遼介に、
「今までの被害者が男性のみでしたらか、サキュバスと称されている可能性もあるんじゃないです?」
悠々とした態で張り紙の前にたむろしていた一同に、にっこり微笑んで歩み寄ったのはシルフェだ。
「そうだな……一連の犠牲の犯人が夢魔と見られているようだが、実際のところは分からない」
そうだな? とルディアに確認するようにキング=オセロットは問いかける。
「でも、被害者が男性ばかりなのは本当みたいなのよ」
「ううむ……浅識なのでよくは知らぬのだが、本物のサキュバスだったとして、サキュバスとは眠っている男性から精を抜き取るのではなかったかな」
もし本当だとしても、やはり可笑しいところがあると、アレスディア・ヴォルフリートは眉根を寄せた。
「いきなり廃人に……というのは普通に行動していたのに突然、ということなのだろうか? 夜寝て、朝にそうなっていた、ではなく」
「ごめんなさい。私じゃちょっと……」
確かに直接口からではなく、張り紙という方法での依頼ならばルディアが詳細を知らなくても仕方がない。
「でも、患者さんたちを見てるお医者様なら、知ってるけど」
「そうだな、その医者の話、聞いておきたいな」
医者の意見にも少々不自然を感じる。オセロットはルディアに地図を頼み、ルディアは頷いて奥へとかけていく。
「うむ。私も医者の方の意見は全て聞いておきたい」
ここまで頑なに外的影響による精神損傷を否定するのだ。医者にも何かしら病気と呼ぶだけの確信があるのかもしれない。
「なら俺は、今まで被害が出たって言う場所当たってみるよ」
「まぁ待て遼介」
今にも飛び出していきそうな遼介を止め、サクリファイスはルディアに尋ねる。
「今まで、どの辺りで被害が多く出ているのかな?」
「届いてる情報だと、余り特定はされてないみたい。ただ、人目に余りつかない場所っていうのは共通してるみたいよ」
「だ、そうだ」
無駄足を踏まないようにというサクリファイスの配慮に、遼介は軽く頭をかいて頷く。
シルフェは外へと情報収集をしに行こうとしているメンバーを見つつ、きょとんとしている千獣に振り返った。
「では千獣様は、わたくしと一緒にこちらで情報収集いたしませんか?」
そうすれば、より詳しくサキュバスのことを知ることができるかもしれない。
千獣はそんなシルフェの言葉に小さく頷いた。
☆
オセロットとアレスディアはルディアから聞いた医者が住む診療所兼自宅の前で立つ。
エルザードにもいろいろな医者がいるが、この医者は洗心医や水操師といった魔法的な医者ではなく、外科や内科といった医術を修めた医者なのだそうだ。
それならば、確かに伝承というものに対し頑なになるのも多少頷ける。
表から入れば診療所のため、二人は気にせずその扉を開けた。
「初診の方ですね」
受付から女性の声が二人にかかり、手短に事情を説明すると、医者に取り次いでもらえるよう願い出た。
今は診察時間帯のため、少し待つように言われたが、それも余り長い時を待つことなく、医者は二人を診察室ではなく応接間へと通してくれた。
「早速本題なのだが」
「サキュバスなどいませんよ」
受付にここへ来た理由も告げていたため、医者はすんなりと状況を飲み込み、そして話が始まるやそう宣言した。
「いや、いるかどうかという話は後にしてもらいたい」
オセロットの言葉に、医者は不思議そうに首を傾げる。
「知りたいのは、あなたがそこまでサキュバスを否定する理由」
何か病気であると確信するに足る根拠があるからこそ、そこまで否定するのだろう? と、オセロットは医者を見据える。
こういった専門的になりそうな話はアレスディアでは水を差すだけになってしまう可能性があるため、傍らで一言一句聞き漏らさないよう集中する。
「サキュバスは、もし存在していたとも、夜眠っている男性を狙う魔物のはずです。ですが、今回の患者は時間関係なく倒れています。人気の無い場所で発見されることが多いですから、急性とも一概に言い切れない。徐々に病魔に冒され、倒れたのだと言えるのではありませんか?」
医者は自分の言葉に、何か気がついたように虚空を見上げると、病魔も夢魔も同じ魔であることに変わりないかと呟いて笑った。
そんな医者が言うサキュバスの見解は、アレスディアが知っているものと同じ。
「ではなぜ人気の無い所へわざわざ行ったのだろうか」
「そればかりは、患者ではないので、分かりません」
何かしら人を避けたい衝動が生まれるのかもしれないと医者は言う。
「なぜ、捕まえろという依頼になったのか、医者殿はお分かりになるだろうか」
何となく、ここまでサキュバスを否定する医者との間に何かしらあって、その依頼になったような気がしてならず、アレスディアは問いかける。
そんな問いに、医者はしれっとした顔で答えた。
「私がそんなものは居ないと言ったら、その人が“だったら夢魔を捕まえて連れてきてやる”などと言いましたので、出来るものならやって御覧なさいと答えただけですよ」
「「…………」」
オセロットとアレスディアは顔を見合わせる。
サキュバスを捕まえろという依頼は、この医者と依頼者の小競り合いを解決するためでもあるということか。
これだけ被害者を出しておきながら、何とも身勝手で自分本位な理由だろう。だが、依頼者も被害者を思い夢魔をどうにかしたいと思ったのは事実。
やれやれとは思うが、心配する気持ちは本物なため、責めるのは止めておこう。
しかし、医者と街の人とも関係まで取り持つ必要は、あるのだろうか。
被害者がそこで食い止められるならば、正体が病気であれ夢魔であれ、いいような気がする。
お互いまだ何か聞きたいことはないかとオセロットとアレスディアは顔を見合わせる。
もう聞くことも、これ以上の情報が手に入ることも無いだろう。
「何か新しいことが分かったら、白山羊亭に情報を寄せていただきたい」
「ええ、勿論ですよ」
アレスディアの言葉に医者はにっこりと微笑む。
「ありがとう。時間をとらせてすまなかった」
貴重な診療の合間の休憩時間に快く対応してくれたことに、オセロットは礼を述べる。
そして、応接間を出て受付の女性に軽く頭を下げると、診療所から外へ出た。
二人が去っていった診療所に、ふわりと顕現する漆黒の少女。
「ふふ♪ 上出来、かしら?」
少女は医者を後ろから抱きしめ、診療所の入り口を見つめる。
「あなたがこうして病気だって言ってくれるから、私も食事がしやすいわ」
医者は、慣れた動作で近付く唇を制して、ふっと笑う。
「利害関係が一致しただけですよ」
白衣のポケットに手を入れて、窓から外を見つめる。
太陽の下、子供たちが楽しそうに遊んでいた。
「あなたから頂く記憶は大変有効ですから」
そう、彼女――と、一概に言い切れない――は夢魔は夢魔でも、よく知られている夢魔の類とは違う。
啖呵を切った街の男も、うまく乗せられてくれたと医者はほくそ笑んだ。
☆
ルディアはカウンターの中から街の地図を取り出し、今までの情報がかき集めてある書類も一緒に取り出すと、赤ペンで街の人が襲われた場所にバッテン印を書き入れていく。
「これだけ頻繁に起こってるっていうのも、やっぱり不自然よね」
バッテン印の位置に何かしらの法則性があるとか、一度現場になった場所が外されているとか、そう言ったことは全く無く、人の通りが少し少なそうという場所ならば、わけ隔てなく(という言い方もおかしいが)印がついていった。
「最近エルザードに流れ着いたと考えれば妥当だろう」
どんな方法でエルザードに着たのかは、分からないけれど。
「もし、もしもよ。獲物を求めて徐々に流れ着いたのだとしたら、他の町や村でもっと話題になってもいいと思わない?」
そして、その情報がエルザードの白山羊や黒山羊に流れてきていたとしても、おかしくない。
「考えられることはさ、2つないか」
遼介の言葉に、ルディアは「2つ?」と首を傾げる。
「1つは、俺みたいにソーンとは違う世界から来た。もう1つは、そのサキュバスが前に居た村は滅んでいる」
滅んでいるの言葉に、ぶるっとルディアが震え上がる。
考えたくは無いが、可能性もゼロじゃないのがなんともいえない。
「あ、ごめん。できたわ」
ルディアは書き上げた地図を遼介とサクリファイスに手渡す。
「気をつけてね」
バッテン印の場所を見て分かるように、人気が無ければ全てが現場足りうる。これから向かう場所に、安全な場所などないのだから。
もしかしたら、人が来ないということで出会う可能性が何倍も上がっているかも知れない。
会えなければ意味がないのだけど、もし、会って二人が廃人になってしまったら……そんなこと、考えたくも無い。
ルディアは後ろ向きに走っていってしまいそうな思考を、頭を振って追い出し、笑顔を浮かべて二人を見送る。
「絶対捕まえてやる」
「まずは向かう場所を分担しよう」
遼介はぐっと拳を握り締め、サクリファイスはそんな遼介を追いかけるように、白山羊亭から外へ出た。
太陽はまだまだ高く輝いている。こんな真昼間から――いや、時間など関係なく――仕掛けてくる夢魔も、かなり型破りだ。
「俺、この辺行くよ」
白山羊亭の前、犯行現場の再調査・再確認に向かうための役割分担で、遼介は街の半分を指でぐるっと囲う。
「そんなに沢山の場所へいけるのか?」
高い跳躍力を持っているとは言えど、走って街を探索する遼介が、翼を持つ自分と違い、1日でエルザードの半分を見て回れるとは思えず、サクリファイスは問いかける。
だが、遼介はそんなことを言われることは予想していたようで、すっと1枚のスペルカードを取り出した。
「サクリファイスの翼には劣るかもしれないけど、俺、前より移動速度上がったんだぜ」
言葉と共にカードから取り出した魔法のキックボードに足を乗せる。
「そんなものがあるんだな」
足を乗せた瞬間に浮かび上がった遼介を見て、サクリファイスは純粋に感嘆の声を上げた。
「サクリファイスは覚えてるか?」
以前、樹海の村まで送り届けた郵便屋の蘇芳。彼がくれた小切手で遼介はこのキックボードを手に入れた。
「なるほど」
何事も先立つものはお金のようだ。
それはそれとして、いつ何処で件のサキュバスに出会ってしまうか分からないため、調査は出来るだけ速いほうがいいだろうと、それぞれ翔けだす。
遼介は右へ、サクリファイスは空から左へ。
キックボードは通りを歩く人々を器用に避け、翼は何の制約もなく目的地へと向かっていった。
☆
それぞれの目的地へ向かう4人を見送り、シルフェはルディアに改めて問いかけた。
「本当に、見かけた方というのはいらっしゃらないのです?」
依頼という形で広告にまでしてしまっているのだから、何かしらそれを裏付ける行動なり証拠なりがあるのではないか。
「そう言った情報、情けないけど入ってないの」
冒険者に様々な依頼を発信するということは、同時に情報も集まるということ。
その白山羊亭でさえ“行き成り廃人になって倒れる人が多い”という情報以外殆ど入ってこない。
それは逆に不自然なほどに情報が規制されているようにさえ感じた。
「それは―――…」
ルディアが口を開きかけた同じ瞬間、一人の男が余裕の無い表情で白山羊亭の扉を開けて入ってきた。
「丁度いいところに。あの人、夢魔の広告を出した有志の一人なの」
ルディアは二人に今入ってきた男を指差して告げる。
シルフェはにっこりと微笑むと、
「では、あの方からお話しを聞けますね」
と、席を立ち――千獣もその後を付いて――男の座ったテーブルへと近付いた。
そして、広告を見た協力者だと先言付けて、
「どうして夢魔と思われたのです?」
と、有志の一人であるという男に問いかける。
「被害者が男ばかりだって話は聞いたか?」
それはルディアが言っていた。と、シルフェと千獣は頷く。
「夢魔ってのは、男を狙ってまぁイロイロ生きる何かを奪っちまう魔物だ。基本的には夢が根城だが、現実に居ないってわけでもない」
と、思う。という言葉を最後に小さくつけて、男は二人の反応を確認し、また言葉を続ける。
「情けないことに、男ってのは美人には弱いもんだ」
ああ、まぁ、それはそれとして。
「それでしたら、やはり捕まえるよりは、倒してしまわれたほうが今後の憂いもなくなるんじゃありませんか?」
純粋なシルフェの問いに、男は机を叩くようにして勢いよく立ち上がると、つばを飛ばさん勢いで叫んだ。
「あの医者言いやがった! 病気じゃないと証明してみせろって!! だから俺たちは捕まえて連れてきてやるって答えたんだ」
それは即ち、サキュバスを捕まえろという依頼の根源になってしまった口げんか。
えっと……千獣はきょとんと瞳を瞬かせる。そんなことで、倒せじゃなく、捕まえろになったと?
「まぁ、それはとてもはた迷惑ですね」
シルフェはキラキラ輝いていそうないい笑顔を浮かべ、男を見遣る。が、眼が笑ってない。
千獣は男の側へ近付くと、くいくいっとその裾を引き、
「あの、少女、を、見か、けた、人……居る、ん、だよ、ね?」
広告を出した有志の一人である男に尋ねる。それは、被害者が発見された場所でよく見かけられるという少女の話。
「あ、ああ。俺も見かけたことはあるぞ」
「……そう」
そんな男の返答に、千獣はすっと顔を近づける。
余りに突然のことで男は何をするのかわからずに、うっなどという変なうめき声を上げて狼狽したが、千獣の顔がすぐさま離れたことで逆に頭の上に大量の疑問符を出して千獣を見た。
「匂い、やっぱり、無理……か……」
きっと日にちが経ちすぎてしまっていること、会うというよりも見かけただけということ、全てが足りなくて、千獣の鼻に情報を送ってくれなかった。
千獣が匂いで辿れることを知っているシルフェは、そんな千獣の情報を見遣り、この男にはもう用はないと判断した。
「白山羊亭でまったりしていても仕方ありませんね」
見つかるか、見つけられるかは分からないが、シルフェはこうしていても仕方が無いと椅子から立ち上がり、白山羊亭の入り口に向かって歩き出す。
「…手がかり、見つ、かる、かも」
もしかしたらご本人とも会えるかもしれない。千獣もたったとシルフェの後を追って白山羊亭を出た。
☆
遼介とは白山羊亭の入り口で別れ、担当した街の残り半分を翼を広げて飛ぶ。
遠い場所から白山羊亭に近い場所へと進んだ方が、時間がかかっても見知った通りも多く、安心できるような気がして、サクリファイスは一番遠いバッテン印から徐々に街の中央へと戻ることにした。
遠いからバッテン印が多いとか、そうったことも無く、ただやはり共通して言えるのは、人気が少ないということくらい。
白山羊亭の掲示板に書かれている言葉通り、事件の首謀者がサキュバスならば、同性であるわけだし、自分が標的にはならないだろうとサクリファイスは考えていた。
けれど、放っておいてソールが被害に遭うかもしれないと考えたとき、これは引き受けようと思った。
何より、他の女性――例え、万が一自分の姿を模していたとしても――にソールの心が奪われる様を良しとできなかったのだ。
「……サクリファイス?」
噂をすれば何とやら、少々疑問を含んだような声音で呼ばれた名に、サクリファイスは振り返る。そこには予想通り、少々小首をかしげたソールが立っていた。
「買い物?」
と聞いてみてもソールは手に何も持っていない。
サクリファイスはソールに歩み寄る。
「あまりこの辺りに近づかない方がいい」
最近では廃人事件の現場だったけに、極端に人通りも少なくなっているし、何よりサキュバスの可能性があるのなら尚更ソールにはこの場に近寄って欲しくなかった。
「……?」
訳が分からないといった風に眉根を寄せるソール。
「いや、ソールは安心して欲しい。そんなことがならないようにするから」
そんなことの中身が何なのか分からずにソールは尚更顔をしかめたが、どうやらこの辺りで何か事件でもあったのだろうということは気がついたらしく、
「……サクリファイスは?」
「私か? 私は、大丈夫だよ」
なんといっても、サキュバスなのだし。
「どうしてそう言いきれる?」
ソールの口調がどこか厳しい。サクリファイスは何時もと違う様子のソールに、眼を瞬かせつつも視線を向けた。
二の句が続けないのか、不機嫌なのかよく分からない表情で、ソールはぐっと口を引き締め、サクリファイスの手をぎゅっと握って歩き出す。
「ソ、ソール?」
余りに突然のこと――いや、普段はしない行動に、サクリファイスは動揺を隠せずに名を呼ぶが、当のソールは一向にお構いなしといった感じでずんずんと進んでいく。加え、何故か握られた手は酷く冷たく、尚更サクリファイスは困惑した。
路地の角をいくつ曲がっただろうか。同じような景色が続き、今どの辺りまで来たのか分からなくなってくる。
「放してくれ、ソール!」
サクリファイスはたまらなくなって叫んだ。
「嫌だ」
余りの驚きにサクリファイスの眼は大きくなる。
こんなはっきりとした拒絶をされたのは、トマト以来か。
(あ……)
そう、思い出した。ソールはちゃんと嫌な時は「嫌だ」とストレートに拒絶するのだということを。
「俺が危険なら、サクリファイスだって危険だ。違うか?」
「え?」
ぐっと腕を引き寄せられ、サクリファイスはすっぽりとその腕の中に納まってしまう。余りに唐突過ぎて状況についていけない。
「嫌だ。サクリファイスが危険に晒されるなんて、嫌だ」
こんな事を言うのは彼らしくない。こんな風にはっきりと自分の言葉を告げることなんて、彼はしない。
サクリファイスはそれでも穏やかな気持ちが広がっていく。
「……感謝、しなきゃいけないのかな」
両手でソールを押しのけて、哀しそうな微笑を浮かべ、彼を見た。
突然変わったよそよそしさを含んだ様子に、ソールが眉根を寄せる。
「近頃ずっと心に針が刺さったようになっていたけど……あなたの言葉に、まるで針が抜けたようだよ……」
サクリファイスは胸の前でぎゅっと拳を握り締める。
何の臆面もなく言葉を紡ぐソールの姿は、まさにサクリファイスが求めているソールそのものだった。
自分の足で歩き、選択の結果を自ら告げる。それは人として普通のことだと思うのに、ソールはいつも受身で、それがサクリファイスを不安にさせる要因になっていた。
押し付けているのではないか。恩義からくる遠慮ではないのか。全て受け入れてくれることに、どうしてもそう感じてしまって、知らず知らずに自分を縛り付けていた。
けれど自分が思っていた“自由”な彼を見て、すっと心が軽くなった気がしたのだ。
そして自分が何を欲しているのか、否応なく思い知る。
目の前の彼が本物でなくても、ソールの口からソールの姿で言ってくれたことで、サクリファイスの中で何かが吹っ切れた。
「あなたには感謝している……だから、どうか、魔断を抜かせないでくれないかな……?」
少し考えるような仕草をして、彼は小首をかしげた。
「……魔断って?」
ああ、どうして何処までもソールなんだろう。こんな、テンポのずれっぷりさえも忠実に再現するなんて。
「あなたを、傷つけたくない」
勤めて穏やかに告げる。けれど、彼は少し顔を伏せて、
「……言っている意味が分からない」
と、首を振った。
「あなたは、本物のソールじゃない」
「サクリファイス?」
ソールは、サクリファイスの気持ちや行動を察して、自分が変わるような、そんな性格ではない。
「あなたは、私が望んだソールだ。本当の彼は、そんなにおしゃべりじゃないんだ」
何を考えているか分からなくて、言葉足らずで、どこか子供っぽくて。
きっと今日まで悶々としていたのは、自分の中で答えが見つかっていなかったから。
彼は何事か考えるように口元に手を当てて、ぼそりと呟く。
「……もう、いい」
そして一瞬にしてその場から消え去った。
「…………」
サクリファイスは無言のままソールが消えた跡を見つめる。
彼は本物ではない。それだけは確実に言えるのに、傷つけてしまったかもしれない事実に少しだけ心が痛んだ。
☆
一人、また一人と、白山羊亭に戻ってくる。
その誰もが夢魔を伴ってはいなかった。
ルディアは無事だったことに喜んでくれたけれど、何とも複雑な気分だった。
逃げられたのか、逃がされたのか。
「皆はサキュバスに出会われたのだろうか」
アレスディアは神妙な面持ちだったり、落ち込んでいたり、沈んでいたり、何時もと変わらない顔つきだったりする仲間に問いかける。
そんな中、遼介がぐっと顔を強張らせて唇を開いた。
「多分…奴がサキュバスだと思う」
ゆるいウェーブの長い黒髪に、黒い瞳の少女。
目撃情報と同じ、少女。
うまく遊ばれてしまった。
だが不思議なのは、少女は自分がサキュバスと呼ばれたことに、疑問を浮かべていたということ。
「そうか、遼介が当たりだったか」
では、自分が出会った彼はやはり本物だったのだろうかとサクリファイスは、沈んだ微笑を浮かべる。
「千獣様、大丈夫ですか?」
ルディアからもらったホットミルクのカップを両手で握り締めて、腰を折るほどに落ち込んでいる千獣に、シルフェは声をかける。
が、千獣はふるふると首を振るのみで、何かを口にしようとはしなかった。
助けを求めるようにシルフェが顔をあげると、
「シルフェも、もしや誰かに会ったということはなかったかな?」
殆ど、何時もと変わらないオセロットは、同じように変わらないシルフェに問いかける。
「ええ、改めてそう言われますと、不思議なことがありました」
エルザードに居るはずがない――いや、居ても不思議ではないのだけれど――人が、目の前に現れた。
逃げられてしまったけれど。
「オセロット様は?」
シルフェは逆に問いかける。オセロットも誰かに会ったからこそ、聞いてきたのではないかと思ったから。
「会うには、会った。だが、私の元に現れたのは……」
死人。
似たような状況。
ここに何かしら共通点があるはずだ。
「では、私だけ誰とも会っておらぬということか」
アレスディアはうぅむと考え、それでも、あの空白の時間はなんだったのかと考える。
「………」
オセロットは考え込むアレスディアを見てふと思った。
もしかしたら、潜在的被害者というのは居るのかもしれない。
言いたくないかもしれないが、今日の出来事を情報として纏める必要がある。そう、感じた。
☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆
【3087】
千獣――センジュ(17歳・女性)
異界職【獣使い】
【1856】
湖泉・遼介――コイズミ・リョウスケ(15歳・男性)
ヴィジョン使い・武道家
【2470】
サクリファイス(22歳・女性)
狂騎士
【2994】
シルフェ(17歳・女性)
水操師
【2872】
キング=オセロット(23歳・女性)
コマンドー
【2919】
アレスディア・ヴォルフリート(18歳・女性)
ルーンアームナイト
☆――――――――――ライター通信――――――――――☆
黒曜石の円舞曲 obsidian-waltzにご参加ありがとうございます。今回の犯人(?)と呼べるような存在に出会うシナリオとなりました。各個別部分で今回のカラクリが読み解けるような方のシナリオもございますので、あわせてお読みいただくといいかもしれません。
相手が判断つきにくい言動を取ると、分かっていても困りますよね(^^;)
今回はそんな感じです。
新しい発見と、忘れていた記憶を呼び起こす感じにしてみました。このもどかしさがやっと晴れるかと思うと、ほっとします。相手が…すいませんなのですが。
それではまた、サクリファイス様に出会えることを祈って……
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