<東京怪談ノベル(シングル)>
闇に候ふ
男は物音を聞いたような気がして、暗闇に目を凝らした。しかし、そこにはそれまでと何ら変わらぬ黒色が広がっているだけだった。先入観からか、その黒色が微かに揺らめいたような気はしたが、辺りはひっそりと静まり返っていた。
男は今、ユニコーン地域の片隅にある、かつてとある種族の隠れ家として使われていた洞窟にいた。外の光が全く入らない洞窟の中は、自分の鼻先すら見えない程の暗闇だ。男は数時間前からそこにいたが、彼の目は一向に暗闇に慣れずにいた。
侵入者は殲滅せよ。
彼に与えられた任務はそれだけだ。詳しい事情は何も知らない。迷路のようになっているこの洞窟の中に何かを隠している事はなんとなく察しがついたが、それだけだ。
(……気のせいか)
ふと息を吐いて、緊張させた体から力を抜いた時、首筋に何かが触れた。
「ちょいと眠っててくれよ」
背後から聞こえた声は、若い男の声だった。声色から屈強な体躯を想像しながら、男は急激に襲って来た睡魔に耐えきれず体を地面に沈め、意識を失った。
「ったく……雑魚ばっかりじゃねぇか」
地面に倒れ込んだ男を見下ろしながら、飛猿はうんざりしたように息を吐いた。気配に振り返ったまでは良いが、見当違いの場所を振り返った所や隙だらけの背中はとても褒められたものではない。
訳アリの女が何者かに捕らえられたと聞いて飛んできたが、些か拍子抜けだった。まるで天然の迷路と化した洞窟の中には、監視役らしい人間が多く配置されていたが、皆が皆、雑魚ばかりだ。魔術に長けた女が自力で逃げ出せない相手とも思えない。彼女を捕らえている誰か――その人間だけが力を持っているのかもしれないが、この集団では高が知れている気がしないでもない。
腑に落ちない思いを抱えつつ、飛猿は暗闇の中を更に奥へと進んで行った。
時折現れる雑魚を煙玉で蹴散らす。稀に骨のある敵を念の為グローブで触れた後に落とす。
そんな単純で退屈な作業を数回繰り返した後、どうやら洞窟の最奥らしき場所に辿り着いた。
途端、
「……悠長に座ってるんじゃねぇよ」
呆れて物もいえない自分を叱咤し、飛猿はなんとか言葉を絞り出した。が、呆れている事は隠せない。
飛猿の目の前には、捕らえられている筈のエィージャ・ペリドリアスの姿があった。ごつごつした地面に座り込み、少し細めた目で飛猿に視線を送っていた。感情の伺い知れない金色の瞳は、闇の中で猫のそれのように光っていた。
さっさと出るぞ、と溜息交じりに飛猿が近付くと、エィージャはうんざりという様子で立ち上がった。露出の多い服装の所為か、単に立ち上がる動作でさえ目のやり場に困り、飛猿は少し視線を逸らした。
パシッ――と、何かが弾ける音がした。驚いて顔を上げた飛猿は、空中に手を翳したエィージャの、何か言いた気な視線とぶつかった。
彼女の立つ地面には何かの紋章が描かれていた。まるで結界のようなそれは赤黒く鈍い光を帯びていた。
「おわかりかしら」
「出られねぇって訳か」
「そうでなければわたくしが悠長に座っている筈ないでしょ?」
嫌味ったらしく答えたエィージャは、ふぅと重い溜息を吐いて腕を組んだ。怪我をしている様子はないが、精神的に消耗しているのかもしれない。彼女の表情には少し疲れが見えた。
恐る恐る、と言うには些か豪快に、飛猿が結界の中に手を差し入れた。そのままエィージャの腕を掴むとぐぃと引き寄せた。
パシッ
「ッ……」
エィージャは眉を顰めて息を呑んだ。彼女の腕は見えない壁に阻まれているかのように結界の中に残っている。飛猿の手にも、確かに何か引っ掛かりのような感触があった。
――コイツだけか。
飛猿には何の影響もない。明らかに彼女のみを対象にした結界だ。雑魚ばかりの集団だと思っていたが、少しは使える人間もいるようだ。
どうしたものか、と地面の紋章を注意深く観察していた飛猿の耳に、場違いな程明るい声が届いた。
「無理に出そうとしない方が良いですよ」四肢が引き千切れます、と発言に似合わぬ陽気な声。
振り返ると、ローブを纏った優男が愛想の良い笑みを浮かべて立っていた。
「知り合いか?」
「いいえ」
「エィージャ・ペリドリアスと面識はありません。僕はただ雇われている身の上ですから」
彼女の体は高く売れるんですよ、とニコニコしながら男は言う。
エィージャを振り返ると、彼女は嫌悪感を隠しもせずに男を睨み付けていた。飛猿の視線に気付くと、彼の手を振り払って今度は飛猿を睨んだ。
何故俺まで、と少し悲しくなりながら、飛猿は男に向き直った。
「この妙な仕掛けを解けと言っても、大人しく解いちゃくれないんだろうな」
「もちろん。僕も生活がかかってる」
男は相変わらずの笑い顔で答えた。その胡散臭い笑みに、飛猿も笑みを返した。
実は、退屈過ぎてうずうずしていたのだ。
「それじゃあ、相手してくれよ」
「いえ、あまり時間が――」
「平気だ」
飛猿は笑い混じりに、そう答える。
「すぐに済む」
一瞬で距離を詰めた飛猿は、男の驚いた顔を間近で見た。笑みを深くし、男の体に伸ばした手はもう少しの所で弾かれた。
(それはいらねぇな)
男の持つ、魔術に使うらしい杖をちらりと見た後に判断する。盗む事は止め、手袋から糸を伸ばそうとした飛猿は、異様な気配を感じ取り横に飛んだ。
地面が爆ぜる音の後、男の舌打ちが響いた。
「勘の鋭い人ですね」
「あんまり褒めるなよ、照れるじゃねぇか」
鼻息一つで飛猿の発言を流した男は、そういえば、と思い出したように口を開いた。
「ここへ来る途中、体がキノコだらけになった物を見ましたが、アレはあなたが?」
「さぁ、どうだろうな」
「まぁどうでもいいですけどね、僕のじゃないし」
自分から聞いておいてそう言い捨てた男は、「この糸、邪魔ですね」と飛猿が仕掛けたワイヤーを杖で断ち切った。
数秒視線が絡んだ後、先に動いたのは飛猿だった。
「ッ!」
男の真上に投げて爆発させた煙玉が視界を奪う。男が咳き込みながら顔を腕でカバーしている隙に、飛猿は男の背後に回り込み体に触れた。
「このッ――」
男の杖が飛猿に突き刺さる。しかし男が刺したのは飛猿の残像だった。
「残念」
飛猿は男の耳元で笑い、無防備な杖を掴むと素早く捻り上げた。杖を掴んだままだった男の体は宙に浮き上がり、鈍い音をさせて地面に沈んだ。
痛みに悶えていた男が再び立ち上がった時、飛猿は男が着ていたローブを手にエィージャの元へ歩み寄っていた。
「待て!」
「待たねぇよ」
それに――
「仕掛けはもうわかってるんだぜ?」
不敵な笑みを浮かべながら振り返った飛猿は、握った拳から赤い紙切れを零した。特に撒き散らした訳でもないのに、紙切れはひらひらと空中を漂い、赤い吹雪を造り出した。
愕然とした男に飛猿が笑みを向けると、赤い紙吹雪は一瞬にして焔の嵐に変わった。
嵐が収まると同時に、男は気を失うように倒れ込んだ。飛猿が紙切れと共に撒いた眠り薬を吸い込んだ為だ。
仕掛けは至極簡単だった。エィージャは雪の精霊を使う都合上、熱を発する術は使えない。そこを狙った仕掛け――つまり、火焔系あるいは雷撃系の術で破壊できる仕掛けだったのだ。
結界が解かれ自由になったエィージャの前に飛猿は立った。男から盗んだローブを広げて、彼女の体を包み込む。
「女が体冷やすな」
「わたしくがスノーリアスだって事を忘れてるのかしら」
「あ……」
――忘れていた。
スノーリアスはソーンの北部、雪と共に暮らす種族だ。当然、寒い気候には慣れている筈だ。特に寒いという事もない今の状況で、スノーリアスに『体を冷やすな』は頓珍漢である。
少し、否かなり、格好つけて言った台詞だったが、派手に失敗してしまったようだ。
「ッだぁくそ! 若い女がそう肌晒すもんじゃねぇんだよ! 目のやり場に困るから羽織ってろ!」
飛猿は半ば逆ギレしたように言い放って、呆れている金色の瞳は見ないようにしながらエィージャの体に乱暴にローブを巻き付けた。
そのまま気まずさを隠すように踵を返した飛猿は、さっさと出るぞ、と背後に向けて呟いた。
「……ぁ――」
ありがとう――
聞き違いか将又自分の願望か、礼を言われたような気がした飛猿は勢い良く後ろを振り返った。そんな飛猿の横を、少し拗ねた表情を浮かべたエィージャがすり抜けて行った。
(……反則だろ)
普段は高飛車な印象が強いエィージャが、礼を言った挙げ句この照れ隠しである。
飛猿は赤く染まりそうな顔を手の平で隠して一呼吸置いてから、先を行くエィージャの後を追った。
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