<東京怪談ノベル(シングル)>


静夜にて


 夜、スラム街に響いてくるのは、ベルファ通りからかすかに伝わる喧騒だけだ。昼間の賑やかな声で満たされているのとは対照的に、暗く、静かな時間が訪れる。
 薄く光る、僅かな外灯。民家から零れる、小さな光。
 しん、と静まり返ったその中に、孤児院はある。
 シノン・ルースティーンは、自室にてウルギ神像に祈りを捧げていた。子ども達は、既に寝静まっている。昼間ともなれば子ども達の笑い声やちょっとした喧嘩をする声で溢れている孤児院も、今はただ静寂に包まれてしまっている。
 そんな中、ギイ、とドアの開く音がした。祈りを中断して振り返ると、幼い女の子が目をこすりながら立っていた。
「シノン……」
 眠そうにしながらも、じっとシノンを見ている。シノンは少女に微笑みかけつつ、近づいていく。
「眠れないの?」
 優しく尋ねると、少女はこくんと頷いた。不意に、目が冴えてしまっているのだろう。
「じゃあ、少しお話ししよっか」
 シノンが声をかけると、少女は嬉しそうに「うん」と答え、シノンに抱きつく。シノンは抱きとめつつ、自分のベッドへと連れて行く。
「でも、眠くなるまでね。横になって、お話ししよう」
「うん」
 少女をベッドに寝かせ、自らもその隣に寝転ぶ。先程まで人の入っていなかった布団は、ひんやりとしてしまっている。思わず少女も「寒い」と小さく声を上げて、布団の中へともぐりこむ。
「すぐにあたたかくなるよ」
 優しく声をかけると、少女は布団にもぐりこんだまま「うん」と答える。
「ほら、大丈夫だから。顔を出さないと、苦しくなっちゃうよ」
 シノンの言葉に、少女は仕方なく顔を出す。出した途端、ぷは、と小さく息を吐き出しながら。
「そういえば、シノンはさっき、何してたの?」
 布団にもぐりこんでいた為か、顔がほんのり赤くなってしまった少女が尋ねてきた。
「お祈りだよ。ウルギ様に」
「ウルギ様って、春風と……」
「恵みの神様だよ。風と共に生き、巡りを正しなさい。自分だけの風を作り出し、その風を渡しなさい……という教えがあるんだ」
「シノンは、神官なんだよね?」
「ううん、まだ見習い」
 シノンは肩をすくめてそう言い、言葉を付け加える。
「でも、神官になりたいと思っているんだ」
「神官に?」
「うん。髪が昔くらいの長さまで伸びたら、神官になる為の昇級試験を受けてみようかな、と思って」
「昇級試験?」
「うん。ウルギ神殿で、受けるんだ」
 少女は「ふうん」と答えた後、大きな目をじっとシノンに向けて口を開く。
「なんでシノンは、神官になろうと思ったの?」
 少女の質問に、シノンは一瞬考え込む。すとん、と胸に落ちる思いもした。
「あたしが、神官になったのは……」
 口に出してみる。頭の中には、ウルギ神の教えが巡る。
――風と共に生きなさい。風の巡りを正しなさい。自分だけの風を作り出し、その風を渡しなさい……。
「あたし、ただ自由を求めて、家を出されたの」
 シノンの脳裏に、両親の顔が浮かぶ。
 いい所の家だった。孤児院で暮らしていると、更にそれを痛感する。自分は、良い所に生まれていたのだと。
 何もかも、満ちていた。欲しいものは手に入り、お腹一杯物を食べ、綺麗な服を着た。だが、満ちていても何かが足りなかった。物足りなさを感じているのに、どうしたらいいかが分からず、困惑していた。
 そんな折、両親とウルギ司祭の勧めを受けた。
「シノン、家を出されちゃって、嫌だったの?」
 少女の問いに、シノンは首を横に振る。
「あたし、次第に父上の想いを知ったの。そして、司祭様の後押しも受けた。それがあって、今のあたしが居る」
 シノンの言葉に、少女は「分からない」と首を傾げる。シノンは「そうだね」と言って笑う。
「あたしね、ウルギ様の言っている『自分だけの風を作れ』というのが、ちょっとずつ分かってきた気がするの。皆、自分だけの風を持っていて、それを作っていけるんだって」
「私にも?」
「勿論。皆、持っているものなんだよ」
 少女は、嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、シノンも笑った。
(あたしの、風だ)
 シノンの言葉で、少女は笑っている。
(あたしの風は、誰かを笑顔にする事なんだ)
 それは、誓いにも似ていた。
 出会った全ての人を笑顔に出来る人になりたい……いや、なる、という誓い。
 笑顔で居てくれるのを見ると、嬉しくなる。幸せな気持ちにもなる。そうして、自分自身も笑顔になるのだ。
(相手も、同じ想いを抱いてくれたなら)
「シノン、凄いね」
「うん、凄いでしょう?」
 それは、幸せの連鎖ともいえる、笑顔の輪。
 人を笑顔にするシノンの風を出会う人に渡し、渡された人もまた人を笑顔にする。抱くのは幸せな気持ち。
 シノンの風が巡る所には、笑顔と幸せな気持ちで満ち溢れているのだ。
「あたしの風を、誰かに……ううん、皆に渡していきたい。その為に、神官になりたいの。あたしの風を作り上げて、皆に渡して……」
 そこまで話したところで、すう、という寝息が聞こえた。
 何時の間にか、少女は眠りに落ちていた。シノンは思わず吹き出す。
「寝ちゃったのか」
 そっと布団をかけ直してやる。少女の寝顔は、話していた時と同じ、笑顔のままだ。笑いながら、幸せな気持ちのまま、眠りに入ったのだ。きっと、心地よい夢を見られているに違いない。
 シノンは、すやすやと眠っている少女に優しく「ありがとう」と囁く。
 今まで、漠然としか考えていなかった。昔くらいの長さまで髪が伸びたら、神殿に戻って神官になる為の昇級試験を受けようと、思っていた。
 だが、それはあくまでも漠然とした話であり、はっきりとした意志の表れではなかった。何となく、神官になりたいという思いを抱き、きっかけとなるべく髪が伸びたらと思っていた。
 だが、今は違う。幸せそうに眠る少女が投げかけてくれた疑問が、シノンの中に明確な答えをくれた。
――出会った全ての人を笑顔に出来る人になりたい。
 それが、シノンの作り上げた風であり、人に渡すべき風であるのだと、はっきりと抱くことが出来たのだ。
 机の上に目をやると、少女と話す前まで祈っていたウルギ神像が置いてある。窓の外から差し込む月光に、やわらかく包まれている。
「あたし……神官になります。出会った人を笑顔にして、幸せな気持ちを抱くような、風を作り上げたいから。そして、その風を沢山の人に渡していきたいから」
 ウルギ神像に話しかけて、微笑む。当然のように、答えはない。いや、なくてもいいのだ。シノンにとって、それは既に答えとなっているのだから。
 シノンは、眠る少女の隣に寝転び、布団にもぐりこむ。入ったときはひんやりした布団も、既にぽかぽかな温度となっている。
「これは、あたしが風を貰っちゃったのかな?」
 寝息を立てる少女に、シノンは悪戯っぽく話しかけ、小さく笑った。風を渡した本人は、気持ちよく眠ったままだ。
 ゆっくりと、目を閉じる。微かに響くベルファ通りの喧騒。虫の声。隣で眠る少女の寝息。そのどれもが、シノンの胸をあたたかくする。
「おやすみなさい」
 シノンは静かに言い、すう、と深く息を吸い込んだ。
 そうして、眠りに入る。その口元には、未だに笑みを携えているのであった。


<静かな夜、決意を抱き・了>