<東京怪談ノベル(シングル)>


〜涙の理由〜


ライター:メビオス零





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 春‥‥‥‥穏やかな風、暖かな陽気は人々の心を豊かにさせ、渡り鳥達は新居の作成に勤しみ、森の木々は何か人間に恨みでもあるのかとばかりに一斉に花粉を飛ばして各都市の人間に多大なダメージを与える季節である。

「はふぁ‥‥‥‥」

 そしてそんな花粉爆撃など物ともせずに街を眠そうに歩く怪人‥‥‥‥白神 空は、眠そうに欠伸などしながらベルファ通りを歩いていた。

「すいません。無理言ってしまって‥‥」
「いいのよ。これも乗りかかった船ってね」

 そして、眠そうな空の隣を、花粉を撒き散らす森の総大将クラスのモンスターである少女が歩いていた。眠そうな空に申し訳なさそうに頭を下げ、しかしどこか嬉しそうにキョロキョロと周りを見渡している。モンスターの少女は体と顔を灰色のローブでスッポリと隠していたが、周りを見渡す挙動は不審者のそれである。目立つことこの上ない。

「あんまり挙動不審にしていると、憲兵に捕まるわよ」
「ぁ、そうですよね。気を付けます」

 少女はそう言うと、周りを見渡すのを止めて空の後ろにピッタリと付いて歩き始めた。しかし周りを見渡すことを止めたと言っても、まだ周囲の観察は続けている。両手の袖口やスカート部の裾から僅かに触手を覗かせ、先端に作った目で周りの景色を映している。植物のモンスターなだけあり、自分の体を作り替えることもお手の物らしい。

(器用な子ね‥‥‥‥)

 少女は空の背後に回ることで視界から消えたつもりなのだろうが、空は少女に対する警戒を解いたわけではない。背後に回ろうとも、僅かな衣擦れの音や動きの気配からある程度の監視は可能である。‥‥‥‥空は、それこそ少女の息遣いや歩調、あらゆる小さな行動でも逃さず察知しようと、細心の注意を払って監視を続けていた。
 現在、空は少女と共に、この聖都エルザードのどこかにいるであろう少女の同胞を捜して練り歩いていた。少女は街の観光などと言って楽しみながら捜索をしていたが、とても空はそんな気分にはなれず、朝から眠そうに、神経を磨り減らしながら同行している。

(なにかしらね。この気分は‥‥‥‥まるで爆弾を持って街を歩いている気分だわ)

 空は背後を付いてくる少女に、そんな感想を持っていた。
 空自身、周りから見れば爆弾というか、猛獣にすら見えるかも知れない。しかし、空にはこの“街で生きる”という意思がある。ならば鎖で繋がれた猛獣と変わりなく、檻であるこの街で大暴れをするつもりはない。
 しかしこの少女は、街の誰よりも優しく他人を想えるこの少女は、いざとなれば誰よりも恐ろしい事をするだろう。いや、今の少女にはその気はない。街で暴れるようなつもりは微塵もないだろう。だがもし‥‥‥‥もしも発見した仲間が“万が一”の状態であったとしたら‥‥‥‥

(気が重いわね)

 空は、仲間を捜そうという少女の剣幕を思い出し、憂鬱そうに額を抑えた。
 仲間がこの街にいるかも知れない‥‥‥‥その情報を得た少女は、エスメラルダの元に行って少女の外出許可を得ようと向かおうとする空を引き留め、自分からも頼みたいと言い出した。しかしその少女の外出許可を得ようと言うのだ、ここで出してはなお許可してはくれないだろう。ならば絶対に、何があっても絶対に許可を取ってきてくれと、再三、再四、再五と何度も何度も念を押されてエスメラルダの元へと向かうことになった。
 悪い子ではないのだ。仲間のために必死になって頼み込んでくる姿を見た空は、何とかしてやりたいと思った。だからこそこうして協力しているのだが、実際に共に街を歩いていると、どうしてもこの少女が危険人物であると言うことを実感させられてしまう。

(エスメラルダも、渋い顔をしていたけどね‥‥‥‥)

 友人であるエスメラルダに少女の話をした時の反応を思い起こし、溜息をついた。
 エスメラルダは、決していい顔をして少女を解き放ってくれたわけではない。普段ならば多少の無茶な要求は飲んでくれるが、この少女はマフィア達からの預かりものだ。マフィア達からの信頼の厚いエスメラルダでも、軽々に外に出して良いものではない。
 ‥‥‥‥だが、ここで許可を出さなければ少女が勝手に出て行ってしまうかも知れない。少女の仲間への想いは非常に重いものだろう。エスメラルダの厚意を思ってこれまでは大人しくしてくれていたが、目と鼻の先にいる仲間を見捨ててジッとしていてくれるとは思えない。
 そんなこともあり、エスメラルダは、渋々ながら少女の外出許可を出してくれた。勝手に少女の外出許可を出すわけにも行かないため、マフィアの幹部達と交渉してくれたのだ。
 その代わり、いくつかの条件を出された。
 条件は三つ。少女は空の傍から離れないこと。仲間の発見、未発見に関わらず必ず午後五時までに黒山羊亭へと立ち寄ること。そして最後に、少女が暴走した時、空が可及的速やかに始末すること‥‥‥‥である。
 他にも細かい決まりを言われたが、大まかにはこの三つだ。

(この子を止める自信なんて、無いんだけど)

 しかしそれでも、この条件を飲む以外にはなかった。それに、少女は仲間の情報を持ってきてくれた空に好感を持っているようだし、空も少女を嫌いなわけではない。むしろ好感を持っているし、これまで追われ続けてきた少女だ。これから先は幸せになって欲しいとも思っている。
 お互いに殺し合うようなことなど起こらない‥‥‥‥と、思いたい。

「ねぇ、空さん。ちゃんと探してますか?」
「え‥‥ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたわ」
「もう! あまり時間がないんですから、頼みますよ?」

 少女のことばかりに気が行っていて、周りを見ていなかった。それを察知されてしまったらしい。空が少女の様子を常に観察しているのと同様に、少女も空のことをよく見ている。

(でも、私には探しようがないのよね)

 空はあっちを見渡しこっちを見渡しと、自分の周囲を見渡した。しかし元々このベルファ通りには、多少の変装を施している者が珍しくもない。少女を見る限り、全身を隠さなければまず目立ってしまうだろうから(全身が草木のような色をしていた)、やはり何らかの衣服で全身を隠しているだろう。
 空が見かけた少女の仲間(と思われる人物)は、全身をローブで覆っていた。手掛かりとしてはそれだけだ。それも、服装を替えられてしまっていてはそれまでである。
最初は匂いか何かで捜索しようとも思ったが、この少女の身体からは花のような香りが微かに漂っているだけで、それ程特徴的な香りというものがない。街のあちこちに草木は植えられているし、香水などで体臭を誤魔化している者もいる。空の嗅覚もアテにならなかった。
 その為、空が少女の仲間を捜すとなれば、後は目と洞察力が頼りだ。しかし全身を隠している人物を虱潰しに脱がしていくわけにも行かないし、何よりこんな昼間から逃走中のモンスターが出歩いているとも思えない。見つかる公算は低いと踏んでいた。

「あなたは、仲間を見分けることが出来る? 私には良く分からないんだけど」
「近くにいれば分かりますよ。何というか、こう‥‥‥‥「ぁ、こっちにいるなぁ」って、なんとなく分かるんです」

 少女自身も分からないようだったが、同種の位置はある程度分かるらしい。空にとっては、それだけが頼りだった。ちなみに、もう少しで「それって、犬が引っ越しした主人の居場所が分かるようなものかしら?」と言いかけたのは秘密である。
 ‥‥‥‥何にせよ、空に出来ることと言ったら少女の監視をすることだけである。しかも少女が暴走した時、それを止めるような力があるかどうかは疑問だ。とりあえず巻き添えを食らわないようにしたいところだが‥‥‥‥

「あれ、あれは‥‥‥‥?」
「どうしたの?」

 隣を歩いていた少女が、ピタリと立ち止まって呟いた。空も少女につられて立ち止まり、そしてその視線の先へと目を動かす。

(あれは‥‥‥‥)

 人混みの中に、灰色のローブを着た者がいる。昨日空が見た人物と同じ背格好で、妙に印象に残る雰囲気を放っている。
 だが、その人物が視界に確認できたのはほんの一瞬だけだった。
 その人物は二人になど目もくれず、あっと言う間に人混みの中から建物の影へと入り込み、見えなくなった。そしてその人物を追い掛けているのか、何人もの男達が「いたぞ!」「追い込め!」と声を上げ、周りの者達を突き飛ばしながら走っている。

「もしかして‥‥‥‥あの人?」
「かもしれません。追い掛けます!」
「ちょ、ちょっと!」

 少女も判断が付いていないのだろう。しかしこのまま捨て置くことも出来ない。ここで逃してもしもあの人物が目的の仲間だったら、二度と会えないかも知れない。そう思うと、少女が走り出すのも当然だった。

(ああもう! 何だって見つかっちゃうのよ)

 走り出す少女を見失わないよう、空も全力で走り始めた。
 植物系のモンスターは、基本的に足が遅い。しかしどんなモンスターでもそうなわけではない。少女は人の形をしているだけあり、その脚力も恐ろしいものだった。
 最初にローブを着た人物がいた場所までは、軽く二百メートルは離れていた。しかし大勢の人が行き交う中を、ほんの十数秒で駆け抜けている。元々、少女は人の形こそしているが正体は植物だ。関節が存在しないが為に多少無理な軌道で走ることも可能なのだろう。バランスを崩しても、まるで地に根でも生えているように倒れ込まず、走り続けている。
身体能力に自信を持っていた空でも、少女のスピードには付いていくのがやっとだった。全力で走っていると行っても、周りには大勢の人々がいる。空が本気で走ろうと言うには障害物が多すぎるのだ。

「このままじゃ‥‥」

 見失う。そう判断した空は、少女が建物の影に入り込むよりも早く跳躍し、手近な商店の壁に飛び付いた。そして壁を蹴り窓枠に手を掛け駆け上がり、屋根の上にまで到達する。下で人々が唖然と目を開きざわめいているが、そんなことまで気に掛けているような余裕はない。空は少女を見失うまいと屋根の縁ギリギリにまで近付き、下を見ながら走り始める。

「本当に速いわね!?」

 少女の脚力は異常だった。路地に入って人混みという制約から抜け出したこともあるのだが、狭い路地を右に左にと壁にぶつかることもなく走り抜けている。屋根の上を走っている空でも視界の端に捕らえるので精一杯で、とても追いつけない。

(でも、相手もあのスピードで追いつかれていないの?)

 ふと、そんな疑問が浮かぶ。
 空ですら追いつけない少女を、相手は未だに振り切っている。スタート地点が違うとしても、人間ならばあっと言う間に追いつけるはずだ。

「まさか、本当に?」

 あのローブの人物は、少女の仲間なのだろうか?
 だとしたら危険かも知れない。あの人物は、何人もの追っ手から逃げていた。周囲の人間を巻き込まないために攻撃に移らなかったとしても、振り切れていないと言うだけでもかなりの使い手の筈だ。
 空は足元を走っている少女に向かって声を上げた。

「待って! 一人じゃ危ないわよ! ここは二人で‥‥キャ!」

 声を上げて制止する途中、空は自信の足元への注意を疎かにした。ただでさえ傾斜のある三角の屋根の上を走っていた空は、屋根の縁から足を滑らせて体勢を崩し、咄嗟に屋根に拳を突き刺して転落を阻止する。

「はぁ、危ない‥‥って!?」

 そうして少女から目を逸らした時間は、僅かに三秒弱‥‥‥‥
 たったそれだけの時間だというのに、視界の橋を疾走していた少女は影も形もなく消失していた。

「ま、まずい!」

 空は焦り、屋根から降りて路地に残った僅かな足跡を元に追跡を続行する。

(私が追いつくまで、あの子が無事でいますように‥‥‥‥!)

 空は走りながら、懸命にそれだけを思い続けていた‥‥‥‥






 しかし、最悪の展開というものは、常に自分にとって最も都合の悪い時に訪れるものである。
 空が足を踏み外してから十数秒後、追っ手の追われていたローブを着た人物は路地裏に追い込まれていた。

「せ、世話を焼かせやがって‥‥」

 肩で息をしながら、ローブを着た人物を囲む追っ手達。その人数は四‥‥いや、屋根の上に更に三人がいる。ここまでの全力疾走で肩を上げて呼吸を荒げているのはごく僅かで、ほとんどの追っ手達は疲労の色を見せていない。
 ‥‥‥‥人間ではない。
 その驚異的な持久力だけで、相手がただの人間でないことだけは明白だった。

「ほれ、いい加減に観念しろって」
「くっ‥‥」
「こっちはわざわざこんな国にまで出張って来てんだぞ。手ぶらじゃ帰れねぇんだ。悪いようにはしねぇから、大人しくしてくれ」

 大人しくしていろと言っているが、そう言っている本人はポキポキと指を鳴らしていたりなんかする。どう見ても相手を五体満足で帰すつもりはないようだ。あちこちに逃げ回られて憂さが溜まっているのだろうが、これでは投降など出来ないだろう。

「‥‥‥‥」

 ローブを着た人物は、沈黙したままで建物の壁を触り、その感触を確かめた。
 固い、強固な作り。金属ではないが、しかし木で出来ているわけでもない。この界隈はそこらの酒場とは違い、周りは全て特に強固に作ってあるようだ。建物の背も高く、駆け上るにも時間が掛かる。

「参ったな。ここまでしつこいとなると‥‥‥‥」

 降参しようか、それとも‥‥‥‥
 ローブを着た人物が、呟きながら思考する。若い男の声だ。どことなく優男の印象を受ける。ローブを着た男は、足でコツコツと地面を叩き、「ふぅん」と小さく頷いた。
 そんな落ち着き払った様子に苛ついたのか、追っ手達はジリジリと間合いを詰めに掛かる。

「お前なぁ、どうなんだよ! 観念するのか、しないのか!?」

 ジリジリと間合いを詰めていたうちの一人が、大股にローブの男に歩み寄る。しかし、それは決して無防備な足運びではない。無遠慮に間合いを詰める合間に、男の体は瞬く間に変貌を遂げ始めた。
 男は、黒い旅装束に身を包んでいた。外見は人間の中年男性。体型は大柄で、今にも丈夫な旅装束を破らんばかりの体格だった。どこから見ても、ただ鍛え上げているだけの人間‥‥‥‥そんな体が、ものの数秒と掛けずに変化していく。
 顔があっと言う間に黒く深い体毛に覆われ、衣服の所々がビリビリと音を立てて破れていく。見え隠れしていた筋肉が顔と同じく体毛に覆われ、しかし元の倍近い大きさにまで膨れあがった筋肉が、体毛で隠れながらもその力を誇示し、プレッシャーを与えてくる。
 ゴツゴツと使い込まれていた拳は固そうな分厚い皮膚に覆われ、その先には鋭く長い、まるでナイフのように鋭利な爪が生えている。口からは牙が伸び、眼孔は狂気を孕んだ深紅へと染まっていた。
 ‥‥‥‥獣人、ブラックパンサー‥‥‥‥
 ワーウルフの亜種の中でもとりわけ格闘能力に秀で、その戦闘能力は空と比べても遜色ないであろうアセシナートの切り込み隊長である。ローブの男を追っていたのは、まさしく空が予感した通りにアセシナートの武闘派潜入工作員達であった。

「あーあ‥‥勝手に変身解いちまった」
「騒ぎにするんじゃねぇぞ。俺達が見つかったら袋叩きになるんだからな」
「うるせぇ! こいつに言うこと聞かせるにゃあ、これが一番だろうが」
「そうかも知れねぇけどな‥‥‥‥ま、この恰好も窮屈だったし、少しぐらいは良いか」

 周りを囲んでいた者達は口々に言うと共に、その体を変形させた。
 狼や鳥の獣人、全身を分厚い骨で覆っているアンデッド、精巧に作られた人形型ゴーレム‥‥‥‥ローブの男は、瞬く間にアセシナートとの戦線でも滅多に見かけないようなモンスターに包囲されていた。

「はぁ、どうしましょうか」

 しかし‥‥‥‥それでもまだ、ローブの男は動じていない。
 身動ぎ一つせず、震えることもなく、慌てて周りを見渡すようなこともなく‥‥‥‥
 ただただ静かに立っている。建物の屋上を固めていた男達も、その動じぬ様子に何かを感じたのか、次々に擬態を解除していく。正面、頭上と囲まれ、左右と背後は頑丈な壁に閉ざされている。

「見逃してくれそうには、ありませんね。でもこれ以上騒ぎを起こしたくはないのですが‥‥‥‥怖い人達は、あなた達だけではありませんから」

 溜息をつく。緊張感は見られない。まるで凶悪なモンスター達の威嚇など聞こえないかのように、殺気など感じていないかのように振る舞っている。
 ‥‥‥‥ここまで来ると異様だった。
 モンスター達も足を止め、間合いが詰められなくなっていた。それが本能に訴えてくる死への直感からなのか、それともこれまでの生で培ってきた知性から来る恐怖からなのか、どちらなのかが分からない。

「こ、この野郎‥‥!」
「どこまで舐めてやがる!」

 しかしローブの男の反応に苛立ち、蓄えられた怒りは暴発寸前だった。
 元よりモンスター達は、自分達の実力でも、こんな敵地のど真ん中で正体がエルザード軍にばれたらどんな目に合うかと、内心に恐怖を抱えていた。敵に捕まれば、彼らでも無事では済まない。投獄・尋問・拷問と続いて最悪の結末を迎えるだろう。いくら聖都を謳うエルザードと言えど、そのエルザードに不法に侵入を果たしている敵モンスターを生かしておくはずがない。その不安が爆発寸前にまで膨れあがり、捌け口としてローブの男にぶつけられようとしている。言うなれば、ただの憂さ晴らしも同然だった。不安から来る破壊衝動は、簡単には止まらない。
 だが、このエルザードが危険地帯であることはローブを着ている男も同じ。エルザードの兵に見つかれば、アセシナートの一味と見られて追われる立場になるだろう。兵達との勝敗はどうあれ、騒動は起こしたくないはずだ。
 だからこそ、モンスター達はこの相手がどれ程の脅威であろうとも、騒ぎになる前に自分達の手に落ちると踏んでいた。共倒れとなるぐらいならば、投降するだろうと思っていたのだ。

「いえ、もうこうなったら仕方ありません。ここまでしつこいのなら、やりましょう」
「‥‥‥‥‥‥な」

 ローブの男の台詞に言葉を無くすモンスター達。これまで数ヶ月間に渡って逃げ続けていた獲物が、ここに来て牙を剥いてくるとは思わなかったのだろう。

「あなた方もそのつもりでしたのでしょう? 驚くことは────」

 ローブの男は、途中で台詞を止めた。視線は、目の前でたじろぎながらも未だに戦意を捨てきれない愚かなモンスター達を通り過ぎ、その更に先の路地へと向かっていく。

「‥‥まさか」

 ローブの男の口調に、初めて感情的な響きが混ざり合った。
 路地から、誰かが駆け込んでくる。街の地理など把握して逃げ回っていたわけではないが、この場所には街の喧噪などほとんど聞こえてこない。少なくとも人混みの多い通りからは離れているはず。騒ぎを聞きつけたお節介が来た‥‥‥‥ということはないだろう。
 では、周りを囲んでいる建物にいる誰かが兵に通報したのか? それにしては早すぎる。この場に来てから、まだ数分と経っていない。そんな短時間でここに駆け付けてくる事は不可能だろう。
 残る可能性は何だろうか。人混みを掻き分けて走ってきた自分達を追い掛け、誰かが追ってきた? 見失うこともなく、このモンスター達の脚力について来たというのだろうか。
 ‥‥‥‥無理な話だ。人間に出来ることではない。
 だが、人間でなければ‥‥‥‥

「なんだ?」

 ローブの男の視線は、ローブの影が遮って読まれない。だが囲んでいたモンスター達は、力を解放したことで復活した五感は、捕らえた足音と目前の敵と同等のプレッシャーを発する脅威の出現に敏感に反応し、最大警戒を持って背後へと反応した。

「やっぱり‥‥いた!」
「君は‥‥!」

 追い詰められていたローブの男と、駆け付けたローブを着た少女の声が重なる。ここまで無我夢中で疾走してきたのだろう。顔を隠していたフードは落ち、これまで隠し続けてきた異形の顔を晒していた。
 ‥‥‥‥空を振り切って走り続けた少女は、ようやく出会えた仲間に夢中で、周りを囲んでいるモンスター達のことなど見えてもいないようだった。これまで散々に想い続けてきた仲間が目の前にいるのだ。冷静でいられなくなるのもおかしいことではない。

「仲間かっ!」

そんな感動の再会も、こんな状況では許されるはずもない。
モンスター達は驚きに目を見開き、しかし二人が揃うことがどれ程の脅威であるかを認識し、すぐさま行動を開始した。桁外れの魔物を前に気圧され、見失い始めていた兵士の経験が、新たな敵の出現によって目覚めたのだ。モンスター達は二手に分かれ、一方は少女に向かって駆けだそうとしたローブの男の足止めに立ち塞がり、もう一方は乱入してきた少女の方へと走り始める。
 目的である標的が二人も出て来たことは予想外であったが、この相手が非好戦的であることは情報として持っている。ギリギリに追い詰められるまで力を決して見せようとせず、暮らしていた森を追われてもまだ反撃しようとしなかった。少女も同類ならば、戦う覚悟を決めるのにはそれなりの時間を要するだろう。男の方は戦う気になってしまったようだが、まさかアセシナートの手練れを秒殺する事などできるはずがない。
仲間が時間を稼いでいる間に少女を捕らえ、交渉に引きずり出す。上手くすれば二人とも自分達の手中に────

「────!」

 誰かが、何かを叫んでいた。
 それが敵の声か、味方の声か、怒りを込めているのか、助けを求めているのか、誰の声かも何を言っているのかも分からないまま‥‥‥‥

「なんだこれはぁ‥‥!?」

 戦いは、戦いとも呼べない程に一瞬で終わっていた‥‥‥‥






 少女の足跡を追跡し始めてから一分程の後、空は突然足元を襲った激しい振動に体勢を崩し、危うく転倒しそうになっていた。壁に手をつき、体が倒れ込まないようにと支える。

「なによ、これ!?」

 地震‥‥‥‥ではない。空は体を支えながらそう判断した。
 激しく揺れ動く地面。建物の向こう側から聞こえてくる轟音。周囲の建物に住まう十人達は次々に窓から顔を出し、もしくは大騒ぎしながら建物から飛び出してくる。そうした人々を確認するために振り返った空は、建物に入っているヒビの形で震源地を特定した。
 周りの建物は、ちょうど空が向かっている方向からヒビが入り、そして後方に行く程小さくなっていっていた。しかも空から後ろ向きに離れる事にそのヒビは小さくなり、最も遠い場所では大した被害は出ていない。
 つまり、この揺れは超局地的な揺れ。耳を打つ爆撃のような盛大な音も、ちょうど空が向かっていた先から起こっている。恐らくはそこが震源地だろう。ならばこの揺れが、一体誰によって引き起こされているのかも想像が付く。

「あの子は‥‥なにを考えているのよ!」

 空は悪態を付きながらも、揺れが小さくなってきた頃合いを見計らって駆けだした。
 周囲の人間は、とにかく倒壊しかかっている建物から離れようと大騒ぎになっている。中には無人となった部屋から家財道具や貴重品を盗み出して争いになっている者もいたが、構っているような余裕はない。そう言ったトラブルは好都合でもありトラブルの火種にもなる。

(あれで足止めが出来れば良いんだけど‥‥‥‥)

 空は駆けだしながら、一刻も早く少女を連れて逃げることを考えていた。
 この大騒ぎだ。まず間違いなく兵隊が駆け付けてくるだろう。そう言った兵士達があの火事場泥棒達の相手をしている間に、この大騒ぎの元凶である少女を連れ出さなければならない。兵士達は素人ではない。ものの数秒で収まったこの地震が人為的なものであり、その震源地にもすぐに気が付くだろう。
 見つかったら手に負えなくなる。エスメラルダも、マフィアも少女も空も含めてただでは済まないだろう。そんなことは‥‥‥‥あの少女も分かっていたはずだった。追われているローブの相手にしても、派手なことは厳禁だと分かっていたはずだ。
 だからこそ、こんな事にはならないと思っていたのだが‥‥‥‥

(せめて無事でいて!)

 空は勢い余って壁にぶつかりそうになりながらも、すぐに現場に到着した。
 ‥‥‥‥‥‥そして言葉を失う。
 空が見た光景は、もはやこの街とも戦場ともかけ離れたものだった。

「何‥‥‥‥これ」

 目を見張る。前に進むべき足が止まり、それどころか一歩、二歩と後退して間合いを空けてしまう。
 ‥‥空の目の前に広がっていたのは、想像を絶する大樹海だった。
 土の地面を突き破り、周りの建物を浸食した一抱え程もあろうかという巨大な蔓。巻き添えとなった人々とモンスターの鮮血によって紅い血沼に根を生やし、足の踏み場などあるのかどうかも怪しい程に血を埋め尽くす葉の刃と枝の槍‥‥‥‥

「が、がはっ!? こ、こんな事が‥‥‥‥」

 地獄のような庭園を前にして言葉を失っていた空の耳に、途切れ途切れの声が聞こえてきた。声を辿って頭上へと目を向け、そして絶句する。強固な骨の鎧に身を包んでいるであろうアンデットモンスターが、全身を串刺しにされ、骨という骨に蔓を絡まらせて拘束されていた。しかも絡み取られた骨には凄まじい圧力が掛けられているのだろう。引き引きという砕ける音が、離れている空の耳にまで届いてくる。

「ぐぁあああああ!!」

 ゴシャッ! と、アンデットは無惨にも砕かれた。他のモンスターと違い、限りなく伏しに近いモンスターだったために即死することが出来なかったのは不運と取れるのだろうか‥‥‥視線を彷徨わせると、地面から広がった蔓に絡め取られ、枝で貫かれ、葉で細切れにされたモンスター達がチラホラと見て取れる。

「これが、あの子の力‥‥‥‥」

 自分が、これまで共にいた相手がどれ程の怪物だったのかを知り、身震いする空。
 もしも自分がここにいたならば、生き残ることは出来たのだろうか? 否。断じて否。考えるまでもなく、空は自分がここにいれば、あのモンスター達と同じ結末を辿っていたであろう事を理解した。

(見失ったのは、運が良かったのね‥‥‥‥)

 あそこで少女を見失わなければ、自分もこの場に居たであろうと考えるとゾッとするが、何時までもここでジッとしているわけにもいかない。他の人々がこの惨状から遠ざかっているうちに、元凶をすぐに連れ出さなければならない。

「くっ! 何という失態だ‥‥!」
「あら?」

 遙か頭上に微かな声を聞きつけ、空は再び空を見上げた。蔓に遮られてうまく見えないが、チラリと建物の上に鳥のような影を見つける。どうやら殺されたモンスター達の一味の一人のようだ。上空に逃れたために、蔓の手を避けられたのだろう。既に戦意は喪失しているらしく、素早く建物の陰に隠れ、見えなくなった。

「厄介なことになったわね‥‥‥‥」

 敵は撤退した。しかしそれだけでも危険な信号であることは明白だ。空は大樹海の中に目を向け、中に入ることは危険だと判断して声を上げた。

「二人とも、そこにいるの!? いるのならすぐに‥‥‥‥!?」

 声を上げて、空は喉を上ってきた悲鳴を押し殺した。大樹海の中から一本の蔓が勢いよく伸び、そして躱す暇もなく空の首を縛り上げたのだ。

「やめてください! その人は敵じゃないですから!」

 グキリ‥‥と首がへし折られる寸前、追い掛けていた少女の声が空に届く。それと同時に蔓はピタリと動きを止め、そしてスルスルと大樹海の中心へと消えていった。
 ‥‥‥‥そして空の目の前が開かれる。大樹海の木々はまるで意志でも持っているように左右へと別れ、空と少女、そしてローブの男への道を空けていった。

「すいません。てっきり敵の仲間かと‥‥‥‥」

 男には空がどう見えていたのか‥‥‥‥いや、そんなことはどうでも良いだろう。少女が一目で空の正体を看破したのと同様に、男の方にも見破られることは分かっていた事だ。

(この男ね‥‥)

 空は、この惨状を作り出した張本人が、少女ではなくローブの男の方であることを直感した。少女はローブの男と共にいるが、しかしその肩が微かに震えている。周りの劇的な変化について行けていないと言わんばかりのその様は、とてもこの状況を作り出した張本人とは思えなかったのだ。

「話は後よ。もうすぐここに兵士達が来るわ。離れるわよ!」

 空は一も二もなくそう言い放ち、二人と共にその場を後にした。言いたいことは多々とあったが、それをここで言及しているような時間はない。
 空は、二人を連れて建物の合間を駆け抜け、人目に付きそうになったら窓から窓へと十人のいなくなった部屋を飛び移って移動し、大通りへと抜けた。
街中に作ってしまった樹海はそのままで放置している。生やすことは自由でも枯らすことは出来ないらしく、証拠の隠滅までは出来なかったのだ。三人は騒ぎに紛れて走り、あたかも避難してきましたとばかりの顔をして兵士達の目を誤魔化した。

「慌ただしいですねぇ」
「あなたの所為でね!」

 モンスター達を瞬殺したローブの男(声が男っぽかったので、空もそう判断した)は、これと言って動じている様子もなく、大人しく空の指示に従ってくれていた。
 仲間である少女を信じているのだろう。空としてはこれ以上ない程にありがたいことだ。
どんな状況であんな惨状を瞬く間に作り出したのかは、現場に立ち会っていない空には分からない。しかしこの男は、少女と違って“やるときにはやる”という凄味がある。出来れば刺激したくはないのだが、結局お目付役としての役目を果たせなかったこと空の苛立ちから、男に当てつけのように怒鳴っていた。

「ははは‥‥どうもすいません」

 本当に悪いと思っているのかどうか‥‥‥‥男は後ろ頭を掻きながら、笑っていた。

(何だかむかつくわね)

 こんな男を追い掛け、自分はこんな命懸けの仕事をしていたのかと思うと腹も立ったが、しかしそれももう終わる。空は言いたいことをグッと我慢し、ようやく目的地の黒山羊亭に到着した。

(さて‥‥‥‥なんて言おうかしら)

 扉を開けようとして、空は躊躇した。問題はここからだ。いや、これまでも問題だらけだったが、ここから先が最難関の山となる。
 ここまでの騒ぎとなったからには、この二人がこの街にいられるかどうかが分からない。何しろ、アセシナートのモンスターがあれだけの数で入り込むような事件だ。根掘り葉掘り、それこそ探索魔法の使い手がしっかりと現場を確認し、事件の全容を解明しにかかるだろう。
 そうなればチェックメイトだ。これまでは“いると分からなかった”からこそ見つからずに済んだが、“いると分かった”からには全力で探し回られるだろう。いくらこの二人が強力なモンスターと言っても、国が捜索を始めれば二日と持たずに見つかってしまう。マフィアでも隠しきることは難しいだろう。
 当然、エスメラルダでも、こんな騒ぎでは庇い切れまい。二人のみの安全を確保するためには、国外に送り出す以外に方法はないはずだ。

(出来れば今日中に外に出してあげたいところだけど‥‥‥‥)

 あの騒ぎでは、すぐにでも兵が包囲網を引く。その前に逃がすことが出来なければ‥‥

「あの、大丈夫ですか?」

 本当にエスメラルダの元に行っても良いのかどうかを考えている空を怪訝に思ったのか、少女が恐る恐ると言った風に声を掛けてきた。

「何でもないわよ。‥‥出来ればあなた、大人しくしていてね?」
「了解しました。大人しくしていましょう」

 飄々と言ってのける。
 この男、少女とは何かが違う‥‥‥‥性格だけの問題ではない。何というか、少女とは異質な、まるで人間のような印象を与えてくる。何となく少女以上に人間的な、しかし悪魔のような奇妙な雰囲気を漂わせているのだ。

(油断は出来ないわね)

 少女と違い、この男に気を許すことは出来そうにない。
 もっとも、上手くいけば今日限りの付き合いだ。エスメラルダに頼んで、早々に縁を切るとしよう。
 空は男から視線を切ると、ゆっくりと黒山羊亭の扉を開け放った‥‥‥‥





「言いたいことは色々あるけど、大体のことは分かってるわ」

 空と二人のモンスターを前に、エスメラルダは淡々とそう言った。
 普段から会っている空は、その言葉だけでエスメラルダの怒りを察し、沈黙した。普段から感情を簡単には表に出さないエスメラルダだけに、その冷たい声色は空の心臓を鷲掴みにするだけの力すらあった。

「こんな事にならないために、あなたを付けていたんじゃないかしら?」
「‥‥‥‥そうね」
「でも、事は起こってしまったわよ。言い訳は?」
「無いわ。仕事は果たせなかったのは事実だから‥‥‥‥ごめんなさい」

 空は、自分に与えられていた仕事を果たせなかったことに唇を噛み、心の底からエスメラルダに謝罪した。
 こんな騒ぎになる前に止めるのが空の仕事だった。どういう経緯であの惨状が出来上がってしまったのかは知らなかったが、空が少女を止めることが出来ていれば、もしかしたらここまでの事件にはならなかったかも知れない。それを思えば、空の失態は取り返しの付かない事態へと局面を導いたことになる。
 ‥‥‥‥と言っても、エスメラルダもこれ以上空を責めるようなことはしなかった。確かに空の責任は重大だったが、許可を出したのはエスメラルダだ。それも、空よりも格上のモンスターを止めるなどという条件が無謀なのだ。むしろ空が生き残り、こうして二人のモンスターをエスメラルダの元に連れてきたことの功績の方が大きい。空が死んでいれば、数を増やした脅威を野に放つことになりかねなかったのだ。
 エスメラルダは「やれやれ」とばかりに肩を竦めると、視線を動かして二人のモンスターに目を向けた。

「まぁ、過ぎたことを言っているような時間はないわ。色々聞きたいこともあるけど、今は逃げることの方が重要よ。今から脱出の方を開始するわ」
「‥‥え! 今からですか!?」

 エスメラルダの言葉に、少女は驚いていた。
 自分達の状況を説明してから‥‥‥‥騒ぎが起こってから、まだ一時間程しか経っていない。だと言うのに、既に脱出の準備を済ませていたというのだろうか‥‥?

「あなたが仲間を見つけようと見つけまいと、この街からの脱出は決まっていたのよ。街の中にアセシナートの工作員が何人も入っているのを確認していたから、そっちを駆除するまでは外にいて貰おうとマフィアとの話し合いで決まったのよ。あなた達が外を散歩している間に、準備は済ませたわ」
「用意が良いわね」
「御陰で朝から大変だったわ」

 「誰かさんの御陰でね‥‥」と、エスメラルダはチラリと男の方を見ていた。男は無言で頷き、「お願いします」と言ったきり沈黙した。
 その男に、空は微かな違和感を感じとる。

(なに? エスメラルダと知り合い‥‥じゃないわよね。でも何か、エスメラルダはこの男を知っているような言い方を‥‥‥‥)

空は、エスメラルダに男の事を知っているのかどうかを聞こうとした。しかし空が口を開ける前に、エスメラルダは「ついて来なさい」と言って三人を案内する。
‥‥‥‥これからすぐに脱出だ。ここで問答に時間を掛けて、兵達に勘付かれてつまらない結末にするわけにもいかない。空は、何も聞かずにエスメラルダに従うことにした。
 街は、突然起こった騒動によって慌ただしい空気に包まれていた。しかも、その騒動の中心地では多数のモンスター達の死骸が発見されているのだ。モンスター達がどうやって侵入してきたのかどうかを調べるため、そして残党を捜すためにとあちらこちらに兵士達が配置され、走り回っている。
 そんな光景を見て、空は内心ホッとした。
 ここまで警戒されている中ならば、少女もローブの男も無茶な真似はしないだろう。それに、少女の追っ手も思うようには動けないはずだ。
 少女とローブの男は、先頭を歩くエスメラルダに従い、後ろを静かに歩いている。兵士達に顔を見られないようにとローブを深く被り、空はその後ろを付いていく。端から見ていれば、まるで犯罪者を連行しているようだ。目立ってしまうことを最初は懸念していたが、そこはエスメラルダである。話し掛けてくるような兵士達を言葉巧みにあしらい、交渉で乗り切ってしまう。長年マフィアや冒険者達を相手にしていただけあって、こう言ったことは得意分野なのだ。
 ‥‥‥‥そうこうしている間に、一同は街から離れ、人影など見当たらないような場所に辿り着いていた。街の喧噪は遠く、夜の帳も降りてきたために深い闇が広がり始めている。

「‥‥‥‥さて、もうそろそろ良いかしらね」

 ふと、先頭を歩いていたエスメラルダがそう言い、立ち止まった。
 街を囲んでいた兵士達の包囲網を潜り抜け、警戒網の外に出たところだ。街から外に抜け出すモンスター達を捕らえるために引かれた包囲網も、兵士達の中に紛れ込んでいたマフィアの構成員によって手引きされ、あっさりと抜け出してしまった。
 現在は、その包囲網を抜けてから三十分程歩いた地点で、深い森の入り口である。資材を作るために伐られたのか、その周囲は切り株だらけの空き地となっていて、離れたところには灯りの消えた小さな小屋が建っていた。

「私達はここまでよ。ここから先は、あなた達でどうにかしなさい」
「良いんですか? あの‥‥‥‥私、マフィアの人達に────」
「良いから‥‥‥‥出来れば、今度は小さな村とか、深い森とかに行きなさい。あんな大きな街には近付かない方が良いわよ」

 エスメラルダは淡々とそう言った。
 これと言った感情は見えてこない。捉えようによっては“二度と私達の街には戻ってくるな”とも取れる台詞だったが、少女も男も、気にしたような風もない。

(マフィアから、追い出すように言われたのかしらね‥‥‥‥)

 空は、今現在の状況とこれまでの経過を照らし合わせ、そう推測を立てていた。
 マフィア達は、最初は二人のモンスターをカードに何かしらの企みを立てていたのだろうが、少女が自分達の予想を超える脅威であることが証明され、街中にまで入り込んだアセシナートの工作員達の情報を入手し、手に負えないと判断したのだろう。もしくは割に合わないと踏んだのか、組織への被害が最小限に抑えられている今のうちに、早々に手を引いておくべきだと言うことか‥‥‥‥

「あなた達は、これからどうするの?」

 空は、二人に向かって問いかけた。森を追われ、街を追われ、そしてまた森へと返されようとしている二人は、いったいこれからどうするつもりなのかを知りたかったのだ。
 少女は少しだけ考えるような素振りを見せたが、すぐに首を振って苦笑いを浮かべた。

「分かりません。とりあえず、もっと静かな場所に行ってから考えます」
「そう‥‥‥‥あなたは?」
「そうですね‥‥‥‥出来れば、他の仲間を捜そうかと」

 「多分、無事だと思いますから」と付け足したその男の表情は、暗くて見えなかった。しかし口調には、深い悲しみと‥‥‥‥何か、本当に微かにしか感じ取れない感情が込められていた。
 その感情が分からず、空は男をジッと見つめ、そして視線を切った。

(ダメね。これ以上この子達と一緒にいると、私がどうにかしそうだわ)

 一瞬、馬鹿なことを考えてしまった。自分の手に負えない程の怪物である少女を気に入ってしまった自分もどうかしていると思うのだが、そんな少女を、こんな男に預けてしまっても大丈夫なのかという想いが、一瞬だけ過ぎったのだ。
 ‥‥空は、良ければ共に街で暮らさないかという馬鹿げた提案を、口に出さずに飲み込んだ。

「まぁ、出来れば幸せにね」

 そんな言葉が口をついて出る。
 それは、なにも考えずに出た本心からの言葉だった。

「はい! 空さんもエスメラルダさんも、本当にお世話になりました!」

 少女は、追い出されるような形で見送られているにもかかわらず、元気にそう言い、頭を下げた。空にもエスメラルダにも、何一つとして悪感情を持っていないのか、満面の笑顔を浮かべていた。
 それだけで、これまでの苦労は報われたと思うことが出来た。

「お世話になりました。さ、行きましょう。あまり長居して、追っ手に見つかっても困りますからね」

 男の方はそう言い、エスメラルダに軽く礼をしてから、ゆっくりとした足取りで森に向かって歩き出した。

「あ、待ってよ!」

 慌てて少女は走り、男へと追いついた。それから空へと振り返り、「バイバイです!」と、ブンブンと手を振りながら男へと付いていく。

「はぁ‥‥‥‥元気な子だったわね」
「そうねぇ。寂しい?」
「なっ‥‥どうしてそう思うのよ」
「デートとかしていたじゃない」

 エスメラルダが、二人を見ながらそんなことを訊いてくる。
 この時エスメラルダのことをよく見ていれば、その目に空に対する負い目のようなものが浮かんでいることに気付けただろう。
 しかし空は、照れくさそうにエスメラルダから顔を背けて「あれは、二人で捜索をしていただけよ」と目を閉ざした。

「そう‥‥‥‥空、一つだけ言うわ」
「‥‥‥‥何よ」

 空は、エスメラルダの声に、これまでに聞いたことのない程の緊張感を感じ取り、振り返った。見れば、エスメラルダは一歩、また一歩と後方へと後退り、そして空に「こっちへ来なさい」と手で合図をしている。

「何を‥‥‥‥まさか!?」

 バァッと振り返り、森へと歩いていく二人を視界に捉える。そして呼び止めようと口を開こうとした瞬間、踏み出した足に強烈な電撃のような衝撃を受けて仰け反り、背後へと倒れ込んだ。

「がっ、はっ!」

 肺に貯まっていた酸素が一瞬にして消え去り、衝撃で呼吸が満足に出来なくなる。地に触れていた足は焼け焦げ、体は痙攣して思うように動かない。
 ────しかしそんな空でも、目の前で起こった光景は、しっかりと目に焼き付いていた。

「‥‥‥‥‥‥まさか」

 力のない声は、果たして自分の呟きだったのだろうか‥‥‥‥空自身、それを認識することは出来なかった。
 これまでただの空き地で、森の入り口であった場所は、今では電撃と業火が渦を巻いて暴れ狂う地獄と化していた。地面は光り、辺り一面に草木の焼ける焦げ臭い匂いが充満し、火の粉が天まで届かんと手を伸ばしている。
 しかし不思議と、見ているだけでも目を焼いてしまうのではないかという業火でも、空とエスメラルダは熱さなど微塵も感じてはいなかった。切り株を要にして術式を編まれた守護結界は、内部の熱を外部へと漏らさず、同時に内部の魔物を外へ出すまいと閉ざされている。
 ‥‥‥‥閉じこめるような必要はなかっただろう。
 この中にいれば、例えあの少女と言えど、一瞬で────

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥エスメラルダ!!!!」

 空は起き上がるや否や、エスメラルダに掴みかかった。
 罠だった。最初から罠だった。マフィアは、あの二人を外に出すつもりなど無かったのだ。手に負えない獣を人間達が毒殺するように、二人がアセシナートの手に渡らぬようにと手を打ってきた。二人を脱出させようと持ち出したエスメラルダは、二人を死刑台へと案内するための死神役だったのだ。
 ‥‥エスメラルダの肩を掴む空の手は、震えていた。
 出来ることならば、拳を振り上げ、振り下ろしたい。しかし責めるべきは、エスメラルダではない。エスメラルダは、こんな策を弄するような女では、無い。

「エスメラルダ、答えて! 何であの二人がこんな‥‥‥‥こんな事になってるのよ! 外に出してあげるんじゃなかったの!?」
「マフィアからの要請よ。私の趣味じゃないわ」

 エスメラルダの声には、感情らしいものが見えなかった。ただ、自分の仕事をしただけだという淡々とした、事務的な口調。それが空の神経を逆撫でていく。

「ならどうしてこんなことを許したの!? マフィアもマフィアよ! 自分達で勝手に保護しておいて殺すなんて?!」
「それは誤解よ。あなたが知らないだけで」
「何を────」
「二十七人死んだわ。マフィアの構成員が、あの男の方に殺されていた」

 ────空の思考が停止した。

「あなたに、あの子の様子を見に行って貰った前日‥‥‥‥マフィアの構成員が彼に交渉を申し出て、話も禄に聞かずに殺されたわ。追われ続けて精神的に参っていたのかも知れないけど‥‥‥‥マフィア達にとっては、抹消するに足る理由よ。あなたが朝、あの子の仲間を探そうと言い出した時には、もう決まってたのよ。私にはどうにも出来ないわ」

 ガクリと、空の体から力が抜けた。
 エスメラルダが、空にあの少女の様子を見てくるようにと言ってきたのは、あの男が少女に出会っていないことを確認するためだったのだ。それだけならば良かったのだが、偶然にも、空はローブの男と遭遇し、それを少女に話してしまった。それが切っ掛けとなり、この事件が動き出したのだ。

「それに、あなたもあの二人の力は私よりも分かっていたはずよ」
「それは‥‥‥‥分かっていたけど‥‥‥‥!」

 反論できず、空は力無く膝をついた。
 ローブの男から感じ取れる感情に、度々見え隠れしていた未知のモノ‥‥‥‥それは、追われ続けるうちに溜め込まれた、憎悪と殺意だったのではないだろうか。もしもあの時、少女が空のことを“敵じゃない”と、信頼できる人物だと言ってくれなかったら、例えモンスターを屠った直後でなくとも、殺されていたのではないだろうか。
 ‥‥‥‥それを肌で感じたから、空は一刻も早くエスメラルダに会おうとした。会おうとしてしまった。エスメラルダに二人を押しつけて、あのローブの男から離れたかった。気を許せないどころではない。ただ単純に、この男と長く共にいては命が危ないと危機を察したからこそ、早々に事を運ぼうと、簡単な方法へと流れてしまった。
 もしかしたら‥‥‥‥あの時、この二人を連れて黒山羊亭へと向かわず、逃げられたことにして二人を脱出させていれば、或いは助かったかも知れないのに‥‥‥‥それを、心の深部からわき出す認めがたい恐怖に怯えるあまり、逃してしまったのだ。

「‥‥‥‥ごめんなさい。あなたを、あの子に会わせたのは、私のミスよ」

 エスメラルダは、膝をついて俯く空から顔を背け、吹き荒ぶ業火の結界を見つめ続けた。
 ────業火が勢いを弱め、電撃の嵐が鳴りを潜めていく。
 魔力によって暴走を繰り返していた地獄は、巻き起こった時と同じように、静かに、そしてあっと言う間にその役目を終えて消え去っていく。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥そこには、もはや何も残っていなかった。
 人影も、草木も、地面すらも削り取られて黒く染まり、灰すらも砂のように崩れて、何が燃え上がることによってこうなったのかも分からない。
 空は力無くその光景を目にし、目を拭った。

「あの子には‥‥‥‥幸せになって欲しかった。これまで不幸だったのなら、その分これからは幸せになれるって‥‥‥‥なって欲しいって、思ってた」

 どれだけ拭っても、空の目からは止め処なく涙が流れていた。
 あの二人の御陰で、散々な恐怖を味わったはず。しかしその恐怖の対象がいなくなったというのに、流れ出る涙が止められない。あの良く笑い、人懐っこく、優しい少女を救うことが出来なかったという事実が、空の心を切り刻み、まるで出血するように、涙が止まることはなかった。

「‥‥‥‥好きなだけ泣きなさい。ただ、あなたは間違ったことはしていない。それだけは言っておくわ」

 エスメラルダは、そんなことを言いながら、静かに空のそばに立ち続けた。
 ‥‥‥‥誰も間違ったことはしていない。
 空も、エスメラルダも、二人の魔物も、マフィア達でさえも、誰一人として間違ったことはしていない。誰もが自分の生き方を貫き、使命を全うした果てに辿り着いた結果がこの結末だっただけ。
 ────しかし
 誰も間違いを侵さないことが、誰もが最良の未来に辿り着くわけでも、無い。
 空はそんな現実を前に、ただ、静かに涙を流していた‥‥‥‥‥‥‥‥


 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 ‥‥‥‥‥‥‥‥

 ‥‥‥‥‥

 それから数日後‥‥‥‥
 街中の騒動も収まり、焦土と化した森の入り口も、灰は片付けられて何もなかったかのように振る舞われた。
 黒山羊亭は、普段の日常に戻っている。空は相変わらず仕事と酒場を行ったり来たりと往復し、順調にツケを溜め込み店主達を泣かせている。
 普段通り‥‥‥‥まったく持って、何も変わらぬ日常が戻ってきた。
 しかし、誰も気付かぬ程の小さな変化が、誰も知らないところで起こっていた。
 森の入り口。焦土と化し、伐採された切り株すら残っていない大地に、小さな芽が生えている。
それは小さな、本当に小さな草の芽だった。
それが二つ、まるで手を繋ぐように隣り合って生えている。

「────!」
「────♪」

 誰にも聞こえない声で、その草は話していた。
 誰にも気付かれないよう、二人の世界で、またいつか‥‥‥‥長い年月が経った後に、二人で世界を歩けるようにと幸せそうに話していた。





 ────それは、気の遠くなるような未来の話────






fin



●●●参加PC●●●
3708 白神 空




●●●あとがき●●●
 ども、この前最後と言いながら結局書いてしまったメビオス零です。
 毎度のご発注、誠にありがとう御座います。今回は前回の続編となりましたが‥‥‥‥バッドエンドか!? と思わせてちょっとだけ救いを残しておきました。実は前編を書いている時点で、二人のモンスターには死んで貰おうと思っていました。でも結局生き残ってます。これまで追い回されていた分、これからは幸せになって貰いたかったので生かしちゃいました。
 やっぱり、出来れば悲劇は書きたくないですよね。
 ‥‥二人の生存(と言うか生まれ変わり?)を知らない空にとっては悲しいことですが。ひっそりと生えている二人が、雑草と間違えられて引っこ抜かれないことを祈りつつ「完」にしました。
 毎度書いていて思うのですが‥‥やっぱり少女やローブの男って書いていると、誰が誰だか分かりにくくなりそうなんですよねぇ。名前を出せたら良いんですけど。結局、この少女も空には名乗りもせずに終わっていました。もうちょっと、上手いやり方を模索してみます。
 しばらくは休みますが‥‥‥‥
 仕事に慣れて時間が取れるようになった頃に復帰します。しばしのお別れですが、またお会い出来れば光栄です。
 では、またいつもの‥‥‥‥


 度重なるご発注、誠にありがとう御座います。
 今回のシナリオはどうでしたでしょうか?
 ご感想、ご指摘、注意などが御座いましたら、遠慮容赦なく送って下さいませ。今後の創作活動に、出来る限り反映させたいと思います。
 今回のご発注、誠にありがとう御座いました(・_・)(._.)