<東京怪談ノベル(シングル)>


満開の花の下


 花はつぼみを開き、風は甘さを含んで暖かい、春。
 陽気の良さに比例するように、黒山羊亭に昼間から入り浸るような不健康な人間は減り、昼も近いというのに店内は閑散としている。
 それでも、暇そうにしているのはカウンターに頬杖をついた空だけで、エスメラルダは忙しそうにカウンターとキッチンを行き来していた。
 カウンターに並んだバスケットに、チーズやらサンドイッチやらを手際良く詰めていくエスメラルダの手元を眺めて、空はくすくす笑いながら言った。
「お花見、なーんて、なかなか風流よね」
 それを聞いてエスメラルダもくすりと笑う。
 実際は花など二の次、要するに飲んで食べて騒ぐだけの宴会なのだが、それに一応立派な口実をつけてみせるあたりが微笑ましい。
「……さ、出来たわよ」
 空の前に一際大きなバスケットを置き、ワインを何本か添えて、エスメラルダはふうと前髪をかき上げた。
「ありがと」
 バスケットに掛けられたナプキンをちょっとめくって中身を覗き、空はぺろりと唇を舐めた。空の好きなローストビーフサンドが沢山詰まっている。
「じゃ、行って来るわね」
「ええ、楽しんできたらいいわ」
 バスケットとワインを手に店を出ようとする空の背中に向けてエスメラルダは目を細め、
「――でも、羽目を外しすぎないようにね」
 まるで見透かしたようにそう声を掛けた。


 羽目を外すな、とは言われても。
 花だけを肴に手酌で一人酒、などと言うのは空の流儀ではない。どうせなら、花と一緒に可愛い女の子も愛でたいものだ。
 目ぼしい獲物は……と先ほどから目を光らせているが、昼間の歓楽街には人通りも少なく、娼館も軒並み閂を下げている。客を引く街娼の姿も見当たらない。
「……もう少し奥に行かないと駄目かしら」
 不要なトラブルに巻き込まれることが多いから、あまり表通りから離れた所まで入り込みたくはないのだが。
 しばらく考えた後、少しだけ、と空は路地の奥へ足を向けた。
 路地に入りこんでもやはり、周りは静かだ。
 本来のこの街の主役――客を取る仕事の人間たちは、夜が遅いせいでこの時間はまだ大半が寝入っている。時折カーテンの陰や窓の向こうで動く影が見えるだけだ。
 何も収穫のないまま路地を何本か入ったところで、やっと人影が見える。
 年の頃は十代前半、と言ったところだろうか。道端に置かれた木箱に腰を下ろし、細い脚をぶらぶらと揺らしながら紙細工の花をこしらえている。夜にもなれば、あの花と一緒に春を売るのだろう。
「…………」
 可愛い子ね、と空は内心舌なめずりをする。特定の店に所属しない街娼ならば、後腐れなく遊べるだろう。
 艶のある黒髪を肩の上あたりで綺麗に切りそろえているその姿は、まるでエキゾチックな人形のようだ。花の下にはさぞ映えることだろう。
「……ちょっといいかしら?」
 声をかけられて、少女はぱっと顔を上げた。空の姿を見て驚いたように目を見開く。この時間にこんな場所まで人がやってくることは珍しいのだ。
 だが、少女はすぐに戸惑いを抑え込んでにっこりと微笑む。
「なあに? お姉さん」
「一緒に遊べる子を探してるんだけど、なかなか見つからなくて。……あなたは営業中?」
「そうして欲しいなら、ね」
 いいよ、と少女は紙製の花を足元の籠に放って立ち上がる。その籠を座っていた木箱の中に無造作に片付けると、少女は大きな瞳で空を見上げた。
「どこに行く? あたしの行きつけでいいなら近いけど」
「ふふ。まあ、場所はあたしに任せて」
 ね? と手にしたバスケットを軽く持ち上げてみせると、少女は不思議そうに首を傾げた。


 エスメラルダの教えてくれた「花見に最適な場所」は、まさに空ににお誂え向きの場所だった。
 街からは少々歩かなければならなかったが、小高い丘の上に白い花を満開に咲かせた樹がそびえ、周りには建物もなければ人もいない。飲んで食べて遊ぶには丁度いい場所だ。
 敷物を広げ、その上にバスケットの中身を並べながら少女は言う。
「お花見なんて、子供の時以来かも」
 少し興奮気味に目を瞬かせる少女に、空は思わず笑った。
「子供の頃って……。まだ十分子供じゃないの」
「もう子供じゃないよ」
 少女はむくれてみせるが、目は笑っている。
 バスケットの中身を全て並べ終えると敷物からはみ出すほどの量になった。豪華だと喜ぶ少女を自分の隣に座らせ、空はグラスに注いだワインを差し出した。
「子供じゃないならいけるわよね?」
「もちろん」
 グラスを受け取ると一息に飲み干して見せ、少女は得意げな笑みを空に向けた。空は空いたグラスにワインを継ぎ足し、
「あんまり無理しないのよ」
 と言いはしたが、潰れてくれてもそれはそれでいいかも、などと内心で算段する。
 グラスを片手にサンドイッチにかぶりつく少女を微笑ましく眺めながら、空もワインをあおった。
 見上げれば、小さな白い花が視界を埋め尽くす。花にはさほど詳しくないので名前は判らないが、春らしい穏やかさのある花だ。控えめながらも確実に存在を主張してくる。
 ざあ、と風が吹き、梢が揺れた。
 白い花びらが風に舞って、空と少女の上に降り注ぐ。黒髪に花びらが落ち、少女はくすくすと笑った。街娼にしておくには勿体ないほど可愛いのに、と、空は手を伸ばして少女の髪を指先にからめ取った。
「あんまり宴席には呼ばれないの?」
 花見は久しぶり、と言う言葉を思い出して尋ねると、少女は頷いた。
「そう言うのに呼ばれるのは、大きいお店のお姉さんがほとんどだよ。歌や踊りが出来ればまた別だろうけど、あたしは何も取り柄がないから」
「こんなに可愛いんだから、気にすることないわよ」
 するりと指を滑らせて頬を撫でると、少女は大人びた仕草で目を細めた。
「お姉さんも綺麗だよ」
「ふふ、ありがと」
 そのまま頬の輪郭をなぞり、猫の喉でも撫でるように首筋をくすぐると、少女は笑って身をよじった。その拍子に持っていたグラスが傾き、少女の胸元を汚す。
「あ……」
「あら、大変」
 空の瞳が抜け目なく光った。
「汚れちゃったわね。脱ぎましょうか」
 すかさず胸元のボタンを外しにかかると、少女はおかしそうに笑いながら空に身を寄せてくる。
「お姉さんてせっかちだね」
「そうかしら」
「まだご飯も食べてないし、お花だって見てないのに」
 そうね、と相槌を打ちつつ、はだけた胸元からなめらかな肌に触れる。舌を伸ばして肌を濡らしたワインを舐め取ると、少女はびくりと体をすくませた。
 力を抜いてもたれかかってくる少女の肩を抱いて、空はちらりと花を見上げた。
 ――悪いけど、花よりなんとやら、だわ。
 またひらりと舞い落ちてきた花びらを払って、空は少女の黒髪を撫でた。