<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
Phantasmal heroic tale
公園の傍に建つ古風なオペラ座には、過ぎ去った年月と同じだけの歴史があるが、その一幕を華々しく飾った一人の英雄たる貴族が住んでいた館だということを知る者は、あまり多くない。事実は時代の波に呑まれ、人々の記憶から薄れ去り、オペラ座へと姿を変えて得た栄光も今や、他の娯楽に奪われるに至っている。
オペラの人気が地に落ちたことは誰の望むところでもなかったろうが、オペラ座の歴史として残るべき誇らしい事実が、その裏に卑劣にも隠された真実と共に忘れ去られたことは、あるいは神と呼ばれる者が歴史の陰で闇に囚われている一人の男にかけた情けかもしれない。
楽屋で今日の公演の台本を読み直していた若い女性団員の一人が、蝙蝠の羽音にぎくりとして顔をあげた。今このオペラ座では、舞台を妨害しようという何者かの悪意のこもった心霊現象が起きており、それを調査・解決するためにやってきた調査員の一人であるウインダーの青年が、蝙蝠を使役して方々を調べている。彼女の頭上ではばたいた蝙蝠もその一匹だろう。普段なら蝙蝠など薄気味悪いと思うところだが、この数日、それよりも恐ろしい心霊現象を目の当たりにしてきた彼女は、自分の前に現れたのが亡霊の類でなかったことにほっとして視線を蝙蝠からはずし、手元の台本へと戻した。
公演本番は今日。彼女はそこに書かれたせりふをとっくに覚えてしまっていたが、台本でも読んでいないと不安に心を押しつぶされ、舞台に集中できそうになかったため、文字をひたすら目で追うことに意識を向けていたのである。
再び彼女の思考は台本の内容に支配されかけたが、突然、何度も目を通した活字の上に影が差したことで、彼女は現実に立ち戻った。
驚いて再度顔をあげると、そこには血のように赤い髪と凍えた月のような銀色の目の青年が、いつの間にか立っている。背には黒い蝙蝠の翼があり、端正なその姿はまるで吸血鬼のように見えた。
レイジュ・ウィナード。それが彼の名前であり、蝙蝠を従える件のウインダーだ。
台本に意識を集中していた彼女は、先ほどの蝙蝠は彼だったのだと悟り、驚愕とわずかな恐怖の入り混じる表情を浮かべたが、レイジュはそれに気を悪くした様子も見せず、彼女の手元――台本をのぞきこんだ。
「僕にも見せてくれないか。」
そう言われ、彼女は一瞬ためらった。レイジュは今この劇場で起きている心霊現象について調査しているはずで、何の関係もない劇の内容を知りたがるというのは不思議なことのように思えたのである。
しかし、その表情は興味本位で言っている風ではなかった。そこには、ただ仕事で調査しているというだけでは決して感じられない、切迫した色があったからである。その思いの外真摯な様子に彼女は、自分たちの抱える問題の解決に役立つなら協力を惜しむ理由などないと思い直し、おびえながらもおずおずと台本を差し出した。
それを受け取り、レイジュは固い表情でページを繰る。
彼は先の調査で見つけた地下牢で、心霊現象を起こしている張本人の亡霊と出会っていた。今まで静かにただ過去に囚われたままであったその亡霊が、何故突然敵意を持って現在のオペラ座の所有者である者たちに害を加えるようになったのか――その理由を知るための手がかりが今回の舞台の台本にあるのではないかと思ったのである。
地下牢の亡霊は、当時の領主であり兄であった者に閉じ込められた哀れな男だ。彼はその非業の運命を呪い、怨嗟を吐きながら死してなお地下の牢獄に囚われていたが、この度のオペラで歌姫の代役となったレイジュの姉ライアに恋し、彼女を自分と同じ死者として手に入れるべく、幾度となく舞台の練習中に命を狙っていた。
しかし、そもそも彼の劇団に対する妨害は、ライアが代役を引き受ける前から――そして今回のオペラ公演が決まった直後から始まっている。ならば、かの幽霊がこの舞台に固執する理由が、台本にあるのではないかとレイジュは思ったのだった。
亡霊となった領主の弟には少なからず哀れみも感じてもいる。姉を殺させないためにも、彼の暴挙を止める手がかりを得たい、そう考えてレイジュは黙々と台本を読み進めた。
やがて大体の内容を把握し終えると、彼は短く礼を言ってそれを持ち主である女性団員に返し、
「この劇場に関する記録や資料などを置いている所はあるだろうか?」
と尋ねた。その表情は先ほどよりもいっそう険しく、銀色の目は研いだ刃物のように鋭い。それに恐れを抱きながらも、劇団員の女性が「資料室があります。」と答えて場所を教えると、レイジュはまたぶっきらぼうに、しかし礼儀正しく礼の言葉を言って、足早に楽屋を出ていった。
吸血鬼と間違われる容姿であるため、できるだけ皆を怖がらせまいと蝙蝠の姿で劇場内を飛び回り、調査をしていたレイジュは、蝙蝠たちからの情報もあり、すでに全体構造をほぼ把握している。まるで住みなれた館の中を歩くようにして、彼は迷うことなく教えられた資料室にたどりついた。普段から人があまり来ることもなく、重要視されていないのだろう、扉には鍵もかかっていない。室内は無人で、ほこりっぽく、古い書物や道具の匂いがかすかに漂っていた。
窓を開け、差し込む日差しから目をそむけるようにして部屋の中を見渡すと、オペラ座ではなくまだ貴族の館であった頃に使われていたらしい年代物の家具や、当時の書籍らしいものも目につく。
ここならば知りたいことも判るに違いないと、レイジュは部屋の壁に備えられた本棚に並ぶ本の背表紙を、端から丹念に読み進め――やがて、一冊の古い本を、棚からそっと引き抜いた。うっすらとほこりを舞い上げてあらわになった表紙は、この館の持ち主であった領主の一族に関する古い記録であることを示している。
相続争いが激化し、一族分裂の危機に直面していた頃、卑劣な手で支持者を得ていた醜い弟を破り、疑心暗鬼に呑まれていた一族をまとめあげて過去以上の地位に返り咲き、領民からも慕われ栄華を極めた英雄。その華々しい功績が綴られているが、それはまさしく、レイジュが先ほど目にした今日のオペラの筋立てそのものであった。
人々の記憶からこそ薄れたものの、歴史には燦然と輝く英雄談。しかしそれは、実の兄に地下牢へ幽閉され、二度と光を浴びることなく亡霊と化した男の語った事実とは、あまりにも違う。
レイジュは厳しい表情で資料を棚に戻すと、座長に台本と史実の関連性を尋ねるべきだと、足早に資料室を後にした。
その問いに対する返答は、レイジュのほぼ予想した通りのものであったと言える。部屋に足を踏み入れるなりぶつけられた思わぬ質問に、座長は面食らった様子だったが、レイジュの真剣な面持ちに追及は不要と思ったのか、はっきりと頷いてこう説明した。
「仰る通り史実を元に、彼の活躍を称えるため、今回のオペラの脚本を書いたのです。資料をご覧になったのならお判りでしょうが、このオペラ座には歴史があります。それもこんなドラマティックな。オペラの人気は今日目覚ましくありませんが、このオペラ座だからこそ見せられるドラマもあると思うのです。」
レイジュは座長のその言葉に、彼も『真実』を知らないのだと瞬時に悟った。おそらく誰も知らないだろう、当事者であった地下の幽霊が直面したおぞましい過去を。
伝えられている史実が真実ではないことを幽霊から聞かされたレイジュは、そのねじ曲げられた偽りの歴史こそが心霊現象を起こさせるほど彼を怒らせた原因であるのだと告げようとした。
しかし、ちょうどその時、澄んだ女性の声が扉の外から響き、はたと口をつぐむ。声の主はレイジュのよく知る者――姉のライアであった。失礼、と一言呟いて扉に向かった座長の視界の外で、レイジュはあわてて蝙蝠に姿を変え、部屋の隅にあった壷の中に飛び込む。それとほぼ同時に、座長が扉を開け、ライアを部屋へ招き入れた。
「遅れてしまってごめんなさい。弟に観に来てもらおうと思っていたのに、どこにもいなくて……。伝書鳩に手紙を持たせたから、それを見て来てくれるとは思うのだけど。」
「そうですか。それならば心配しなくとも、きっと弟さんは来てくれるでしょう。そうそう、もう一つの心配も無用ですよ。あなたの護衛を買って出てくれた人がいますから、安心して下さい。ちょうど今ここに――おや?」
「お一人のようですけど……入れ違いになってしまったかしら。」
「ふむ……どうやらそのようですね。しかし、立派な青年ですから安心して下さい。」
確かに部屋にいたはずのレイジュの姿がないことに戸惑いながらも、心配させまいと明るい口調で言う座長の言葉と、それに安心した様子で準備をしに行くと告げるライアの柔らかな声がレイジュの耳にも届く。
座長も本番の準備に行くつもりなのだろう、やがて、二つの足音と扉の閉まる音が立て続けに響き、部屋には静寂だけが残った。
座長に真実を告げる機会を逸したレイジュは壷の中から這い出し、ここにいても仕方ないと肩を落とす。ライアの護衛としてできるだけ傍にいたいところだが、弟が自分の護衛についていると知れば、まずその身を案じるのが彼女の性格だ。余計な心配などさせず、頼れる護衛がいるという安心感だけを持って舞台に集中してほしいとレイジュは考え、あえて姉の前に姿を見せようとは思わなかった。それに、地下の亡霊の狙いとその動機について察しがついた今、彼を止めるための手がかりが欲しいところでもある。もう少し資料室をあたってみようと、レイジュは窓の方へ目を向けた。資料室の窓を開け放したまま来てしまったので、そのまま窓から移動しようと考えたのである。
その時、くちばしに封筒をくわえた一羽の鳩が、白い翼をはためかせてレイジュの前に舞い降りた。先ほどライアが言っていた伝書鳩である。レイジュは人型に戻って手紙を受け取り、利口そうな黒い瞳で自分のことを見上げている姉の友人に、「僕がここにいることを、ライアには内緒にしておいてくれ。」と囁き、人差し指を唇にあててみせた。ライアは鳥と会話ができるため、彼がここにいることを聞き知ってしまうと思い、口止めしたのだ。
伝書鳩はレイジュの心境を察したのか、頷くように何度か目をしばたたかせた。
「ありがとう。」
かすかに笑みを浮かべて礼を言うと、レイジュは封筒を開き、招待状と共に出てきた手紙の内容を確認すると、座長の机にあった便箋を一枚失敬して舞台を観に行くからと返事を書きつけた。それを鳩にくわえさせ、飛び立つのを見送る。これでライアは安心して舞台に集中できるだろう。あとは彼女を守り、地下の亡霊を何とかするだけである。おそらく彼は、真実が卑劣にも歪められ、自分を貶めた兄が英雄視されている現状を憎んでいるに違いない。そう推測したレイジュは、その恨みの念による暴挙を止める手がかりを求め、背中の黒い翼を広げて窓から飛び立ち、再び資料室へと向かった。
しかし、いくら調べても出てくるのはきれいに飾り立てられた英雄談であり、婚約者であり歌姫であったという女性とのロマンスを綴った恋物語ばかりで、無残にも握りつぶされた真実を語るものは、もはや一片として残されていないのではと思えるほどだ。レイジュは過去を振り返れば振り返るほど、作り上げられた美しい物語に殺され、亡霊と化した男の身の上を悲しまずにはいられず、かといって同情だけでその行いを許すわけにもいかず、哀れみと共に激しい怒りを覚えるばかりだった。
「そろそろ戻らなければ。」
本番の時刻が近付き、それ以上の手がかりを得ることを諦めたレイジュは、やるせない思いを抱えたまま資料を片付け始めた――その時である。
ふいに風もないのに窓が閉まり、扉の方ではひとりでに錠のかかる音が響いた。はっとして扉に駆け寄り、それを開けようとしたが、内側についている錠はぴくりとも動かず、明らかに物理的な力以外のもので閉じられているのが判った。このタイミングでこんなことをする者など、あの幽霊の他にいるはずがない。
『わたしの恨みも彼女への想いも、お前に砕かせはしない。』
そう言い捨てて消えた彼の憎悪に歪んだ表情を思い出し、レイジュは歯噛みした。
「ライア……!」
思わず扉に打ち付けた拳の音は、しかし、誰の耳にも届かなかった。
ライアは控室で受け取った弟レイジュからの返事を思い出しながら、まばらに埋まった客席に向けてアリアを歌う。舞台を妨害しようとする心霊現象が気にかからないでもなかったが、護衛もついていると聞いていたし、自分は今できること、すべきこと――舞台を成功させることに専念すればいいと意を決して、全力をそそいでいた。観に来てくれたすべての人のために、オペラに愛情を注ぐ団員たちのために、また、たった一人の弟のために。
雪のように白いドレスをひるがえして舞踏会を模した舞台の上を小鳥のように舞い、高らかに歌うライアの姿を暗い瞳で追いながら、オペラ座の地下に囚われた亡霊が見るのは、失われた過去の日々――かつての思い人の面影だった。ライアの扮する歌姫は、貴族の兄弟から愛され、英雄となったその兄と婚約を結んだ実在の人物である。
叶わなかった恋と、都合良く塗り変えられた世界を再現したこの舞台を、さも現実に起きたことのように、こうして目の当たりにすることは、彼にとって何よりも苦しく、つらく、そして許しがたいことであった。
『過去を覆せないのなら、せめて舞台の上の幻想はわたしのものに。』
遠い昔に肉体をなくした男はそう呟いて、舞台に意識を集中させる。場面はまさに貴族の青年が婚約者である歌姫にキスを贈るところであった。英雄の役を演じる俳優と、ライアの唇が重なる――その瞬間、二人の頭上に一つの大きな影がかかった。天井に吊られていた豪奢なシャンデリアが、怒りと恨みを爆発させた亡霊の力でもって切り離され、彼ら目がけて落下してきたのである。観客の悲鳴と、硝子が割れ、金属が床を打つ、けたたましい音が響く。
しかし、舞台にいた役者たちは見た。二人がシャンデリアに押し潰される前に、一陣の黒い風が走り抜け、彼らを突き飛ばしたのを。
舞台の上に赤い血が広がり、それに溶けるように流れる赤い髪。床に倒れ込んでいたライアはそれを目にして飛び起き、顔を青ざめさせて駆け寄った。自分と同じ色の髪。まさかと思ってのぞきこんだシャンデリアの下敷きになっている人物の顔は、まさしく弟のレイジュだった。
資料室に閉じ込められたレイジュは、運よく鼠が壁に開けた穴を見つけて脱出してきていたのだ。すでに本番の始まっている時間だったが、彼は守るべき瞬間に間に合った。
壁の穴を抜ける時にかぶってしまったほこりと、自らの血に濡れる髪を揺らしながら、わずかに顔をあげて磨いた鏡のような銀色の目に姉の姿を映し、無事を確認したレイジュは、一瞬安堵の色を見せたあと、「地下の亡霊が……ライア……狙っている。」そう警告を呟き、意識を呑みこむ闇にあらがうことができず、瞳を閉ざして暗闇の世界へと落ちていった。
了
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