<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>
《楽園》石人の夢
【1】
夢の中で懐かしい声が、囁いていた。
眠くなるような響きの、優しく深い声。
「むかしむかし、このソーンの世界のどこかに、楽園があったのだそうだ。草木はいつも青々と茂っていて、冬の季節を知らず、極彩色の鳥が飛び、白銀の獣が駆けて、美しい声で歌う。人も住んでいたよ。不老不死の人々だ。だから、その楽園には不死を約束する薬があるのだと言ってね。大昔の人々は楽園を求めに旅に出たそうなんだ。行って帰ってきた人もいたそうだよ。いいや、本当に。だけど、その地に運良く行き着ける者はほんのごくわずかだったらしくてね。だけど…その庭園はある時を境に眠ってしまったんだそうだ。それ以来『石の人の楽園』と呼ばれるようになった――」
霧靄に覆われた庭に住まうは石の人。
靄に隠れているためなのかどうなのか、なぜか人は近づかない。
堅く閉ざされた門があるわけでもない。高い塀があるわけでもない。
入れぬわけではない。
まるで人々にその存在を忘れられたかのように。
その庭園には人の形をした石像たちが眠っている。
夢の中で、彼らは微笑んでいた。
【2】
深い藍色に染められた夜空の端が徐々に白みだす。
遙か彼方に横たわる山並みの輪郭に、白い輝きが生まれ、光が描く山の稜線が、みるみると輝きを増していく。
ソーンの夜明けである。
シルフェはひとり草原に佇み、暁の輝きを仰いでいた。
「なんて、美しい……」
思わず、呟く。
シルフェの朝は早い。
鳥たちが起き出す前には、町外れの草原を歩くのが習慣だった。
昨日も今日も明日も変わらず訪れる朝。
だが、シルフェはいつも思う。
朝はなんて美しいのか、と。
晴れの日ばかりではない。
曇り空の朝はしっとりと心が落ち着く。
雨降る朝は、天からの恵みの水に潤される草木と大地のため息を聞く。
嵐の荒れ狂う朝は、狂おしく躍動する大気の息吹に胸の奥が弾む。
だから、シルフェにとっての朝は、いつでも「美しい」。
シルフェの目にいま映っているのは、見渡す限りに広がる、暁の光の欠片を纏って輝きだした草原だった。
草花たちが、夜の眠りの間に浮かべた露。
それら朝露を浮かべた丈の短い草々が、シルフェの爪先を濡らしていた。
「今日は晴れるのでしょうね。……あら、見たこともない花が」
身をかがめて、一本の花を手折る。
夜明けの空の色にも似た、ばら色を帯びた紫色の花だった。
それはこれまで見た花とは少し違っていた。
薄い花弁の表面が不思議な光に満たされていた。
細かな光の粒が、流れる砂のように花弁の中でゆったりと波立っているのだった。
「なんてふしぎな花……」
その花びらにも、小さな露が浮かんでいる。
朝日を浴びて金剛石の煌めきを帯びたそれは、風に震えて、ころろ、と転がり、シルフェの白い指へと落ちて砕けた。
「今日は……あら? 何かしら。」
シルフェは草花の朝露に触れて今日という日を巡る生命の動きを視る。そして未来をも視る。
いまシルフェの指を濡らした露はシルフェに語っていた。今日は不思議なことが起きる、と。ゆうべ見た夢を思い出してごらん、と。そう語っていた。
ひときわ強い風が起こった。
冷たいそれは、シルフェの身を慈しみ清めるかのように、首筋へと口づけて吹きすぎていった。
シルフェの長い髪が風に靡く。
「……ああ、思い出しましたわ。わたくし、あの楽園に行こうと思っていたのでした……」
夢に見たのだ。
幼い頃に、シルフェが聞いた昔語りを。
思い出したのだ。
幼い頃に、一度は行き着いてみたいと思っていた「石の人の楽園」を。
シルフェは紫色した花を片手に携え、草原を歩き出す。
「あなたが、道しるべになってくれるのですね……?」
重なる花弁の奥深くにと露を孕んだ花が、暁の風に吹かれて頷いた。
今日は眠れる楽園の門がほんの少しだけ、開く、と。
【3】
あんなに晴れ渡っていたはずの空が、いつの間にか見えなくなっていた。
日が翳ったのではない。
靄があたり一面を覆っているのだった。
草原を歩むシルフェの長衣が、白い靄の中に霞んで揺らいでいた。
シルフェはただ歩く。ひたすら歩く。
地図を持っているわけではない。
シルフェにも、どこまで行けば目的の地に行き着けるのかわからない。
ただ、あの花が囁くのだ。
朝日の中で摘んだあの花が、懐の中で「進め」と囁いている。
その言葉に従っているだけのことだった。
灰色にさえ見える濃い靄はほんの数歩先さえ見通すことを許さない。
普通の者であれば不安に苛まれるところであるが、シルフェにとってはそれが自然なことだった。
全てはなるようになるのだ。
これは水の流れとともに時を視るシルフェの常からの確信だった。
どこへと行き着くのかわからないほどの靄の中、シルフェは思いだす。
ゆうべの夢に見た、昔語りを。
「楽園には、ごく稀に、行き着いた人がいた……」
それはどんな人だったのだろうか。
いまシルフェの瞼の裏に映っていたのは、床に寝転がって昔語りに耳を傾けている自分の姿だった。
幼かった頃のシルフェは家人からその話を聞かされるたびに興味津々で聞いたものだった。暑くもなく、寒くもない、常春の極彩色の鳥たちが舞う楽園。
不老不死の人々が平和に暮らす楽園。
どんな人たちが暮らしていたのだろう。
不老不死の薬があるのなら、それはどんなものだったのだろう。
成長するにつれて、興味は疑問に変わった。
不老不死の人々は、――それが真実であるならばだが、なぜ石の人となったのか。
不老不死の薬を求める人たちとの間に、争いは起こらなかったのか。
いつしか、不老不死の薬そのものへの興味は薄れていた。
流れないものは澱む。
不老不死は澱みである。
そう感じたのは、シルフェが水を司るウンディーネゆかりの存在であることにも因していただろう。
不老不死への探求心よりも、むしろ、楽園の人々――石の人たちの歩んだ道が気になって頭を離れなかった。
幼い頃に抱いていた楽園への明るく朗らかな印象は、徐々に、陰鬱な灰色に染められていった。
長じてから、水に問うたこともある。過ぎ去った彼らの道のりを。
だが、水は答えなかった。
かたく口を閉ざしていた。
足下を流れる靄が、ふいに渦まいた。
いつしか下ばかりを見ていたシルフェが顔を上げると、白靄の中に、うっすらと影が見えた。
目を凝らすうちに、それは形を成した。
人の腰ほどの丈のある獅子の形に。
それは、逞しい脚も、胴も、鬣も、頭から尾の先まですべてが白銀の毛皮に覆われた獅子だった。片目のみが紫色の、隻眼の獅子。
紫の瞳を瞬かせ、
「動く人を見るのは、実に久しい」
靄の中に立つ獅子が言った。
【4】
白靄の中、シルフェと獅子は対峙していた。
静寂の時がしばらく流れたが、その静けさを破ったのはシルフェだった。
「今、動く人を見るのは久しぶりとおっしゃいましたけれど……どういう?」
獅子の紫色の目がシルフェを見据えた。
「それはそうだ。ここは動く人の住まう地ではない。おまえは私の答えを知っているはずだ。なぜなら、おまえはここに至ることを望んだからだ」
「と、いうことは……。あなたは?」
シルフェの問いに、獅子は一言、短く言った。
「名前はない」
シルフェは、ゆっくりと瞬いて口を噤んだ。
「私の前を行くがいい」
獅子が背を向けた。
シルフェは獅子の言葉に従うことにした。歩き出した。
足下の草の上を、意志のあるもののように靄が這って横切っていく。
まるで雲の中を歩んでいるようだった。
シルフェが、四肢を伸ばして佇む獅子の肩先を通り過ぎた時。
目の前が開けた。
白い靄が、まるで幕が舞台袖へと引かれていくかのように、シルフェの両脇へと音もなく流れ去っていく。
そしてシルフェの目の前に現れたのは。
鈍い灰色を帯びた藍色の宮殿。
優美な曲線を描くドームを中心に据え、いくつもの尖塔を傍らに侍らせた、荘厳なたたずまいの宮殿だった。
それは、別荘地の宮殿のようで、さほど大きいものではなかったが。
重々しい外観が、よほどの匠の手によって成し遂げられたものであることを物語っていた。
宮殿の正面から伸びる道の中ほどに広場があった。
そこには、髪に花を挿した村娘風の格好をした少女たちが輪を作って踊っていた。
ただし、互いの手を取り片足を上げた格好のまま、動かない。
少女たちの肌も衣服も藍色で、それらの表面には青銅の像のような光沢が浮かんでいる。
藍色の少女たちは、口元に楽しげな笑みを浮かべ、今にも朗らかな笑い声を上げそうに見えた。
輪を作る少女たちのかたわらには、踊りを楽しむかのように石畳の上に脚を投げ出して寝そべる青年の姿があった。
しかし、簡素なシャツとパンツに身を包んだ青年の、触れば柔らかそうに見える髪も藍色の石だった。
宮殿の扉へと至る階段の上で、口元に手を当てて語らう姿のまま動かぬ婦人たちの姿も藍色。
広場の東に見える森の入り口で、弓矢を背負い、木々の中へと踏み分けていこうとしている狩人たち。彼らも藍色。
宮殿の庭で食事を楽しむ姿の人々も、水の涸れ果てた池の中、戯れあって歓声を上げるよう口を開けたまま手を伸ばす子供たちも、みな、動かぬ藍色の石だった。
不思議と貴人の姿をした石像はなかった。
藍色の石と化していたのは人ばかりではなかった。
シルフェの足下で、パリリ、と小さく音を立てたものがあった。
細い葉をしならせた草と見えたものが、シルフェの靴の下で粉々に砕けていた。
「草も、樹も、全部、全部石だなんて……」
シルフェは言葉もなく立ち尽くしていた。
あるもの全てが石だった。
樹木の幹を伝う小さな虫も石。
風にそよぐ草も石。
草原の所々に頭を突き出した岩に張り付いている苔も石。
その上で今まさに飛ばんと羽を広げている鳥も石だった。
「ああ、ここは……」
シルフェは大きなため息をついた。
時が止まっていた。
水という水のない世界。
水なくしては、シルフェの水操術もその力を発揮することが出来ない。
いつか、水に楽園のことを尋ねた時、答えが返ってこなかったのも道理だった。
「なぜ、こんなことに……」
シルフェは砂に埋もれかけた石像の一つを抱いた。
摘んだ草花で花輪を作っている小さな女の子。
いつからこの姿になってしまったのか。なぜ、こんな姿になってしまったのか。
幼い女の子の頬は砂埃で汚れ、耳が片方欠け落ちており、いったいどこにいってしまったのか、胴から下ももげて無くなってしまっていた。
「かわいそうに」
シルフェは思わず呟いた。
「この人たちは、なぜ石にされてしまったのでしょうか」
その呟きに獅子は一度立ち止まったが、答えることはなかった。
そしてあとはシルフェの方を振り返ることもなく、先を行く。
シルフェは女の子の石像へと祈りを捧げ、砂の上にそっと置き戻した。
獅子を追って、川伝いにシルフェが歩みを進めていくと、小さな川が見えてきた。
「あ、あそこに、水が」
シルフェが小さな歓声を上げた。
紫色の水を湛えた、小さな川がうねりくねって草原の中に横たわっていた。
しかし、一見、川と見えたそれであったが、シルフェが川辺に近づいてみると、そこにあったのは水の流れではなく、紫色の砂に埋め尽くされた、いわば川の屍だった。
シルフェは川べりに膝を突いた。
「ああ……水のように見えましたのに……」
砂の川の中へと手を差し入れる。
掬い上げた砂は、薄い紫色をしていた。紫水晶を砕いたような砂だった。
それらは指の隙間をすり抜けて、音もなく流れ落ちていく。
いつしか、獅子がシルフェの傍らに立っていた。
「なぜ、ここには水がないのでしょう……。一滴の生命もないなんて」
「彼らはこの地にあった全ての水を、あるものに篭めたのだ」
獅子が答えた。
「彼ら? あの、石像にされてしまった方々でしょうか」
鬣が右に左にと揺れる。
「シルフェ。おまえが見た石像、あれは石にされた彼らなのではない。あれらは彼らの願いであった」
シルフェは思わず目を瞬いた。
「願い?」
「そうだ。彼らがかくありたいと願った姿を彫りつけたものだ。シルフェ。その川床の砂は何に見える」
獅子は鼻面を川面へと向けた。紫の砂で覆われた水の流れぬ川面へと。
「何に……。透明で、光が当たると少しきらきらして。水晶……かしら。紫水晶……」
「紫水晶とな。では聞く。水晶とは何であるのか。おまえのよく知るものだろう」
「水晶は、すなわち"水精"。わたくしのの同胞です」
「そうだな。そしてまた水の、石、なのだ」
シルフェははっとして白銀の獅子の瞳を見つめた。
「では、もしやまさかこの砂が、この地に住んでいた人々、なのですか……?」
獅子は少しの沈黙の後、あいまいに頷いた。
「そう、ともいえるが、正確には違う。彼らの肉体は、いまおまえの手の中にある砂となったが、それは肉体だけのことだ。彼らの命の根源は、また別のところに」
シルフェは思わず手の中でさらと微かな音を立てる砂を見つめた。
「では、あの石の像は、この地で生きていた人々ではなかったのですね。わたくしは、昔話にあったように、人々が石像になったものとばかり思っていました」
「それもしかたがなかろう。この地を訪れた者は稀であった。僅かな人々の言い伝えたものであれば、伝え伝えるうちに真実が歪んでもしかたがない」
「でも。言い伝えを知っているのはわたくしだけではありませんでしたわ。この地は、望めば至ることができるのだと、先ほどあなたもおっしゃいましたのに。なぜ、この地を訪れた人はそんなにも少なかったのでしょう」
獅子が隻眼を細めて低く喉を鳴らした。笑ったようだった。
「……そうだ。この地には、望めば辿り着くことができる。ただひとつのことさえ、望まなければ」
「ただひとつのこと?」
そうだ、と獅子は頷いた。
「不死を求めることだ」
「不死……」
「遠い昔、ここに住んでいた者たちは、彼らのあらゆるすべての水を封じた時に、この地にひとつの禁忌を仕掛けた。見るがいい」
獅子は鬣の靡く鼻先を彼方へと向けた。
遠く、一角のみ靄の晴れたところから、遙か向こうに聳える王城が見えた。
「かくのごとく人は我らのすぐ近くにいるが、かの人々には見えないのだ。この地は。――なぜなら、彼らはこの地を思う時、僅かなりとも望むからだ。不死を。」
シルフェは王城の街々を行き交う人々の姿を思い浮かべた。
「不死を望んだ者には、見えず、辿り着くこともできない場所……だったのですね。それで……。では、やはりこの地の人々は、不死を望む人々によって……」
隻眼の獅子の紫色の瞳がゆっくりと瞬いた。
瞳の中には、金色の細かな砂のような光の粒が、ゆったりと波打っていた。
「シルフェよ。我らは、水の流れの如き時を歩みたかった」
一陣の風がシルフェを包んだ。
「『我ら』? あなたは……!?」
つむじ風が、ゴゥ、と唸りを上げた。
――我らは、望んで時を止めたのだ――。
風音の中に遠のく獅子の声を聞いたような気がしたが、髪をも装束をも巻きあげて掻き乱す強い風に、シルフェは目を開けていられなかった。
つむじ風が去った後。
シルフェは見知らぬ草原にひとり、佇んでいた。
見回すと、エルザードの王城はシルフェの後ろ遠くに、うっすらとその姿を見せていた。
切れ切れに鳴く鳥の声が頭上で聞こえた。
見上げると、空高くを一羽の茶色い小鳥が円を描いて飛び回っていた。
陽はもう高かった。
シルフェは目を閉じてゆっくりと息を吐き、そして草原の中を歩き出した。
陽の光にぬくもった風が草木を柔らかくそよがせている。
シルフェは王城あるところを目指して歩きながら、懐にしまっていた花を取り出した。
それはしおれてしまっていたが、まだかろうじてひとひらの花びらを残していた。
シルフェは花へと語りかけた。
「あの獅子の瞳、同じでした……。川の砂の色と同じ、不思議な紫色をした……」
そう呟くと、花の首はゆらと揺れて最後の一枚を散らしたのだった。
「あなたと同じ、色をした……」
シルフェの小さな呟きは、吹きすぎていった柔らかな風に掻き消された。
そして、散った紫色の花びらも、どこに落ちたか、溶け消えたかのようにもうその小さな影はなく――。
<了>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 2994 / シルフェ / 女性 / 17歳(実年齢17歳) / 水操師 】
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■ ライター通信 ■
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シナリオへの参加、ありがとうございました。工藤です。
まずは、美しいキーワードをありがとうございました。
若干、「お試し探索程度の番外編」でもなくなった気が、します。
今回のお話では、シルフェさんの早起き習慣を付加してしまいましたが、
もしもシルフェさんがお寝坊さんでしたらすみません。
またお目に掛かれますことを祈って。
本当にありがとうございました!
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