<東京怪談ノベル(シングル)>


○祈りの風が吹く時

 その日はとても静かな日だった。
 天気は雨。昨日の夜からの雨が降り続きエルザード全体がまるで薄いヴェールに包まれたような、‥‥けぶるような日。
 一通りの仕事を終えた窓辺の椅子に座ってシノン・ルースティーンは、深く深呼吸をすると窓の外を眺めた。
 水の匂いと静寂を楽しんで‥‥。
 入れたての一杯のチャイを共にして。
 正確に言えば雨の日も音はたくさんある。
 水滴が屋根や葉っぱを叩く音、地面に落ちた雫が集まって水となり土を流れる調べ。
 耳を澄ませば、部屋の向こうで子供達の声がする。
 カチカチと音を立てる積み木、本のページをめくる音まで聞こえてきそうだ。
 もう暫く雨が続けば子供達も退屈して暴れだすだろうが、だがそれでもやはり、雨の日は静か。
 不思議に気持ちいい時に浸りながら、シノンは静かに窓の外を見つめていた。
「たまにはのんびりするのもいいよね‥‥ってあれ?」
 手を口元に。
 あくびをしかけていたシノンは慌てて瞬きをして、立ち上がった。
 駆け出し、部屋を出て、玄関の扉を開ける。
 彼女の足音に気づいたのだろう。部屋から顔を覗かせた子供達も、全員が玄関と、そこにいる子供を見つめていた。
「どうしたの? そんなにずぶぬれになって‥‥」
「シノン‥‥姉ちゃん‥‥」
 青い唇でそれだけ言った少年は黙って自分の服の襟を開く。
 彼の胸元には水に濡れたボロ雑巾、いや、ボロ雑巾のように見えた小さな、小さな猫が声も立てずに震えていたのだった。

「みんな! 暖炉の火を入れて! それから毛布とタオル、ありったけ! 早く!」
 悲鳴にも似た声に、子供達は全員、走るように動き出した。
 初夏のじめじめとした空気の中、暖炉の火が焚かれた部屋は勿論、苦しいほどに暑かったが誰一人、文句を言う者はいない。
 子猫の身体を拭き、柔らかいタオルと毛布でくるむ。暖炉の側に寄せ、冷え切った身体を温める。
 子供達の仕事を確かめるとシノンは項垂れる少年の髪をタオルで拭きながら
「大丈夫? 風邪を引かないようによく身体を温めるんだよ‥‥」
 笑顔を作って笑いかけた。
「俺のことなんかどうでもいいよ。こいつより、ずっと丈夫だもん」
 少年はずっと泣き通しだった。この子が死にかけているのは自分のせいだと。
「こいつ、朝、木の上で鳴いていたんだ。木にしがみついて‥‥さ。その時は仕事に遅れそうだったし、猫だから自分で降りるだろっておもっちゃったんだよ。でも、雨、酷くなってきて‥‥心配になって、仕事抜けて戻ってきたら、こいつ‥‥木の下に落ちてて‥‥」
 もう泣く力さえ無く微かに動く胸だけまだ、子猫が微かに呼吸していることを伝えていた。
「姉ちゃん‥‥、こいつ、大丈夫‥‥だよね。俺‥‥、俺‥‥」
 自分を見つめる目にシノンは正直、直ぐに大丈夫、と答える事はできなかった。
 子猫は木から落ちた時だろう。足の骨を折っていて、しかも長い間雨に打たれていたことで、体力を消耗していた。
 怪我は、勿論命の水で塞ぎ、直した。
 だが消耗しきった体力と、気力は魔法では回復させることができないものであるから‥‥。
「こいつ、親がいないみたいなんだ。捨てられて、一人で頑張ってきて、なのにこんなぼろぼろになって死んじゃうなんで、かわいそうだよ」
「それは‥‥」
「大丈夫だよ! 勿論!」
「えっ?」
 自分より先に発せられた言葉に、シノンは後ろを振り向く。前を見る。
 そこには孤児院の子供達全員が集まって、いた。
 ある者は拳を握り、ある者は真っ直ぐ少年を見つめて、ある者は暖かい飲み物を差し出して。
 その全ては一人の少年に、同じ思いで向けられていた。
「大丈夫だよ。絶対!」
「必ず助かるよ。心配しないで!」
「元気出して!」
 それぞれに励ます子供達の思いを静かに見つめてから、シノンも少年の肩に手を置き頷いた。
「大丈夫。この子の力を信じよう。きっと、思いは通じるから」
 シノンの微笑みに周囲の子供達も頷き、猫と少年の周りに輪を作った。
「私、ミルクあっためて来る!」
「僕、新しいタオル持ってくるよ」「私は薪!」
 てきぱきと動く年長の子達。
 小さな子供達も、自分達でできることを一生懸命考えている。
「よしっ! じゃあ、ぼくたちはみんなでおーえんしよう。がんばれって!」
「そうだね! ぼくらのこえがきこえたら、なんだろうって、きっとめをさますよ」
「ほら! 兄ちゃんも、シノンもいっしょに! がんばれ! がんばれ!」
 子供達に手を引かれたシノンは少年の側に座り、籠の中の猫に触れて思いを言葉に紡いだ。
「頑張れ、頑張って‥‥生きて‥‥」
 子供達の祈りにも似たその励ましは、昼を過ぎ、夕を越え、夜遅くまで途切れる事は無かった。

 その夜、猫を囲んで一つの部屋に集まった子供達に、シノンはそっと毛布をかけて回った。励まし疲れ、看病疲れて眠ってしまった子供達。
「‥‥ばれ、が‥‥ばれ‥‥」
 何人かは、夢の中でも応援を続けているようだ。
 シノンはふと、子供達の顔を見ながら、遠い、と言ってもそれほど前ではない出来事を思い出す。
 あれは神殿に入ったばかりの頃。
 神の心がわからず、自分が何がしたいのか、できるのかも解らず焦っていたあの頃を‥‥。
 もし、傷ついたうさぎと出会わなければ、自分はひょっとしたら今も解らなかったかもしれない思いをこの子達はちゃんと知っている。
 少し前、生きるのに精一杯だった頃にはきっと気づけなかった大事な事、
 自分以外のものの幸せを願う思い‥‥それが子供達にはちゃんと育っている。
「伝えられたのかな。あたし‥‥」
 夜で、周りは真っ暗。外では雨が続いている。
 けれど、この部屋にはまるで晴天の青空のような優しい風が吹いているようだった。
 一人ひとりの心から流れる、癒しの風‥‥。
 シノンは窓を開け、静かに目を閉じた。
「小さな命が、助かりますように。子供達の思いが届きますように‥‥」
 祈りと願いが、静かに風に乗り、雨音と反対に空に上っていった。

 そして翌朝
 ぷに? ぷにぷに。ぺろぺろ‥‥
 自分を襲ったなんとも形容しがたい感覚にシノンは目を覚ました。
「な、なに?」
 目の前には自分を覗き込む、たくさんの笑顔たちと、小さくて真っ黒な瞳。暖かい毛皮と‥‥桃色の
「‥‥にくきゅう? って何?」
 驚くシノンの声と
「ニャアアーー!!」
 高く元気な猫の声が目覚まし。
 身体を起こしたシノン。
 見回せば部屋の中には、子供達の安堵が、笑い声が部屋の中に溢れていた。
 明るい部屋、鮮やかな夏の日差しに負けないほどに輝いて‥‥。
「見てみて! シノン! 元気になったよ! 猫」
「あとであそぼう。ねーこさん?」
「ずるい! ぼくも」
「あたしも!」
 子供達は新しい仲間を囲み、楽しそうである。
 空は快晴。
 きっと、もう直ぐみんな、外へと飛び出していくだろう。
 今日は暑くなる。
 ‥‥けれど、彼女の心の中には
「ありがとう。姉ちゃん‥‥」
「にゃあ‥‥」
 まるで春の緑のような優しい風が部屋の中を吹き抜けていた。


☆ライターより
 久々にシノンさんと出会えて嬉しかったです。
 少し、切ないお話、というご希望だったので猫を生かすか死なせるか迷ったのですが、子供達の祈りとシノンさんの願いを、神様が聞いてくれたということでこうさせて頂きました。
 少しでもご期待に近い形にできたのならいいのですが‥‥。

 今回はありがとうございました。
 また、シノンさんと子供達に会える日を楽しみにしています。