<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


     Phantasia for phantoms

 ゆらゆらと魔法独特の神秘的な光を放つ明かりを従え、ライアは静寂に沈む地下道を一人、足早に歩を進めていた。周囲はすべて死に絶えたように静まり返っており、頭上にあるはずの劇場からも物音一つ聞こえてこない。つい先ほどオペラの公演中にシャンデリアが舞台に落ち、場内は騒然としていたはずなのに、この地下はまるで現実から切り離された別世界のようであった。
 そんなところにわざわざ彼女がやってきた理由はただ一つ、シャンデリアを落とし彼女の命を奪わんとした亡霊がこの地下にいると、身を呈して彼女を守った弟のレイジュから聞いたためである。シャンデリアが落ちたのは舞台演出であるかのように、とっさに座長がナレーションを入れたおかげで何とか大騒動にはならなかったが、いつ再び相手が仕掛けてくるとも判らず、また自分が狙われていると知って、ライアは自ら決着をつけるべきだと、舞台を抜け出しこの地下へやってきたのだった。身代わりに傷ついたレイジュの手当てを団員たちに任せ、身を切られるような思いで彼の傍を離れたのも、これ以上巻き込まないためである。
 かくして、ライアは弟が訪れたのと同じ地下牢へとたどり着き、そこで孤独に伏している一体の白骨を見つけると、もはや牢の役目を果たしていない鉄格子をくぐり、遺体の傍らにある日記を拾い上げて中を開いた。
 「……ひどいわ。」
 『君の弟もそう言ったよ。』
 闇をふるわせて響く、くぐもった声に、ライアは読んでいた日記から視線を外し、骨だけとなった屍の頭上にぼんやりとたたずむ男の姿をみとめた。彼がレイジュの言っていた幽霊だろう、その身体は実体がなく、背後のみじめな地下牢の壁がすけて見えている。
 『君が演じた舞台など、偽りの歴史がつくり上げた幻だ。」
 はっきりとしない表情にただ怒りの色だけを浮かべ、吐き捨てるように幽霊が言った。
 「兄は私欲からわたしを地下牢へ幽閉し、悪辣な嘘でかためた不名誉の仮面をかぶせ葬った。そしてわたしの想い人を奪い、聖人面で表舞台にずうずうしくも名を残したのだ。世界ではそれが事実として書物に記され、奇しくもオペラ座となったこの館で、亡霊のごとくよみがえる。これを許せると思うか? 華々しい英雄譚は甘美だが、醜い支配欲、不正、裏切り、そんなものでできた真実は、語り継ぐにはあまりに苦い。だがわたしはそれをすべて呑み込み、ここで果てたのだ。』
 「だから舞台を邪魔していたのね。」
 『そうだ。都合良く改ざんされ作りだされた幻がわたしを亡霊にした、ならば亡霊がその幻を消してくれよう。そして、今度こそ君を手に入れる。』
 彼はそう言うと、ライアの足元で無残に横たわっている自らの屍を操り人形のように持ち上げ、剣のごとく鋭くとがった指先を彼女に向けて振りおろした。
 「わたしはあなたの愛した歌姫ではないわ。」
 『そう、彼女はもういない。だが君が現れ、わたしはまた恋に落ちた。きっとめぐり会う運命だったのだ。君に出会い、この手にするためにわたしは、こんな姿になってまでここで時を費やしたのかもしれぬ。』
 憎悪の炎で目を光らせ悲痛な声音で叫ぶ幽霊の表情は、過去を見ているのか現在を見ているのか、ライアには判断できなかった。長い間囚われているうちに、彼の感情や理性もまたその姿のように過去と現在をただよう曖昧なものになってしまったかのようで、その心に残っているのは深く刻まれた恨みの念と叶わなかった想いへの執着だけであるかのようにすら思える。
 そして彼はライアを殺すことでその魂を、心を得ようと考えているらしかった。
 くり出される攻撃に容赦はなく、魔法の明かりがあるとはいえ鳥目のライアには視界が悪く不利な状況である。舞台衣装である舞踏会用のドレスのままであったことも災いして、ライアは攻撃をかわしきれずにいくつもの傷を負ってしまった。
 しかし、彼女をより苦しめたのは怪我の痛みなどではなく、この亡霊の焼けるような憎しみを身代わりに受けた弟のレイジュへの想い、そしてそれと同時に覚える幽霊と化した男への憐みであったと言えるだろう。
 「かわいそうな人。でも、弟を傷つけたことは許せないわ。」
 ライアはそう呟いて眉を寄せ意識を集中させると、身をひるがえして攻撃をよけた瞬間に、魔法の明かりの出力を最大限に高めた。薄暗かった地下室が地上の昼のような明かりに包まれ、ひるんだように亡霊が叫ぶ。それで気が散じたのだろうか、骸骨の動きが止まったのをライアは見逃さず、続けざまに魔法の炎を呼び出して朽ちた遺体へとぶつけた。途端にそれは激しい燐光を放ち、どす黒い煙と浄化の炎を巻き上げたかと思うと、次の瞬間には灰と化して崩れ落ちた。
 「あなたの無念も恨みも全部、燃やしてあげるわ。そんなもの、もういらないでしょう。あなたはもう長い間それを味わったもの。あなたに必要なものは世界が真実を知ること。私がそれを叶えるわ。偽物や、幻や、嘘ではない本物の舞台を、あなたと真実を知らない人々に見せてあげる。いずれ歴史は書き直され、いつか多くの人があなたのために涙を流すでしょう。そして真実の歴史を知る人たちの記憶に永遠に残るの。もちろん私の中にも――約束するわ。」
 ライアがそう言って微笑むと、亡霊は慟哭と共に宙へ舞い上がり、うって変わって静かな声でこう応えた。
 「ライア・ウィナード、わたしは君を信じてもいいのだろうか。その約束を信じても。」
 「私はあなたを裏切らないわ。」
 真っ直ぐに男の暗い目を見つめ返してライアが頷くと、彼は重々しく、安堵と疲労の入り混じった口調で、「君がそう言うなら。」と呟いた。
 「信じよう。君や君の弟を傷つけたわたしに、なおそのように笑いかけてくれる君の言葉こそを。彼にはすまないことをした。長い時の中で、君の弟が初めてわたしのために嘆いてくれたのに。劇団の者たちにも……迷惑をかけた。君にも。」
 「弟や、劇団の人たちのことは……そうね。でも、私のことはいいわ。だって、あなたの方がきっと苦しんだもの。だからこれくらいなら、ね。」
 ライアはあちらこちらを貫かれ血がにじんでいるのを一瞥し、小さく肩をすくめてそう答えた。
 「わたしは……本当に、君に会うためにここにいたのかもしれない。君に救われるために。」
 幽霊は満足げに言うと、その言葉が静寂の中へ消えるのと同じように、元の出力に戻った魔法の明かりが浮かぶ薄闇に溶けていった。

 一筋の光もない闇の中では、自分が目を開いているのか閉じているのか、上を向いているのか下を向いているのかも判らない。レイジュはたとえ月のない夜でも蝙蝠のように周囲の状況を探ることができたが、この黒一色の何もない世界ではどんな能力も術も役には立たなかった。すべての感覚が失われたかのように麻痺してしまい、生きているのか死んでいるのかさえ証明するすべが見いだせず、存在そのものが曖昧になってくる。闇が自分の身体の一部に感じられ、死が手足にしみ込んで来ているかのようにさえ思えた。何も見えず、何も聞こえない。時間の感覚も失われ、彼にはどれくらいの間その暗闇の中をさまよっているのかも判らなかった。
 徐々に見えない身体が重く感じられ、ふと自分の足があるだろうと思われる方に顔を向けると、もはや人の原型をとどめていない死者たちが群がっている。
 何も見えなかったはずの世界の中で、死人を視界にとらえた途端、彼は自分の置かれている状況に気がついた。足元でうごめいている死者たちが言葉にならない声をあげながら、レイジュを闇の中へ引きずり込もうと手や腕や足を引っ張っていたのである。彼らの朽ち果てた身体からは、言いようもない死臭がただよっていた。
 「ここは、死の世界か?」
 ただ暗黒ばかりが横たわる虚無の世界の本質に気付き、レイジュは引き込まれまいと、毅然とあらがった。すると、突然何の前触れもなく幽霊のようなぼんやりとした光が眼前に現れ、レイジュはあの地下にいた男だろうかと身構える。
 しかし、そこにいたのは暗い目をした死人ではなく、七年前に魔女によって魂を奪われた彼の両親であった。ライアと同じ白い翼を持ち、優しい笑顔を向ける父、レイジュと同じ蝙蝠の翼を広げ妖艶な表情を浮かべる母――そして二人の傍らには、レイジュのかつての恋人であった女性の姿も見える。彼らはレイジュの思い出の中にあるのと同じ姿で、しきりに名を呼び手招きをした。
 白金色の髪を揺らし、明るい笑顔を浮かべて袖を引く懐かしい少女の姿に、揺らぐ心を抑えながらレイジュは、まとわりつく死者たちを振り払い足早に闇の中を進む。だが彼らは振り返らずとも傍に寄りそうように付きまとい、視界に入り込んではレイジュの心と魂をさらっていこうと試みているようであった。
 「やめてくれ。僕を呼ばないでくれ。」
 目を閉じ、うめくように言うと、まるでそんな彼をたしなめるかのように「レイジュ。」と聞きなれた声が名前を呼んだ。
 「ライア……。」
 反射的に開いた目に、薔薇のように赤い髪と、天使の羽にも見える白鳥の翼を背負った姉がたたずみ、手を差し出している姿が映る。
 「もう疲れたでしょう。こっちへいらっしゃい。」
 記憶の中と寸分たがわぬ優しい笑顔で彼女は言い、レイジュはしばらく立ちすくんでいたが、やがてひどく憔悴した表情を浮かべて黙然と手を伸ばした。闇の中に浮かぶ幻と、彼の手が触れ合う――その瞬間、黒く塗りつぶされたガラスを粉々に打ち砕く歌声が響いた。色彩と温度と柔らかな風と甘い香り、そして美しい旋律をそなえた声がどこからともなく現れた白鳥たちと共に駆け抜け、闇色の死の世界を生者の世界にぬりかえる。死者たちは、白鳥が落としたかと思われる数えきれないほどの羽根となって消え、愛おしさと、いくばくかの痛みを伴った幻は、静かに思い出の中へと還っていった。
 「ライア。」
 再び姉の名前を呼んで、レイジュは目を開く。そこには幻でも幽霊でもない、本物の姉の姿があった。

 舞台で歌姫を演じていたライアの命を奪おうと亡霊がシャンデリアを落とし、それをかばって下敷きとなったレイジュが救いだされるなり運び込まれたのは、主に劇場の関係者たちが宿泊室として使用している部屋の一つである。舞台に一度幕が引かれ、役者たちがその場を繕うべく奮闘している間、彼は応急処置を受けていたが意識の戻る気配がなく、じきに地下から帰ったライアが魔力のこもった歌で彼を目覚めさせたのだった。魔法のエキスパートであり傷を癒すこともできる彼女は、自らレイジュの治療を試みたのである。
 だが、意識は戻ったものの砕けたシャンデリアのガラスがいくつも彼の身体を貫いており、内臓にも及ぶ重傷であったため、腕のいい医者を知っているという座長のはからいで聖都の病院へ運ばれることとなった。
 ところが――。
 「僕は町へ行くのは嫌だ。」
 あちらこちらに包帯を巻かれ、重傷者然というありさまで寝台に横たわっていながら、いかにも不服そうにレイジュがそれを拒んだのである。彼は、ライアは大げさだとか、聖都のような賑やかなところは好まないだとか、どこか子供じみた理由で散々渋って周りの者を困らせた。
 もっとも、ライアの「言うことを聞きなさい!」という一喝で、最終的には不承不承ながらも聖都行きに応じることとなったのだが。
 そのやりとりをはじめからおしまいまで見守っていた座長は、命がけで姉を救った、どこか大人びた青年が、ライアの前では年相応の若者らしさを見せたことをほほえましく思い、知らず口元をほころばせた。彼らの間には目に見えるもの以上に過酷な過去と、それを共に乗り切ってきたのだろうと思わせる強い絆があることがうかがい知れたのである。彼らが姉弟だと聞いてもさほど驚かなかったのは、印象の異なる容姿であっても、その同じ色の瞳の奥に――あの地下の亡霊も目の当たりにした強さと、優しさを見出したからかもしれなかった。

 それから数日後、ライアは地下牢にあった日記と、その内容を少しでも裏づけるような記述をまとめた資料をたずさえてオペラ座を訪れていた。ライアの住む蝙蝠の城には数多くの書物が保管されている。ライアはそこから、亡霊の残した無念の真実を証明するような事柄を、数日かけてごくわずかではあったが探し出し、まとめたのだ。
 それらをオペラ座の長と劇団員たちの前に広げ、彼女はこう提案した。
 「私たちで真実を語りましょう。このオペラ座で、本当の歴史を皆に見せるの。華々しい英雄譚の陰でたった一人の人が、どれほどの涙を流さなければいけなかったかを。現実には何が起こっていたのか、その真実を。」
 そう言ったライアの銀色の瞳にはゆるぎない意志が見てとれ、これに誰も反対することはなかった。先日の舞台は予想だにしていなかった事故を何とかごまかし、半ばむりやりに幕を閉じた状態であったため、釈然としない思いを抱えている者も少なくなかったのである。彼らはライアから真相を聞き、彼女の提案にそろって賛同した。
 そうして真実の歴史を元に新たな劇が作られ、演じられることとなり、劇場には、無念の内に地下牢で死んだ幽霊の鎮魂のための石碑が建てられることとなる。いずれこの劇場を訪れた者たちは、その碑を前に、地下で亡霊となった男の人生を嘆くだろう。そして、彼の暴いた苦い真実がひそやかに語り継がれていくのだ――永遠に。



     了