<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


黒玉の円舞曲 jet-waltz








 フードを取った二人の少年。アッシュとサックは、白山羊亭で神妙な面持ちで協力者となりうる冒険者に対して、小声で説明していた。
「オレ達が2人で行動している理由をまず話すべきか」
 杖に込められた封印の力を一番強く発現できるのは、2人同時にその力を使ったとき。
 けれど1人だけでその力を使えないわけではない。
 そのためには、強度を保つために極狭い範囲――白山羊亭より少し広い程度――しか封印することが出来ない。
 広さを保てば強度が落ち、強度を保てば狭くなる。単純な比例式だ。
 夢馬のことを熟知し、自分たちの魔力のキャパシティも見抜かれている。本当に良く出来たアーティファクトだ。さすが、世界最高位職人でもある弟が作り上げた杖。
 説明をしながら、アッシュとサックは思い出したようにふっと笑う。そして気を持ち直すように顔をあげた。
「封印の力には、夢馬を実体化する効果もある」
 そのため見つけた方がまず封印を展開し、夢馬――ナイトメアを足止めし、もう片方が封印された中で夢馬を消す。
「いや―――」
 夢馬は消せない。奴は記憶や夢が“この世”に存在する限り産まれ続ける。
 だから、増殖しないよう最終的には封印卵に閉じ込める。それでも出来るだけ力を弱めなれば封印は出来ない。
 なぜならば、永遠に封印卵に魔法力を割くことは出来ないからだ。
 封印卵を作った者がいなくなれば封印が解ける。そうならないように物理的な状態にする必要があった。
「実際に夢馬と対峙したら、俺達は封印の維持に徹する」
 前の時のように、センサー代わりの封印ではなく、完全なる封印を。
 本当は2人でやるつもりだった。
 けれどこの世界の冒険者は力を貸してくれると言った。
 2人で封印を展開できれば、強度もあり広さも確保できる。
 完全に実体化した夢馬は、世に溢れる魔術師とそう変わらない。
 ただ記憶や夢を喰われないよう、それだけに気をつければ―――…














 夢馬を封印できるという事実に、アレスディア・ヴォルフリートは歓喜に微かに顔を綻ばせた。
 実際、事実だけで成功しなければ解決ではないため、その顔はまだしばし固いものだったが、解決策が見つかっただけでも喜ばしいものに感じたのだ。
「……そうすれば、ソールに危害が及ぶことはなくなるか……」
 その後ろでボソっとそんな事を呟いたサクリファイスに、ざっと全員の視線が集まる。
「ああ、いや、何でもない」
 余りにも個人的事情過ぎて、サクリファイスはあたふたと両手を振って誤魔化す。
「ぜひ私も協力したい……ところだが、私は魔断を抜くとどうなるかわからない。敵陣の中で単独で抜くならともかく、敵味方が狭い範囲で入り乱れるところで抜くと危険だ」
「狭くは、ないと思う」
 考えるように口を開いたのはサックだった。
 1人ではなく、2人で封印を展開するのだから。
 とりあえず、夢馬の気配が一番強かった場所を中心として、例えるなら町内会の範囲は全て被えるはずだ。
「しかし…」
 それでも、必ず戦うと分かっている状況で魔断を抜いてしまったら、それを味方に向けてしまうかもしれない。
 尚も言いよどむサクリファイスに、サックは肩を竦めてふっと笑う。
「なら、あんたは外に追い出された人のケアとかサポに回ってくれるか」
「外?」
「ああ。オレたちは封印を展開したら、排除を行うつもりだ。行き成り外にはじき出されることになると思う。そういった人に状況の説明とかして欲しい」
 それなら大丈夫だろ? と、問われ、魔断を抜くのでないのならばと、了承する。
「分かった。一緒に戦えなくて済まない。外から、みんなの無事を祈っておくよ」
 それに、そういったことなら機動力があるサクリファイスは適任だ。
「……一つ聞きたいんだが、封印を展開中、あなた達はどうなる?」
 今まで沈黙を守って話を聞いていたキング=オセロットは、一番この作戦のミソになりうる封印の存続についての疑問を唇に乗せる。
「動物は……自分の、弱点、よく、知っている……夢馬、自分が、封印、される、こと……知っている……」
 その危険を感じていたのはオセロットだけではない。千獣もまた自分が出来ることを考えながら、封印のことを考えていた。
「そうだ。封印を展開中、あなた方はずっと動けないままなのだろうか? もし、動けないとなると危険ではないか?」
 引き継ぐように言葉を続けたアレスディアに、千獣もこくこくと頷く。
「大丈夫、だとは思う。この杖が出来たのは、夢馬が去った後だから」
 それはまでは、封印の術そのものを使える仲間が一緒に居た。それが今夢馬の“仮初の姿見”となってしまった少女――ネイだ。
「それでも……ナイトメアが自分への対抗策……実体化させ封印することに何の対策もとっていないとは、考え辛い。封印の中での戦いに勝利したとしても、消耗していれば封印される。となると、封印の中の者より外で封印を展開する者を狙った方が、良くないか?」
 そう、オセロットの危惧は、確かにその通りなのだ。
「封印は法力の術だ。俺たちは、“基本的に”法術は使えない。その理が覆ることは、この世界でも――ない」
 だから、夢馬も自分達が使う封印術は魔力を使用した元素のものであり、法力の封印とは思わないはずだ。
 それにそんな面白くないことは、あの享楽的な夢馬がするとは思えなかった。
「何か、手、打つと、思う……気を、つけて……」
 例え夢馬本人でなくても、彼らが探していた協力者が夢馬のために単独で行動する可能性だって充分ある。
 今だ協力者の身元が割れていない今、千獣の言葉が身に染みる。
「外で狙われることを心配してくれるなら、オレ達は中にいるけど?」
 正直封印の中にいようが外にいようが術者にとっては関係ない。
 不必要に警戒しなければいけないのならば、中にいたほうが確実に関係者だけとわかって都合がいいだろう。
 話しが中に居ることで決定しかけた瞬間、ぎゅっと引かれた袖に、アッシュは驚いて後ろを振り返った。
「! …あんたっ」
「こんにちは」
 不安そうに微笑んで顔を上げたのは、レイリア・ハモンド。
「一通りの話し、聞いたの」
「そっか。なら安全なところに早く避難しろよ。強制的にはじき出されるぞ」
 レイリアはそっと首を振り、鞄から黒曜石で出来た梟の彫像を取り出す。
 何それ? という視線と、この前の話の内容から、盛大に眉根を寄せているアッシュに、レイリアは微笑む。
「心配しないで大丈夫。夢馬に躍り出るなんてしないから」
 梟の彫像、それは、レイリアの聖獣装具である闇偵梟(スコープバード)。
 探査の力に富んだ聖獣装具だ。
(楽観的過ぎると思うわ)
 それは、双子に対して。
(私だって、夢馬に協力する立場なら、封印を展開するアッシュ達を潰すことを考えるもの)
 自分の力に絶対的自信を持っているというよりも、与えられた物――そう、杖に、絶対の信頼を寄せてしまっている2人。
「私も危ないゆえ、レイリア殿は外で待たれたほうが良いと思うのだが……」
 思いがけない場所からの反論にレイリアは視線を向ける。
 呟いたのはアレスディア。
「表舞台に立つ気はないの。コレを使って偵察と、情報の伝達。そういった役割って必要のはずよ」
 特に協力者が誰なのかまだ判明していない今は。
 レイリアはぎゅっとアッシュから受け取った指輪を握りしめる。
 白山羊亭が動いた際の報告書は読んだ。当人が否定しているため、推測の域を出ないから捕まえることも出来ない。証拠が無い。レイリアにはそう読み取れた。
「そうだな。その梟が飛ぶならば、彼女が身を潜めていても状況は理解できるだろう」
 どうしてもこの場に残りたいレイリアの意を汲み取り、オセロットが助け舟を出す。
「簡単な合図だけでも作っておくというのはどうだろうか」
 流石に緊急時に手紙をくくりつけるなどという細かな芸当をする暇があるとは思いがたい。
「うむ…。確かにそちらと何かしらの連絡は取り合ったほうがよいか」
 もし、もしだが、夢馬本人が挑んできた冒険者を無視して、封印を展開する2人に迫ってきた時、事前に報告を貰っていた方が動きやすい。
 しぶしぶという態ではあるが、納得してくれたアレスディアにレイリアはぱっと顔を輝かせる。
 何せ、アッシュに反対されただけだったら強行にも出れるが、他の人に言われてしまったら無理もできない。
「スコープバードの旋回の仕方で、状況を知らせるわ」
 この飛び方の時は、危険。これならば、異常なし。
「私…目、いいから、近く、じゃ、無くても、大丈、夫……」
 状況の真上で飛ばしても、視認できる。むしろその方がそこで何かあったと理解がしやすい。それでお願いできるかと千獣は問い、レイリアは了承と頷いた。
 双子にとって見れば、封印の維持に全魔力を割き余裕があれば、封印に圧力も上乗せできる。
 冒険者が夢馬の力を削いでくれるのならば、封印が完了した時に満身創痍ということもなくなるだろう。
「おーい?」
 終始無言のまま作戦が立てられていくのをただ無表情で聞いているステイルに、アッシュは目の前で手を振る。
「あ、ああ…何だ?」
 呆けたように虚空に向けていた瞳に光を宿し、ステイルはアッシュを見る。
「立ったまま寝るとかマジありえなくね?」
「寝ていたわけじゃない!」
 聞いた話によれば夢馬とは、大切な人との記憶や夢に呼応する存在。うっかりなどあっては堪らないが、真名を知られてしまったら、いかに戦闘能力が高くとも手も足も出なくなってしまう。
 性別も、恋愛事にも興味は無いが、万が一ということもある。そのことを考えていた。
 しかし、
「あの夢馬に逢えるのか……」
 その瞳の奥はどこか気色付いている。もし覗き込みでもしていたら、その瞳に“解析”の二文字が浮かんでいる様が見れたことだろう。















 それぞれの役割が決まり、封印を展開する中心へと移動し、サクリファイスだけは巻き込まれないよう空へと抜ける。
 その姿を確認し、アッシュとサックはシンメトリーに杖を構えた。
「「封印」」
 見た目は何も変わったようには見えないが、ピンと張り詰めた空気に何かしら変わったのだと分かる。
 そして、2人は杖を真横に構えなおす。
「「排除」」
 2人を中心として放たれた“波”は、問答無用に“夢馬と関係ない者”を封印の外へとはじき出す。
「これは……」
 封印の外で、サクリファイスはどう説明すべきかと唸る。
 ドーム上作られた封印の一番地面に付いた外側の壁に、強制排除された人々が山済みされていく。
 ルディアが近くに居る場合は何とかなっているようだが、そうでない部分では混乱が起き始めていた。



















 ――――キン
 人の気配が一切なくなったというだけで、空気は差して変わらない。
 閉じ込められるのと同じなのだから、多少決戦を前に空気が研ぎ澄まされるだとかそういったことを思ったのだが、いたって普通だった。
「あんた達間合いは大丈夫だな?」
 遠距離でも近距離でもいける双子は、出来るなら徐々に封印を狭めて行きたいと考えていた。
 力とは何であろうとも凝縮された方が、威力が増す。
「ああ、大丈夫だ」
 それだけを確かめ、双子とアレスディア、そしてレイリアは、四方向から襲撃されないよう出来るだけ封印の端へと移動する。
 とりあえず、集まったくれた面々で本格的な遠距離系魔法攻撃を行えるのはステイルのみ。しかし、速攻で間合いを詰めてしまえば、魔法系よりも直接攻撃の方が効く。
 魔法使いが接近戦に弱いという認識はここでも通用しそうだ。
 ステイルは夢馬の特徴を考え、魂ごと意識に封印をかける。こうすると本当に人形のようにプログラムされた動きしか出来ないが、夢馬に真名を知られるよりはましだ。
 惜しむらくは、プログラムにそった行動しか出来ないため、収集できるデータが70%程度にしかならないことか。
「さて…」
 オセロットはカツカツと靴音を響かせ、数歩中心地から離れる。そして、空を見上げた。
 この中に夢馬がいることは確かだが、封印の有効範囲は広い。
 向こうから現れるのを待つか、探すか―――

「不思議。“ネイ”はもう、居ないのに、ね?」

 夢馬の力を殺ぐためこの場に立つ3人の前に現れた、少女。
「そんなに楽しいか?」
 クスクス笑う少女に向けて、オセロットは低く問いかける。
「どうかしら?」
 可愛らしい仕草で微笑み、小首を傾げて見せた夢馬に、腹立たしさを感じてオセロットは奥歯にぐっと力を込める。
 奴から発せられるオーラの正体。それは、余裕。
「そこの彼は、ちょっと分からないけど……、あなた達は、“わたし”を見てる、わね?」
 まさに人を喰う様な嗤いを浮かべ、足音も立てずにふわりと数歩近付く。
「どんな、姿、してても……どんな、言葉、かけ、られても……関係、ない……」
 千獣はぎゅっと拳を握りしめ、鋭い眼光で夢馬を射抜く。
 だが当の夢馬は「あーこわい」とわざとらしく両手を挙げている。それを見つめ返す千獣の視線は冷ややかだ。
「どんな姿をしていても構わん」
 オセロットは衝撃吸収も兼ねた薄手の白い手袋の皺をきゅっきゅと伸ばす。
「猿芝居はもう、終わりだ」
 そして、駆け出した。
 サイボーグの身体を生かしたスタートダッシュで、オセロットと夢馬の間合いが詰まる。
「……すぐ、終わら、せる……」
 これ以上の被害が出ないように。なにより、
「あの人に、害が、及ばない、ように……」
 言葉と共に広げられる翼。風に乗った千獣は夢馬を挟み込むように後ろに回りこんだ。
 光をなくしたステイルの瞳が、まるでカメラのレンズのように辺りの様子を写し取り、自動的に情報を蓄積させていく。
「…ん?」
 駆けるオセロットの横を通り過ぎた閃光。
 光は、何よりも早い。
「光は、余り好きじゃない…わ」
 くすっと笑った夢馬の足元を中心に広がる方陣。
 ステイルも駆け出す。
 方陣から空に向かって、闇色の帯が昇っていった。



















 建物と建物の間から空に伸びる闇色の帯。
 その帯は空に消えることなく封印の壁にぶつかり、黒い火花を散らす。
「始まったか」
 奴が夢馬の特性が効かない際に使用する闇の力。
 元々属性を持っている存在ではないが、負の夢・願い・記憶から生まれることが多い夢馬にとって、闇は自らとも言える。
「完全に気が付いたな」
「ああ。ネイはここに…いないのにな」
 夢馬を実体化させる封印の力を持っていた少女。
 アッシュとサック、2人が取り戻したい相手。
「夢馬の協力者はこの封印の中にいるのであろうか」
 一同が一貫して術者を狙うだろうという結論に達したため、双子は目の届く範囲であり、関係の無いものを排除した封印内にいるが、いつ夢馬の気が変わり、双子をターゲットとして襲い掛かってくるか分からない。
 アレスディアは防御に特化するよりも機動力が高い方が融通が利くと、いつもの黒装だ。
 余りにも格好がいつもどおり過ぎて、その姿に爆発的な破壊力が備わっているとは一見するだけでは思い難い。
「居るかもしないし、居ないかもしれない」
「オレ達は、夢馬と関係ない者を追い出した。だから」
「「居る可能性は高い」」
 それに――…と、サックは小さく続けるが、首を振って唇を閉ざす。
 その小さな変化にアレスディアは首を傾げるが、当のサックが何事も無かったかのように次の行動に移ってしまい、聞くに聞けなくなってしまった。
「そろそろいいかしら」
 レイリアは抱きしめていた黒曜石の梟を起動させる。
 何度かその場で旋回すると、梟は空へと舞い上がり、今夢馬と対峙している場所へと飛んでいく。
「私は」
「隠れてろ」
「ふふ。言うと思った。でも、そうよね」
 アッシュの指輪によって夢馬に喰われる可能性はきっと大分低くなったのだろうとは思うが、魔術師として襲われてしまったら、自分には何も対抗する術がない。
 攻撃が届かない範囲であり、且この場が確認できる場に止まるのが得策か。
 梟の視界はレイリアと共有される。
 もし自分の近くに危険が迫っても、まず梟でそれを見ることが出来れば直ぐに逃げることも可能だ。
「アレスディアさんも3人も一度に護るのは大変でしょ。私は素直に隠れるから、安心して」
 そうは言ったものの、逆に言えば、隠れていると思わせておいて、自由に動くことも可能ということ。
「何かあったら、合図するわ」
「う…うむ」
 護る側から言えば、近くに居てくれたほうが護りやすい場合もある。
 それもあってかアレスディアの返答は些か曖昧なものとなった。
 レイリアが適当な民家に隠れるのを確認し、アッシュとサックは向かい合う。
「圧力をかけるか」
「いや、両方でやることはないだろ」
「確かにな。魔力が切れたら元も子もねぇし」
 だが、圧力をかけることに不都合はない。
「あんた達のおかげだな。2人だったら、圧力までに手が回らねぇ」
 気の弱そうな少しだけ眉を下げて笑ったアッシュに、アレスディアがふっと微笑む。
「我々も夢馬を倒したいと思っていたのだ。協力したほうがいい。そうだろう?」
「ああ」
 あれほどに、夢馬をどうにかできればいいと、後のことはどうでも良いと思っていたのに―――
「あんた達ってさ、結構ホントにお人好しだよな」
 楽しそうに笑いつつも、封印には夢馬の動きを制約する圧力が少しずつ加えられていっていた。



















 サクリファイスは封印を振り返る。
 中ではもう夢馬との戦いが起こっているだろうか、それとも、これだけ広く展開した封印だ。
 まだ夢馬と接触していない可能性もある。
「おい! どうなってんだ」
「そうよ。気が着いたらこんな所に…どうなってるの?」
 街の人々が封印との境目に立つサクリファイスに詰め寄る。
 もしここで素直に中で夢馬との戦闘が行われていると言ったら、白山羊亭に依頼を出した人たちが押し寄せ、また面倒なことになりかねない。
「この先で急を要する危険物が見つかったので、街の方に危険が及ばないよう手荒ではあるが退去願った。申し訳ない」
 そのためサクリファイスは素直に腰を折って、うろたえる人々に素直に頭を下げる。
「本当にごめんなさい。急なことで、回覧板も回せなくて」
 ルディアも助け舟を出すように頭を下げる。
「しょうがねぇな……」
 行こうと思っても行くことはできないが、その理由で納得し近付かないで居てくれたほうが都合がいい。
「多分、他の路地でも同じことになっていると思う」
「そうだね」
 今はルディアが応援に着てくれたが、やはり分担したほうがいいだろう。
 サクリファイスは翼を広げると、他の路地に群がり戻ろうとする人々に向けて、近付かないよう告げるために飛び上がった。



















 立ち上っていた闇が過ぎ去り、昏い微笑みで夢馬が動く。
 本当に、楽しそうだ。
 弄って、弱らせて、屠り、喰らう。
 まるでその一連の流れは覆らないとでも言うように。
 ステイルの放った閃光は、夢馬の闇のヴェールでかき消え、その痕跡さえもない。
「やーね。ここ……」
 オセロットの拳が空を切る。
「っち……」
 夢馬は助走もなにも無く跳躍し、数メートル分バク転で間合いを広げる。
 が、その着地地点には千獣の姿が。
 普段殆ど使うことの無い自身の聖獣装具、疾風刃(スライシングエア)を構えて立つ。
 その特性は、透明な刃で相手を切り裂き、使用者が念じることで鎖によって相手を捕らえる事ができるということ。
「ちょっとめんどくさい…わ」
 構築された黒い方陣が、夢馬の腕に絡み付いていく。
「触れる、だけなら、大丈夫、だよ、ね……」
 スライシングエアで捕まえて、絶対に倒す。
 あの人の姿で現れた夢馬を押しのけた時は、記憶を獲られるは無かった。だから、大丈夫。
 解き放たれたスライシングエアは透明になり、夢馬の行動を束縛する。
「…はっ」
 行動の全てをプログラムに切り替えたステイルの足は、2人に負けないほど速い。そもそもステイルとて人間ではない。退魔付与が効くかどうかは分からないが、両の手に短刀を構え、足を止めた夢馬に切りかかる。
「!!?」
 避けない。
 振り下ろした刃は、簡単に夢馬を切り裂く。
 が―――
「霧か……」
 ステイルの踏み込みに追いついたオセロットが眼を細める。
 先ほど構築された方陣は、自身を霧と化すためのものか。
「闇……霧……影……どれも、森では、普通に、あった……」
 だから、何も問題ない。
 スライシングエアは変わらず夢馬を追い、探す。
 気配。音。匂い。ただ、分かっても、霧と化す術をどうやって解くか。
「あぐっ!」
 今ここにいる3人とは違う叫び声。
 到底、今の夢馬の姿からは想像がつかないような悲鳴だ。
「!!?」
 3人から数歩程度離れた場所で倒れこむ夢馬。
 これは、他からの影響だ。だが、倒しやすくなったことは事実。
「逃が、さない……」
 目標を見つけたスライシングエアは、その鎖で夢馬の動きを封じる。
「…重たいったら、ないわね……」
 悪態をついてその場に倒れる夢馬の背に、オセロットは拳を振り下ろす。
 封印によって実体を得た夢馬の体から、ごりっと拳が食い込む音が鈍く響く。
 一瞬、痛い顔をしたのはステイルだった。
「封をしてるみたいだけど、あなたは“わたし”を見ていない、わね」
 痛みを感じていないような笑み。
「離れろ」
 膨大な魔力の流れがステイルの眼に映る。
 その声に反応してオセロットが数歩後ろに飛びのいた。
 足元から伸びる、影の槍。
「まったく、聞いてはいたが流石に厄介だな」
 これでは、影が出来ているところ全てが夢馬の攻撃手段へと変わってしまう。
 先を読んで避けたつもりでも、相手は影だ。足元にある限り変わらない。ギリギリを狙って避ける。
「つか、まって……!」
 千獣は翼を広げ、二人の手をつかむ。空に飛び上がることで伸びる影の槍の射程から外れようという作戦だ。
「見よう見まねだが」
 影を操りながら、昏い笑みを浮かべている夢馬を中心として広がる方陣。
「…なに?」
 それは、膨大な光を伴って辺りを白く染め上げた。



















 余りの光量に思わず眼を閉じる。
「な…何だ?」
 夢馬を攻撃するためのものなのだろうが、何の為にそれが放たれたのか封印を維持するために離れている双子と、万一のためにその側で控えるアレスディアには分からない。
 空を見上げたアレスディアは、飛び上がった千獣とその手に掴まるオセロットとステイルを見つける。そして、その前でレイリアのスコープバードがくるくると旋回した。
「どうやら、戦況は拮抗しているようだ」
 決定的なダメージを与えられていない。ということか、それとも夢馬が暴走でもしているのか。
 アッシュとサックは顔を見合わせる。
 大丈夫―――だとは、思うが。
「いつまでも協力者がいるとは限らねぇんだよな」
 もしかしたらもう、夢馬に喰われた後で、居もしない誰かを警戒している可能性もある。
「オレ達もそろそろ行くぞ」
 構えていた杖を解き、夢馬と3人が対峙している地点へ。
 充分な魔力は与えた。当分維持に徹しなくても壊れることは無いだろう。
「我々も夢馬の元へ向かうのだな」
「ああ」
 アレスディアの確認に、双子は頷く。
「最後の仕上げだからな、よろしく頼む」
「ごめんな。こればっかりはヘマできねぇから」
 夢馬を完全に封印する作業。
 少しずつ封印を狭め、最後は完全な石に封じ込める。
「夢馬の意識があなた方に向いたとしても、ご心配召されるな。私の全力を持って護ろう」
 戦闘の中心地に向けて駆け出す。
「っと、レイリア殿に知らせねば」
 アレスディアは空に飛ぶスコープバードに向けて顔を上げる。
 けれどそこには、つい先ほどまで飛んでいたはずのスコープバードは存在しなかった。





 時少し戻り、その頃、レイリアは隠れていた場所からこっそり移動し、あの診療所に来ていた。
 一番怪しいのはやはり街の人をたきつけた医者だ。
 隠れてじっとしてろというアッシュには悪いが、レイリアはどうしてもその証拠を手に入れ、彼――彼らに危険が及ぶ可能性を潰したかった。
 怪しい素振りや何かしらの証拠を見つけたら、直ぐにでもスコープバードで知らせ、自分は診療所を去る。
 戦えないことは分かっているため、自分に出来ることは情報収集のみ。
 そんなレイリアの瞳に、スコープバードからの情報が飛び込んだ。
「アッシュ達、移動するのね」
 きっと夢馬を封印する最終手段に入るのだろう。
 夢馬が封印されたら、協力者も力を失くすはず。証拠を見つけて突き出さなくても、夢馬という脅威は去るのだ。ならばもう協力者の証拠を探さなくてもいいだろうか?
 それでも、レイリアは足音を殺して、診療所の入り口に向かう。
 人はいないけれど、人様のお家に勝手に侵入しているのである。自然と抜き足差し足になっていた。
 レイリアの手が診療所のドアノブに伸びる。
「人の家に不法侵入とはいけない子ですね」
「っ…!!?」
 しまった!
 振り返る余裕もなく、レイリアの口元が塞がれる。
 鼻と口。空気を吸うための場所から流れ込む薬品の匂い。
 自分の護りが薄くなると分かっていて、指輪を貸してくれた彼の優しさに報いたいと思っていたのに!
(ごめ…な、さい……)
 レイリアの意識は混濁へと落ちていく。
「そういえば、彼女は面白いことを言っていましたね」
 名は、一番短い護り――だと。


















 光の中で苦痛にゆがめたその顔に、戦闘が始まってから殆ど表情を変えることの無かったステイルが微かに唇を噛んだ。
 夢馬だと、情報から分かっていても、自分が苦しめている人の姿は、紛れも無く過去の恩人。
 動器精霊として目覚めた自分を、モノではなく人として接してくれた、和装の青年。
 必要以上に気負いすぎた力は、ステイルの魔力を何時もよりも多く消費していく。
「何が見えているか知らないが、無理はするな」
 何も無い状態で夢馬の姿を見れば、その姿は必ずといっていいほど心に住む誰かを映す。
 オセロットは夢馬を見据えたまま小さく告げた。
「……問題ない」
 そう、ステイルの表面上の顔は、何ら変化は無い。
 光の方陣は維持させたまま威力を弱める。このままでは、光量が多すぎて今度はこちらが近づくことが出来ないからだ。
 この手の敵のために考えたステイルのプログラムは、威力は高くなるが、少々大振りで戦略性に低いのが難点だ。
 近づける光量に戻り、地面に降り立ったオセロットはそのまま夢馬に走りこんだ。
 繰り出される拳。軽く浮いたところに回し蹴りを入れる。
 オセロットの口から空気が抜ける小さな音が零れた。

 ドガゴ!!

 崩れ去り、凹む民家の壁の前で倒れる夢馬。
 服装は自動で戻るのか、そもそも服自体、布まで含めて擬態なのか、一糸の乱れも無い。
 効いているかどうかは正直分からなかったが、軽快な動きをしていても、夢馬が夢馬としての力を封印されているこの場所で、体術だけを見れば人並み以下だった。
「楽しくない……」
 小さく、消え入るように呟かれた言葉に、ん? と眉根を寄せる。
「わたし、は、楽しいことが、好き、なのよ!」
 夢馬の足元から広がっていく影。
 いや、違う。
 これは、闇だ。一瞬にして広がった闇。
「梟……落ちた」
 闇の中の静寂は、そんな千獣の一言によって崩れた。
「レイリアに、何かあったのか?」
 聖獣装具が力をなくしたということは、その持ち主であるレイリアに何かあったという証拠。
「はは…あははははははは!」
 漆黒の瞳は完全に狂い、その髪だけが乱れている。
「笑う、な……!」
 千獣の拳が鳩尾に入ろうとも、夢馬は衝撃で身を折り曲げながらも、高らかに笑い続ける。
「いいの、もう!」
 ステイルは舌打ちした。
 この場を覆いつくす闇を吹き飛ばせるほどの光の方陣を組むことができない。
 内在的に持っている魔力値の差が大きすぎる。
 それでも何もしないままいる訳にも、この暗がりのままでは視界もおぼつかないと、明かり代わりに術で炎を灯らせる。
「協力者の存在、か―――」
 オセロットは狂ったように笑う夢馬を睨みつけ、言葉を吐き出す。
 大丈夫と、言い切れるだろうか。
 そう、夢馬だってこのまま自分達を相手にする必要もなければ、双子を直接狙って封印を解く必要も無いのだ。
 取引という名の材料さえ、そろえる事ができてしまうならば。
 自分達は、今ここで、どれだけ弱っていようとも、夢馬の元を離れるわけにはいかない。
 そして、夢魔を向かわせてもいけない。
 気にはなる。だが、信じるしかなかった。



















 スコープバードの存在は、レイリア自身の状態さえも表す。
「待ってくれ、アッシュ殿、サック殿!」
 夢馬がいるであろう場所に歩き始めていた双子を、アレスディアは急いで呼び止める。
 足を止めて振り返った双子の眼に映ったのは、驚きに眼を見開くアレスディアの顔。

「どちらへ行かれるのですか?」

 そして、背後から声がかかった。
「医者殿……」
 声に振り返った双子は、瞳を鋭くしてその先に立つ医者を見る。
「お前……“混ざってるぞ”」
 闇に染まり、気配だけは夢馬に支配されたこの空間に。
「何故、何て聞くかよ」
 目の前に立つ医者は、廃人になってしまった人たちを看ていた診療所の医者だ。
 双子は杖を構える。元々封印を一度構築してしまえば、中で魔術を使うことは可能なのだ。ただ、魔力が切れた後に、封印に何かあると補修できなくなってしまうだけで。
 今は充分に魔力を注ぎこみ、強度も申し分ない。
 多少魔術を使っても支障はでないだろう。
「止めてくださいよ。私はただの医者ですよ?」
「しかし、この場に居られる事実は変わらぬよ」
 信じたくない気持ちもあったが、怪しいことは確かだったのだ。
 アレスディアは双子の横を通り過ぎ、医者と双子の間に割って入る。
「あなたまで…。怖いことはなしですよ。私はただ、私の家に無断でいらっしゃった小さな女の子の引取りをお願いしたい。それだけです」
 薄らと口元にだけ貼り付けた笑みを浮かべ、降参のポーズでそう告げる医者。
「…まさか、レイリア殿!?」
 安全な場所で身を隠しているはずのレイリア。
 やはり、護るべき存在が増えても、そばに居てもらうべきだったと、アレスディアは槍を持っていない方の手をぐっと握りしめる。
「くそっ」
「アッシュ殿!!」
 場所は分かっている。アレスディアの制止の声も聞かず、アッシュはその場から駆け出した。



















「何が起こっているんだ!?」
 封印で囲まれた街中が漆黒に染まっていく。
 家に帰れず封印の壁に止まっていた人々も、闇に覆われていく街の姿に驚愕し、口を開けたまま止まっていた。
 どれだけ封印に押しかけようとも、その先に進むことは出来ない。
 何とか将棋倒しになりそうな人々を宥め、こうして今まで追いついていられたけれど……
「も…もうダメだ! エルザードは、俺の家はどうなっちまうんだ!」
 今まで暴動も混乱も起こっていなかったことが不思議だったが、それはただ先に進むことが出来なかったからだということが良く分かった。
 異変を目の辺りにしてしまった一般人の心は脆い。
「心配ない!」
 サクリファイスは取り乱した男を宥め、封印に視線を送る。
 蠢くでもない。ただ絵の具をぶちまけたかのような黒。
 その闇に気を取られすぎて、誰も気が着いていないが、少しずつ、封印の壁が狭まっている。
「私にはもはや祈ることしかできない…皆、無事でいてくれ」
 この闇が晴れたら、全てが終わっている。その結末を、ただ、祈った。



















 ゆらり、ゆらり、と倒れない絶妙なバランスで歩きながら、夢馬はゆっくりと3人に近付いてきた。
「わたし、は、生きる…わ」
 わたしのまま。
 ぶわりと、夢馬の周りの空間が膨張していく。違う。影が盛り上がってきているのだ。
 闇の世界ということは、全てが影で出来ているということ。
「きらい、よ。喰べる、価値もない、わ」
 影を打ち消すものもなく、空も影では、今度こそ逃げ場が無い。
 すっと瞳が持つ雰囲気が変わった。
「何っ!」
 その変化に気付き、オセロットが身構えた時には、足元から伸びた影は完全にその動きを封じていた。
「…っ!」
 同じように地に立つステイルも影に絡め捕らえる。
 唯一、翼によって地から浮いていた千獣だけが、その難を逃れた。
 けれど、伸びる影に常に追い掛け回されることにはなったが。
「光は、好き。でも、嫌い」
 スライシングエアで動きを止めても、影を動かす意思を止めなければ意味が無い。
 千獣は影に追われながら、夢馬に飛び込む。
 振り下ろした爪は、夢馬の腕を切り落とす。夢馬の顔が激昂に歪んだ。
 影の追跡と拘束が解かれる。
「痛い……? あなた、が、喰った、人、の…大事、な、人……もっと、痛い」
 切り落とされた腕は霧散し、再構成されていく。
 身体を必要以上に傷付けられた痛みなのか、痛覚があるのかは分からないが、効いているようだ。
「好き、なんだろ?」
 嫌いとも言っていた言葉は無視して、ステイルは光弾を飛ばす。
 闇を覆すことが出来なくてもいい。ただ、夢馬だけを狙って。
 再生されたばかりの腕で顔を覆い、夢馬はステイルの光弾を受け、弾き飛ばされる。
「そうか」
 どうせ再構成されるならば、バラバラにしてしまってもいいわけだ。
 実体があるとは言っていたが、肉体があるとは言っていなかったのだし。
 オセロットはワイヤーを取り出し、夢馬の周りに張り巡らせる。
 起き上がり、一歩踏み出した夢馬は、そのまま動きを止めた。
 コロリと、転がってきたのは、驚いた表情の夢馬の頭。
 余りの光景にステイルは眉根を寄せる。だが、細切れにされたパーツは、間を置かず霧散し、一箇所に集まると夢馬の姿をその場に現した。
「はぁ…はぁ……」
 肩と胸で浅い息を繰り返す。
「息がだいぶ上がっているようだな」
 魔力の使いすぎか、そうとう弱ってきているのか。
 確実に夢馬の力を削ぐことは出来ているようだ。
「大丈夫……かな?」
 空を見上げても、スコープバードは落ちたまま飛び上がってこない。
 双子たちのことが気になる。何か大事になっていなければいいけれど。
 ソレばかりが頭の中を駆け抜けていった。



















 場所は分かっている。
一際奴の気配が強かった場所だ。
 ただあの時は、奴に喰われた人の気配が一所に集まっているだけだと思っていた。
 感じられても、特定させられない自分に歯噛みする。
――――いや
 感じられるだけでも本当は上等なのに。
「おい! 居るんだろ!!」
 アッシュは診療所の扉を乱暴に開け放ち、足音が響くことさえも無視して中へと踏み入る。
 返事は無い。
 どこかに喋れないように拘束されているか、気絶しているか。
 閉まっている扉、開け放たれている扉、何一つ見落とさないようにアッシュは眼を凝らす。
 机の隙間に脚が見えた。
「おい! 起きろ!!」
 床に転がるレイリアの肩を揺さぶり、アッシュは声をかける。
「何で起きねぇんだよ! おいっ…」
 その声に段々と悲痛なものが混じっていく。
 痛みによって意識の覚醒を促そうと頬をペチペチ叩いたり、また首がガクガクと振れるほどに揺さぶってみたり。
「嘘だって言ってくれよ……なあ!」
 何をしても眼を覚まさないレイリアを見て、自分の無力さに泣きたい気分だった。自分はまた護れないのだ。
 アッシュは意識の無いレイリアの身体を抱きしめる。
「ほんと、頼むから……眼、覚ましてくれよ」

 ―――――    。







 ただ悠然と微笑む医者の姿は、何を考えているのかさっぱり分からない。
 たとえ、レイリアに何かがあったとしても、夢馬は今、オセロットや千獣、ステイルと交戦中のはず。だから、最悪の事態だけは回避できているはずだ。
 あの医者が、自分達では知りえない何かの法を持っていない限り。
「我らも追いかけよう。引き離すのが目的かもしれぬ」
 アレスディアは一目散に駆けて行ったアッシュの行く先に一度視線を向け、同意を求めるよう振り返る。
「あ…あぁ」
 厳しい顔つきで医者を見つめていたサックも、ぎりっと奥歯を噛み締め、アレスディア――アッシュを追いかけた。
「何なんだ…あいつ」
 レイリアを手中に収めたのならば、夢馬を逃がすよう取引だって出来たはずなのに。目的は何だ? そもそも、あの医者は何の為に夢馬に手を貸している? 読めない。分からない。
 医者の言い分を信じ、疑いを持たなかった自分が浅はかだったと、アレスディアはアッシュの身を案じて走る。
「…ぁっ!!?」
 小さく短い悲鳴を上げて、サックの体が傾ぐ。
「サック殿!?」
 先を行っていたアレスディアは、その場に片膝を着いたサックに駆け寄る。
「大丈夫…だ。くそっ! 急ぐぞ!」
 アレスディアの手を押しのけるように立ち上がり、サックは走り出す。
 何かが先ほどまでと違っている。
 アレスディアは頷き、また走りだした。







 名を、呼ばれた気がした。
 深い意識の底から、眼を開けなさいという声が聞こえる。
 レイリアは、その声に従って、ゆっくりと瞳を開けた。
 目覚めて、最初に見たものは、ずるり。と、肩から落ちていく銀の頭。
「アッシュ!?」
「よ……かっ…た………」
 目覚めたレイリアの姿に、アッシュは薄らと微笑を浮かべる。
 けれど何故アッシュが倒れているのか分からない。
「ねえ、どうしたの? 何があったの!?」
 床に身を預けているアッシュは、全身から力が抜けてしまったかのようにぐったりとして、薄く眼を開けているが、何処を見ているか分からない。
「無事か!」
「レイリア殿! アッシュ殿!」
 開け放たれた扉から診療所に走りこんだアレスディアとサックは、中に居るだろうレイリアとアッシュに呼びかける。
 レイリアはその声に立ち上がり、廊下まで走り出た。
「ここよ!」
 場所を確認すると、レイリアを横切りサックは部屋へと入る。
「……やっぱりか」
 床に倒れ微動だにしないアッシュに、サックは小さく呟くとその傍らに腰を落とす。
「…わ……りぃ」
 弱々しい謝罪に、サックは泣きそうに薄く微笑んで、ぐっと唇を噛むと、アッシュの杖を持ち上げる。そして、心配そうな面持ちで部屋の入り口に立つアレスディアとレイリアに振り返った。
「あんた。こいつを抱えてくれ。走るぞ」
「承知した」
 何処へ。とは聞かない。ただ、ここにいてはいけないということだけ理解した。




















 暫くして、サクリファイスは封印が少しずつ狭まってきていることに気が着いた。
 もし、このまま封印が夢馬の周りまで狭まってしまったら、今この場で自宅を案じている人々がなだれ込んでいくのではないか、そんな気がしてならなかった。
 一応の呼びかけで見えない壁である封印に近付く人は少なくなったが、誰も居ないわけではない。1人気が着いたら連鎖反応が起こることは容易に想像できる。
 サクリファイスはどうしたものかと頭をひねった。
 簡単なことは、通路に全て通行禁止の札なり、看板なりを置いてしまうことだが、今のところそれで問題はなくても、狭まっていったら穴が沢山出来てしまう。
 しかし、やらないよりはいいかもしれない。
「ルディア! 提案があるのだが」
「何?」
 少しずつ狭まっている封印を説明し、起こりうる可能性を相談する。
「そうね。出来るなら、完全に終わるまで、街の人には近付いて欲しくないかも」
 同意してくれたルディアに、サクリファイスはほっと胸をなでおろす。
「エスメラルダにも協力をお願いしてみようか」
「それはいい考えね!」
 白山羊には白山羊の役目があるように、黒山羊には黒山羊の役目がある。協力できれば、カバーしきれていない人々や客層まで全てまかなえるかもしれない。
 それに、エスメラルダの頼みだったら、理由を聞かずに立ち入り禁止の見張りを快諾してくれる人も、いっぱいいそうである。
 サクリファイスは早速黒山羊亭に飛び、エスメラルダに協力を要請した。



















 黒く染まった空がやけに近くなったように感じる。
 もしかしたら封印が狭まってきているのかもしれない。
 自分達の周りにある封印が無くなったら、街の人々はこの場に押し寄せてはこないだろうか。それだけが、少々心配だ。
「皆!」
 狭まる封印を背後に連れながら、レイリアとサック、そしてアッシュを抱えたアレスディアが走りこむ。
「無事、だったん、だね……良かった」
 梟が落ちたのを見てしまったから、千獣はずっと心配していた。
「私は大丈夫よ。でも…」
 レイリアは視線をアッシュに向ける。
「ふふ……あの人、そういうこと、ね」
 少しずつ身体が透け始めている夢馬が、心底楽しそうに小さく呟く。
 その呟きにサックが小さく舌打ちした。
 夢馬の前に躍り出たサックが持つ二つの杖に、ステイルは瞳を大きくする。
「お前、サックは、大丈夫なのか?」
 以前アッシュは契約者以外が杖を持った場合、抵抗にあうと聞いていた。だから、双子とはいえ、サックがアッシュの杖を持っていることに疑問を覚えた。
「あいつの名(メイ)の護りが解けた」
 彼らは一度として誰かの名を――双子の片割れの名でさえも――呼んだことが無い。ただ1人の名を除いて。
「いや、そういうことじゃなくて」
「オレたちは、2人で1人だ。問題ない」
 それでもサックの顔には疲労の色が濃く出ている。
 サックは紅玉の杖を地面に突き刺し、蒼玉の杖を真横に構える。
「詳しい事は、終わってから話してやる」
 少しずつ狭まっていた封印が、急速に効果範囲を狭めていく。
 何せ透明な壁のようなものである。それが起こっているのかどうかという事実は、見た目には分からない。
「ん…?」
 千獣は、突然の耳鳴りに眉根を寄せる。
 周りを見回してみれば、同じように顔をしかめ頭を抱えている仲間たち。
「封印なんて、されて、たまるもんですか!」
 最後の抵抗とばかりに、夢馬の足元からサックに向けて影が伸びる。
 だが、その影はサックに届く前に跳ね返った。
「え…? 嘘。いや……嫌よ!」
 四角く透明な狭い箱に閉じ込められたような状態の夢馬を見据え、オセロットは言葉を零す。
「これで、最期だな」
 見た目がなまじ良いだけに、多少良心の呵責が疼いたが、この少女にしか見えない相手が、夢馬なのだと思うと躊躇いは一気に消えた。
 だが、接近戦に持ち込み攻撃したさいの、手ごたえの無さはある種の記憶を呼び起こす。
 近くも無く、かといって、さして遠くも無い。あの、コートをダメにした時の、記憶を。
 アレスディアは抱えていたアッシュはその場に下ろす。
 抱えているままでは、咄嗟の対処も出来ないと理由もあったが、それ以上にレイリアの手がアッシュに届かなかったから。
「アッシュ。ねえ、何があったの? 私のせい?」
 レイリアはぎゅっとアッシュの手を握りしめる。
 どうしてこんなにも冷たいの?
「あんたの…せいじゃ……ねぇよ。俺が、自分で……解いたんだ」
 消え入りそうな声で言葉を返したアッシュは、その顔に弱々しくも笑みを浮かべる。
 夢馬は、圧迫する封印の壁に、身を小さくして瞳を震わせた。一気に封印が行われないのは、サック1人で行っているということと、中に居る夢馬の力がまだ残っているせいだろうか。
 うろたえる姿が、何処にでも居る少女と変わらない様に、千獣は冷ややかな目線を送る。
 ふと、千獣の耳に届いた音。
 それは、大きな翼の羽ばたき。
「サクリ…ファイス……?」
 空からほっと息を吐いて一同を見下ろす、黒い天使。
 サクリファイスがこの場に居るということは、封印はもう街を覆っていないのだろう。

 カラン―――……

 透明な音を響かせ、地面に落ちた杖。
「サック!」
 ステイルは、その場に蹲り、荒い息を着くサックに駆け寄る。
「大丈夫、だ。終わった」
 かなり辛そうではあったが、どこかしてやったりとでも言うような微笑で、サックは夢馬が蹲っていた場所を見る。
 残されていたのは、真っ黒の板。
 見た目は、まるで研磨されガラスの光沢を得た黒玉。
 サックはふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるように黒玉の板を持ち上げ、硬度を確かめる。
「やった……ネ…ィ……」
 安心したような、嬉しそうな微笑を口元にだけ浮かべ、サックは力尽き、意識を手放した。
































 気が着けば、知らないベッドの上だった。
 傍らに杖は無い。多分、杖から拒絶と抵抗にあい、誰も持てなかったのだろう。
「気分はどう?」
 声の方に眼を向けてみても、極度の疲労のせいか、視界がぼやけ、状況が飲み込めない。
「お前達には、休息が必要だ。今はしっかり休め」
 本当は、いろいろ聞きたいことがあるだろうと思う。
「何か、食べられるか?」
 ショリショリとリンゴの皮をむく音と共に問いかけられるが、首を振る。今は食べるよりも眠りたい。
「これが、あの夢馬とはな……」
 そうだ。夢馬を封じて生じた黒玉の板はちゃんと手元にあるだろうか。
「犠牲となった方々の記憶や夢が戻れば良いのだが…」
 このままの状態じゃ、記憶が戻ることは無い。この黒玉の板を加工しなければ。
「早く、元気、に、なって……ね」
 ああ、本当に、この世界の人たちは。
「………ありがとう」
 そのまま、また、意識は眠りの淵へ落ちていった。


































 サックの場合は魔力の使いすぎによる疲労だったため、身体を休めしっかりと睡眠をとれば体調は直ぐに元に戻った。
 けれど、アッシュは名の護りが解けた状態のため、どれだけ休もうとも体調は元に戻らない。
 杖はまだあの場所に置いたままだ。どうせ誰も触れない。心配することもないだろう。
「かけ直すにも、あいつ…いないもんな」
 ベッドサイドの椅子に腰掛け、サックはふっと息を吐き呟く。
 名とは即ち命。
 全く逆の力を扱うことで削られてしまう“命”を、“名”とかけて護る。
 封印は本来、法力によってもたらされる術だ。その術を宿した杖は、自分達の魔力を法力に変換して封印を展開していたのだろう。

 コンコン。

 控えめにノックされた扉に、ゆっくりと視線を上げる。
 承諾も得ずに開けられた扉の先に立っていたのは、あの医者。
「お前っ!」
 杖は無くても魔術は使える。
「彼女から貰った記憶の中に、面白いものがあるので、お聞かせしようと思いまして」

 彼女――夢馬がこの世界に落ちた時、1人ではなかった。
 その時狙っていた相手を庇った青年は、己が持つ記憶の殆ど全てと引き換えに、種族が持つ力を――夢馬と同じように――使い、その欠片を吸収した。

 サックはゆっくりと首を振る。聞きたくない。聞いちゃいけない。

「青年の名は―――」





































☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆


【3654】
ステイル(20歳・無性)
マテリアル・クリエイター

【2470】
サクリファイス(22歳・女性)
狂騎士

【2872】
キング=オセロット(23歳・女性)
コマンドー

【3087】
千獣――センジュ(17歳・女性)
異界職【獣使い】

【2919】
アレスディア・ヴォルフリート(18歳・女性)
ルーンアームナイト

【3132】
レイリア・ハモンド(12歳・女性)
魔石錬師


☆――――――――――ライター通信――――――――――☆


 黒玉の円舞曲 jet-waltzにご参加ありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
 文字数とかもう考えたくないくらい今回長いです。流石に長すぎる! と思ったので、登場人物ごとに納品物を編集しようかと思いましたが、話が分からなくなるので全員全て載せました。
 一応この段階で夢馬の方の封印は終わりました。疑問や解けていない謎、新しい謎もありますが、申し訳ありません。また次の機会に消化させてください。
 明確に医者に触れていたということと、他の方々よりも双子から夢馬に関わる立場だったので、事を起こしました。レイリア様が悪いというわけではなく、好感度というものがあったとしたら、という結果が出たような状況です。
 それではまた、レイリア様に出会えることを祈って……