<東京怪談ノベル(シングル)>
葡萄酒の愉しみ
「あんまりいい噂を、聞かないのよね」
エスメラルダが艶っぽいため息をついた。カウンター席に座っている白神・空は、果実酒をゆっくり飲み干してから、彼女に尋ねる。
「あたしに、何を頼みたいのかしら」
「話が早くて助かるわ。じつはね……」
最近、とあるカジノがオープンしたという。始めたばかりにしてはずいぶんと羽振りがよく、派手な商売をしているらしい。何か裏があるには違いないが、自分が行くと警戒されるだろう。
「それであたしってわけ? 面倒ごとにはあんまり関わりたくないな」
基本的に、その日その時が楽しければよいという考えの持ち主である。やる気のない返事を返すと、エスメラルダは深刻そうにうなずいて、
「そうよね……。でももちろん、カジノにはバニーガールもいるのよねぇ……」
彼女は空の弱点を知り尽くしていた。
●
そのカジノは、メインの通りをひとつ外れたところにあった。目立たない場所の割りに、中は盛況だ。
「いらっしゃいませ」
ドアを支えるボーイの声を尻目に、中に目を配らせる。薄暗いフロアは、しかし熱気にあふれていた。
「お飲み物はいかがですか?」
「あら、ありがと」
女の子の声がすると反射的に笑顔になる。振り返って、空はおや、と思う。声が思ったより少し低いの位置から聞こえていた。かわいらしいバニーガールだ。
グラスを受け取り、適当なテーブルを探しす。特に意味はないが、ポーカーのテーブルに座ることにした。そこに行くと何か面白いことがありそうな気がしたのだ。
手堅い勝負を続けながら、空は回りに気を配っていた。客はたまにバニーガールたちに声をかける。飲み物の注文以外の用件のようだ。そして、ある程度勝負の区切りがついたときに席を立ち、フロアの奥へ消える。なるほど、そういうことか。先ほどからずっと、可愛い子が多いとは思っていたが、そちらが専門というわけだ。
「グラスを交換してもらえる?」
通りかかったバニーガールに声をかける。
「は、はい! かしこまりました!」
元気よく返事をして、空の差し出したグラスを受け取る。代わりに、銀のトレーに乗った新しいグラスを渡そうとするが、
「あっ……」
手元が狂い、空が受け取る前に手を離してしまった。受け止めなくては、と思うまもなく床に落ち砕ける。破片が四方へきらきらと飛び散った。
「大丈夫? 怪我は……」
空が少女の心配をしようとするが、少女はものすごい速さで後ろへ飛び退り深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! すぐにお拭きいたします……っ!」
心底おびえている。頭を上げてくれる気配がない。恐怖ゆえか、体が小刻みに震えている。こんな反応は空としても不本意である。
「気にしないで。でも、もし何か私に償いたいっていうなら」
ふわりと体をかがめ、視線を合わせる。おびえに染まっていたライトブラウンの瞳がきょとんと丸くなった。
●
「空、様……」
少女の声が甘くとろける。真っ白なシーツの間に二人の体が寄り添っている。
空はその少女をカジノの景品代わりに一晩買ったのだ。
「ふふっ」
こちらを見上げるあどけない瞳に、空の口元にも笑みが浮かぶ。シーツの下で、こっそりと手を這わせ、少女に触れた。
「きゃっ……びっくりしたぁ」
ずいぶんうぶな反応を見せるものだ。まるで、このような体験がはじめてかのように身をよじり、恥ずかしがり、いちいち敏感に反応する――。
「あなた……どうしてここに来たの?」
ふと浮かんだ疑問だった。しかし、少女の顔は一瞬にして暗く沈む。
「……その、つれてこられたんです」
少女の家は貧しかったそうだ。その日食べるものにも困るほどなのに、彼女には兄弟が5人もいた。みなひもじい思いをしていた。そんなある日のことだった。両親が、少女を食事に連れて行ってくれた。めったに食べられないおなか一杯のご馳走を食べたあとだった。強面の男たちに引き渡されたのは。
「それで、ここにいるってわけ」
少女に確かめるようにたずねながら、心に暗い炎がゆれるのを感じた。、ロウソク代だった炎は見る見るうちにたいまつに、家ひとつを飲み込むほどの大きさにと膨らんでいく。
「もしかして、ほかの子たちも同じように連れてこられた?」
「はい……」
すっかりしおれてしまった少女に気づいて、空はそっと頭をなでた。髪をすくい、後ろへと流してやる。
「……あの、ごめんなさい、私が今言ったこと、忘れてください! お客様には話しちゃいけないって、言われてたのに……」
しゃくりあげて泣きべそをかく少女に、
「いいのよ。誰にいも言わない。というか――もう、おしまいだから」
空はにっこりと笑った。その瞳の奥に、壮絶な炎をくゆらせながら。
●
「空、あなた何をしたのかしら」
「さぁ。なんのこと?」
いつものように、空はエスメラルダの店へとやってきていた。
「ずいぶんと噂ばかり聞こえてくるわ。例のカジノが何者かによって完膚なきまでに破壊されて、経営陣はずいぶん手痛くやられていて、なぜか銀色にトラウマを持つ。従業員とは名ばかりの、身売り同然の少女たちは、これまた何者かによって保護施設の前へと運ばれたとか」
空は肩をすくめてグラスを傾けた。
「そういえば、ここ数日姿を見せなかったけれど、どこかへ行っていたの?」
「さぁね。……小さなカジノがどうなろうと、あたしには関係ないわ」
カジノ自体が悪いものだとは断じて思わない。けれど、少女たちがいるところにしてはあまりにも未来が閉ざされている。
あの子はきっと美人になる。若さだけがとりえの少女よりもずっと、価値のある女性に育つはずだ。空にはそんな予感があった。
グラスの中に満たされた琥珀色の液体を揺らした。生の葡萄も美味しいけれど、こうして作られたワイン――葡萄酒はこんなにも空を酔わせてくれる。
「ほら、そういうのって楽しみじゃない」
空はくすくすと笑った。
END.
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