<東京怪談ノベル(シングル)>
旅は道連れ、世は打算
●●●●●
‥‥‥‥人には、望む望まぬとに関わらず、厄介事としか思えぬ事情を抱えてしまうことがある。
例えば、組織の失敗を押しつけられ、責任追及の的となる。
例えば、見知らぬ誰かの吹聴によって良からぬ噂を立てられ、追われる立場となる。
例えば、些細な生まれの境遇によって、謂われのない迫害を受け、命すら狙われる‥‥‥‥
本人の責任、能力、年齢性別容姿立場あらゆる要素が、これら多くの厄介事の前では無意味に終わり、そしてその者の人生を揺り動かす。
妬み。嫉み。恨み。憎み。時には理由すらなく追い蹴散らす。
そうして追われた者達は、人の醜さに絶望し、逃走し、恭順し、あるいは戦い、傷を負いながら憎み続け、深い闇の底へと消えていく‥‥‥‥
それは天災のように襲いかかり、人を激流のように蹂躙し、去っていく。
‥‥‥‥しかしそうした災厄から生き延びた者は、少なからず追う側に回った者達をも凌駕する何かを秘め、隠し持っている。それに気付くことが出来た者は、それまでの生を帳消しにする何かを得ることも、また可能だろう。
そう信じたい。
過酷な責め苦を受けた者は、それを帳消しにするだけの幸福を与えられなければ‥‥‥‥何のために生まれてきたのかが分からない。
ただ苦しいだけの人生、そんなものは絶対に認めない。せめて自分の手の届く範囲の者達には、そんな生を送って等欲しくない。
だと言うのに、手の届く範囲に、そうした者達が居たというのに――――
「‥‥‥‥だめね。全然気が紛れてないわ」
青々と生い茂る巨木の幹に背を預け、白神 空は憂鬱そうに溜息をつき、頭上を見上げた。
つい先ほどまで青空が広がっていたというのに、嵐でも来るのか、今では灰色の雲に陽差しは遮られている。極々偶に、雲の切れ間から見える陽の光も、森の鬱蒼とした葉が遮断してしまいろくに気付くことも出来ない。
何故、そんな場所に空は居るのか‥‥‥‥その理由は明白だ。空が聖都の街を出るとすると、それは仕事の依頼によるものに他ならない。空は遠方へのお使いの仕事を頼まれ、それをこなした帰り道だった。
‥‥こんな暗い森に居るからか、忘却の彼方に追い遣ってしまいたい記憶が脳裏を掠め、胸を熱くさせる。近道だからと、深い森を通ったことが仇となったか‥‥‥‥迷い込んだわけではないが、それでもこの森の暗さが、空の心に闇を差し込ませる。
(はぁ‥‥‥‥休もうかな)
こういう時には、酒を浴びるほど飲むか、はたまた何もかも忘れて眠りにつくか‥‥‥‥
酒は手持ちになく、森の中で眠るほど酔狂でもない空は、その場で腰を下ろして休むことにした。二時間ほど走れば街にも辿り着くだろうが、そんな気分でもない。
腰を下ろして空を見上げる。
(思い出しても、どうしようもないのにね)
助けられた者、助けられなかった者、自分と関わり、消えていった者‥‥‥‥
偶に、こうして過去に出会い、別れていった者達を思い返すことがある。なまじ記憶力が良いのも、困りものかも知れない。特に怪人として人の手で生み出された空にとっては、そうして別れていった者達のことは他人事ではない。いつ自身も街を追われるか‥‥‥‥そんなことを考えることも、時折ある。
日常、空が街の裏側に身を寄せているのは、その為なのかも知れない。
「‥‥‥‥ん?」
今回の報酬をどこの酒場で使い果たすか‥‥‥‥
そんなことを考え始めた空は、かすかな違和感を覚えて顔を上げた。
(枝の音が‥‥?)
風に揺られて起こる葉擦れの音。
ザワザワと騒がしくもなく、かといって全くの無音でもない。空が通ろうとしていたこの森は、大きな山々に囲まれているため、そうした山によって軌道を変えられた風が通る道となっている。常に風は吹き、今現在もほどよく涼しい風が吹いている。
よって、枝が音を立てることなど、さして不自然なことではない。葉が風に吹かれれば枝は軋み、枝にしがみついている虫を払い落とすこともある。
空が覚えた違和感は、耳が捉えた音だった。小さな葉擦れの音に混じり、パキパキという枝が折れるような音。しかし、周りに誰かが居ると言うこともない。こんな森の奥にまで来て、木を切るような木こりの類も居ないだろう。
だからこそ、おかしい。
こんな微風で折れる枝など無い。獣の気配も殺気もない。誰か、人の気配もない。
パキパキという音は大きくなっていく。耳を澄ませて周囲を警戒し、襲撃に備える。そこらの野犬や熊よりも遙かに強い空でも、正体不明の相手からの奇襲は絶対に避けたいところだ。いつでも動けるように体勢を整え、枝の音に集中し‥‥‥‥
ガガン!!!!!
「ふぎゃっ!」
「ぐにゃっ!」
視界に火花が散った‥‥と、空は後に語ったという。
実際にそんなことは起こりえない。しかし脳天から足先まで走った衝撃に、視界は閃光弾でも投げつけられた時のように白く染まり、怪人の能力で瞬時に回復するも、思うように意識が付いていかずに光がぶり返して明滅する。それはあたかも火花のように、咲いては散ってを繰り返して空の視界にあり続けた。
「な、何よ‥‥いったい‥‥‥‥」
ヨロヨロと蹌踉めき、座り込む。頭を押さえ、目頭に滲む涙を拭い、空に見事な奇襲を仕掛けた主を捜して目を開く。
「誰‥‥この子」
白い視界、まだ涙が滲んでモザイクでも掛かっているかのような視界だったが、一分と立たない間にそれも回復し、自分の足下に転がる少女を発見して目を見張り、柄にもなくポカーンと口を開けて眺めてしまう。
‥‥足下に転がっている少女は、目を回して気絶していた。年の頃はまだ十代前半だろうか。綺麗な白髪をネコミミ付きのフードから覗かせ、一見するとお伽噺の赤ずきんのような印象を与えてくる。しかし髪に負けじと白く、きめ細かい肌がより目を惹き付け、細い顔と奇妙にマッチしている。服装はネコミミ付きフードの丈夫そうなマントの下に真白いシャツを着て、これまた丈夫そうなショートパンツを履いている。
まるで少年のような格好だった。
「うぁ、これは‥‥‥‥」
普段、酒場や宿で数々の少年少女を見続けていた空の観察眼は、まるで品定めをするかのように少女の体を嘗め回す。そんな空から見て、少女の可愛らしさは、十分に食指が動く合格ラインのレベルだった。
マントで体の大半は見えない。しかし袖口から見える指は細く、同じ年頃の少女達と見比べても、これほどスベスベとしていそうな子は、まず居ないだろう。そこからだけでも、空は十分に少女の美しさを想像出来た。
しかし空は、すぐには手を出そうとしない。
これほどの美少女、普段なら、目の前で眠られれば多少の悪戯心も動くものだが、今はそうも言っていられない。お使いの帰りだからとか、そう言う理由ではない。もっと遙かに切羽詰まった事情だ。空は、内心焦りさえ覚えていた。
‥‥‥‥少女の白髪は、その半分は紅い血に染まっていた。フードにも血が染み込み、溢れた流血が髪と頬を伝い、頭を横たえている地面には血溜まりが作られ、土に吸い込まれてどす黒く染まっていく。
この少女は、どうやら空に奇襲を掛けてきたわけでもなく、ただ木の上から落ちてきただけらしい。理由は分からないが、しかし頭と頭をぶつけ合い、少女は頭に重傷を負っている。空は怪人だったから良かったものの、少女は無事には済みそうにない。これまで修羅場を潜り抜けてきた経験からして、空は頭部からの出血量とその部位から、多少の診断は出来るようになっていた。
「まずい‥‥!」
この出血量‥‥常人なら致死に至ったとしても全くおかしくない。ましてや出血部位はおそらく頭部。生き残れた方が異常とも思えた。
空は少女を助け起こそうとして、躊躇した。頭を打っているのだ。医療の心得の無い空が、迂闊に起こしても大丈夫だろうか? ここは深い森の中だ、医者を呼んでくることは出来ない。そもそも空が全速力で走ったとしても、街までは二時間は掛かるだろう。再びこの場に戻って来られるという保証もない。
助けを呼ぶことも、この場で治療することも出来ない。ならば一か八か、少女を街まで連れて行こう。この場でグズグズして無駄な時間を過ごすよりかは、ずっと良いだろう。
せめて出血している部位を押さえようと、空はポケットからハンカチを取り出し、少女の頭部に回し‥‥‥‥奇妙な感触に気付く。
「‥‥乾いてる?」
少女の頭部に回した手を見つめる。出血で紅に染まったフードを触ったというのに、空の手には僅かな血も付着していない。ハンカチで撫でてみても、やはり同様。少女の血が染み込んだ地面の土を指で摘んでみても、ドロッとした血の生々しい感触は皆無で、むしろ周りの土よりも乾いているような印象を受ける。
少女の顔色を観察する。目は回しているようだが、苦痛に歪んでいるような雰囲気はなく、呼吸も取り立てて乱れていると言うこともない。白い顔は相変わらず白いままで、青白く染まるようなこともない。頭部の出血など、全く感じさせない寝顔だった。
「‥‥‥‥‥‥」
ジッと、空は少女のフードを見る。
紅く染まったフードには、二つの猫らしき耳が付いている。取り立てて珍しい物ではない。この程度の猫耳、空はそれこそ二日に一度は裏町で拝み、可愛がっている。
しかしこの猫耳は、そんなものではない。
無言でフードに手を掛け、ソッとめくる。猫耳は動かない。
さらにめくる。猫耳がピクリと動く。三度目は、少女が目を覚まさないことを確認してから、一息に後頭部までめくり、頭髪を完全に露出させる‥‥‥‥
ぴょこん♪
そんな効果音が聞こえた気がした。
「何だ、心配する事なんて無かったのね」
空は、安堵から溜息をつき、少女の耳を人撫でする。
それに答えるように、少女の頭部から生えた獣耳は、ピクピクと楽しそうに動いていた‥‥‥‥
●●●●●
‥‥‥‥聖都には、いろんな様々な者達が流れ着く。
旅人、芸人、戦士、商人、犯罪者‥‥‥‥職など問わず、聖なる都は、その全てを受け入れる。
だが、そうして集まった者達の全てが聖都で幸福に生きているわけではない。
隣人に人食いが住み着き、安心出来る人間は居ない。同僚に異形の亜人が現れ、仕事に打ち込める者もそうはいない。
幾ら“聖なる都”を名乗ろうと、そこに住む者達の“意志“を変えることなど出来はしない。単純に好み、偏見ならばまだしも、“こいつらが居ては自分たちが危険だ”と思う者達の意志は固く、その意志を変革することは何よりも困難だ。
‥‥そしてそうした意志を共有する者達が現れた時、人は徒党を組んで外敵を排除する。たとえ敵として相対することはなくとも、自分たちに脅威となるかも知れない、そんな可能性のある者を全力で排除しに掛かる。
それが‥‥人というモノだ。
長い歴史において、この点は変わらない。これからも変わることはないだろう。
結果、そんな人間達によって聖都の表舞台から弾かれた者達は、闇に潜む。聖なる都の陰へと入り、日に当たらぬようにと細心の注意を払いながら暮らしていく。人間に怯えながら、憤りながら、その身を隠して生きていくしかないのだ。
‥‥‥‥それほど、外の世界は苛烈だった。
仕事を請け負い、聖都の外に度々その身を晒している空だからこそ、聖都の外の生活がどれだけ厳しいものかはよく分かる。人間が何百と寄り集まり村や町を作ろうと、魔獣の類によって一夜で壊滅するなど、珍しい話ではない。
だからこそ、たとえ迫害されようとも、外の世界には出たがらないのだ。
人に忌み嫌われようと、まだ法に守られている都の方がまだマシだということだ。
昼も夜も、都の外では満足に眠ることすら出来ない。眠っている隙に魔獣に襲われれば命はなく、一度でも都の味を知ってしまえば、もう外の世界では暮らせない。
「だって言うのに‥‥‥‥この子は何をしてたんだか‥‥‥‥」
そしてそんな危険極まりない森の中で寝息を立てている少女を観察しながら、空は静かに呟き、溜息をついていた。
少女は現在、空の膝に頭を乗せて、気持ちよさそうに眠っていた。
重傷を負ったというのに、その顔には生気が満ち溢れている。フードに付着した血痕がなければ、誰も少女が怪我人だなどとは思わないだろう。
‥‥‥‥いや、それも違う。少女は怪我人ではない。
(獣人か‥‥‥‥亜人の中でも体力が自慢の種族だけど、この子は特に上等だわ)
空は少女の首に指を這わせながら、少女の能力を推測していた。
少女の傷は、とうに完治している。正確には傷を負った直後数秒で完治し、大量の出血にも関わらず、顔色一つ変わらない。再生能力は一級品で、おそらく空とも張り合える。高い木の上から落ちてきた事を考えると、身体能力やバランス感覚も相当な力量だろう。何で落ちてきたのかは分からないが、おそらく地上で眠っては獣に襲われると警戒し、木の枝の上で眠っていたのだろう。で、眠っている間に枝が折れて落下、偶々木の下に居た空に激突した。
そんな所だろう。
少女のことなど放って街に戻っても構わなかったのだが、この狼少女がその後に獣に食われては寝覚めが悪い。せめて起きるまでは、様子を見ておくのが人情というものだろう。
それに、この少女の素性が少々気になる所だ。
元から森に居たのだから、森で家族と暮らしているのかも知れない。しかし家出少女だったりすると、最期の最期まで家に帰ろうとしない‥‥なんて事もあり得る。
せめてこの近くに集落があるのか、それとも一人で暮らしているのか‥‥‥‥それだけでも聞いておきたい。そしてこの少女が暮らしていた集落が近くにあるのならば、強引にでも同行して、ちゃんと送り届けてから別れたいものだった。
「う‥‥ん‥‥‥‥」
「あら、起きたかしら?」
膝の上でモゾモゾと動き、目蓋を動かす少女。やがて目を開き、ボーっとした目で空を見上げてきた。
「ふぁ? おばちゃん、誰?」
少女は、寝ぼけ眼でそう言った。
頭のどこかで“ピキッ”という音が響いた気がしたが、気にしないように努めておく。
人の膝の上で一時間あまりの間眠っておいて‥‥‥‥いや、確かに名乗った覚えも何もないのだが‥‥‥‥おばちゃんとは‥‥‥‥まぁ、いきなり暴れ出されないだけ良かったと思っておこう。
「あたしは空よ。白神 空。通りすがりのお姉さんよ」
「ここ‥‥は?」
「森の中よ。あなたは木の上から落ちてきたの。覚えてる?」
少女はしばし考えるように唸り、やがて「ああ!」と手を打ち合わせた。
「そうだった。下で寝てると、危ないから木に登ったんだった」
「それは良い心がけだけど、もうちょっと眠るポイントを考えなさい。もしくは落ちないように気を配りなさい。あたしやあなたが普通の人だったら、死んじゃうわよ」
「大丈夫だよ。あんな高さから落ちたぐらいじゃ、怪我したってすぐに治る‥‥か‥‥‥‥ら?」
少女は慌てて自分の口を手で覆い、体をガバッと跳ね起こして空から離れようとする。しかしそれを、空は少女の体を器用に抱き寄せ、まるでペットを抱くように瞬く間に拘束した。
「はーいはいはい。怖くないから逃げないでねー?」
「ふぎゃー! みぎゃー!」
「猫みたいな子ねぇ、ほらほら。暴れないでよ。あなたが暴れると、ちょっとあたしでもシャレにならないからさ」
空は暴れる少女を必死に少女を拘束し続けた。
外野から見れば、空が少女を容易く拘束しているように見えたかも知れない。しかし空は少女の力の強さに押され、弾かれないように必死だった。亜人の中でも、特に獣人の身体能力は侮れない。人間とは筋繊維の構造が根本的に異なるため、同じような形をしていてもその身体能力は人間の数倍、数十倍もあるのだ。
特に鍛えて無い子供でも、空の頭に一撃を入れることさえ出来れば気絶ぐらいはさせられるかも知れない。そう思えば、手加減などまず出来ない。しかも相手が可愛らしい少女となれば‥‥‥‥無理してでも手加減しなければならない。
油断すれば自分がKOされる。しかし相手を傷つけずに拘束し続けるのは命がけ‥‥‥‥
この状況は、空にとってはあらゆる修羅場よりも遙かに困難な闘いだった。
「ああ、もう! 怖いことなんてしないから、ね? 大人しくしてて」
「ふぁっ!? なにゅぃ?」
少女の顎に手を当て、触れるか触れないかの微妙な力加減で一撫でする。途端に体を“ビクッ”と震わせて停止する少女の体。
空とて、少女が眠っている間、ただ退屈に待っていたわけではない。
眠っている少女の体を撫で、少しでも反応を返してくる“敏感な部分”を探していた。もちろん起きている時と比べれば微々たる反応しか返してこなかったが、そうして少女を弄っているのは、これまで数多くの少年少女と遊んできた百戦錬磨の怪人、白神 空である。もはや相手の反応を見ることに掛けては他の遊び人の追随を許さず、眠っている最中であったとしても、相手の弱点を的確に捉えて忘れない。
既に少女の弱点は、完全に空に把握されている。
顎から滑り、指は胸元へ、片手を内股に滑り込ませてソッと撫で、そして‥‥‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
‥‥‥‥‥‥‥
‥‥‥‥
数分後‥‥空の前には、肩を荒々しく上下させながら、地面にグッタリと横たわる少女が居た。
「ふふっ‥‥やっと大人しくなったわね」
そして少女を前にしている空は、なにやら非常に、すっきりとした良い感じの笑顔を浮かべていた。例えるならば、一時間ほど極上の獲物を前に“待て”と命令された犬が、ようやく獲物に食らいついた瞬間‥‥とでも言えるだろうか。
しかしそんな空でも、本来の目的を忘れるようなことはない。
このまま少女に飛び付いてあんな事やこんな事やそんな事までした挙げ句にとても人には言えないような事をしてみたいなどと思っても、少女が大人しくなった時点で手を止め、少女が落ち着くのを待っている。
少女の身を案じてこの場に残っていたのに、少女にトラウマを残してしまっては本末転倒である。
「さて‥‥‥‥落ち着いた? 話は出来る?」
「は‥‥はい」
少女が倒れながら、大人しく答える。
「始めに言っておくわ。あたしはあなたを誘拐しようだとか、痛めつけようとかは思ってないわ。あなたが関わるなと言うなら、あたしはあなたを放って聖都に行く。あなたの事は綺麗さっぱりと忘れるし、誰にも話さない。ただ、出来ればあなたがここにいる事情を教えて欲しいのよ。あなたが普通の人間じゃないなんて、もう分かってる。それでも、理由もなく子供がこんな森の中にいるわけがないわ。そうでしょう? あなたの手助けが出来るかも知れない、話してくれないかしら」
空はゆっくりとそう言うと、後は静かに少女を見つめ、少女の返事を待った。
ここで少女が関わるな‥‥と言えば、空は本気で聖都に帰る気だった。
少女から助けを求められれば、空は可能な限りの手助けをする気でいる。しかし少女が助けを求めなければ、もはや空とは一切関わりのない事だ。少女を思ってここに残った空だったが、それでも本人から拒否されたのなら、別れた後で、少女が獣に襲われようが誘拐されようが、もはや空とは関わりのない事である。
「聖都‥‥‥‥おばちゃ――――おねえさん、聖都から来たの?」
おずおずと‥‥途中で何かに怯えるように身を竦めながら、少女はそう聞いてきた。
「そうだけど‥‥どうかした?」
「お、おねがい! あたしを聖都まで連れてって!」
少女は助けを求めるように、空にすがりついてきた。
目尻には微かに涙を浮かべている。空に触れてきた手は震え、少女の恐怖を伝えてくる。
(ああ‥‥‥‥この子は――――逃げてきたのね)
空は‥‥‥‥それだけで、少女のおおよその事情を把握した。
これまで、こんな子供はたくさん見てきた。世界の全てを知るわけではないが、こんな子供達が、世界の至る所に存在する。それは確かな事実であり、変えようもない現実。
だからこそ、空は説明されずとも少女が何から逃れ、何を求めて聖都に行こうとしていたのかを、容易に推測する事が出来たのだ。
そして、少女の口から語られる事情は、そんな空の推測を裏付けるだけの物語だった‥‥‥‥
●●●●●
獣と共に暮らす事が出来る人間は、まずいないだろう。
飼い犬は良い。幼い頃より躾れば、人の言う事を聞き、裏切らず、口答えもせずに働き続け、やがては子を産み死に絶える。そしてそうして生まれた子供も、躾られ、親と同じ生を歩む事になる。
基本、人間の社会に組み込まれた生物は例外なくこのシステムの中で生きている。むしろそうでなければ、獣の類は人間の社会には存在出来ず、排斥されるのみの存在となる。
人里に現れた熊は、問答無用で殺されるのが常だ。共存など考えられもしない。人を襲う存在は、それだけで害悪とされて排斥されるのが当然であり、それを誰も疑わない。
そんなシステムの中に、誰も知らぬままに人に化けた獣が紛れ込み、誰にも気付かれずに成長していたとしたら‥‥‥‥
「お父さんが、狼男だったんです。お母さんもおばあちゃんも、あたしを隠して育ててくれたけど‥‥‥‥」
少女はそこまで言って、言葉を切った。
語られるまでもない。少女は、人間を模した獣その物。人の形を取ってはいるものの、その能力は並の獣を遙かに凌ぎ、ただの人間では、争った所で勝ち目はない。
そんな獣が、正体を隠して里の中に紛れていた‥‥‥‥
正体を隠していたのが悪かったのか、それとも、その里には元々亜人を忌み嫌う掟でも残っていたのか‥‥‥‥何にせよ、少女の正体はバレた。
そして少女は当然として、母親も、祖母も逃げた。父親は‥‥‥‥そもそも“父親が狼男だった”としか話の中に出て来ていないため、里に住んでいなかったのかも知れない。
しかし現在、少女は一人となっている。
森に逃げ込み、程なくして母親も祖母も、里の追っ手に捕まった。
そもそも、深い森の中に人間が逃げ込もうという時点で間違っているのだ。草木は足を取り、枝は体を傷つける。里の者達はそんな森の中で生きる術を身につけ、生活する。
‥‥‥‥単純に、女の足で森を狩り場とする連中から、逃れる術など無かったのだ。
「森の中を走って走って‥‥‥‥いつの間にか一人になってて‥‥‥‥探しても母さん達も見付からなくって‥‥‥‥」
少女は捕まった母親を、家族を捜して森の中を引き返した。しかし夢中で逃げている間に里を見失い、いつしか疲れ果て、木の上で眠っていた。
(悪いけど‥‥‥‥運が良かったわね)
残酷な真実に、空は静かに目を伏せた。
少女が里を見失ったのは、少女にとって、間違いなく幸運だった。
少女の母親も祖母も、生きては居まい。捕まったら最後、こうした山奥にあるような集落では、厳しい罰が待っている。もしもすぐに戻っていたら‥‥‥‥殺し合いにしかならなかっただろう。
そしてそれを、少女自身も感じている。
「事情は分かったわ。あなた、里に戻るつもりはないのね?」
「うん‥‥‥‥もう、戻れないから」
少女はコクリと頷いた。
既に里には、自分の居場所がない。
だがこの森にも、自分の居場所はない。このまま野生の狼少女として生きていくのも可能性の一つとして残されているが、人里で生まれ育った者にとっては、それは寂しく、苦痛を伴うものとなるだろう。
しかしそれは‥‥‥‥
「聖都に行くのは、母親に言われたの?」
「うん。あそこなら、あたしでも受け入れてくれるって」
「そう。でも残念ね。聖都に行っても、受け入れられるかどうかはまた別よ。あなたの里よりかはマシだろうけど、百人の人間が居て、その全員に気に入られる事は不可能よ。必ず誰かとぶつかる事になるわ」
辛い現実が待つのは、聖都も森も、里も同じだ。
半端な覚悟では、あの聖都では生きられない。家族も居ない子供ならば尚のこと‥‥妙な組織に目を付けられれば、その場で誘拐、売り飛ばされるという事もあり得る。
「どこに行っても同じ事よ。逃げ回っているだけだと、そのうち追い詰められるわ。自分で戦う意志を持たなければ、どんな世界でも生き残れない」
「戦う意志‥‥ですか」
「あなたは一生、こんな事件に巻き込まれながら生きていく事になるわ。自分の身に降りかかる火の粉、それを自分で払えるようにならないと、聖都に行った所で辛いだけよ‥‥‥‥それでも、あなたは聖都に行きたい? また、人と一緒に居たいの?」
「おねえさんは‥‥‥‥もしかして」
「答えて」
言葉を遮り、問いつめる。
人間ではない者が背負う、謂われのない罪‥‥‥‥
その呪いがどれだけ恐ろしいものか、空はその身に刻んで理解している。
自分だけではない。そうした者達の末路を、これまで嫌でも見聞きしてきた。
助けた事もある。助けられた事もある。襲われた事もある。手に掛けた事も‥‥ある。
‥‥‥‥そんな過酷な生を、この少女も辿る事になる。
そこに本人の意志など存在しない。生死を賭けた戦いは、天災のように襲いかかってくるものだ。
途中でリタイヤするか否かは‥‥‥‥もはや運に任せる以外にない。
少女は、空から目を逸らした。
強い意志を持った空の瞳は、ジッと少女を見つめている。
しかし‥‥‥‥
「あたしを育ててくれたのはお母さんだから‥‥‥‥人は、怖くない」
少女はそう、呟いた。
「あたしは‥‥‥‥追われるよりも、一人で居る方が、怖い。だから――――」
少女は、静かに泣いていた。
昨日までは友人知人だった里の人々によって、家族から引き離された。
しかしそれでも‥‥‥‥少女は、人間を憎みきれずにいる。それが幼い無垢な心から来るものなのか、精一杯の強がりに過ぎないのか‥‥‥‥
空は溜息をつく。
里から追われた少女には、それほど多くの道は用意されていない。
過酷でも、少女の覚悟が本物ならば、悪い選択ではないだろう。それに、聖都には実に頼れる女性が居る。彼女に託しておけば、悪いようにはしないだろう。
「そう‥‥‥‥じゃあ、連れて行ってあげる」
「本当!?」
「ええ‥‥陽のあるうちに動きましょう。夜までには着くでしょ」
空が立ち上がり、空を見上げる。草木に隠れて太陽の位置はわかりにくいが、それでもまだ陽差しが高い事は読み取れた
‥‥やろうと思えば、少女を連れて全力で走る事も出来る。そうすればそれほど時間は掛からないだろうが、そうしようとは思えなかった。人間として聖都で暮らしていくのならば、少女の力は、出来る限りは押し殺しておくべきだ。
それに、少女には道中、聖都での暮らしの“コツ”を教えておきたい。
「参考になるかどうかは分からないけどねぇ‥‥‥‥」
「どうしたんですか?」
「いや、自分の人生を振り返ってみたら、誰もあたしの真似をして生きようとは思わないだろうなぁって思ってね」
空の笑みにつられるように、少女は涙を拭いながら、小さな笑みを浮かべていた。
●●●●●
‥‥‥‥数時間後‥‥‥‥
既に街の家々には明かりが灯り、街中を歩く人々が少なくなってきた頃、空と少女は聖都に到着した。
「時々あたしは思うのよ。あなた、ここを託児所か何かだと思ってない?」
「いやぁ、そんな事はありませんわ。聖都で一番美味しいお酒を出してくれる酒場だと思っております」
聖都の裏町、ベルファ通りで最も名を轟かせる顔役酒場、『黒山羊亭』のバーカウンターで、白神 空は店主のエスメラルダに抱きついていた。
現在、空は少女を黒山羊亭店主のエスメラルダに紹介し、少女でも出来る住み込みの仕事はないかと訪ねたところである。孤児院でも警察でもなく、まずは少女が自活出来るようにと配慮するのは、空ならではの配慮だった。
「この子、訳ありなんでしょ? どんな訳よ」
エスメラルダは、カウンター越しに抱きついてきた空を鬱陶しそうに引き剥がし、品定めをするように少女を見つめている。が、その視線はすぐにフードによって隠されている頭部に止まり、「ああ‥‥」と納得したように頷いた。
これまで、何百何千というお客を見てきたエスメラルダだ。裏側の組織との仲介などを行っている事もあり、この酒場に集まってくるのはいろんな意味で“濃い”お客ばかりである。犯罪者や亜人など、日常的に見ているエスメラルダからして見れば、フードで隠されていようが何だろうが、微かな違和感でおおよその察しを付けられる。
空によって酒場に連れて来られた少女は、空の隣に座りながら、チラチラと背後を気にしている。酒場に幼い子供が入ってきた事で客の注目を浴びているため、居心地が悪いのかも知れない。
それとも、バーカウンターに辿り着くまでに「お、お嬢ちゃん! 僕と一緒に気持ちいい事しなげぼっ!」等と声を掛けてきたお客(そんなお客が五人ほどいた)の事を警戒しているのか‥‥‥‥それとも心配しているのか。空によって蹴り回されたお客は、今でも床に転がりゴロゴロと転がっている。
背後から突き刺さる視線と、エスメラルダの視線を真っ向から受けて軽く身を竦ませたが、少女はすぐに「お願いします」と、頭を下げた。まだ十代前半にしては、実に良く出来た子供である。
エスメラルダも、小さく溜息をつきながら「このお人好し」と呟いた。
「自分の世話だけでも手一杯でしょうに、他人の子まで拾ってくるものじゃないわよ」
「分かってる。ま、実際はあたしが背負い込んだわけじゃないわ。あたしは街までの案内を頼まれただけだから。ここにこの子を連れてきたのは、あくまでサービスよ」
少女の人生を背負い込むつもりはない。面倒など見るつもりなど、毛頭無い。
ただ、空は少女がこれから築いていくであろう人生の土台を作る手伝いをするだけだ。そこから先は少女自身の問題であり、頼まれない限りは、空から手を貸す事はないだろう。
そしてその片棒を担いで欲しいと、こうしてエスメラルダに頼んでいる。
エスメラルダに「お人好し」と言われても仕方ない。
「そう‥‥‥‥まぁ、いいわ。何か紹介してあげる。体力面では期待出来そうだしね」
「あ、ありがとうございます!」
「助かるわ。ありがとう」
「紹介料として、空のツケを倍にしておくわ」
「ちょっ、何でそうなるの!?」
「あなた、今回の仕事の報酬、全部この子にあげたんでしょ? ここのツケも払わないうちに」
「むぐっ」
「その腹いせよ」
エスメラルダが、ニッコリと困り顔の空に笑いかける。
空は、今回のお使いで貰った報酬を、そっくりと少女に渡していた。今回の仕事は簡単で、その気になれば一日で終わるような内容だった事もあり、報酬はそれほど良い物ではない。
普段からツケで酒場を渡り歩いている空にとっては、半端な報酬など取り立てて騒ぐほど価値を見いだしてはいなかった。むしろこれから資金が必要になるのは、この少女だろう。何しろ身一つでこの街まで来たのだ。これからこの街で暮らそうと思うのならば、それなりの金額が必要となる。そう言う事もあり、空はその支度金として、今回の仕事の報酬をそっくりと渡してしまっていたのだ。
‥‥‥‥エスメラルダが呆れるのも仕方ない。
酒場のツケを払え払えと催促されるような身で、まだ子供に情けを掛けているのだから‥‥‥‥
「わ、悪かったわよ。今度、仕事で埋め合わせするからさ」
「あらそう? それじゃあ、きつい仕事を探しておくわ」
「むぐぅ」
「この子は預かっておくけど‥‥‥‥その前に、一つだけ良いかしら」
エスメラルダが、少女の頭に手を伸ばす。
少女は大人しく、エスメラルダの手を見つめていた。空は何をしようとしているのかと察し、エスメラルダを止めようとした。
ファサッ‥‥‥‥
少女のフードが取り払われる。
ピョコンと飛び出す可愛い耳。
その途端、酒場の喧噪が、嘘のように静まっていった‥‥‥‥
「あ‥‥‥‥あ‥‥‥‥‥‥」
少女が慌てて、フードを戻そうと手を伸ばす。しかしその手を、エスメラルダは静かに押さえ、「大丈夫」だと言わんばかりにウインクなど寄越してくる。
これには、空も気が気ではなかった。
里を追われた元凶を、こんな酒場で早々に出してしまうなど‥‥‥‥下手をすれば、少女の心に多大な負担を掛けるような展開に‥‥‥‥
「ウォォォオオオ!! 猫耳だ! 猫耳様だぁぁあ!」
「馬鹿野郎! あれは狼だ! 犬っ子だぁぁあ!!」
「何度とこのやろぉぉぉおお!! 貴様、貴様の目は節穴かぁ!」
「犬っ子だと言ったら犬っ子だこの変態やろうがぁぁあ!!」
「お嬢ちゃん! 是非とも俺のペットとして官能的な世界に旅立ってみてぶぎゃべらっ!!?」
数秒の沈黙の後、打って変わって巻き起こる口論とケンカ、何事もなかったかのように酒を飲み始めるお客と、騒ぎに便乗してさらに騒ぎ始める酔客と、酒場は先ほどまでと同じような喧噪に戻っていった。
そんなお客の反応に、少女も空も、キョトンとした目で酒場を見渡している。
「エスメラルダ、これは‥‥‥‥」
「あなたが心配しすぎなのよ。狼少女ぐらいで、今更騒ぎ立てるような人間なら、こんな所には来ないわよ」
クスクスと笑っているエスメラルダ。二人の反応が楽しいらしく、笑みが絶える事がない。
「エスメラルダ‥‥‥‥酒場の客層、間違ってない?」
「あんたが言うか。同類でしょ?」
「外野から見てみると、あたしはあんな感じなの? なんか頭が痛くなってきたわ」
「まぁ、あんな酔っぱらいと一緒にされても困るでしょうねぇ」
酒場の客のアイドルとなった少女は、ポカーンと呆気に取られて耳をピクピクとさせている。
まぁ‥‥‥‥この街はともかくとして、ここの酒場に少女を連れてきた事は、決して間違いではなかった。迫害など考えもせず、ただ面白可笑しく夜を過ごそうとしている阿呆ばかりだが、それでも少女の闇を、少なからず払った事だろう。
空はエスメラルダに追加のお酒を注文しながら、少女の耳をモフモフとしたい衝動、必死で押さえ込んでいた‥‥‥‥
Fin
●●●参加キャラクター●●●
3708 白神 空
●●●あとがき●●●
凄まじくお久しぶりです。長い間行方を眩ませていたライター、メビオス零です。
この度のご発注、誠にありがとう御座います。長い休止期間を経たというのに、まだ覚えていて頂けていたことに感謝しております。
さて、今回のシナリオ、どうでしたでしょうか?
復帰早々と言うこともあり、恒例のあんなシーンやこんなシーンは、普段の三割減で自重中。これからもう一度、あんなシーンやこんなシーンのどこまでがOKでどこまでがダメなのかを検証しなければ‥‥‥‥
では、恒例の一文を。
今回のご発注、誠にありがとう御座いました。
ご意見、ご感想、ご指摘、ご叱責などが御座いましたら、どうぞ遠慮容赦なくおっしゃって下さいませ。 いつもいつも、特に送って頂いて感謝しております。
またの御機会がありましたら、是非にと頑張らせて頂きまので、これからもよろしく御願いいたします(・_・)(._.)
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