<東京怪談ノベル(シングル)>
人間の思惑/自然の秩序
森の木々は、吹き抜ける寒風に揺さぶられて静かなざわめきを奏でている。
先頃降った雪の重さに耐えかねたのか、それとも雪雲と共に訪れた風に煽られて千切れたのか、騒々しいまでに声を上げていた葉擦れの音は、まったくと言っていいほど聞こえない。
それともそれは、足下に積もる雪によって音が吸収されているからなのか‥‥‥‥
静寂に身を蝕まれながら、白神 空は静けさに耐えかねて耳鳴りを起こし始めた耳を押さえて足を止めた。
「この辺り、の筈なんだけどね」
土を覆い隠す積雪に足跡を残しながら、空は周囲を見渡し地図に目を落とす。地図は、この付近一帯の山間部の小道や比較的大きな道が書き込まれていて、途中で迷い込まないようにと目印となる木々や小川、大岩などまで注意書きがされている。
しかし空は、それでも山々の中に迷い込んでしまっていた。
今でこそ止んでいるが、雪に覆われた地面は道を完全に隠しており、気付いた時にはまったく無関係な方向へと逸れてしまっている。タチの悪いのが、急な斜面に降り積もった雪が足下の窪みを隠して足を取りに掛かることだろう。うっかり足を滑らせ、一度斜面から転がり落ちそうになってしまった。
怪我らしい怪我はしていないが、道を逸れてしまったことでかなりの遠回りを強制された。
これでは、エスメラルダから頼まれた依頼も無に喫してしまうかも知れない。
いや、それとも‥‥‥‥
(依頼を達成してもいいのかどうか‥‥‥‥悩んでいるのはお互い様か)
空は憮然とした表情で一人ごち、白い息を吐き出しながら森を見渡した。
今回、空に言い渡された依頼は、村に出現する狼の群れの退治だった。この手の依頼は珍しくも何ともない。この世界では、ただの狼で済むのならば可愛いものだ。依頼は溢れ、冒険者を必要としている村の使者で街が賑わうほどである。
空もこの手の依頼を受けることは日常的で、抵抗らしい抵抗も受けなくなっている。怪人である空の手に掛かれば、狼など子犬とさして変わらない。寝ぼけながらでも一掃してみせるだろう。そんな空がこの依頼に積極ではない原因は、この山で拾った少女のことを思えばだった。
以前、雪が積もる前に一度、この山々に足を踏み入れたことがある。あれは何の依頼だったか、この山よりも更に離れた土地へと出向き、用向きを済ませて帰る途中で通り掛かったのだ。
その途中‥‥‥‥木の上から落ちてきた狼少女と劇的な出会いを果たす。と言っても、これと言って特別な関係となったわけではない。ただ、少女はそれまで暮らしていた村を追われ、家族と共に森の中に逃げ込んでいたらしい。その事情に同情したのか、追われる者として共感でも覚えたのか‥‥‥‥空は少女を拾い、エスメラルダの経営する黒山羊亭を紹介した。
それか早数ヶ月‥‥‥‥もう訪れることなど無いと思っていた山に、空は足を踏み入れている。
少女が、ただ人狼の血を濃く引いていると言うだけで排斥しようとした小さな村。
その村を救うため、空はこの山にまで出向いたのだ。
(エスメラルダも、あまり乗り気じゃなかったな)
この依頼を出したエスメラルダも、苦い表情を作っていた。
狼少女は、今では黒山羊亭の主戦力となるまでに成長している。そんな少女に向ける感情は、母親のそれにもよく似ていた。見ているだけでも微笑ましい。しかしそれだけに、そんな少女を排斥し、亡き者にしようと追い回していた村人達を積極的に助けようかと思えば‥‥‥‥難しい。
無論。これはあくまで個人の感情であり、感傷だ。村人達は間違いなく助けを求め、少女の事など知らずにエスメラルダに助けを求めたのだ。それを無碍にすることは出来ず、また許されない。ただ一人の少女を排斥しようとしたからと言って、感情に任せて何十、何百という村人達を見殺しにすることなど、あって良いことではない。
エスメラルダが空を寄越したのは、そうした感情を共有している空に、依頼を受けるか否かの是非を問うためだろう。村人と会い、依頼を受けるかどうかは空に任せたのだ。
人任せにしていると思えば憤慨も出来るが、エスメラルダの気持ちもよく分かる。それに、こういった汚れ役を引き受けるのも、少女を拾った役目としては相応しいだろう。
(私の場合は、それだけじゃないんだけど)
森の木々を眺め、観察し、雪に埋もれて冷たくなった獣の死骸を通り過ぎながら、空は悲しげに森の中を歩いていた。
ここは大きな都市や町からはそれなりに離れ、これと言った資源らしい資源にも恵まれなかった山だ。それでもその広大な土地に生え揃った木々は本物で、価値がある物と言えばそれぐらいか‥‥‥‥
それは、何百年何千年という年月を重ねて蓄えられた、山の財産だろう。
しかしそれは同時に、その山で暮らす人間の物でもある。
山で暮らす村人達の手によって木々は伐採され、売り払われた。果物や野草も採取され、狩猟によって獣の姿も見えない。尤も、冬に入って冬眠しているだけなのかも知れないが、それにしてもあまりに痕跡が無さ過ぎる。
狼少女を狩り出した村は、自らの欲望の赴くままに村を発展させようと、行動を開始したのだ。
それは人間が積み重ねてきた歴史の中で、最も多く繰り返されてきたことだ。人間には欲がある。獣との決定的な違い、“現在”のままでは決して満たされず、更に豊かな暮らしを目指して侵略し、蹂躙し、統治する。自らはろくに管理も生み出しもせず、土地が育てた全てを一切合切奪っていく。
‥‥‥‥その生き方を否定するつもりはない。空もまた、そうして村々が得た果物や獣肉を街で買い、暮らしている。村人達を否定すると言うことは、そんな村人達から得た果物や獣肉を喰らって生きている者をも否定する。当然、空自身も共犯だ。村人達を批判することが出来るのは、あくまで何も知らず、自分を省みない無法者ばかりである。
「でもね‥‥‥‥」
それでも‥‥‥‥
変わってしまった山の光景に、言い表せない悲しみを感じるのも、また人間なのだった‥‥‥‥
●●●●●
「それでは、よろしくお願いします。今日はもうお休み下さい。離れを用意しております」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
村長から話を聞き、空は依頼を受けることになった。
依頼の内容は、エスメラルダから聞いていた内容と同じ、村に出没する狼の退治だ。それも二度と姿を現さないよう、出来るだけ多くの狼を駆除し、手荒に追い払って貰いたいと言うこと。人間への恐怖を植え付けることで、村に近寄らないようにするためだ。
‥‥‥‥村長の話を聞いていて、空は吐き気にも似た不快感を覚えていた。
冬季に入り、山には食料が枯渇している。
小さな動物や虫達は冬眠に入り、土に篭もっている。花は散り、果実は落ち、食料らしい食料など見当たらない。数少ない食料は人間が搾取し、野生の獣達の元へは届かない。
食糧を貯蔵する術を持たない狼たちにとっては、それは死の宣告にも匹敵する。食料を追い求め、死から逃れるために村を襲う。それは生きるための苦肉の策だ。そんな狼たちの行動も、人間達同様に否定は出来ない。むしろ、それまでの均衡を崩した人間にこそ非があった。だと言うのに、それを口に出すようなことはない。
やはり、一時の感情で村を見捨てることは出来ない。村の人々とて、自らが生きるために行っていることだ。それを否定することなど誰にも出来ないし、していい事ではない。
‥‥‥‥それにこの依頼を受ければ、村の中を歩き回ることも出来るのだ。
善人を気取るわけではないが、もう一つの用を済ませておこう。
「あの子の母親は‥‥‥‥聞いて回る事なんて出来ないわよね」
村から排斥された少女。
まさかその少女のことなど、聞いて回るわけにはいかなかった。何しろ、少女はこの村から逃げ出すまで、外に出ることなど無かったのだ。村の外から来た空が少女のことを知っていると言うことは、つまりは少女が街まで逃げ延び、生き長らえた証明となる。
少女の母親が、祖母がまだこの村で生き延びているとしたら、少女がまだ生きていることを勘付かれてはいけない。生きていると知れれば、少女が母親に会いに戻ってくるかも知れない。それは村としては避けたいことだろう。都市でこそ受け入れられた人狼だが、閉鎖的な村に置いては脅威であり異物でしかない。自分を殺せるモノが傍らにいて、気分の良い物ではない。
‥‥‥‥謂われもない恐怖によって消されていった者達は泣いていたことだろう。
その涙を見ても、人間は反省しない。何度でも悲劇を繰り返し、いずれはそのツケを払うことだろう。
だが、それはあくまで先のこと。
救えるのなら救っておくのも、冒険者の仕事である。
(確か、聞いていた話だと‥‥‥‥)
村の外れを捜索し、一軒のあばら屋を発見する。
古びた一軒家。窓は壊され、塀も一部が欠けている。中は荒らされた形跡があり、床や家具に埃が積もり、一歩踏み入っただけでも咳が出る。
この家は、狼少女が暮らしていた家である。
この依頼を受ける以前から、エスメラルダも一度は調査を依頼するつもりで調べていたらしい。言葉巧みに少女から家の場所を聞き出し、それを空に伝えていた。
エスメラルダも空も、他人の事情に積極的に首を突っ込むほど野暮な性格はしていない。しかしそれでも、捜してやりたかったのだ。少女の家族を、出来ることなら、聖都まで連れてきてあげたかった。
‥‥‥‥空がこの依頼を受けたのも、その希望を抱いていたからである。
「人が住んで‥‥‥‥なんていないわよね」
埃を被ったベッドは、人が触れることを拒んでいる。空気は淀み、人の気配どころか、長らく扉が開かれた形跡すらない。狼少女が村を出たその日に荒らされ、それから放置されていたのだろう。家を焼かれなかっただけでも儲け物と思うべきか‥‥‥‥空は何か、形見になるような物はないかと引き出しを開けていき、何もかもが略奪された後であることを知って落胆した。
「救いが、無いわね」
狼少女を狩り出し、家族を殺し、遺品を略奪する。
それは、あまりに無情な仕打ちだった。しかしこれもまた、珍しいことでもなければおかしいことでもない。過酷な条件下で生き抜くためには、人と人との結束が何よりも重要となる。厳しい法を作り、それを遵守させ、守らぬ者には死の鉄槌すら振り下ろす。
その恐怖と、仲間と共にいれば生きられるという安心感が、こうした閉鎖的な村を支えている。
破った者を生かしておいては、村の法に亀裂が入るだろう。それを思えば、殺したくなくとも殺さなければならない。遺品を漁るのも合理的と言えば合理的だ。しかし理解は出来ずとも、納得するなど到底出来るものではない。
(自分のことを棚に上げて、何を言っているのかしらね)
自分を思い、自嘲する。
これまで、殺戮衝動に駆られてどれだけの命を奪ってきたのか‥‥‥‥ここの村人達が非常ならば、自分は間違いなく怪物だ。食らうのでもなく、略奪するのでもない。意味もなく殺す。殺したいから殺す。時に暴力的に襲いかかる本能に、抗う術を持たずどれほどの命を消し去ったか‥‥‥‥
人のことなど言えない。村人達を責めることは出来ない。
これは、あくまで自然のことなのだ。彼らを責めるのは感情論。合理的に考えれば、彼らの取っている行動は何も間違ってはいない。このような村など掃いて捨てるほど存在する。中には、足を踏み込んできた旅人を取って食うような村もある。それを思えば、むしろ良心的な村と言っても良いほどだ。
村を発展させ、裕福な暮らしをしたいというのも分かる話。山を切り崩し、他の生物を傷付けてでも、危険を遠ざけて安定した暮らしがしたいというのも、分かる話。
つまりは‥‥‥‥この村は、普通の村なのだ。
どこにでもある、平凡な村。
この村の悲劇など、誰も耳にすることはないだろう。
余所者が首を突っ込んで良いわけがない。
(‥‥‥‥故郷も持たない私が、首を突っ込めるわけがないわよね)
想う場所など、精々黒山羊亭のバーカウンターぐらいだ。故郷には程遠い。
胸の内に溜めた鬱憤を、早々に酒を飲んで忘れたい。
手っ取り早く仕事を済ませ、黒山羊亭に戻るとしよう。
「‥‥‥‥‥‥あら?」
「あ!」
そうして家から出たところで、一人の少年を目が合った。
年の頃は十歳ほどだろうか? 顔立ちは良く、成長すればそれなりの好青年になるだろう。
そして少年の前、この家の傍には、三つの墓石が並んでいる。
一つは狼少女、一つは祖母、もう一つが母親の物だろう。死亡は確認されずとも、村では狼少女を死んだ者として扱っている。これは、もう戻ってくるなという意思表示でもあるのだろう。
少年は、そんなお墓に手を合わせている。村の墓地に入ることすら許されなかった狼少女の家族のお墓に手を合わせ、その前に小さな花束を置いていた。
「きみは‥‥」
「っ!」
「あ、待って!」
逃げようとする少年の手を掴み、捕まえる。少年は手を握って話さない空の力に観念したのか、暴れる素振りを見せたものの、それも長くは持たずに大人しくなった。
「お願い。逃げないで。話を聞いて」
「‥‥‥‥‥‥」
「ねぇ、お願いだから‥‥‥‥少しだけで良いから」
目尻に涙を湛えた空の言葉に、少年はしばしの逡巡を見せた者の、コクリと小さく頷いた。
「僕が‥‥‥‥ここに来たこと、誰にも言わないでくれる?」
「ええ、誰にも言わない。だから、教えて。何で‥‥‥‥このお墓に手を合わせていたの?」
村人達は、この家に近付くことすらしないだろう。
いわば、この家は見せしめなのだ。法を破るとどうなるかを知らしめるための見せしめ。断じて墓参りなど許される場所ではない。
少年はポツリポツリと、空の顔色を窺うように言葉を紡ぐ。
「この家の女の子と‥‥‥‥友達だったから‥‥‥‥‥‥誰も花を添えないし、寂しそうだったし」
怖ず怖ずと話す少年に、空は深い感謝を捧げていた。
救いがあった。このまま忘れ去られるままであったであろう悲劇に、救いの手が差し伸べられた。
まだ、少女を想う者が残されていたのだ。
たとえ少女が消えた経緯を知らずとも、少年は少女を想い、ここに来た。
それだけの小さな救い。
実際には何の力もなく、誰も救われない。
既に起きてしまった悲劇は取り返しもつかず、死んだ者も生き返らず、少女も村には戻れない。
だが‥‥‥‥それでも、これは救いだろう。
少なくとも、空にとっては涙を流す理由となって、静かに流れ続けていた。
「お姉ちゃん‥‥‥‥何で泣いてるの?」
「ううん。何でも‥‥‥‥何でもないのよ」
空は静かに頭を振った。
この少年に、少女が生きていることを伝えたい。
しかしそれは許されない。これは、空が胸の内に忍ばせておくべきお話だ。
少年は涙を拭う空を見つめ、思い出したように懐を探り出した。
「えっと、これ!」
「え‥‥‥‥何?」
少年は懐から鎖を取り出し、それを空に差し出した。
いや、ただの鎖ではない。それはロケット(蓋を開けると小さな写真が入っているペンダント)に付けられている鎖で、少年の手には年季の入ったロケットが握られていた。
「これ、持っていって良いよ」
「これは‥‥?」
「この家の女の子から貰ったお守りだよ。僕が持ってても、母さんに見付かったら捨てられちゃうから‥‥‥‥お姉ちゃんが持っててよ」
どういう因果が動いているのだろうか‥‥‥‥
この時、空は柄にもなく神という存在に感謝した。
「そう、ありがとう。本当にありがとう」
「変なお姉ちゃんだな。泣き虫なの?」
「まさか‥‥初めてかも知れないわよ」
生まれ出でてからそれほどの時間を過ごしていない空としては、本心からの言葉だろう。
少年は「やっぱり変なお姉ちゃんだ」と笑い、手を振りながら去っていった。
「‥‥‥‥まだ、捨てたもんじゃないわよね」
少女を想う少年の心。それも長い年月の末に摩耗して忘れ去られるのだろうが、それでも良い。確かに存在した証がある。少女には、聖都で生きる場所もある。
せめてその居場所を失わないように、微力ながらも力を貸していこう。
(それじゃ、やることをやらないとね)
ことのついでだ。いけ好かない村の連中のために、暴力という名の力を振るうとしよう。
その日の夜、寒空の中、獣の咆吼が野山の中に響き渡る。
次の朝には、獣の骸を残し、村を訪れていた冒険者の姿はついぞ、見られなかったという‥‥‥‥
Fin
●●あけましておめでとうございまする●●
あけましておめでとうございます。メビオス零です。
去年は、何件ものご依頼をいただき、本当にありがとうございます。そして今年に入っても早々のご依頼、やっぱりありがとうございます。今年も頑張らせて頂きますので、これからもよろしくお願いいたします。
さて、今回のシナリオはいかがでしたでしょうか?
小さな村の掟は、容赦なく苛烈に執行され、厳守されます。最初は狼少女の母親達が生きているエンディングを想定していたのですが、「うーん、無理!」と判断してこのような形に纏まりました。村の秩序のために追われ、殺されてしまった狼少女の家族。村の発展のために食料と土地を奪われ、空に駆除されてしまった狼達。
今でこそありませんが、昔は珍しいことでもなかったと思います。人間の住処に姿を現した獣は、今でも駆除されていますから。本当に昔からこうなんですよね。ちょっと悲しくもなりますが、そうして成り立っている平和に守られている身の上、声高々に訴えづらいものもあります。
‥‥‥‥話が逸れました。閑話休題っと‥‥‥‥
狼少女は、既に自分の居場所を作り上げています。ちゃんと成長して大人になっていくことでしょう。人の善悪両方を満遍なく受けて育った子こそ、本当の意味で立派な人になると信じているメビオス零でした。
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