<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>
追憶という名の聖譚曲 beryl- oratorium
こちらへ来たときに着ていたマントを羽織り、サックはルディアを呼び止める。
「そろそろ行くよ。世話になった。ありがとう」
「そっか。寂しくなるね。結構助かってたんだけどな」
動けないアッシュに代わり、名を呼ばないという不便さはあったが、時々店の手伝いに出ていたサックは、白山羊亭に女性客を増やすことに対して多少の貢献をしていた。
「このままこの世界に居ても、先に進めないから」
早く元の世界に帰って、夢馬を封じ込めた黒玉の板の加工と、名の護りを施せるヒトを探さなくてはいけない。
サックは懐から取り出した絡み付いた竜のような指輪に視線を落とす。
「おや」
いつもならば聞き流してしまう声に、サックは引かれる様に振り返る。視線の先、瞳の鏡に、白山羊亭の前で立つ、全て紅色で統一された10歳ほどの少女が映りこむ。
「あなた、は――…!」
狼狽に眼を見開くサックに、ルディアは「お知り合い?」と小首をかしげた。
サックは小さく頷く。姿こそ幼いが、彼女は彼らの世界でも最高位の職人の1人である、通称――紅の賢者(ウィズ・スカーレット)。
姿を消したという噂は聞いていたが、まさかこんなところで会うとは思わなかった。
「杖の動きを感じたから着てみれば、見覚えのある銀の頭。“翠の”兄の1人じゃないか」
「……お久しぶりです」
どう見ても紅の少女の姿はサックよりも年下だ。それなのに、何時もどこかつっけんどんとしたサックが萎縮し、自然と敬語で話しているさまはどこか異様だ。
「もう1人はどうした? 居るんだろう」
お前達が離れるはずがないと、暗に告げている紅の賢者に、サックは白山羊亭の奥へと視線を向け、ぐっと小さく唇を噛む。
「翠の作の杖……か。なるほどな」
サックが何も告げなくても、その手にしている杖――アーティファクトが、紅の賢者に全てを告げてしまう。ソレが、最高位職人と呼ばれるなかでも、不動と言わしめた彼女の力。
「迷惑を、掛けたようだね」
スカーレットは鎮痛な面持ちで瞳を伏せる。
「何故あなたが?」
「夢馬を呼び込んじまったのは、あたしにも責任がある。力を貸してやろう」
大切な旧友。“翠の”長兄。そして、偉大なる魔術師。
世界樹の夢を手に入れた夢馬から自分を護って犠牲になった彼。
暫くなりを潜めていたから、消滅したのだと思っていた。
だが―――
「封印、あんた達がしたんだろう?」
サックは頷く。
「護りも、加工もあたしが引き受けるよ」
「マジで!?」
余りの驚きようにうっかり素に戻りながら、サックはルディアに目配せし、紅の賢者を奥へと連れて行く。
そして、黒玉の板を取り出した。
「………………」
板を受け取った紅の賢者は、口をきつく結んだまま、止まる。
「ウィズ?」
心配そうに声をかけるサックに、紅の賢者は板をサイドテーブルに置くと、ふぅっと長く息を吐いて告げた。
「これは、ただの黒ガラスの板だ」
「は!?」
板に変わってしまったら、何の力も帯びることは無いため、職人でなければ本物かどうか見分けることは難しい。
「そんな……」
アレが無ければ、何も解決しないというのに!
サックは膝から力が抜けたかのようにふらつき、壁に手をつける。
いつ、どこで、どうやって?
じゃあ、本物は、今、何処に――――?
コールは、新しい物語を考えようと、エルザードの街中を散策――と言う名の迷子になっていた。
本人至って迷子になっているということは気が着いておらず、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、実に楽しそうだ。
探す方のことも考えてほしいと何時も思うが、探す範囲がエルザードの街中だけな辺り、マシか。
「すいません」
「はい?」
コールは初めて聞く声に呼び止められ、足と止めて振り返る。
そこには、感情が読めない微笑を浮かべた男性が立っていた。
「コール氏…ですね?」
男性は確認するように問いかける。
「あ、はい。僕はコールですが……」
何か? と、小首を傾げたコールに、男性の微笑がより一層深くなる。
「あなたに渡したいモノがあるんです」
尚更コールは眼をぱちくりさせる。自分は、見ず知らずのヒトからモノを貰うような存在ではない。
「ファンからの贈り物とでも、思ってください」
そう言って男性が取り出したのは、真っ黒の磨かれたガラスのような板だった。
また、コールが帰ってこない。
あおぞら荘の窓から落ち行く夕陽を眺め、ルミナスは苦笑しつつ肩を竦める。
きっとまたどこかで迷子になっているのだろう。
とりあえずまずは白山羊亭だ。ルミナスは軽く外套を羽織り、足早に白山羊亭に向かう。
「すいませ―――」
声をかけながら扉を開けた視線の先、ルミナスが固まる。
ゆっくりと振り返った、同じ銀の髪の少年。
「!!?」
綺麗に解けていた糸が、ゆっくりと絡まる様を見た。
サックとルミナス。雰囲気はあまり似ていないが、髪の色だけはそっくりな二人。
どうして此処にルミナスが? と、疑問に思うものの、それ以上にサックに落胆と驚愕が同時に訪れ、どうしたいいのか分からなくなっている状況を、キング=オセロットが渇を入れた。
「……脱力している場合じゃないぞ。医者が盗った以外にないだろう」
「あ…あぁ、悪い」
サックは向けていた視線をオセロットに戻し、手元にあるただの黒いガラス板に視線を落とす。
一瞬、睨みつけるようにルミナスを一瞥し、唇をかんだサックが気にかかったが、今はそれどころではない。
そんなサックとは対照的に、ルミナスは沈みきった表情で、無理に笑顔を浮かべルディアにコールが来ていないか尋ねる。
「コールさんなら、だいぶ前に帰りましたよ。どうせまた、迷子になってるんじゃないですか?」
毎度のことだと言わんばかりのルディアの表情と口調に、ルミナスもつられる様に「そうですね」と、くすっと笑う。
さすがに黙っていられず、オセロットはルディアと同じく苦笑しつつ、ルミナスに言葉をかける。
「迷子になると分かっているんだ。何か対策を考えないといけないな」
「そうですね。分かっているのですが、閉じ込めるわけにはいかきませんから」
「それはそうだ」
肩をすくめるようにルミナスは微笑み、
「ありがとございました。ルディアさん」
と、ルディアに軽く頭を下げてルミナスは白山羊亭から去っていった。
「コール……」
呟いたのは、サックの傍らに立っていた紅色の少女。確か、サックは彼女のことを「ウィズ」と呼んだが、それは名ではないのだろう。
「一度、会ってるね。そう…あの、街の終焉で」
オセロットは記憶を探る。そうだ。街が無くなり落ちていたオルゴールを拾って持っていった少女だ。
「改めて、あたしは紅の賢者(ウィズ・スカーレット)。ウィズの称号を持っていると思ってもらえればいい」
状況に着いていけてないのか、沈黙してしまったサックに聞くよりは、彼女の方が詳しいかもしれない。
オセロットは気を取り直し、紅の賢者に尋ねる。
「……参考までに板を悪用するにはどういった方法で、どんな効果がある?」
「あんたは――」
「オセロットだ。キング=オセロット」
紅の賢者はふっと笑い、改めて口を開く。
「オセロットは、アーティファクトを使ったヒトに会っている。その時のことを覚えているか?」
「……ああ」
あまり思い出したくない記憶ではあるが、道具に使われ狂い果てた男と、道具によって変わろうとした少女。
「我らのアーティファクトは“本人”しか使えない。言っている意味は、分かるだろう」
「しかし、何の価値もないガラス板を盗るはずもない。何故かはわからないが、使い道を知っているんだろう」
オセロットの言い分はもっともだ。紅の賢者は、顎に手を当てるように顔を俯かせ、はっと瞳を大きくして顔を上げた。
「コ―――…」
「兄貴だよ!」
紅の賢者の震えた声音と、サックの叫びが重なる。
「あいつ…言ったんだ。夢馬がこの世界に来たとき、一人じゃ無かったって……兄貴と…兄貴の記憶を喰ったって!」
ぐっと握り締めたガラス板に、ピシッとひびが入る。
「…………すまない」
「何であんたが謝るのさ!」
小さく謝罪の言葉を口にした紅の賢者に、サックは抑えきれない感情のまま再度叫ぶ。
「…まさか」
守った友というのは―――
「すまないが、私の頭が混乱しそうだ」
ある一つの結論に達してしまったサックの思考を、オセロットが止める。
「順を追って話してくれないか」
「………分かった」
「名を呼ぶのはまだ危険だろう。頷くだけでいい」
オセロットの提案にサックは頷く。
「コールはサックの兄ということだな」
頷き一つ。
「コールの記憶が無い原因はムマ」
頷き一つ。
「そちらは皆、面識がある」
「コールとあたしは友人さ。遠い――昔からね」
この質問には紅の賢者が言葉を挟んだ。
「では、質問者をスカーレットに変えよう。サックに謝った理由を聞いても大丈夫かな?」
紅の賢者は頷き、自嘲とも取れる微笑で口を開く。
「あたしはこれでも最高位の職人でね。夢馬の標的にされたところを、コールに庇ってもらったのさ……」
そして、コールはムマと共に“世界”から姿を消した。
「気まずいのならば、無理に語ることもあるまい」
この言葉に、紅の賢者は「すまない」と苦笑して軽く頭を下げた。
「質問者をサックに戻そう」
紅の賢者をかばったことによってムマがソーンに流れ着いたのだとしても、その時のみの発端であって、全ての発端ではない。
「……コールの弟ならば、ルミナスの弟でもあるだろう」
表情を伺うように一拍おいて、オセロットは言葉を続ける。
「何故、睨んでいた?」
びくっとサックの肩が震えた。
話題を振り切る、聞こえなかったふりをして、サックはすっと視線をそらした。
「まぁいい。これは現状関係ないことだ。後にしよう」
仲の良さそうに見える兄弟でも、大きな喧嘩をすることだってある。オセロットはそれ以上深入りすまいと、一度瞬きする。
「とりあえず、医者に会う必要があるだろう。探しに行ってみないか?」
ふっと空気を換えるように、多少ライトな口調で問いかける。
もし、医者と直接会いたくないのなら、オセロットが探す影から見守っていれば良い。
探すとは言ったが、どんなに怪しくても今のところ証拠に乏しいため、犯人扱いは裏目に出る。だが、医者は街の人と通じて夢馬の存在の証明を依頼していた。その線で近づき、有効な話を引き出せれば―――
「何もせず、立ち尽くしたままは嫌だろう?」
サックは微かに瞳を泳がせ後、頷いた。
☆
アレスディア・ヴォルフリートは、眉間にしわを寄せ、ぐっと奥歯をかみ締めるように唇を閉じたまま、俯き気味に通りを歩いていた。
(まったくもってよくわからぬ……)
あれっきり医者の消息はつかめず、アレスディアは八方塞の状態ではあった。
(夢馬に協力していたにも関わらず、封印を解けと迫ってはこなかった。医者にとってもはや夢馬は価値のない存在と?)
考え込むように口元に手を当て、アレスディアは足を止める。いや、止めたわけではない。自然と止まっていた。
(むぅ……まるで気の向くままに協力し、見捨てたようだ……)
興味がなくなったのか、用無しになったのか、理由は分からないが、夢馬が負けると判断するや、アッシュの“名の護り”を解きそのまま姿を消した。
「もしかしたら、診療所に戻っているやもしれぬ……」
アレスディアは止めた足で向いていた白山羊亭の方向から踵を返し、診療所へと歩を進めた。
診療所に向かう途中、夢馬の行動――あれはとてもシンプルだったように思う――と、医者の行動の真意を何とか理解できないものかと、彼の言葉を思い返す。
正直さっぱり分からない。
「む?」
見知った背中が視界の隅に映る。
「ルミナス殿に……コール、殿……?」
疑問系になってしまったのは、ルミナスの表情が警戒の色に固まり、コールが纏う雰囲気がいつもと全く違っていたから。
姿はいつものコールだ。だが、あれは本物のコールなのか?
「アレスディア……さん?」
駆け寄ったアレスディアに気が付いたルミナスは、微かに震えた声音でその名を唇に乗せる。
コールはゆらりと立ち、瞳を細め、口の端だけでにやりと笑った。その笑顔が余りにも昏く、背筋が凍る気がした。
「……ぬぅ……よくは、わからぬが、ルミナス殿、私の後ろへ」
アレスディアは一歩前へ出て、ルミナスを背後に庇う。
コールが何か仕掛けてくるという素振りはないが、あの夢が本当ならばコールの本業は魔術師。現状の様子を見るに、いきなり魔術を放つ可能性が無いとは言いがたい。
「ア…アレスディア……さん」
ルミナスはアレスディアの服を掴み、縋り付くように言葉を搾り出した。
「どうしたら、僕は……どう、したらっ」
動揺の仕方がコールの変化に対してとは見て取れない。何か、もっと他に理由がありそうな動揺の仕方。
「如何なされたルミナス殿?」
「兄さんが……まさか、どうして……!?」
アレスディアの言葉が届いていないのか、ルミナスは力なくずるずるとその場に座り込んでしまう。
いつものルミナスではない。
「しっかりなされよ! ルミナス殿!」
びくっとルミナスの肩が震える。余り声を荒げるべきではないと思ったが、今はそうする必要があると思った。
ルミナスは、ふるふると顔を上げる。
アレスディアはその憔悴しきった表情のルミナスに微笑みかけ、
「白山羊亭へこのことを伝えに行ってくれぬか……?」
アレスディアに魔術的なことに対する耐性はないが、今のルミナスがこの場に残ることは危険だと判断した。
コールの足が一歩踏み出される。
いつも大切に持っている本が、その手から落ちた。
「頼む!」
応援でも何でもいい。できればサックを呼んで欲しい。
ルミナスは弱弱しく頷き、震える足取りで走り出した。
(できるだけ速く頼む!)
アレスディアはぐっと息を呑む。自然と冷や汗が流れた気がした。
終わったはずの気配。
コールから、立ち上るもの。あれは、あの夢馬のものと同じだった。
どうして。どうして!
ルミナスは元来た道を戻り、白山羊亭に向かって走っていた。
いや、自分では走っているつもりだったが、鉛のように重たい足は上手く動かず、ずるずると引きずるような状態で歩いていた。
「まさか…どうして!」
その叫びは消え入りそうなものだった。
ちょうどその時、サクリファイスはあおぞら荘でソールの無事を確認し、白山羊亭へと向かっている途中だった。
今にも倒れてしまいそうなルミナスの姿に首をかしげる。そして、サクリファイスは心配げに声をかけた。
「ルミナス?」
「サクリファイス…さん」
顔を上げ、精一杯微笑もうとしたのだろうが、その顔が完全に引きつっている。
「すいません。今は、白山羊亭に、行かない、と……」
急いでいるものですから。と、口にはしたものの、言葉と行動がつりあわず、ルミナスはふらふらになっている。
「どうかしたのか?」
その姿に、サクリファイスは後を追いかけながら、問いかけた。
「僕の、せい…きっと、兄さん……」
それ以上は続けられず、ぐっと唇をかみ締め、今にも泣き出してしまいそうに見えた。
何がどうなっているのかサクリファイスには今一つ飲み込めなかったが、ルミナスを急いで白山羊亭に連れて行かなければならないと言うことは理解した。
しかしその足の速さにサクリファイスは眉根を寄せる。
「少し我慢してくれ。ルミナス」
「?」
ルミナスがふと顔を上げたときには、その体は宙に浮いていた。
一瞬という速さはないものの、そのまま歩くよりも何倍も速く白山羊亭へとたどり着く。
ルミナスはその扉を開け、ルディアの元までゆっくりと歩いていった。
「コールさんは見つかったの?」
ルディアはルミナスに明るく声をかける。そして、その言葉に反応したのはサクリファイス。
「コールがどうかしたのか!?」
「こんにちは、サクリファイスさん。コールさんはね、いつもの迷子よ」
ああ、確かコールは極度の方向音痴だった。
「……サックは?」
ルミナスは小さく問いかける。
「サックさんなら、オセロットさんと出かけたわよ?」
ルミナスの瞳が揺れる。一足違いで入れ違ってしまったようだ。
「どうしたルミナス」
カウンターに座っていた紅色の少女が顔を上げ、ルミナスの前まで来ると、その顔を見上げる。
「スカーレット様……兄さんが、どうしてナイトメアに!?」
ルミナスの悲痛な叫びが響いた瞬間、紅色の少女――紅の賢者は戦慄し、サクリファイスは驚愕に目を見開いた。
「っくそ! なんてタイミングだ!!」
紅の賢者は舌打ちし、早足で白山羊亭の奥へとかけていく。
「なあ、ルミナス。夢馬とコールには何か関係があるのか?」
「分かりません。僕には、どうして、こうなったのか!」
ルミナスは頭を抱え、首を思いっきり振って否定する。
混乱なのか、焦燥なのか、はたまたその全てなのか。そんなルミナスの姿に、サクリファイスとルディアは顔を見合わせた。
サクリファイスは白山羊亭の奥へと視線を向ける。あの少女はルミナスよりも事情を知っていそうだ。ルディアに了解を得ると、サクリファイスは白山羊亭の奥へと歩を進めた。
☆
レイリア・ハモンドは、今や誰も居ない診療所を、難しい顔つきで見上げていた。
なぜあの時、自分を眠らせるだけに留めたのか。その理由が分からなかったから。
そして、あの医者が夢馬と組んだ理由をレイリアなりに考えてみる。
仮定。記憶と魂を夢馬と共有している。いや、もしそうだったら尚更封印を止めさせるはずだ。それは自身を半分封印されることと同じだからだ。
ならば、何かしら記憶の断片を集めて繋ぎ合わせているのだろうか。違う。そんな素振りは全然しなかった。いや、見せなかっただけ? それとも、気が付かなかった?
正直分からない。分からない行動を取りすぎる。
レイリアはもう一度診療所を見上げる。
人の居る気配はしない。
けれど、医者は診療所に必ず戻ってくるのではないか。確証はないけれど、そんな確信だけがレイリアの中にあり、ただ家主が帰ってくることをひたすらに待つことにした。
もしかしたら、この中には医者にとって大切な人がいるかもしれない。そうだとしたら、どれだけ自分が不利な立場であろうとも、その人のために戻ってくるはず。
そう考えても不自然と言えば不自然なのだけれど。
中を探られたくないのなら、眠らせたレイリアを外にほかればよかったのに。
優しいから? 変にフェミニスト?
もしアッシュがレイリアを、サックがアッシュを直ぐに見つけなかったら、診療所の中を探し回り、その時点で隠し事は発覚してしまう。
夢馬を、単に利用しただけ?
眠り際に聴いた言葉、『名は一番短い護り』と、サックが言っていた『名の護り』は同じものだ。
それを解かせること、もしくはソレそのものを知ることも狙いの一つだったように思える。
医者の願い、目的は、考えてみてもやっぱり分からない。
言えることは、どんな目的があろうとも、願いは一人で叶えるものじゃない。一緒に手をとってくれる人がいて叶うもの。
多くの人を傷つけて叶える願いは、ただの身勝手と同じだ。
しかし、医者はただ夢馬をかくまい、夢馬の行いを容認し、隠していただけ。夢馬が起こした数々の事を思えば“ただ”と言ってしまえることではないけれど、医者はそれ以上のこともしていないとも言えるのだ。
なぜ夢馬を見捨てたの?
レイリアは、その場で一人、考え込んでいた。
☆
サックに医者を調べて欲しいと言われた千獣は、白山羊亭ですれ違い様にその背を見た医者の姿を思い出し、周りの人々に医者について聞いて回った。
いつごろから開業しているのか。もしかしたらどこか異世界からの来訪者なのではないか、親しい人は居なかったのか、そして、医者としての評判などなども含めて。
医者の見た目は30台くらいと言ったところ。親のあとを継ぎ、そのまま医者になったのだと近所の人は言っていた。だとしたら、彼は幼いころからこの辺りで暮らしていたということになる。親しい人は特になし。一時は回りも恋人は居ないのか、結婚はどうだと話をしたりしたが、はぐらかされ話は一向に進展しなかった。医者としての評判も悪くはない。ただ、周りが辟易するほどの現実主義者で、それが良くもあり、悪くもある、と。
「…………」
これでもかというほどに普通の医者だったという言葉しか返ってこず、千獣はただただ言葉をなくしてしまった。
夢馬と関わっていた時の医者の行動とはかけ離れている。
ただ気になるのは、誰も医者が夢馬と接点が合ったことを口にしなかったこと。知らなかったといえばそれまでだが、この部分だけは巧妙に隠し通していたのではないか。そんな気がした。
医者についての表面的な情報は収集できた。
今回の騒動について有用かどうかは分からないけれど。今度は医者本人を探す番だ。
千獣は空から探そうと翼を広げる。
必ずこのエルザードのどこかに居るはずだ。だって彼には証拠がない。被害者と知り合いの人々が夢馬を捕まえて欲しいという依頼からしても、彼と夢馬に接点はないのだから、彼が逃げる理由はない。
千獣はしばらく飛び回り、医者の姿を探す。見た目的に特徴のない人を探すのは些か骨が折れた。
しばらく飛び回り、きょろきょろと人が行き交う様を見上げる。普段から白衣を羽織っていてくれれば、それだけで特徴になるのに。
一度見えただけの記憶を呼び起こし、人の流れに眼を凝らす。
「……あ」
路地に入っていく姿を見つける。
白衣、ではない。けれど、あの姿はたぶん―――
千獣は音を立てないよう舞い降り、医者の後を数歩着いて行き、声をかけた。
「……あなた……夢馬、の、被害者、の……お医者さん、だよね……?」
その声に、医者は足を止めゆっくりと振り返る。
「あなたは……ああ、白山羊亭ですれ違った。何か?」
千獣は小さくこくりと頷き、数歩医者に近づく。そして、小首をかしげるようにして問うた。
「被害者、元に、戻す、方法、とか……何か、わかった……?」
正直この質問は医者にとって白々しく聞こえていることだろう。
けれど、千獣が夢馬と対峙していることを医者は知っていても、医者と夢馬に繋がりがあることを千獣は直接知ったわけではない。なぜならば、封印の際でも、夢馬は医者のことを口には出さなかった。実質、知る機会は無かったのだ。
それに、白山羊亭で会った時だって、今まで夢馬に喰われた人々を見てきたという実績から、双子の診察を頼まれたと取ることだって出来る。
「完全に元に戻すというのは些か難しいですね。ただ時間をかければ人並みの生活をすることは出来るようになるのではないでしょうか」
それは、確か双子も言っていた。喰われたショックで廃人になってしまったけれど、その状態に慣れれば徐々に人並みには戻ると。
知りたいとはもっと別のこと。
「……私達……夢馬、と、戦った……でも、一人……倒れた……」
だから、口火を切ってみた。
「ムマは居ないというのが、私の定義ですが、そうですか…捕まえることは出来ましたか?」
白山羊亭に寄せられた当初の依頼は、ムマの生け捕り。
千獣は首を振る。
「あなたが嘘を付いているようには見えませんが、申し訳ない。自分の目で見たものしか信じません。そう、お伝えください」
それはきっと依頼を出したあの男に言っているのだろう。
千獣は分かったと頷き、一拍おいた後、じっと医者を見つめ、問うた。
「お医者、さんは、夢馬……興味、ある……?」
「ムマに、ですか?」
医者の表情に変化は無い。
「お医者、さんは、人の、体を、診る……でも、もし、人の、記憶、心……見る、力……あったら……どうしたい……?」
「君の質問は、ころころと話題が変わりますね」
それでも余りに真摯な口調で尋ねる千獣に、医者は一度鼻で息を吐き、苦笑を浮かべる。
「心…見る、夢馬、の、力……だから」
「そうですね、私は今から帰るところですが、道すがらで構いませんか?」
質問に対し突っぱねられるだとか、誤魔化されるかもしれないと感じていた千獣は、その対応を意外に感じつつも、頷きその後を着いていった。
☆
促されるままに医者を探すことにしたサックは、言葉で表現するならば、とぼとぼとでも言うような足取りで、オセロットの後を着いてく。
「板から夢馬の影響が出ていれば、その気配の感知もできるのかな?」
以前、夢馬の気配がするといきなり攻撃されたことを思い返し、オセロットは問いかける。
「……分からない。杖が感知すれば、オレにも分かるけど」
サックは杖をぎゅっと握り締め、先にはめ込まれた蒼い宝珠を一度見遣り、また視線を落とす。
「そうか」
今サックが何も感じていないということは、杖が何も感知していないということか。
しかし、医者を探すために出てきたものの、肝心の医者の居所は分からず仕舞い。オセロットは取り合えずといった態で、彼の住居である診療所へ一度顔を出してみるかと歩を進めていた。
「おや?」
診療所の入り口の前で、真摯な眼差しで建物を見上げている少女。あれは、レイリアだ。
「こんなところで、どうした?」
オセロットは厳しい顔つきのレイリアに声をかける。
「医者に、会いたいと思ったの」
素直に話してくれるとは思えないけれど、医者の行動の理由が知りたかったから。
「サックたちは、どうして?」
むしろ、倒れたアッシュを一人にしておいていいの? という意味を含んでいる。
「あいつは、大丈夫だ」
何時まで経っても突き放すような言い方のサックにむっとしつつ、どうして大丈夫なのか分からずレイリアは眉根を寄せた。
「あいつには、今、ウィズが付いてるから……」
視線を外したサックに首をかしげ、説明を求めるようにレイリアはオセロットを見上げる。
そんなサックにオセロットはやれやれと息を吐く。
「ウィズ・スカーレット。彼ら世界の最高位の職人だ」
「え、それって…!」
“名の護り”をかけることができる力を持った人の事。レイリアの表情が明るくなる。
アッシュが元気になる!
手放しで喜びそうになったけれど、実際まだアッシュが前のように元気になったわけではない。
「……あいつっ!」
サックの吐き出した呟きに、二人はそちらへ意識を向ける。
どこで出会ったかは分からないが、千獣が医者と共にこちらへ歩いてきていた。
彼女もどうやらこちらに気が着いたらしく、小さく頭を下げる。ただ、その様子から察するに、オセロットとサックが、此処に出向いた理由には気が着いていないようだ。
「おいっ!!」
駆け出そうとしたサックをオセロットが止める。
「…落ち着け。頭に血を上らせたままでは冷静な判断は出来ない」
「……っ」
その言葉に、先ほどまでの勢い捨て、サックは立ち尽くしぐっと唇をかみ締める。
そんな二人の、尋常ではない様子に、レイリアは小首をかしげた。
「診察時間では、ないのですが?」
医者の口元は笑みの形に釣りあがっているが、眼が笑っていない。
「診療時間ではないのなら好都合。話がある」
きょとんとしている千獣とは違い、オセロットは知っている。
「仕方ありませんね。どうぞ」
医者は懐から鍵を取り出し、扉を開ける。
そして、とても簡単に一同を診療所の中へと招きいれた。
「どうして私を眠らせたの?」
中に入り、落ち着いたところでレイリアが口を開いた。
「“名の護り”を解くことが目的?」
医者は一度千獣を見やるが、その表情が展開に動揺しているものよりも、事を知り理由を知りたいというものに、変わっていることにふっと息を吐く。
「ええ、その通りですよ」
「それだけ?」
「ええ」
「あなた……最低よ」
嫌悪感を最大限に込めた言葉にも、医者は微笑みで返す。
「夢馬をそのまま封印させたのは何故だ」
オセロットは、話を聞いてからずっと不思議だった。
「私としても、彼女を――夢馬を封印して頂きたかったものですから」
「……だったら、なぜ“名の護り”まで解いたの?」
会話の途中でレイリアが口を挟む。
そんな回りくどいことをしなくても、他っておけば封印はそのまま行われ、目的は達成したはずだ。
「そのまま帰られては困りましたので、簡単に言えば足止めですよ」
加えて、“名も護り”なるものの、証明を。
「たった、それだけの理由で……?」
「おまえ、ふざけすぎだ!」
しれっと答えた医者に、レイリアは呆然と返し、サックは牙をむく。
「そのせいで、あいつは今、死に掛けてるんだぞ!」
「私は、どちらでも良かった」
夢馬が封印され、黒玉の板が作られ、尚且つそれがこのエルザードに留まるならば。
「やって…いいこと、と、悪いこと、ある……」
例えば、人を殺すことはどんな気持ちか知るために、人を殺してはいけない。
それが自分の仮説を証明させるだけのものだとしたら、尚更。
「それ、は、やっちゃ……いけない、こと……」
誰かを傷つけてまで自分の望みを叶えてはいけない。
千獣の訴えに、医者はただ口元だけの微笑みで返す。
「あなたは黒玉の板の使い方を知っているのか?」
「いいえ」
「知らないなら、なぜ欲した」
「私は特に欲しいとは思っていませんよ」
冷静なオセロットの裏で、レイリアは何度も深呼吸を繰り返す。それは、掴みかかろうとしたサックに、オセロットが告げた言葉の意味がよく分かるから。
盗み見るサックも、指先が白くなるほど手をきつく握り締め、何とか怒りを抑えているように見えた。
「だが、あなたはそれでもソレを手にした」
短いオセロットの結論に、医者は微笑みに目を細める。
「白山羊亭に行ったのね」
レイリアは今までの会話で、医者がサックの下からあの夢馬を封印した黒玉の板を盗み出したのだと理解した。だからこそ、ここにサックがいるのだということも。
「私が盗んだかのような言い方ですね?」
千獣は医者に表情を悟られないよう俯き、驚きに一瞬跳ねた心臓を押さえて、静かに問う。
「板……盗んだ、の……?」
そんな事に少しも触れていなかった。いや、実際あの会話で触れることがおかしいのだけれど。だが、医者が答えを返すよりも速くサックが叫んだ。
「だってそうだろ! あんたが来てから、板がすり替わってた。こいつらには板を手に入れたい理由は無い。でも、あんたにはある!」
「どんな?」
理由が? 間髪いれずに帰ってきた質問に、サックは口篭る。
「勿論、貴方がしようとしている何らかの目的に、よ」
ぐっと奥歯をかみ締めたサックに変わり、レイリアが引き継ぐように言葉を続ける。
「私は貴方じゃないから、何の目的かなんて実際には、知らないけれど、貴方がしようとしていることが間違ってることくらいは、私にだって分かるわ」
医者はそんな二人にやれやれとため息をつきつつ首を振る。
誤魔化しているのか、本心なのか。
「盗んだ、なら、返して、あげて……」
「あなたまでそんな事を」
心外だとでも言うような口調だが、そもそも元から千獣は医者のことを信用はしていない。
世間話をしているつもりで医者のことを勘ぐっていた。
千獣の話術では怪しいところを引き出すことが出来なかったけれど、千獣が知りたかったことを、彼女たちは聞いてくれている。
ただ、医者が黒玉の板を盗んでいたという事実は、千獣には初耳だったけれど。
「あなたの本当の願いが何か、分からないけれど、板がなければ叶えられないものなの?」
「私の願いは、もう叶ったと思ってもらって構いませんよ」
「だったら、あなたにはもう、夢馬も黒玉の板も無用でしょう?」
板の使い方を知らなくて、でも、それを盗んで、実は夢馬が好きで、近くに置いておきたかったとか、そんな理由だったら、単純明快でとても簡単だったのに!
「アッシュとサックには、それが必要よ」
「それに、夢馬に喰われた人々にも、記憶や夢が戻るチャンスでもある。返してもらえないかな?」
責めるわけではない。諭すような二人の言葉に、医者はやれやれと肩をすくめた。
「私の元にあの板はもうありませんよ」
隠し通すことは出来ないと踏んだのか、それとも、もうどうでもいいと思っているのか、医者は薄笑いを浮かべたまま答えた。
「…なんですって?」
レイリアの言葉尻が震える。
医者はそんなレイリアに一瞥を向けた後、サックを真正面から捉えた。
「君には教えてあげましたよね? ナイトメアがこの世界に来たとき、一人じゃなかったと」
「………ああ」
夢馬を不完全にした存在。それは、
「コール…か」
「……え?」
「誰?」
千獣の躊躇いの声と、レイリアの疑問の声が重なる。
二人が知っている人物らしいと悟ると、レイリアは二人に目線だけ向けて問うた。
「アッシュとサックの兄だ」
「え?」
双子にまだ兄がいたの? と、レイリアは驚きを隠せない。しかも、その兄が、どうして“一人じゃない”の理由に名が挙がるのかも。
「吸収された欠片は深い。けれど、彼は全てを無に消す有石族。外側からのアプローチで完全体に戻れないのなら、内側に働きかければいいだけだとは思いませんか?」
「てめぇ! 殺してやる!!」
意味を読み取り、激昂に叫んだサックの周りを、氷の波動が覆う。複雑に組み合わさっていく方陣。魔力が魔術という媒介を借りて暴走しかかっている。
今ここで騒ぎを起こすのはまずい。
オセロットは手刀をサックの手首に叩き込み、その杖を落とすと、そのまま腕を掴む。杖が落ちた瞬間、組みあがりかけていた方陣が霧散した。
余りにも激しいサックの変化に、レイリアは躊躇うように尋ねる。
「どういう……意味?」
人が見たらただちょっと腕を掴まれている程度に見えるだろうが、サックは身動きがとれず「放せ!」と叫び、もがく。
「板はもうないと彼は言ったな?」
「え…えぇ」
「封印を解いたわけじゃない。コールに、吸収させたんだ」
レイリアの瞳がきょとんと瞬かれる。
「え、それって……え?」
同質のものはお互いを引き寄せる。欠片とはいえ、コールに吸収されていた夢馬は、“自分”たる黒玉の板を呼び寄せた。
「夢馬が、復活するの……?」
疑問を多大に含んだレイリアの問いに、医者は返事を返すのではなく、眼を細め口角を吊り上げにっこりと微笑んだ。
オセロット自身も怒りに引き摺られてしまいそうになるが、ここで取り乱してはサックを止められる人物がいなくなる。
オセロットはぐっと唇をかみ締め、小さく呟いた。
「今、コールはどこに……?」
帰ってきていないとルミナスは言い、白山羊亭から彼を探しに出て行った。
「探して、くる……」
千獣は踵を返す。空からならば、そう時間もかからないはずだ。
オセロットは千獣に頷き、アイコンタクトで千獣は診療所から飛び立った。
☆
紅の賢者を追いかけて白山羊亭の奥へと入ったサクリファイスは、その先の光景にぐっと息を呑んだ。
ここには紅の賢者と、保護された状態のアッシュの二人だけが居るはずだった。
確かに人数は二人だ。けれど、そこに立っていたのは、幼い少女ではない。まさに賢者を呼ぶにふさわしい荘厳な衣装に身を包み、背に妖精のような透明な羽を3対称えた女性。いつの間に抜かされたのか? とか、どこから入ってきたのか? と思ったが、その風もないのにたゆたう紅色の髪に、サクリファイスの眼は驚きに大きくなる。
「まさか……」
振り返った女性の瞳も紅色。
「スカーレット?」
半信半疑のサクリファイスに、応えるようにふっと笑う紅の賢者。
だが、すぐさまベッドに横たわるアッシュに向き直り、突き出した手の平を横にないだ。その軌跡から紋章があふれ、部屋を満たしていく。
「……時の女王の吐息、凍てつく薔薇、0と1の回路……」
呪文ではない。紅の賢者は、溢れ返る紋章の中に小瓶や凍る薔薇を投げ込んでいく。
彼女が何をしているのか、何が起ころうとしているのかわからず、サクリファイスは息を呑んだ。
しばらく魅せられるようにその場に立ち尽くしてサクリファイスだったが、今この場に居るべきではないと悟り、そっと部屋から白山羊亭のホールへと戻る。
そこではまだ、ルミナスが突っ伏したまま、唇をかみ締めていた。
「ルミナス、何があったんだ?」
声をかけられ、ルミナスはびくっと顔を上げた。
「あなたは夢馬の事を知っていた。何より、どうしてそんなに落ち込んでいるんだ?」
あの夢馬を追いかけていた双子が元々住んでいた世界が、ルミナスと同じと言うならば、彼が夢馬を知っていたことにも納得ができる。
「…彼らに、夢馬を封印するよう命じたのは、僕……だから」
声音は静かなものなのに、引き裂かれそうなほどの痛みの叫びが混じる。
「知らなかった。知らなかったんです! 僕は…僕らは、あの街に捕らえられてしまったから」
夢馬とそれを追う彼らの行方を。
そして、誤魔化し、隠してきた秘密―――
「ごめんなさい。サクリファイスさん。ごめんなさい。ごめんなさい……」
必死に謝るルミナスに、サクリファイスは理由が分からず、ただ困惑に眉根を寄せる。
だが、彼は謝罪の言葉ばかりを繰り返し、完全に混乱してしまっているのか、誰の声も耳に届いていないようだった。
☆
アレスディアの額からは、熱くもないのに汗が流れる。
これが冷や汗というものか。などと他人事のように冷静に考える自分がいる反面、視線は、向けた先から動かすことが出来ず、もう何時間もこのままの状態のような気さえしてくる。
実際、時間にしてみれば数分。緊張は必要以上に時の流れを遅くした。
コールが一歩踏み出す。
アレスディアは一歩下がる。
「何やらいつもと様子が違うようだが、如何いたした?」
勤めて冷静に、口調だけはいつもどおりに。
コールの瞳は光をなくし、まるで落とした本と一緒に感情さえも落としてしまったかのように無表情になっていた。同じ気配を感じてはいても、あの表情豊かで感情むき出しの夢馬に乗っ取られているだとか、操られているようには見えない。
無意識のうちに、アッシュに貰ったラペルピンに指先で触れていた。
これは、夢馬を自らが心で描く人物ではなく、“仮初の姿見”で見るためのアイテム。
目の前の“コール”が本物のコールではなく、夢馬かそれに順ずるものが化けているのではという考えが頭を過ぎり、その力が強くなるような気がしてラペルピンに触れてみたが、姿のブレ、変化など一切無く、コールはただゆらりとその場で立ち、時々近づいてくる。
「何があったのだ! コール殿!!」
紛れも無く本物だ。
理由なんて、探したところで見つかるはずもない。今出来ることは、コールをこの場に足止めし、時間を稼ぐことだと思った。
その頃、サクリファイスは町の人々の頭上ギリギリといったところを、全力で翔けていた。
酷く疲弊し、混乱し、自分に向けて謝罪の言葉を口にしたまま外界を閉ざしたルミナスが気にかかったが、それ以上に解決しなければならない事象があると、白山羊亭から向かわされたのだ。
この先に何があるのだろう。
「あなたは何があるのか知っているのか?」
「いや。でも、やばいんじゃねぇの?」
翔ける。
普通の人とは違う速度で。
ただ、目的の場所へと向かって。
その場所は―――
「アレスディア? と、コール?」
不自然なまでに動かない二人に、サクリファイスは首をかしげる。
「むっ…!!?」
顔を庇うように、思わず両腕を組む。が、
「え?」
何ともない。ただ、プレッシャーに、体が思わず反応してしまった。
「……なんだ……?」
戦場に赴く騎士の気迫とも違う。制御しきれていない、不可視のオーラのようなものが立ち上ったのだ。
「アレスディア!」
サクリファイスはアレスディアの名を呼び、その横に舞い降りる。
「…サクリファイス殿? では、ルミナス殿は白山羊亭に」
ちゃんとたどり着き、応援としてサクリファイスを呼んでくれたのかと、ほっと息をつく。
「いや、ルミナスとは途中で会ったんだ。白山羊亭に急いでいたから、連れては行ったけど」
「すまない。ありがとう」
アレスディアがお礼を言うようなことではないが、ルミナスが酷く憔悴していると気が着いていて、一人で行かせたのは自分だったから。実際には、そうするしかなかったのだけれど。
少々まだ状況を把握しきれていないサクリファイスは、アレスディアと対峙しているような状態のコールを見やり、足元に落ちている本を見止めて声をかける。
「本が落ちているぞ、コール?」
一瞥さえも向けない。
「コール?」
名を呼ぶが、反応は無い。
「何か……何かが、違う……?」
サクリファイスは眉根をよせ、警戒に瞳を細めた。
「これはいったい何か、わかるか……?」
視線はコールを捕らえたまま、アレスディアに問いかける。
「私にも詳しいことはさっぱり分からぬ。ただ、言えることは、コール殿の気配が、封印時に感じた夢馬の気配とそっくりということ」
「何…て?」
“やばい”という言葉の意味は、もしかしてこの状況のことか?
「追いついたぞ!」
さすがに翼に追いつくのは、ただ駆けるだけでは難しい。
路地を駆け抜け、二人に肩を並べた少年。
「アッシュ殿!?」
“名の護り”が解け、殆ど死人のような状態だった紅の双子。
その少年は、何事も無かったかのように、悪戯っぽい笑顔で紅玉の杖を構える。が、その笑顔は構えた先の人物を見た瞬間に凍りついた。
「嘘だろ!?」
「いや、紛れも無い本当だ」
「何で、こんな事に!?」
アッシュは凍りついた表情のまま言葉を震わせ叫ぶ。しかし、正直なところそれが分かれば苦労はしない。
「どうして、兄貴が!?」
「「は?」」
アレスディアとサクリファイスの声が重なる。
「兄、とは?」
単純に考えれば、コールが、双子の兄だということだけど。
「そういえば、ルミナスが自分は7人兄弟だと……」
言っていた事を思い出す。銀髪など珍しくもないため気に留めていなかったが、よくよく見ればコールとアッシュの髪の色や質が同じ。
当のアッシュは、サクリファイスの口から出たルミナスの名に、一瞬顔を強張らせたが、瞬きの後すぐさま表情を戻す。
「ウィズめ……」
白山羊亭に残る紅の賢者に向けてアッシュは小さく舌打ちし、自身の杖を見やる。
ただ気配が同じというだけで、コールは何もしてこない。動くべきなのかどうか分からず、アレスディアは立ち尽くす。
ふと、だんだん近くなる羽ばたきの音に視線を向けた。
緊張を破り舞い降りたのは千獣。
「居た…良かった……」
現実全然良いことなど無いのだが、空から見る分には向かい合って立っているくらいにしか見えないかもしれない。
「アッ…シュ……?」
同じ姿、同じ声、そして同じ格好の少年と千獣は先ほどまで一緒に居た。
赤い瞳、太陽を模した紅玉の杖。偽者じゃない。
「………大丈夫、なの?」
まともに話すことも、体を起こすことも出来ず、意識さえも朦朧としていたアッシュが、今千獣の目の前に居る。
「ああ、俺はもう大丈夫だ」
アッシュの瞳はコールに向けられたまま動かない。
千獣もその視線を追うように顔を動かす。
「……コール」
ぴんと肌が張り詰める。この感覚、これはあの時の夢馬のものだ。
「さっきからずっとこの状況だ」
後手だ。完全なる後手。もっと早く白山羊亭へ行っていれば。医者が来た時に立ち会うことが出来ていたならば、そんな事をついつい考えてしまう。
何もしていないのに緊張だけが走る。
けれどこのままの状態で、いつまでも居るわけにはいかないのだ。
動かないコールを見つめる。
動かないのか、動けないのか、そうしている内に、やっと、コールの唇がゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「「信じられないことは、往々にして起こる」」
発せられたコールの声が二つにぶれる。
「「感情の迷宮の果て、記憶は縫合される」
徐々に重なる声音。
コールの瞳が瞬いた。
☆
最悪だ。
闇属性の有石族は、魔法を反射し、吸収する。
それはこの杖に宿る封印の力も例外ではない。
最悪だ。
今のところ、自分たちが知っている兄だ。
でも、いつ夢馬に切り替わるか分からない。
最悪だ―――
コールを、夢馬を探すため、オセロットとレイリア、そしてサックは診療所を後にした。
レイリアにとってコールという人物に面識は無い。ついさっき知ったばかりの名だが、双子の兄だということで、興味と同時に助けなければという思いも沸いている。
オセロットは一度空を見やり、視線をゆっくりと戻す。空が飛べないことがこんなにも歯がゆいなんて。
(コール……)
神の眼を使えば、10m以内にコールがいれば感知できる。今は一刻を争う状況になっているかもしれない。オセロットがそちらに意識を向けようとしたとき、サックの瞳が驚きに見開かれた。
「どうしたの?」
レイリアの声さえも届いていないのか、サックは俯かせていた顔を上げて、一方にじっと視線を向ける。
「あいつ……」
紅の賢者が現れたのだから、いつかは目覚める。それが、こんなに早いとは思わなかったけれど。
が、同時に背筋が凍るような気配が届き、サックの顔を強張らせた。
「兄貴の場所が……分かった」
サックが感知できたことに、喜ぶべきか、悲しむべきか。
場所が分かったことは僥倖だが、それはすなわち夢馬の気配でもあるということ。
走り出す。
エルザードの大通りと複雑な路地を抜けて。
レイリアは余り走ることは得意ではないため、後からでも追いつけるようにスコープバードをサックに押し付ける。
何度目かの路地を曲がり、彼らは居た。
「何!?」
走りこみ近づこうとした自分たちに向かって、相手が飛んでくる。
このままここにいてはぶつかってしまう。オセロットとサックは思わず左右へ避けると、地面に突き刺した突撃槍を利用してアレスディアが体制を建て直し地面に着地した。
「すまない!」
自分がぶつかりそうになった人物に向けて短く謝罪の言葉を発し、また地を蹴り走りこもうとした瞬間、そこに立っていたい人物に気が付いた。
「オセロット殿に、サック殿!」
アレスディアの驚きに瞳を受け、オセロットは視線を先へと向ける。
「これは――…」
診療所で話を聞いて、まさに危惧していた事が起こっていた。
コール相手に魔断を抜くことが出来ないサクリファイスは、何とか正気に戻そうと話しかけるが、現状全く功を奏していない。
そうしている内に、衝撃波で弾き飛ばされ、今に至る。
「コールの中で夢馬が統合したというところか」
医者の目的は夢馬を完全体にすること。
封印劇で対峙した夢馬は、欠片が抜け落ち不完全の状態だった。……あれで、不完全というのか。
「やはり、夢馬であったか……」
納得するようなアレスディアの口調に、オセロットは、ん? と、視線を向ける。
「そりゃ気付くだろ。これだけ、隠しもしなけりゃな!」
悪態交じりに叫ばれた声に、オセロットは眉根を寄せる。
「アッシュか」
情けないことに地面に転がり、盛大な苦笑いでこちらを見ている。
「アホか己は! 兄貴に勝てるわけないだろうが!!」
復活そうそうぶっ倒れている片割れに向かって片割れが叫ぶ。
「解ってる! が、そんな状況じゃねぇ!!」
止めなければ、最悪の結果にしかならない。
一つは、夢馬が復活する。
(もう一つは、兄貴が――…いや、駄目だ。考えちゃ駄目だ。何とかしないと!)
ブンブンと首を振る。口に出したり、考えるだけで、本当になりそうだから。
「くそっ」
アッシュは立ち上がり杖を構え、炎が描いたかのような方陣を構成していく。
「駄目! 止めて、傷つけ、ないで……!」
「じゃあ、おまえ止めてみせろよ!」
千獣に集中を邪魔されて、アッシュの方陣が少しだけ薄くなる。
「……分かった」
千獣が飛ぶ。コールに近づく隙を狙って。
飛び上がって、はっとした。
「やっと、追いついたわ……」
レイリアなりに全力で走ってきたが、さすがに肩で息をしてしまうことを止める事はできず、荒い息を吐きながら腰を折り膝に手を付いて呼吸を整える。
「案内ごくろうさまでした」
「え?」
レイリアは驚愕に声を震わせて振り返る。
「現在の居場所までは知りえなかったものですから」
こんにちは。とでも言うように医者は、にこりと笑って手を上げた。
確実な足取りで、医者はレイリアを越してコールに近づいていく。何をしようとしているのか分からず、しばしその動きを見ていたが、どんな理由があるにせよ、夢馬とイコール状態に近いコールと、医者が近づいて良い結果が出るように思えない。
千獣が羽ばたき、オセロットは地を蹴った。
事情を知り、素早く動くことが出来るのは、二人だけ。
「……駄目」
千獣が間に割って入り、オセロットは医者を背負い投げ、そのまま腕をひねり上げる。
「っぅぐ…!」
関節に少々きしむような音が聞こえた気がしたが、折れたり外れたりはしていない。
ゆっくりとコールが振り返る。
「貴様は、ただ“それだけ”だ」
地面に縫い付けられた医者を、蔑むように笑った。
「……コール?」
余りにも冷たい口調に、医者を取り押さえたまま呟くように名前が零れる。
眼を細め、ふんっと息を吐いたコールは、腕を組み医者を見下ろす。
「放してやれ。どうせ、何もできん」
「……私は、“決定権”を持っているんですよ」
きっと医者はコールを睨み付ける。
「聞こえなかったのか? “それだけ”だと言っただろう」
息を吐いた口を弓なりに吊り上げ、医者を冷たく見下ろしたコールの表情は、アレスディアに最初に見せたあの昏い微笑みだった。
「完全に夢馬ではないのか……?」
今のコールは、あの夢の中でであったコールに近い。あの時も利害を優先する帰来のある冷たい口調をしていたが、今回はそれ以上にかなり攻撃的になっている。
「邪魔だ」
医者と自分の間に割って入った千獣に向けて放たれる衝撃波。
「何…どうなってるの?」
状況の把握が追いつかず、レイリアはその場で立ち尽くしたまま、現状を見守ることしかできない。
ただ、その視線の先に、月の蒼玉とは違う、太陽の紅玉を見つけ、目を見開いた。
だが、その彼は、悔しさに唇をかみ締めていたが。
「……レベルが違いすぎる」
「止められるのか、兄貴を…」
方陣を構成するまでもなく放たれる魔術。それは、元々のコールがそれだけ力の強い魔術師だったことを意味している。
「眼を覚ませコール! 今のあなたは夢馬に操られているだけだ!」
サクリファイスの何度目かの叫び。もう何度、コールを元に戻そうと叫んだか分からない。
コールが捨てるように吐き出した空気には、苛立ちが混じる。その後、サクリファイスを一瞥し、何事もなかったかのように、医者を抑えるオセロットに向けて手を振り上げた。
「っく…」
衝撃から避けるようにオセロットは医者を手放してその場から離れる。
「コール、何を!?」
「放せと言ったはずだ」
嗤っていたはずの表情が、無表情に近いものへと変貌している。苛立ちの混じる表情で、コールは尚もオセロットへと掌を向ける。
その掌から双子が作る方陣と良く似ていながら、それ以上に複雑な構成の方陣が組みあがっていく。
「…駄目、コール……駄目!」
弾き飛ばされた千獣だったが、魔術の攻撃であろうとも物理的な外傷であれば高い回復力で直ぐに治る。
千獣は伸ばされた手にしがみつき、何とか魔術の発動を止めようと、力をこめる。
千獣は避けない。
「無駄なことをするな」
「っつ……!!」
見下ろした視線一つで、そのまま弾き飛ばす。
コールの瞳が一瞬見開かれた。
鮮血が飛ぶ。
「千獣!!」
「千獣殿!!」
声が重なる。
「何故…何故傷つけるんだ!」
サクリファイスは千獣に駆け寄り、支えるように抱き起こす。
「……大丈夫」
血糊の後は残るが、傷はもう残っていない。
想いの力で構成される方陣は、起動動作の手を阻んだからといって、構成と発動が止められるわけではない。
そして、組み上げられた方陣は、まるでコピーされるように二つに分かれ、標的に向かって力を発動させる。
それは、オセロットではなく、双子へ。
「「っ!!」」
両手で構えた杖の前に構成される方陣。
防御壁なんて創れない。ならば、自らも力をぶつけて相殺させるしかない。
縛煙が巻き起こる。
「アッシュ!」
「サック!」
近くの民家に向かって二つの体が吹き飛んでいく。
「「うあっ!」」
背中を思いっきり壁にぶつけ、その場に倒れこむ。
「ぃてててて……あれ…?」
「何で、相殺できてんの?」
自分たちなりに力の限りの方陣を組んだ。相殺できたことは良かったが、同時に疑問も生まれてしまう。
兄の力は自分たちの比ではない。なのに。
「止められぬのか……」
アレスディアは苦悶の声を零す。
余りに激しく抵抗するようなら、手刀を打ち込み意識を無くしてもらおうと思っていたが、近づくことさえも出来ないなんて。
「っく…!」
周りの意識から半分忘れ去られた医者は、舌打ちしコールに近づいていく。
「っ…待て!」
動いた医者にオセロットは気が着き、止めようと手を伸ばす。
その指先は白衣を掴んだが、医者は白衣を脱ぎ捨てて走っていく。
「私は、夢馬を――あがっ!」
「私が私であることに他人の介入など必要ない」
伸ばした掌は届かず、逆にその頭を掴まれ、医者は苦悶の声を上げる。
「もう、止めろ! 止めてくれ、コール。あなたはそんな人じゃないはずだ!」
確実に傷つける方法を持っているが故に、何とか投げかける言葉によってコールを止めようと、サクリファイスは必死だった。
コールは答えない。ただ、不機嫌そうに一瞥するのみ。
投げかける言葉が何も通じないほどに変わってしまうなんて。
医者の手がだらりと垂れるように落ちる。
その手先がだんだんと細くなっていき、干からびていく。
「っひ…」
恐怖に喉を引きつらせ、両手で口を押さえるレイリア。
「っく、レイリア殿」
アレスディアは立ち尽くすレイリアの視界をふさぐ様に抱きしめる。
「すまぬ、レイリア殿……あれを、本当のコール殿だと思わないで欲しい……」
レイリアはコールを知らない。人を傷つけ、嗤う。その姿は本当の彼ではない。それは、都合のいい言い訳だと分かっている。
「あの人は、夢馬なの? 人なの……?」
「……っ」
答えられない。今の彼が人としてこの行動を起こしているのか、夢馬に体を乗っ取られこの行動を起こしているのか。
「「止めろぉお!」」
「駄目だ!」
「兄貴! 駄目だ!!」
医者の肌が土気色に変わっていく。
もう一刻の猶予もない。
「「ちっくしょお!!!」」
コールを中心として無理矢理展開された“封印”。
下手すれば、夢馬と一緒にコールまで封印されてしまう。それでも、今ここで行わなければ、兄が皆を傷つけ罪人となってしまうよりマシだと思った。
夢馬の力だけではなく、コールの魔力まで上乗せされ、二人が揃っていてもギリギリの状況で、震える指で杖を握り締める。
双子の額からは玉の汗が流れた。
「「うらああぁああああ!!!」」
双子が構えている杖から放たれる光。
拮抗していた力の流れが一気に変わった。
コールから黒い霧のようなものが吸いだされ、まるで糸巻きに巻かれていくかのように小さくスピンして丸まっていく。
その場に倒れるコール。
最後の黒い霧を巻きつけた玉は、まるで黒い卵のようだった。
☆
何とか、あおぞら荘までコールを運び、酷いものではないが怪我をした面々はルツーセから手当てを受けていた。
「ごめんね。あたしあんまり怪我とか治すの得意じゃなくて。こういうのは、ルミナスが得意なんだけどな」
ルツーセはあおぞら荘の奥を見やり、引きこもってしまったルミナスを思って一度ため息をつく。そして、今一度アレスディアに癒しの方陣を巻きつける。
「いや、治していただけるだけありがたい故、気にされるな」
アレスディアの周りを癒しのための方陣が囲む。
「……よく、生きてたよな」
ボソリと自分も手当てを受けながらサックが呟く。
その言葉を聞き取った千獣は、眼をぱちくりとさせて小首をかしげた。
「兄貴が本気だったら、とっくに死んでた……」
「…………」
思わず言葉をなくす。
実際何度も彼は自分たちを排除しようとした。けれど、それはどれも決定的な致命傷に至るほどでもなく、予備動作によって避けることもできた。
表面的には全く違う人に代わってしまったように見えたが、内面的にはアレスディアや千獣が知るコールの影響を受けていたのだろう。
「オレ分かんねぇよ。この状況が良かったのか、悪かったのか」
夢馬の完全体を封印できたことは喜ばしい。けれど、それによって皆をよりいっそう物理的に傷つけた。もしかしたら、コールの変化によって精神的にも傷つけたかもしれない。
「…コール、無事、だった、もの」
千獣はそっと視線を奥へと投げかける。が、当のコールは未だ目覚めない。
本当に目覚めるだろうか。それだけが、怖い。
ルツーセは手当てをしつつ、ちらりとサックを見やる。そっと視線を外すと、ぐっと奥歯をかみ締めた。
幸い、と言うべきか、医者も一命を取りとめ、コールの手を汚さず済んでよかった。
ふと、サックは徐に立ち上がり、治療の輪から離れた。
「アッシュ!」
レイリアは、喜びを少しも隠さず、アッシュに抱きつく。
「悪ぃ、心配かけたな」
アッシュはわしゃわしゃとレイリアの頭を撫でる。結局子ども扱いだが、今はよしとしておこう。
「いいの。元気になって良かったわ」
まさかこんなにも早く、いや、早くていいんだけど、元に戻るとは思わなくて、レイリアの声も弾む。
「これ、ありがとう」
レイリアが差し出したのは、アッシュの銀の指輪。
夢馬が封印された今、効果が消えることはないが、必要が無くなった護身具。
「これのおかげで、私、強くなれた気がするの」
体がそんなに強くないレイリアは、今まで家に引きこもっていることが多かった。
なのに、今は普通の冒険者のように、何かの解決に向けて動いている自分が居る。
「そんな大層なモンじゃねぇっての」
アッシュはふっと息を吐いて笑う。
「私にはそうだったの」
宝物を握り締めるように両手を合わせたレイリア。
「おい。いちゃつくのはいい加減にしとけよ」
一応のツッコミを入れたサックだったが、そのまま視線を通路の奥へと向ける。
「………兄貴」
それは、コールにではない、ルミナスに向けられたもの。
その温度の冷たさに、レイリアは思わず首を傾げた。
サクリファイスは、白山羊亭でルミナスが自分に向けて謝った理由が分からず、その扉の前まで着ていた。
自分に向けられたと思ったが、もしかしたら、錯乱状態で相手も分からず謝った可能性もある。
けれど、そう言うということは、何かしらあるという証拠。
サクリファイスは小さく扉をノックした。
身じろぎの音だけ。返事は無い。
「ルミナス」
サクリファイスは扉越しに名前を呼ぶ。
きっと声は聞こえているのだろう。何かがこすれる音が聞こえた。
「なぜ、謝ったんだ?」
びくっと震えるような気配。
しばらくの沈黙の後、言葉が返ってきた。
「…僕は、嘘を、付いたから」
失礼と思いつつも、サクリファイスはドアノブを回す。
「知っていたんです。本当は。だって、僕がっ」
扉を開け向けた視線の先、毛布に包まるようにして、ルミナスが泣きじゃくっていた。
「いい。それ以上は。落ち着いてからで、いいから」
部屋に入り、思わずその頭を撫でる。
「ごめ、ん、なさい…」
ルミナスは何度も何度も謝罪の言葉を繰り返し、そのまま泣きつかれたのか眠ってしまった。
コトン。と、机の上に置かれた黒い卵を転がすオセロット。
「これが封印の本当の形というところか」
黒曜石を削り、磨いたような黒い卵。最初の封印時に出来たものが板だったのは、夢馬が不完全だったからなのか、最後の詰めを一人で行ったからなのか。
「あいつらは、二人で一人の意味を履き違えていた」
オセロットの向かい側に腰を下ろし、勝手に紅茶を注いで口に運ぶ紅の賢者。
「と言うと?」
「お互いをお互いのスペアのように考えていたんだろうな。二人で一人とは、二人そろわなければ本当の力は発揮されない。そういう意味だったのに」
言葉というものは、感じ方一つでいろいろな意味を持つ。
「なるほどな」
オセロットは転がしていた卵から指を外し、自分の前にも注がれた紅茶を一口飲む。
「しかし、思い返せば、あの封印劇は最初から失敗していたということか」
知らなかったとはいえ不完全な夢馬を封印し、それで解決したと思っていたのだ。不完全なままの夢馬では、双子の目的が叶えられることはない。
医者は夢馬を完全体にして、開放しようとしていたようだが、その行為が逆に功を奏したような結果となってくれたことだけが救いだろうか。
「さあ、そう悠長にもしていられまい」
紅の賢者は立ち上がり、パチンと指を鳴らす。
すると、今まで普通のカップとソーサーだったティーセットから足が伸び、勝手に洗い場まで歩いていった。
「……珍妙な光景だな」
オセロットのそんな反応に紅の賢者は笑みを深める。
「さあ、行こうか双子」
そして、黒の卵を懐にしまい、椅子を立った。
「あ、ああ」
「了解」
緩んでいた双子の表情がふっと変わる。
「行っちゃうのね」
「ありがとな」
アッシュは、少し寂しそうに微笑んだレイリアの頭を、もう一度わしゃわしゃと撫でた。
「世話になった」
「あたしからも礼を言うよ。事の発端を作ったのは、半分あたしだからね」
フードで隠していた顔を表に出すように脱ぎ、紅の賢者は深々と頭を下げた。
黒の卵を創り、夢馬を完全に封印した双子と、それを加工する技術を持った紅の賢者は一瞬にしてその場から消えていった。
「さよならを、言うべきだった?」
レイリアがふと尋ねる。
「いや、また会える。そう信じていれば、きっと」
アレスディアが首を振り、千獣が頷く。
「ありがとう――」
もう二度と会えないのではないかと言う気持ち半分、もう一度会えると信じたい気持ち半分。
誰かに会える気持ちの背中を押して欲しかった。
「帰ってきて……ううん、今度は、遊びにきてね」
何かを追いかけているのではない。
自分の意思で、自分の心で、今度は―――――
fin.
☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆
【2919】
アレスディア・ヴォルフリート(18歳・女性)
ルーンアームナイト
【2872】
キング=オセロット(23歳・女性)
コマンドー
【3087】
千獣――センジュ(17歳・女性)
異界職【獣使い】
【2470】
サクリファイス(22歳・女性)
狂騎士
【3132】
レイリア・ハモンド(12歳・女性)
魔石錬師
☆――――――――――ライター通信――――――――――☆
追憶という名の聖譚曲にご参加ありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
ギリギリの…お手元に届くのは過ぎているかもしれませんが、お届けになってしまい、お待たせして申し訳ありませんでした。
これで何とか騒動は終わりです。また積み残しある人も居ますが……
初対面であの状況だとちょっとトラウマになるかなぁともふと考えたんですが、それ以上のことがあったということで相殺ゼロでお願いします。ちなみに、スコープバード返してません。
それではまた、レイリア様に出会えることを祈って……
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