<東京怪談ノベル(シングル)>


ハルフ村にて……
●箱馬車は行く
 街道を1台の箱馬車がゆく。馬の歩みは急ぐ風でもなく、いたくのんびりしたものであった。その様子からして、乗客も別に急ぎの旅ではないだろうことが想像出来るというものだ。
 さて、その箱馬車には御者の他に、向かい合わせに座っている3人の乗客の姿があった。1人はおとなしそうな老婆である。別の1人は、口を大きく開いてすっかり寝入っている中年男だ。そして残る1人はといえば、小柄で銀髪小麦肌の少女のように見えて――。
「……お嬢ちゃんは1人でハルフ村へ行くのかいね?」
 その時、急に老婆が向かいに座っていた少女のように見える者に話しかけてきた。
「最近物騒だで、お嬢ちゃん1人は危険じゃないかいねぇ……。何でも子供ばかり狙った人さらいが出るっちゅう話で……。ほんに、賑わうのも善し悪しだで……」
 反応を待たず喋り続ける老婆。話しかけられた方は一瞬眉の端をぴくりとさせ、少し思案する様子を見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「……いや……。お嬢ちゃん……じゃなく……」
「あんれまぁ!」
 その少女、もとい少年から出てきた言葉と外見に似合わぬ野太い声に老婆は思わず目を丸くした。
「そりゃあ悪かったねぇ……」
 と言ったきり黙り込む老婆。少年――松浪心語は小さく溜息を吐くと、やはり無言でゆっくりと流れてゆく景色に目を向けた。
(たく……)
 ハルフ村まではもうしばらくかかりそうであった――。

●その地へ向かう理由
 聖都エルザードから見て南方にハルフ村は位置している。かつてのハルフ村はどこにでもあるような無名の小さな村であったのだが、ある日突然温泉が沸き出したことによって状況は一変した。今では広く名前を知られるようになり、エルザードのみならず各地より観光客が訪れるようになっていた。
 そんなハルフ村へ、箱馬車に揺られ心語は1人向かっていた。心語の住むエバクトの村はルクエンドに近く、ハルフ村から見れば西方に位置していた。つまり今、心語は東へ向けて旅していることになる訳だ。
 ともあれハルフ村へ向かっているのだから、その目的は温泉であろうと思われる。事実その通りなのだが、今回の心語の場合は少し事情が変わっていた。
(……とりあえず……村の様子も見といた方がいいか……)
 少しずつ変わってゆく景色を眺めながら、心語はそんなことを思う。実は心語、自腹で義兄が好きな温泉に招待しようと考えていたのである。
 それを思い付いたのには当然理由がある。それは義兄に対する日頃の不満が関係していた。いやいや、何も心語が義兄を嫌っているのではない。そもそも嫌っているのであれば、自腹で温泉に招待しようだなんて考える訳がない。
 不満なのは、義兄の自分に対する扱いに対してである。それは、年相応に扱ってもらえないということだ。先程の老婆との僅かなやり取りにもその片鱗は見えているが、実年齢は20歳にもなるというのに未だ子供扱いされているのである。
 そうされないためにはどうすればよいか、心語は1人考えてみた。子供ではないという証明には何が一番なのか……。そして思い浮かんだのが、経済的に自立している所を義兄に見せればよいのではないかということなのである。その結果、自腹で温泉招待に行き着いたのだった。
 ところが、だ。ここに1つ、大きな問題があった。温泉に招待するということは、当然ながら自分も一緒に行き入浴することになる訳だ。しかしながら、心語は温泉というものがあまり好きではなかったのである。これでは例え招待したとしても、そうはよろしくない結果になるであろうことが容易に想像出来る。ならばどうすればよいか?
 答えは簡単だ。訓練をすればよいのである……温泉に入るという訓練を。かくして心語はひとまず1人でハルフ村へ行き、温泉に入る訓練をすることに決めたのだった。
「お客さん方、村が見えてきましたぜー」
 前方から御者がそう声をかけてきた。確かに、前方にはあちこちから湯煙立ち上る村の姿が見えつつある。それがハルフ村であった。

●それはある種の苦行
「……く……」
 思わず心語の口から声が漏れた。それは苦痛を堪えているような声にも似ていた。心語は今、ハルフ村の数ある温泉の1つに入っていた。ハルフ村には露天風呂もあるが心語が居るのは内風呂で、それも数人程度しか入れないようなこじんまりとした大きさのものであった。
 湯船の端に背中をもたれかけさせ肩まで浸かり、顔一面には玉のような汗が浮かんでいる心語。温泉で暖まっているがゆえの汗だと思われるが、もしかすると苦手な温泉に浸かっているがための汗も一部混じっているのかもしれない。となれば、先程の声はやはり苦痛を堪えているがゆえのものであったろうか。
(どうも……好きになれないな……やっぱり)
 心語は右手で顔一面の汗を拭った。その拍子に温泉独特の匂いが鼻を突き、心語の眉をひそませた。心語にとって温泉の何が苦手かというと、まずはこの温泉独特の匂いである。そして湯の感触や受ける刺激も好きではない。それに加え、こうして無防備な姿を他人に晒すという不安感もあり、温泉というものがあまり好きではないのだ。もしかすると心語が湯船の端に今居るのも、無防備な状態を少しでも補おうとしての無意識な行動なのかもしれない。
 その小さな内風呂に、1人の男がふらりと現れた。中肉中背のこれといった特徴もない見知らぬ男である。男はかけ湯をすると、心語の入っている湯船に浸かってきた。
「こんにちは」
 その男は心語の姿を見付けると、すぐさま声をかけてきた。声をかけられた以上は無視する訳にもゆかず、心語は何も言わず会釈を返した。さて、それで終わるかと思いきや、何と男はさらに話しかけてきたではないか。
「1人で来たのかい?」
「……まあ……」
 男の質問に短く答える心語。
「そうか、1人か……。1人旅かい? それとも病気の治療とか」
 男はさらに心語へ話しかけてくる。
「……別に……。ただ温泉に……来ただけで……」
「ああ、じゃあ特に目的のある旅って訳じゃないのか。そうかー……」
 男は心語の言葉をそのように解釈したようである。さすがにそろそろ心語は、この男に対して馴れ馴れしいと思い始めていた。けれども同時に、義兄のある言葉も思い出していた。曰く、人との触れ合いも温泉の楽しみの内、ということ。まあ心語は温泉に入る訓練をしに来ているのだから、男の話に多少は付き合うのもその訓練に含まれるのかもしれず。ともあれ内心の思いはさておき、男の話に黙って相槌を打つなどしてしばし付き合うのであった……。

●急転直下
「……くぅ……」
 苦手な物事というものは、急に無理などしてはいけないのかもしれない。入浴をどうにか終えた心語は、着替えこそ済ませたものの風呂場から出てすぐの所にある休憩所の椅子に腰掛け、半ばぐでんとのびていたのである。要するに、慣れぬ温泉への入浴でのぼせた訳だ。
(長く相手せずに……早く出た方がよかったか……?)
 先程の内風呂で一緒になった男の顔が、心語が目を閉じると浮かんでくる。男の話がもう少し早く終わっていれば、ここまでのぼせることもなかったかもしれない。
「……はぁ……」
 心語は大きく息を吸い込み、吐き出そうとした瞬間に目を開いた。するとそこに、先程の男の顔があるではないか!
「大丈夫かい?」
 男は心語の様子を気遣うように顔を覗き込んでいた。
「あ……うん……」
 のぼせているせいもあるからか、きちんと返事するのも少し億劫になり、曖昧に答える心語。
「のぼせたようだね。だったらここより、外に出て少し涼んだ方が回復も早くなると思うよ。いい風が来る静かな所があるんだよ……」
 すると男はそんなことを言い、心語の腕をぐいとつかんで立たせようとした。やや強引だなと心語は感じたものの、男の言うことももっともではあるので、ひとまずはされるがままになっていた。
 男は心語を連れて外に出て、建物の裏手の方へと回り込んでゆく。なるほど、静かな所と言うだけあって、裏手に回り込むと辺りの人気はぐっと減った。そこから少し進むと前方に幌馬車が見えてきた。その前の地面には括られている薪がいくつか置かれている。荷を積むか降ろすかの作業中なのであろうか。
 ――と、その瞬間である。ガサッと物音がしたかと思うと、あっという間に複数の男たちが心語たちを取り囲んだのは。
「何……」
 心語は取り囲む男たちに一喝しようとしたのだが、それは間髪入れず口元に当てられた厚手の布によって阻止されてしまった。当てたのは――心語をここまで連れてきた男だ。
 男たちは一団となって幌馬車のそばまで移動すると、その中へと心語を無理矢理押し込んでしまった。中にはまた別の男たちが居て、うつ伏せに押し込まれた心語の首と腕と足を押さえ込んでその動きを封じた。
「坊主、おとなしくしてな。手荒な真似されたくなきゃな」
 男の1人が低い声で心語に脅しの言葉をかけた。それからややあって、幌馬車が動き出す。そして心語は全てを理解した、自分は誘拐されたのだと。そういえば行きの箱馬車で、乗り合わせた老婆が言っていたではないか。子供ばかりを狙う人さらいが出る、と……。
(……子供に……見られたってことか……)
 その事実に腹立ちを覚える心語。しかしながら、腹を立てたからといって現状を判断出来ないほど心語は愚かではない。この状態は明らかに心語に不利で、逃げ出すというのもちょっと難しそうだ。おまけに愛剣も、温泉の成分で錆びては適わないと家に置いてきてしまっている訳で。
 ならば現状で利口な選択は1つだろう。ひとまずこのまま、言われた通りにおとなしくしておくことである。そうすれば黙っていても誘拐犯の根城を突き止められることにもなるし、また何がしかの突破口が開けるかもしれない。
 そう腹を括った心語を乗せて、幌馬車は足早に進んでいった――。

【了】