<東京怪談ノベル(シングル)>


ぜんまい仕掛けの迷い兎

「最近、ちょっと物騒だから。見かけない顔には注意した方がいいわ」
 先刻別れたエスメラルダの忠言が思い返された。

 歓楽街から帰る途中であった。すっかり良い気分になっていた白神・空は、首を傾げた。見慣れた姿ではあるが、この場所にはそぐわない。歓楽街からはそれなりに離れた場所だ。なのに、体の曲線の強調されたバニーガールの姿のまま、ふらふらと少女が歩いているのだ。
 道にでも迷ったのだろうか。いや、それ以前になぜその格好のまま街の外に出歩いているのか。バニーガールとは本来夜の街にのみ存在できる生き物だ。それがなぜ、こんな何もない林の中の道にいるのだろう。まるで本物の野うさぎだ。
 空は歩みを緩めて相手の動きをうかがった。街道を歩いていたはずの彼女は、ふらふらと頼りない足取りでさまよっていた。目にも光が感じられない。
(怪しい術でもかけられたか、薬を飲まされたか……ってところかしら)
 面倒ごとに関わっていることは間違いないだろう。こういうときには不文律というものがある。「隣の家のケンカに口を出すな」だ。
 空はもう一度少女を振り返った。櫛を入れれば天使の輪ができるだろう金の髪も今はぼさぼさに乱れている。ハイヒールのかかとは折れ、片方は脱げている。きっとそのうちに迎えが来るだろう。彼女は戻るべき場所に連れ戻されるはずだ。――放っておけば。
 大きくため息をつき、空は少女へと近づいていった。


「どうしてうちに連れてくるのかしらね」
 スツールに座り呆れ顔のエスメラルダに、
「他に頼れる場所を思いつけなかったのよ。大丈夫、迷惑はかけないから」
「そうね、そう願いたいわ」
 半ば諦めているようだった。閉店後の店にワケ有のバニーガールを連れてくれば、誰だってそんな気持ちになるだろう。ごめんね、と身振りで示しつつ、少女に椅子をすすめた。
 まだあどけなさの残る顔には、化粧が施された形跡がある。せっかくの可愛い顔には不要なものだ。少女はふわふわと辺りを見回している。うつろな瞳が、店の棚に並んだワインのボトルをとらえた。
 店の宣伝らしい陽気な歌が聞こえてくる。最近、ピエロを雇って大々的に宣伝をしている店があるのだ。
 ふいに、まるで生き別れの兄でも見つけたかのように表情が蘇っていく。
「ど、どうしたの?」
 少女は突然立ち上がると、カウンターの中へと小走りで向かい、勝手にボトルをあけてグラスを満たしていった。愛らしい笑みを浮かべながら空とエスメラルダの前にすっと進める。
「接客……してるつもりなのかしら」
 二人は顔を見合わせる。給仕を終えると、残りのグラスを銀盆にのせてフロアを歩き始めた。ヒールが片方折れているため、傍目にも危なっかしい。そのまま、ドアへ向かって歩いていく。
「ちょっと、止めなきゃね」
 予想していた以上に面倒なことになりそうだ、と頭の片隅で冷静に分析しながら空は少女の手を引いた。
「ねえ、ちょっとお話しない?」
 少女は困ったように首を傾げる。喋れないのだろうか。それとも、喋れないように何らかの力が働いているのか。カフスに見慣れない模様の描かれたボタンが使われていることに気付いた。円と7角形と6つの髑髏、それから古代文字を組み合わせてある。どうも怪しい、と空の勘が告げる。
「エスメラルダ、ちょっと2階を借りるわね」
 好きにして、といわんばかりにヒラヒラと手を振る店主に笑みを返す。戸惑いつつ空を見上げる幼い瞳に、
「大丈夫よ、何も心配することないわ」
 やさしく語りかけ、二階にある小さな部屋へと連れて行った。


 宿屋を営んでいたらしい名残で、簡易ベッドと小さなサイドテーブルと椅子がある。人をもてなすことを忘れた、質素でこじんまりとした部屋だ。窓枠が、風が吹くたびにカタカタと音を立てている。
 ベッドサイドに座るように促しても、一向に動こうとしない。銀盆を持つ手はすでにつかれきって震えているというのに、下ろそうとしない。笑みを崩さず、それでいて涙が溢れていた。
 空は少女をそっと抱きしめた。骨の浮き出た背中をなで、やがて黒いバニースーツの縁に触れる。少しだけジッパーを下ろす。背中に不思議な模様が書かれていた。カフスボタンと同じ、円形の魔法陣のような模様だ。強めにこすってみる。輪郭がにじんだようだ。けれど少女にはくすぐったかったのか、身をよじって逃げようとする。
「っ……」
 少女が体勢を崩し、空のほうへ倒れこんできた。すかさず体の位置を入れ替え、少女を押し倒す形に持っていく。
「やっぱり、この模様がいけないのね」
 次に外すのは、首もとの襟飾りだ。ほっそりとした首元に上品におさまる白襟と赤い蝶ネクタイ。その中心にも、金色のカフスボタンがはまっている。体重をかけて身動きをとりづらいように仕向けながら、すばやくその優美な戒めを解く。
「あ、あの……っ」
 首元があらわになった途端、少女が口を開いた。思っていた通り、愛らしい小鳥みたいな声だ。空は体勢を維持したまま微笑みかける。
「これのせいで、今まで喋れなかったってわけね」
「あ、はい……」
 そうと分かれば、次は手首だ。このボタンが何らかの力を持っていて、彼女の動きを封じたり、誰かの操るままに動かせるようにしているのだろう。それまで頑なに銀盆を持っていた手が、ようやく自由になる。
「助けて、くれるんですか?」
「えぇ。いけないかしら?」
「でも、私何も返せないし……」
「誰もお金なんて取らないわ」
 少女の深刻らしい悩みを一笑に付す。そんな丸い金属よりも、この今の状態の方がよっぽど貴重であることは違いない。
「多分このスーツにも仕掛けがあるのよね」
 楽しそうに微笑み、空は更なる疑惑に手をかけていく。
「あの、ちょっと……」
「大丈夫、怖くないわ。このままこの服を着ているほうが危険でしょう」
 戸惑いや恥じらいの気持ちがはっきりしてしまうより先に行動を起こしてしまおう。
 そっと背中に手を回し、ゆっくりと黒い布地を足のほうへと引っ張っていく。シュルシュルと上品な衣擦れの音をさせて、少女の体があらわになっていく。その布の裏にびっしりと刺繍された例の文様に思わず眉をひそめる。
「……なんで、これを着ていたの?」
「自分で、着ました。でも、私、借金のかたに売られたから、だから、どんな扱いを受けても仕方ないから……」
 ぶるっと少女が震えた。さすがにこの格好では寒すぎる。空は慌てて毛布を手元に引き寄せ、少女にかけた。少々くたびれてはいるが、ないよりはましだろう。
 ぴえろがまた近くまで歩いてきたらしい。お決まりの歌を歌いだす。笛の音を伴奏に、ぴえろのひょうきんな歌声。少女が体を起こそうとした。どこか遠くに焦点があってしまったようだ。
「窓を、開けなきゃ……」
 感情のない声でつぶやく。その瞬間、空は全てを理解した。
 空は少女をベッドに押さえつけたまま、耳たぶに舌を這わせた。もう一方の耳は手で包むようにして塞ぐ。
「っ――!?」
 少女の体は驚きのあまり硬直する。けれど空は彼女を攻め立てる動きを止めない。息を吹きかけ、耳たぶをいじり、聴覚を占領する。さらに空いている手で少女の体の輪郭をなぞる。徐々に少女の息が上がり、頬が上気していく。目がとろんとして、熱に浮かれたような顔になっていく。そのまま、五感を奪う。
「あたしだけを感じて。ほかのことは一切忘れて――」
 恐らくあの店なのだ。あのピエロを雇っている店が、身寄りのない少女たちにこのバニースーツを着せ、無理やりに接客をさせている。
 さっきもそうだった。あのぴえろの歌がきっかけで、少女の動きがおかしくなった。これは強い催眠術だ。このカフスボタンや衣服に仕込まれた文様で体の動きを奪い、さらに保険としてピエロの歌をスイッチにしている。
 ピエロの歌は終わった。
 空に翻弄され放心してしまった少女が、ぼんやりと空を見上げる。
「大丈夫、もう大丈夫だから」
 空は少女を抱きしめ、何度もそう囁いた。根本的な解決にはならないことはわかっていたけれど、この言葉が少しでも少女の心に届けばいいと願った。


Fin.