<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


■二つ翳りの燈■





(……今年もかしら)
 開店前の店内で、エスメラルダは憂いを含んだ溜息ひとつ。
 黒山羊亭は依頼の斡旋をすることもある為か、子供達が興味のままに訪れることもある。
 そこへハロウィンのような口実が出来れば怖いもの知らずでなくとも勢いに任せての訪問は数を跳ね上げ、酒場とは思えない形の賑わいを見せるもので――いや、踊り子の溜息は子供の訪問そのものを憂えてではない。彼女が憂えているのはそれと重なる危険を憂えてのことだ。
(去年は結局、どうにもならなかった)
 一晩限り。子供達が家々を回る夜にだけ。
 寝床で、テーブルの前で、暖炉の前で、あるいは仲間達と身を寄せて。
 そんな普段。それと異なる行動を子供達が取った夜にだけ現れたその危険。
(結構な人数で探したというのに)
 黒山羊亭で焼菓子を貰ったのが最後だった子供もいた。
 思い出してエスメラルダの瞳は揺れる。
 どうしているだろうか、せめて生きているだろうか。知ることも叶わない
(…………)
 こつりと手入れされた指先の、磨かれた爪で木板を叩く。
 一年前を繰り返さない為に大人達は、浮かれる姿の影で警戒を強めているけれど、世間の裏側に身を置く人々からすればまるで足りていないという。エスメラルダも充分ではないと思っている。絶対に安全だという程の警戒はそもそも無理だろうし、はしゃいだ子供達が大人の言葉をどれだけ聞くだろうか。良くも悪くも子供は大人の完全な言いなりになったりしないものである。
 かといって、だ。
(ハロウィンを禁止なんて出来ないでしょうし、ね)
 一部で止めては不満も出ようし意味もない。全体で止めるにはエルザードは広過ぎる。
 伝え聞いた出来事でしかない人々は一年前の事柄は現実味に欠けるだろうし、単発の不幸だという楽観的な意見も消えはしない。それに結局のところは子供が消える以外にも不幸はあるし、危険は散っている。関わる事がなければ気に留める事柄として優先されることも少なかった。
(……だからって)
 叩いていた爪に力を入れず、板の上で滑らせながらエスメラルダは目を伏せる。
 だからといって自分が同じようには出来ない。関わった者達もそう。
 危険を放置はしておきたくない。当たり前の気持ちのはずだ。とすれば。

「これを頼まないでどうするのかという話だわ」





■二つ翳りの燈■





 いたずら!と弾んだ声。驚く声は大人のもの。弾んでいたのは子供のもの。
 そこかしこで悪戯かお菓子かと問う楽しそうな声がする。擦れ違うのは小さなオバケ。仮装を見せ合いながらあちらこちらの扉を叩いては、出て来る大人に手を差し出す。時折には街角に立つ大人にまで声をかけて悪戯を仕掛けることもある。先程の声のように。
 千獣は方々で起こる小さな騒ぎにほんのり瞳を和ませながら、街を歩いていた。
 手には飴の入った包み紙。子供にあげる為に買ったのではなくて、出掛ける途中の知らない御婦人に「あらまあ今日は子供達も無差別よ?ほら分けてあげるわね」と突然頂戴したのである。子供好きなのだろう、うきうきと歩き去ったご婦人は提げた籠の半分くらいを菓子で埋めていた。去り際に「さてお買物」なんて言っていたのに入るのやら。
 いやまあそれはよろしかろう。
 ともあれそういったわけで頂戴した飴で、遠慮のない子供の悪戯を回避――と考えたというよりは単に付き合いよく応じていた千獣。そろそろ包み紙の中身も僅かになるくらいには歩いてきた。向かう先は黒山羊亭。
「……?」
 であるのだけれど、進むうちに千獣はなんとなしの違和感を覚えてきた。強まってきた、と言うべきか。
 のんびりと足を運びながら周囲を見る。普段と違うからと街の人々が見回りをしているというのはどこかで聞いたのだが、それにしても、引っ掛かる。紅瞳を巡らせる中の大人達は、子供が目の前を走り過ぎるのに声をかけて笑う。その違和感。一人二人と見ていれば、確かな緊張を見出した。子供に向けての悪意からではないことは知れるのだけれども。
 千獣はことりと首を傾げ、普段と違った色味の灯火が照らす髪を揺らした。

 それは、子供達が、いつもと違った出来事に心を弾ませていた夜のこと。



 ** *** *



 耳を掠めたのは風を裂く音。二つ、三つ。
 ざ、と土を蹴って千獣は身を翻して木々を潜った。
 濁った声が離れたところから途切れ途切れに聞こえ、その方向を確かめて移動する。
 指笛だろうか。甲高く響いた音。続いては吠え猛る声。犬――だろうか。
(多分)
 過ぎった疑問を胸中で片付けて千獣は更に足を動かす。。
 狂ったように吠えて駆ける音が森の静寂を掻き回し、崩していく。
 距離を測る。遠すぎず、近すぎず。千獣がその気になれば巷の犬に追いつかれるわけもないのだけれど、引き離すのもよろしくない。遠くの泣き声を耳に捕えたまま、犬とその主をひきつける。あちらは遠い、こちらの方がまだ近い、と。招いて引き止める。飛来した矢を掌で受け止めれば、鏃が甲を抜けて血に光っていた。折って、抜き捨てて。塞がるまでの間に流れ出た血が滴るまでに、犬が群がる。
「……ッ……」
 離れた場所に弓を持った猟師らしき風体の男。
(怪我がない)
 千獣が僅かに驚きを滲ませて瞳を見開いたのは一瞬だけ。
 犬を振り払う。勢いが良すぎて立てられた牙が肌を裂きながら抜ける。
 だがそれを気にすることもなく、千獣は猟師へと一息に距離を詰めた。呪符が煽られて忙しなく音を立て、それ程の勢いで振り抜いた腕は過たず猟師を打つ。にやにやと笑っていた猟師は倒れるまでずっとにやにやと笑い、倒れてからもにやにやと笑っているままだ。縛り上げたはずの男を千獣は黙って見下ろすが、長々と思案するのはやめる。
 ざ、と再び土を蹴って千獣は猟師と犬を置いて更なる森の奥深くへと駆け出した。

 遠くから途切れ途切れに届く泣き声を、まずは目指して。

 おそらくは街で大人達が覗かせていた緊張、感じ取った違和感にこれは関係があるのだろう。
 懐に収めた包み紙に知らず手を触れながら千獣が思い出したエルザードの空気。自分は黒山羊亭に向かっているところだった。
 それがこんな森の中という状況になったのはさて何故なのか。
 仮装した子供の集団に「これあげる」と頂戴した飴――どこぞの御婦人から頂戴した渡したので交換というべきかもしれないが、ともあれその飴を転がしていたところだったのだけど。合言葉もそっちのけで勧めてくれた飴は確かに美味しかった。美味しかったが、思うにその飴こそが現在の状況に繋がるのであろう。なんといっても、口中で転がすうちに呼ばれたように感じたから、それが気になって確かめに動いてみたから、結果としてくして森の中を走っているのだからして。
(もう少し――近くなった)
 枝を蹴って跳ぶ。一際大きく聞こえた泣き声でおおよその位置を掴めば、猟師よりも犬よりも、声の主を優先するつもりだった。いやそれ以上に、猟師よりも先に声の主に辿り着かねばならないのが確かであると知れていたからだ。
(こっち)
 森の中を移動することには慣れている。あるいは先刻までのように土を蹴っていても充分だったかもしれない。けれどわざわざ無駄に痕跡を残して回りたくもない。何が呼ぶのかと探してみる間に入り込んだ森は千獣の知る森とは違っているのだ。どうにも生の気配に欠けているこの場所で、自分一人ならばともかく他の誰かが居るのであればそちらをどうにかしてやりたい。
「――ぁん――ぉさぁ――」
 声が近くなる。引き攣れた子供の声は、凶器のような甲高さで、痛々しい。
 その高音の中から犬の声を確かめる。近場にはまだなかった。とはいえ油断も出来ないけれど。
「どこぉ、どこ、おかぁさーん!」
 膝を折って地に下りる。包帯や呪符の上にくっついた葉を払いつつ歩み寄る先には子供。可愛らしい仮装は絵本に登場する妖精だろうか。迷子の小さな妖精。しゃくりあげる手が目を覆っている、その前まで控えめな足音を立てるようにして近付いた。現れた人の気配にぐしゃぐしゃになった顔を上げる子供。
「大丈夫、だから」
 包帯も呪符もハロウィンの仮装と思ったのか、暗い森で独りきりという恐怖が勝ったのか、泣き濡れた瞳で見上げるだけの幼い頭にそっと手を乗せてやる。ゆるりと撫でて告げた言葉を飲み込むのには、僅かの時間が必要だった。
 そんな僅かな時間も待たない輩。
 ははは、は、ははははは、
 調子の外れた笑い声よりも先に風を裂くのは放たれた矢。
 犬の声は聞こえなかった。遠くからの吠え声だけだった。
 子供を抱え込んで射抜かれた千獣は、息を詰めた腕の中の子をまた撫でて「大丈夫」と繰り返す。大丈夫、帰れるよ、一緒に帰ろう。猟師から視線を逸らさないまま何度も繰り返す。錯乱するかと思いもした子供は息を滞らせながらもひしと千獣にしがみついた。これなら守り易い――増えるまでは、拾い上げていた別の声のもとへ向かうまでは。
 子供が一人ではないことは森に響く声でわかっていた。より切羽詰った様子であるからこちらにまず向かったのだ。もう一人が犬に見つかっているのならば、この猟師をここでどうにかするよりも助けに向かった方がい。目の前の男ときたら、足を潰したとしても再生しそうに思われる、いいや実際負傷させても癒えてしまっているのだから。
「行こう」
 ぎりりと奇妙に鮮明な弦を引く音を聞きながら千獣は腕の中の子供に告げる。
 あえて猟師に背中を向けて走り出せば、つられて放たれた矢が肩に突き立った。けれどその程度で足を緩めるわけもなく、ぐんと勢いをつけて地を蹴り駆ける。目指すのは犬の声の方向。追い立てるだけで襲ってはいないのだろう。吠え声が途切れたままになることはない。
 狩るのは猟師の役目――楽しみということか。
 瞳に怒りを暗く滲ませながら千獣は子供を守って走る。思い出されるのは最初に見つけた小さな、事切れた小さな、貫かれて刻まれた小さな、小さな骸。迷い込んだのか、引き寄せられたのか、森を訪れて狩られたのだと思わせる遺骸だった。朽ちかけて転がるそれを見たのが何日も前のような気がする。その後も幾つ見つけたことだろう。
(こんな、悪戯に……楽しみで、命を)
 ざわざわと身の内の獣達が千獣の怒りを感じ取っては蠢くようだ。力を入れ過ぎそうになる腕を押さえて千獣は、抱えた子供に幾度も幾度も宥める声をかけながら木々の間を抜けていく。枝葉が掠める度に細かな傷が千獣の肌を裂き、癒えていく。癒える端からまた傷はつく。それを気に留めるような千獣ではないから速度も何も変わらない。
「……いた」
 駆ける速さが速さだ。
 犬が猟師の下へと追い立てていた子供を守るように割って入るのも程無くのこと。
 猟師はまだ遠いはず。乱入してきた千獣へ飛び掛った犬に容赦なく反撃する。猟師と同じか、猟師に引き摺られたか、犬もまた傷は薄れて塞がっていくようだった。だからすぐには動けないような攻撃を。抱えた子供と背後の子供からは幸い見えなかったので、それだけのことが出来た。
 それから抱えた子供が犬を見ないように気をつけながら振り返って身を屈める。散々走って息が切れている子供が涙の跡もくっきり残して千獣を凝視しているのに、こちらにも「大丈夫」と告げて抱きかかえた。緊張は一瞬で、あとはひたすらしがみつく子供。これで両腕が塞がったわけだけれど、背後からはどうにもくちゃくちゃと嫌な音がしているし、下手に相手をせずにおくべきだろうから問題ない。なによりもまずは子供達を無事に帰してやりたい。そう思うから千獣は塞がった両腕に力を込めて子供をしっかり抱え込んだのだった。



 子供達がきゅうと目を閉じていてよかった。そんな風に思われる。
 どうにも感覚を狂わされているような森の中、それでも少しずつ端へと向かいながら見掛けるものは気分の悪いものばかりであった。獣達が生きる為に食らうのとは違う、ただ殺しただけで転がされているものがどれだけあることか。それを見るには抱えた子供達はまだ幼い。街で平穏に過ごして来ただろう年少者が見るには辛い。
 幾つも幾つも、それを見つけては置いて駆けていく。腕の中に生きた子供を抱えて。
「そのまま、目を閉じて、いて」
 犬をこれも何度目か。蹴り飛ばして仕留める。膝下を背後から穿つ矢に瞳を鋭く滑らせて位置を見れば、どこにもいない。少なくとも普通の猟師ではないだろうが、そもそも猟師の形を取っているだけの何者かであるか――とはいえこの状況にもなって、正体がどうこうというのは関係なかろう。素早く屈んで矢を抜き取ると、千獣は子供を抱え直した。背中はともかく足に矢が刺さったままでは動きがおかしくなりかねない。子供に万一があってはたまらなかった。
「掴まって、いて……ね」
 滴る血が匂いを広げる。塞がるまでの少しの時間だけ。
 それにも怯える子供達にゆっくりと語りかけた千獣は機敏に立ち上がると、また走り出した。
 出来るならば猟師を完全に倒してしまいたい。己が生きる為ならばともかく、そうではない、楽しむだけの狩りは許し難いことだ。けれども――子供を隠れさせて息の根を止めもしたというのに気付けば追ってくる。ただ狩る為だけに、楽しむ為だけに。死傷を無視して再び動く。そうして追ってきては弓の造りからは有り得ない程の遠くから矢を放つ。笑う。反撃に転じても笑う。狩りを楽しみ獲物の抗いを楽しみ、笑う。そんな相手を完膚なきまでに消し去る技能を千獣は持ち合わせてはいない。だから子供を守ってひたすらに逃げ、森の端を目指すのだ。
 これは勘であったのだけど、森の端に至れば街に戻れるような気がしてならない。
 走る合間合間に子供達から聞けば、街を出た記憶もないというのだ。千獣にも、呼ばれている気がするという感覚を辿った記憶はあっても街から移動した記憶はない。何某かの仕掛けなりでも不思議なりでも、とにかく何かがあるのではないか。そんな風に。
 だから千獣は森の端をただただ目指して駆ける。



 ** *** *



 いつかは辿り着くものだった。
 森の端。そこに至れば向こう側に街がある。見慣れた、街の中が。
 不自然な繋がり方なのだけれど、千獣の腕から地面に下ろされた子供達にはどうでもいいことなのだろう。安堵を混ぜ込んだ声を上げた。下ろしたばかりで触れたままの手を千獣はそっと離す。ぱちりと瞬きを零す子供達。並んで森を出るために手を離したのではないのだと、察してか怪訝そうに千獣を見た。それにそっと微笑んで頭を撫でてやる。
「……本当は……街まで送ってあげたい、けど……」
 そんな千獣の申し訳無さそうな声音に子供達はぶるぶる首を振って。
 汚れてしまったハロウィンの仮装。それを纏った子供達は並んで森に背を向けた。
 小さな後姿が更に小さくなっていく。
「…………」
 千獣はそれを見送ることもなく、街に消えるところまで確かめると紅瞳をぎりと厳しく引き締めた。
 立ち上がって音を拾う。本当ならば最後まで送り届けるつもりだったのを、この得体の知れない森の狩場から出るまでで終わらせた理由が残っている。増えた、と言うべきか。優れた聴覚で捉える幼い声と獰猛な音。奥歯に力を込めて唇を引き、千獣は再び森の中へと駆け込んだ。背の矢傷ももう見当たらない。再び作るときにはまた腕の中に子供を抱えて駆けるとき。
 こんな森に子供が招かれ狩られるなどという状況、自分が辿り着けた理由。
 そういったものも気にはかかるが、それは後からでも出来る。
 だから今は――救える相手を森の外へ。
(あとは、それから)

 街で子供から貰った『飴』の味がふと、口中によみがえったようだった。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【3087/千獣/女性/17歳/異界職】

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■         ライター通信          ■
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お待たせして申し訳ありません。ライター珠洲です。
猟師の方向で進んだ話は論外な設定だったというものになりました。
お楽しみ頂ければ幸いです。