＜東京怪談ノベル（シングル）＞
風と巡る日
懐かしい夢を見て、目が覚めた。
「…………」
ゆっくりと瞬きを繰り返すと、薄暗い視界にようやく見慣れてきた天井が映る。
シノンは布団をかぶったまま身を起こし、探るような手を窓へと伸ばした。
ほんの少し開けただけなのに待っていたかのように飛び込んでくる、明け方の冷え切った空気。
凍えそうなそれを思い切り吸い込んで、まだ完全には覚めていなかった身体をぶるりと大きく震わせた。
「うう、寒……！」
わかっていてやったことだが、そう言葉にせずにはいられない。
言葉と共に吐き出した息は、瞬く間に空へと消えていった。
ベッドに残るぬくもりが名残惜しくはあるものの、じっとしていてはまた夢の世界に誘われてしまう。
シノンは諸々の誘惑を振り切るようにベッドから抜け出すと、肌に沁みる寒さにまた身体を震わせながらも、手早く着替えを済ませた。
彼女がいつも身に纏っているウルギ神の正装ではない、質素なワンピースとエプロンだ。
続いて、以前よりもだいぶ伸びた髪を軽く梳き、慣れた手つきで一つに纏める。
身支度を整えるまで、さほど時間はかからない。最後にその姿を鏡に映して確かめれば、満足げに笑って頷く顔がある。
「……今日も、たくさんのよき風に巡り会えますように」
空はまだ薄暗く、多くの人々がまだ夜明けを待ちながら眠りについている、そんな時間帯だ。
シノンの朝は、そんな多くの人々よりもほんの少しだけ早く始まる。
「おはようございまーす！」
「おはよう、シノン。今日も早いな」
食堂へと顔を覗かせると、シノンの姿に気づいた宿の主人がそう声をかけてきた。
「それは、あたしより遅く起きてきた人が言う台詞だと思いますけど！」
そうして、響く笑い声。
暖炉には火が入れられており、ぱちりと爆ぜる炎が先程感じた外気の冷たさを忘れさせてくれた。
台所へと駆け込んでいくと、すでに朝食の準備が始まっている。
「おはようございます、女将さん！」
中で準備をしていた女将もまた、シノンの姿を見て屈託なく笑った。
「おはよう、シノン。今日も寒いだろう？」
「はい、本当に。……息をしただけで目が覚めました」
「だろうねえ。この辺りの冬はいつもそうさ。そろそろ雪も降るだろうし、そうなったらもっとうんと冷える。寒かったら、布団を増やすから言っておくれ」
「ありがとうございます！ ……せっかくだから、お願いしちゃおうかな」
ほんの少しばかり気恥ずかしげに呟いたシノンに、女将は笑いながら大きく頷いた。
「それがいいよ。遠慮することなんてない。そうだ、せっかくだからチャイを入れてくれないかい、シノン。じきにパンも焼けるからね」
シノンが聖都エルザードを旅立ってから、およそ半年が過ぎた。
ベルファ通りの外れにある小さな孤児院で、シノンはかつてたくさんの子供達――家族と共に暮らしていた。
己自身を磨きつつ、子供達の成長を見守る生活。
ずっとこんな日が続くかもしれないと思えるような、とても穏やかな日々だった。
だが、時が経つにつれて――シノンの心の奥深くでひそかに芽を吹き始める、確かな想いがあった。
それは、この広い世界を知りたいという、純粋な想いであり、願いだった。
たくさんの人々と出会い、触れ合って、“風”を感じ、伝えたい。
ウルギの風のように世界を巡り、シノンだけの“風”を紡ぎたい。
その想いは、遠い昔からずっと彼女に寄り添って、共にあった。
応えるために必要だったのは、ささやかなきっかけと、背中を押してくれる手だった。
そのきっかけと背を押してくれる手を受けて、シノンは慣れ親しんだ都を、大好きな人々の元を離れた。
不思議と、不安な気持ちはなかった。
背中を押してくれた義兄や子供達――そして、彼らが待つ『家』がそこにあることを、知っているからだ。
どこにいても“風”は吹いている。
例えば、今、シノンの側を通り過ぎた風は、明日には聖都にいる彼らの元へ届くかもしれない。
きっとそうして、世界は巡ってゆく。
だから、何も不安に思うことなどないのだ。
そんな風にして、『少し長めの旅行』に出た彼女は現在、聖都より遠く離れた街道沿いの小さな村で、新たな日常を過ごしている。
街道に面しているため多くの人々や物資が行き交うこの村は、旅人達にとっては言わば旅の中継地点の一つだ。
シノンにとってもそんな通過点の一つとなる予定ではあったが、この辺りでなけなしの路銀が尽きてきていたのも事実だった。
幸いにも、中年の夫婦が営む村で唯一の宿で住み込みで働くことを許され、今に至るというわけである。
ここに宿を借りるようになってそれほど経ってはいないが、それでもすでに多くの旅人達をシノンは見送ってきた。
そしてこの日も、朝の訪れと共に宿を後にする旅人の姿があった。
「お世話になりました」
快晴の空の下、そう言って深く頭を下げる青年は、エルザードに向かっているのだという。
「道中、長いからね。気をつけるんだよ」
そんな言葉をかける主人と女将の傍らで、
「ウルギの祝福が、あなたの元に吹きますように」
簡易的だが、慣れた手つきでシノンは祈りを捧げた。
その仕草に、青年がふと首を傾げる。
「……ウルギというのは、きみの信じる神か？」
シノンは大きく頷いた。
「ええ。春風と恵みの神、ウルギ神です」
それを聞いた青年が、どこか納得した様子で晴れやかに笑ってみせた。
「風の神様か。そうか。……だからかな。今朝の風は、いつも以上に心地よく感じる。……ありがとう。この先も、いい風が吹きそうだ」
告げられた言葉に何度か目を瞬かせてから、シノンも同様に笑みを綻ばせる。
「……あたしからも、ありがとう。気をつけて！」
二人の間に、穏やかな“風”が吹いた。
別れを惜しむ暇もなく、見送りを済ませれば掃除に洗濯にとシノンは宿中を駆け回る。
時に鼻歌を交えながら、孤児院で過ごしていた頃に培った腕をここぞとばかりに発揮して、一部屋ずつ丁寧にすみずみまで磨き上げてゆく。
そうして新たな旅人を迎える準備を整えたら、次はもう夕食の支度だ。
酒を飲みにやってきた馴染みの村人や、宿を求めて訪れた新たな旅人と挨拶を交わして、女将と共に作った料理を次々にテーブルへと運んでいく。
「シノン！ 旅人さんにひとつ、チャイを作ってやってくれないかい」
「はーい！」
寒い冬にはもってこいの、シノンお手製のチャイは、いつしかメニューの片隅に名を連ねるまでになっていた。
一日の仕事を終えて部屋に戻る頃には、すぐにでも夢の世界に旅立てそうなくらいに疲れ切っているのが常だ。
だが、一日の終わりを迎える前に、もう一つやっておかなければならないことがある。
シノンは、机の上に置いてある日記帳を広げた。
新しいページを開き、今日の日付と天気を書き込んでから――思案顔で視線を巡らせた後に、ゆっくりとペンを走らせ始める。
綴られてゆくのは、目を閉じればたやすく忘れてしまえそうな、ありふれたと言ってしまえばそれまでの、何気ない日々の出来事ばかり。
けれどもそれは、今のシノンにとっての大切な『日常』だ。
そして、最後には決まって、ウルギ神への感謝の言葉とこの一文が添えられる。
――明日もまた、素敵な風に巡り会えますように。
こうして、明日もその先も、新たな日常となったシノンの日々が続いてゆく。
Fin.
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