<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
『銀色の夜、心は水面に揺れる事はなく』
噎せ返るような血臭の根源はまだ生温かい湯気を立ち上らせていた。
壁にべたりと貼りついたピンク色の肉塊はずるずるとずれ落ちて、床に沈む。
どす黒い血はまるで自身から失われたそれを求めるように床に沈んだ肉塊へと伸びていく。
いや、待て。
血液はアメーバのように肉塊を飲み込んでそれを消失させ、そしてビデオを逆再生するかのように今はもう動かないただの肉の塊へと戻った。
そして、べこりとへこんでいた腹が膨れ上がり、
白目をむいていた眼が、ぎょろりと動いて、一点を見つめ、
そうして、
この世の全てを呪うかのような、
一瞬のうちに自分の身に起きた事の全てを悟り、それを嘆くような、
悲鳴とも、嗚咽とも、声にならぬ音を奈落の底へと繋がっているような魂の奥から迸らせて、
それからそのブロンドの男は立ち上がった。
首が180度回った状態そのままで。
――― 銀色の夜、心は水面に揺れる事はなく ―――
まったく良い夜だ。
昼間、あんな事さえなければ今頃は丘で手に入れた上物の秋ブドウ酒を片手に他の船員たちとくだらない与太話に華を咲かせていただろうに。
かすかな銀色の光を眼下の海に投げかける下弦の月は冬の空気が澄んだ夜空にあって、それに追随するかのように瞬く星々の歌もまた美しい。
旅人たちにいつも自分の進むべき方向を指し示す北極星は月に寄り添うような場所で輝いているけど、今のサンディーにはそれが指し示す方向が果たして本当に正しいのかどうかがわからない。
いや。サンディーの船は目的地であるエルザードの港に確かに向かっている。
それは星の位置を見れば明白だ。件の港への航海は難しい物ではない。危険な海域などはなく、海賊の類もエルザードの屈強な海軍が眼を光らせているあの海域では現れることはない。注意する事と言えば急な天候の変化か。しかし、サンディーの船に乗っている航海士は優秀だ。ちょっとした風の湿り気も見逃さない。彼が居ればこの船はどのような海域でも帆を張る事は出来るとサンディーは信じている。無論、サンディー自身の航海術も超一流。よっぽどの事でもない限り、この船が沈むことは無い。
そう。つまり、この船にだって沈む要因はあるのだ。そのよっぽどの事が起こらない確率はゼロではない。
そしてそのよっぽどの事がこの船で起こりつつある予感が、サンディーにはある。
サンディーの胸の中にまるで数え切れないような虫が居るような感じがして、そしてそれがまるで違う方向を見てざわざわとざわめいている。それが、気持ち悪い。落ち着かない。
「ほんと、やになるわね」サンディーはワイングラスに注いだ秋ぶどう酒を揺らしながららひとりごちた。
秋ぶどう酒はサンディーに心地よい酩酊感などいっさいくれず、異物が舌の上を転がり、喉から胸に落ちて、胃に溜まっていくだけの嫌悪感しかもたらさない。
サンディーは深く深くため息を吐き、上質の秋ぶどう酒が入った瓶の栓をして、傍らの樽の上に置かれていたグラスの秋ぶどう酒は、夜の海にくれてやった。
それはかつてサンディーと共に船に乗り、海に消えていった仲間たちへの鎮魂の酒であった。
船が、揺れた。大きな波がひとつ来た。まるでサンディーの想いに海が応えたように。
否。それは始まりの前兆だった。
凪。船の揺れが消えた。
サイレント。音が消えた。
闇。先ほどまで夜の空にあった月も星も無くなった。
それが、そいつが現れる時の前兆なのだ。
何から何まで噂に聞いていた通りだった。そいつの事は船乗りの間では有名だ。
船幽霊。かつてこの世界の神に近づくことを夢見て修行していた神官が居た。しかしその神官は海の事故によって命を落とした。それから、海に縛られたその神官の魂は船幽霊となって、海を行く船の乗組員の前に現れては、その姿になってまで徳を高め己が魂を神に近づくために神託を与えるようになったのだ。
それが今、サンディーの目の前に現れた。
いよいよこの航海がきな臭くなってきた。
船幽霊が与える神託は死神が与える死亡宣告と同意であることは船乗りにとってはもはや周知の事実であり、そしてそれが現れたその船は確実に沈没している。
苦笑いを浮かべたままサンディーはやれやれと天を仰いだ。きっと、そこに居るはずの神はもう寝ているに違いない。
+++
食料と飲料水の補給を終えて出港は3時間後。そう部下たちに言って、サンディーは陸に下りた。
エルザードの港へと向かう船の過半数が立地的にこの港で補給をする。自然、この港には酒場から床まで船乗りの男たちを喜ばせる店が数多く存在し、そしてその酒場はそんな数多く店が隣接する場所の片隅にあった。
潮風のせいで金属製の蝶番はすっかりと錆びていた。扉は堅くなかなか開かない。苦労してサンディーが開けようとしていると、しかしその扉は内側から難なく開かれた。
サンディーは視線を自分の腰ほどの位置に向ける。さきほどまで蝶番があげていた耳障りな音そっくりのかすれた声で、「なんだい、まだ生きていたんだね、坊や」
口は悪いが表情は極上の笑みを浮かべて老婆はサンディーの手を取った。
安全な航海などこの世に存在などはしない。顔に刻んだ皺の数以上の船乗りたちの死を見てきた老婆はそれを知っている。今、サンディー・ララが半年振りに自分の前に現れてくれた事に感謝して、老婆は彼を自分の店に招き入れた。
「そっちこそ、まーだしぶとく生きてんのね。おかげで今日も繁華街の綺麗な若いお姉ちゃんたちが居るお店に行けなかったじゃない」
「ふん、何言ってんだい。若いだけで他に取り得の無い小娘どもなんかに明日も知れぬ海の男たちを本当に満足なんかさせられるものか」
「あーら。でも、男が最期に思い出す事は最後に抱いた女の温もりと柔らか味だと思うんだけどね」
「なんだい、その卑猥な指の動きは。知ってるかい? 繁華街の女たちのあの膨らみは贋物なんだよ?」
「はん。すっかりと干からびた乳房ぶら下げてる女が他の若い女の乳房を語んないでよ」
「それこそ何言ってんだい? あたしの胸はまだまだ現役だよ。赤ん坊から爺さんまであたしの胸に夢中さ。何なら今晩こそ、試してみるかい、サンディー?」
「残念。僕の船は3時間後にエルザードの港に向けて出港よ」
「そりゃ、惜しいことをしたね」
「命拾いの間違いでしょ」
老婆はまるでサンディーがここに来る事を予め知っていたかのように温かな湯気を立ち上らせる蜂蜜酒の入ったマグカップをカウンターに座った彼の前に置いた。
サンディーはどうも、と口にし、それをひとくち飲む。
喉から胸に落ちた温かみはそれだけで冬の外気にすっかりと温度を奪われていた体と魂に心地の良い温もりを与えてくれる。
「ねえ、いい加減、あの扉、替えたら?」
蜂蜜酒を飲みつつ、マグカップを持つ方の手とは反対の手で背後の扉を指差す。
「ありゃ、死んだ亭主が作ってくれた扉でね。替える気は無いよ。もっとも新しいあたしの旦那が嫉妬してプレゼントしてくれるってーなら、話は別だけどね」
老婆のウインクに、サンディーはおどけて身体をぶるりと大きく震わせて見せた。
「何が悲しくてぴちぴちの僕が干からびた老婆の慰み者にならなきゃなんないのよ」
サンディーの前に干物が置かれる。
「あたしはこの干物と同じ、噛めば噛むほど味が出る干物だよ」
「噛む気にすらなんないわよ」
「食わず嫌いはいけないね、坊や」
「結婚といえば、」
「孫娘は先月、嫁いだよ」
にやりと笑って老婆は、ふられたね、とサンディーに付け加えた。
ふーん、と言いつつ美味そうにサンディーは干物を口に入れる。
「あの小娘がねー」
そう口にする彼の顔は昔に想いを馳せる優しい兄のそれだった。
十歳のころから知っている彼女が嫁ぐとは、嬉しいやらなんとなく寂しいやら。ここに来る度に玩具をねだっていた子どものころの彼女。年頃の娘になってからは首飾りやら胸飾り、綺麗な服なんかもねだられたっけ。口癖は、「サンディー、結婚して!」
「ざまあみろ、サンディー。こんな可愛くって優しい良い娘を逃しちゃって惜しいことしたね」老婆が若い声を装って言う。
思わずサンディーは蜂蜜酒を噴出して、それから、「やめてよー」、とけらけらと笑った。
それから他愛も無い悪口のラリーをして二人は酒を楽しんだ。
暖炉で火がぱちりと爆ぜる。
「行くのかい?」
「ええ。もうそろそろ出港の時間よ」
サンディーは小さく肩をすくめる。
それから、何かを思い出したように港の方を見る。
「そういえば性質の悪い密輸事件があったって?」
「性質の悪い、というかよく訳のわからない事件さ」
わずかにサンディーの右眉の片端があがる。
彼女はこの港の情報を熟知している。その彼女がよくわからないという事件とは。
「どういう事よ?」
「ネクロマンサーの魔水晶」
サンディーの右眉の片端が跳ね上がる。
それから彼は深々とため息を吐いた。
「そいつはまあ、本当に性質の悪い事ね。まったく。船乗りにとってそれは自殺行為よ?」
「そう。しかもこの密輸事件は会社ぐるみの行為よ」
「会社ぐるみ?」
「そう。豪華客船をいくつも所有する会社。これが何を意味するかわかっているかい?」
「すくなくともその件の会社が正気の沙汰じゃない、って事はね」
「で、信じられない事にその件の会社は自分たちが密輸事件を犯した事を認めているのよ」
いよいよサンディーは盛大に大仰なため息をどっと吐いた。
つまりそれは―――、
+++
裏にもっと大きな秘密を抱えているということね。
にわかに港は騒がしくなった。
誰もが手に持っているニュースペーパーは彼女の手にもある。
それには件の会社が会社ぐるみで【ネクロマンサーの魔水晶】を密輸しようとしていた事が記載されていた。
だが果たして先ほどコティが心の裡で呟いた真理にいかほどの人間が気づいている事だろうか?
豪華客船をいくつも所有し、それを運航させる会社が【ネクロマンサーの魔水晶】を密輸しようとしていたなどというスキャンダルは会社を倒産させるに充分なインパクトを持つ。それを認めた以上はこの会社が傾く事は必至だ。ならば、この会社はどうしてそんなスキャンダルを認めたのか? あれだけの大きな会社だ。情報操作などお手の物のはずだ。なのにそれをしなかったという事は、
裏にもっと大きな秘密を抱えているという事だ。
―――それを隠すために、この件は、認めたという事か。
しかもおそらく軍上層部も巻き込んで。
「上手くありませんわね」
コティは顔を左右にふった。
それから懐から取り出したチケットに眼を落とす。エルザード港行きのその船は件の会社が運行する豪華客船だった。もっともこうなってはその船もこの港を出港できるか疑わしいものだが。
「いえ、たとえ出港するとしても冗談では、ないですね」
コティはチケットをくしゃっと握りつぶした。
夜。港町の外れにコティの姿があった。
辺りに明かりは無く、光源は頭上にある月と星だけだった。それすらも心許無い。しかし、この場合はそれでよかった。灯りの落とされた店が立ち並ぶそこはこの町でも貧しい部類の人間が屯する区域で、注意を払えば周りの闇からいくつも少女の未成熟な肢体を見据える視線がある。
湿気を帯びた冬の夜気がコティの体内に侵入してくる。まるで体内から溺れるような錯覚を覚える。
夜の闇に半分以上溶け込みながら、コティはもう店仕舞いをしているはずの薬局に入った。
蝶番が静かに金属音を鳴らせる。
こもっていた空気は埃臭く、部屋の片隅には蜘蛛の巣もかかっている。到底、薬を取り扱っている店には思えない様子だった。
コティは薬局のカウンターの椅子に腰を下ろした。
空気が、揺れた。
「12番の箱に報酬を入れてもらおうか」
闇から声がした。主は、きっと、コティの目の前にある薬品棚の裏に居る。気配の消し方、足音を立てない足取り。なるほど、なかなかの兵のようだ。
コティは言われた通りに報酬を12番の箱に入れた。
満足げに誰かが頷く気配がした。
わずかにコティが眉根を寄せる。
「OK。じゃあ、対価を払おうか。あんたが欲しがっていた情報は、72番の箱の中に入れておいた」
コティは腰を上げ、言われたとおりに72番の箱から一通の封筒を出した。それを懐に入れて彼女は身を翻らせる。
その彼女の細い背中に闇から声がかけられた。
「あんた、相当の美人だね。歳の頃は18。身長は標準で、体型は細身か。けれども、腕は確かだ。なるほどなるほど。若い女の身でこの店に来れた訳だ。そうじゃなきゃ、お嬢ちゃんのような美人はここに辿り着く前に外で屯っている馬鹿どもに押し倒されて、楽しまれた後に身包みはがされて売られているだろうからね」
青い瞳は冷たく闇を見据える。
「見えているの?」
別にこちらの顔を覚えられようがかまわない。ただ、ルールを破られているのがおもしろくない。相手が信用を守らない部類の相手ならば高い金を払って手に入れた情報も信じられなくなる。
「おや、これはおかしいね。肉体的にはあっしの見立てであっているはずなのに、あんたの声から聞き取れる年齢は、ずいぶんと幼く思える。これはこれはおかしいね。お嬢ちゃん、あんた」
男の言葉は最後まで続かなかった。頬をつぅーと血が一筋流れる。一体、何時、どのようにしてその傷が頬に刻まれたのかわからない。だから、彼女はそこまでできるという事だ。背筋を冷たい物が駆け上がる。命の危険を感じた。
「見えているの?」
感情の一切こもらない声。まるで冷たい金属を打ち鳴らせた時かのような澄んだ声がしかし、この時ばかりは死神の死刑宣告を告げる声かのように聞こえた。
「足音だよ。おまえの足音からプロファイリングして言い当てたのさ。こっちとらこの商売長いんだ。これぐらいの事は必須だよ」
「そう」コティは店を後にした。
足音が複数、店の方向から聞こえてきたのは彼女が店を出てすぐの事だった。
コティは小さくため息を吐いて、封筒を捨てた。中の紙は白紙だった。
少女を取り囲んだ男たちは誰もが獲物を手にしている。
「お嬢ちゃん、あんたが強いのは知っているよ。なにせ【ネクロマンサーの魔水晶】を密輸しようとしていた船乗りたちを全員倒してみせたんだからね。それで、お嬢ちゃん。コティ・トゥルワーズ。おまえ、あいつらから何か聞いているか?」
ふぅー。コティはため息を吐く。なるほど、確かにこの男はそこそこ優秀な情報屋らしい。自分が彼らを捕まえて、この港に常駐するエルザードの軍に引き渡した事は秘密となっている。なのに、この男はその事と、それから何よりもコティの名前を口にした。つまりあのエルザードの軍にも情報網を持っているという事になる。
そう。でも、そこそこのレベルだ。
この男は、彼らは、このコティ・トゥルワーズを、どうにかできると思っているのだから。
コティはもう一度小さくため息を吐き、そして頬にかかる髪を耳の後ろに流しながら唇を動かした。
+++
彼はあからさまにコティを見て、不快そうに眉根を寄せた。
サンディー・ララ。昨夜、件の情報屋に彼の命を対価に売らせた情報によると、元海賊取り締まりの護衛艦の乗員で、数多くの海賊を捕まえてきた実績があり、そこを退職してからはララ海運商会を起業し、経営している優れ者。海賊たちは絶対にララ海運商会の船には手を出さないし、また未だサンディー・ララは海軍にもそれなりの影響力を持つという情報だった。
少なくとも人為的な面で安全な航海をしたいと思うのなら、彼の船に乗れば良い。それがあの情報屋の情報だった。
頭に帽子のように布を巻いて、その下の髪は銀髪のショートヘア。青い瞳。褐色の肌。服装は詰襟シャツの上に白い布地の服を重ね着。なるほど、あの情報屋の情報は寸分狂わず。なら、切れ者という情報もちゃんと当たっているのだろうか?
「当たっているのでしょうね」コティはため息を吐きつつ心の裡で呟く。
彼が自分を見てあからさまに眉根を寄せて見せたのはパフォーマンスだ。初見で自分がこの船にとって災厄を運んでくる人物だということを見抜いたのだろう。
少なくとも第一審査は合格だ。
「乗組員以外を乗船させるなときつく言っていたはずだ」
港は件の密輸事件でぴりぴりとしていた。そういう港の空気は得てして時に想ってもみなかった災厄を船に運んでくる。迷信めいた話であるが、事実そういう話は多くあるのだ。だから―――。
サンディーの声に怒気は含まれていない。しかし乗員はさらに萎縮し、心なしか潮の香りを含んだ空気も凍ったような気がした。
波の音がやけに大きく聞こえる。海はこんなにも穏やかなのに。
「すみません。親方」副船長だと先ほど自己紹介してくれた男が頭を下げた。彼を見据えるサンディーの眼がすぅーと細くなる。視線で人を殺せる、という表現を本などで見るが、なるほどサンディーのその視線は確かに精神的に副船長を殺せそうだった。
コティはスカートのひだを軽やかに舞わせて副船長の前に立った。
サンディーの瞳が帯びる感情の色がまた別の物になるのが見て取れるが、それについてはコティは思う物は無い。
潮風になびく髪が頬をくすぐる。それを右手で鬱陶しそうに耳の後ろに流して、髪を押さえながら、彼女は言った。
「エルザードに住む叔母が、病で倒れたと聞きましたの」
最初は副船長以下他の乗員たちもコティの乗船を断った。けれども、このストーリーを聞かせて、彼らの情を誘ったのだ。
「叔母は女手一つで両親の居ない私を赤ん坊の頃から育ててくれて、サンハーラ女学院にまで行かせてくれましたの。私が今ここでこうしていられるのも叔母のおかげですわ。その叔母が病で倒れたと聞いて私、もうどうしていいのかもわからず、学院長様が手配してくれた汽車でこの港まで来たのですけど、この港で何か事件があったらしくて、汽車の到着時刻が大幅に遅れてしまって………」
それで世間知らずのお嬢様は学院長が手配してくれたエルザード行きの客船に乗れず、しばらく途方に暮れていたが、しかし世間知らずは世間知らずなりに勇気を振り絞って片っ端からこの港に停泊する船に自分をエルザードへ連れて行ってくれと交渉した。
―――そういうストーリーだ。
「叔母は、私にとって、とても大切な人ですの」
哀愁を込めてコティは言った。
そしてそんな彼女を見据えるサンディーは、ほんの一瞬だけ意外なことに懐かしそうな表情を見せた。
これは後日談ではあるが、まずコティが話したストーリーの少女は実在の人物で、この港に向かう汽車の中でコティはひょんな事から彼女の護衛をした。叔母を想う少女の気持ちに応えてやりたい、それがコティの理由だった。
そしてその少女が叔母の下から学院に行く時にひょんな事から護衛をしてやったのがサンディーであった。
その事はこれから始まる長い航海が終わり、エルザードの港に下りた時に、サンディーのそう言えばという話から明らかになる。
サンディーはそれでも何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、
「ありがとうございます」有無を言わさずそうこの話を閉めたコティの言葉と頭を下げた行為に、何も言えずに終わった。
そうして船は出港した。コティは宛がわれたゲストルームから出る事無く過ごしていた。ここまでは航海は無事に行われている。
けれども、
「………」
コティは枕の下に隠しておいた投擲用のナイフに手を伸ばした。
誰かが気配を押し殺してこの部屋に向かってきている。自分が安く見られたという想いは無い。夜這いをかけに来たわけでもないだろう。あのサンディー・ララの部下にそういうナンパな男はいないはずだ。なら、
「凝りもせず件の会社からの刺客かしら?」
暗殺ギルドの強者ならばいかにサンディー・ララの船でも容易に密航する事もできるだろう。
押し殺した殺気は、気配は、ゆっくりとこの部屋に近づいてきて、
しかし、
そいつはコティの部屋の前を通り過ぎていった。
けれども、
それは、
それで、
―――コティは小さくため息を吐いて、腰を下ろしていたベッドから立ち上がった。
つまり、この船でコティにはまるで関係の無い事柄で事件が起こるのだ。
安全な航海をするために選んだこの船で、しかし自分は事件に巻き込まれる事になった。
まったく、
「迷惑な話ね」
+++
甲板の上で事件は起こった。部下の一人が全ての救命ボートを海に捨ててしまったのだ。
それはサンディーに他の部下が襲い掛かり、それを取り押さえている隣で起こった事だった。
件の会社の豪華客船がサンディーたちの船の前に現れたのはその時だった。
「あれ、キミが乗るはずだった客船だよね」
「ええ。そのようですわね」
隣で零されたため息は無視して、コティは件の船を見据えた。
夜の闇に半分以上溶け込むそれに人の気配は一切無い。
それの方向から吹いてくる潮風が運んでくる臭いにはわずかだが血の臭いがした。
「読みは当たっていた訳だ。キミ、あの船に乗っていたら、今頃は肉塊になっていたかもね」
それでも、
自分があの船に乗っていたら、
救えていた命があったかもしれない。
まさか、
船の方こそが襲われるなんて。
コティは下唇を噛む。
サンディーはため息を吐いた。
「キミのせいじゃないよ。キミは自分が原因で船が襲われることを避けたかったんだろう? いかに腕の立つキミでも民間人を守りながら戦うのは骨だからね。だから、キミは船に乗らなかった」
コティは横目で傍らのサンディーを睨んだ。
サンディーは肩を竦める。
「本当に海軍は意外と口の軽い人間が多いんですのね。ええ。密輸事件の裏に何かがある。そう思いまして私、船には乗りませんでしたの。こんな事なら、密輸事件を解決したついでにその奥にある事件も引っ張り出せば良かった」
サンディーが口笛を鳴らす。
「まさか、あの事件を解決したのがキミだったとわね」
いつもクールな、普段は無表情なコティがこの時ばかりは眼を丸くして驚いた貌をして見せた。
それから、にぃっと悪戯っ子の表情で笑うサンディーの顔から視線を外した。
コティは予備動作無しに船から飛び降りた。
転瞬、海面から水柱が立ち、それの天辺に立っていたコティは、客船に消えていった。
サンディーはため息を吐く。
「やれやれ。まだまだガキねー。すーぐムキになっちゃって。でも、そういう娘、放っておけないってついつい大人なら思っちゃうものじゃない」
そう言って肩を竦めると、サンディーも船から飛び降りた。
+++
ネクロマンサーの魔水晶。
かつて死霊使いの魔法使いによって作り出された禁断のアイテム。
それは、ゾンビやスケルトンなどを死体から精製する事のできる物で、その作り出したゾンビやスケルトンを使役する事ができる能力も有している。
ネクロマンサーの魔水晶がこのソーンにおいて禁断のアイテムと類される所以はその非人道的な能力だけが理由ではなく、それの呪われた存在が死霊などを呼び寄せることにも起因している。
故に、ネクロマンサーの魔水晶は、このソーンで発見され次第、破壊されることになっている。
ならば、件の会社は、何故、そのような呪われたアイテムを会社ぐるみで密輸しようとしていたのか?
そして、軍から、社長交代のみでその不祥事を許された理由も。
+++
豪華客船は血に染まっていた。
しかし、死体はどこにも無い。
おそらく惨劇が起こったのは昨夜。
船の中は、ひっそりと静まり返っていた。
コティは無表情で船の中を探索するが、どこにも、何も、この事件を解決できるような痕跡は見つけられなかった。
パーティールームの中が一番酷かった。
血臭で飽和した空気はねっとりとしていて、コティの華奢な身体に絡み付いてくる。
冬の外気に先ほどまでさらされていた彼女の白磁のように白い肌に触れた空気が血の滴を垂らすようなイメージ。
そんな妄想を抱かせるほど凄惨な光景がそこにはあった。
ブロンドの髪を半分以上血で汚し、彼は血の海の中で両膝を抱えて震えていた。
「大丈夫ですの?」
彼の肩に触れたコティの指先がぬめりとしたどす黒い血で汚れる。
顔を彼があげる。涙と血と、埃で彼の顔はぐしゃぐしゃに汚れていた。
「助けて…」
ぽつりと彼がいっさい感情がこもっていない声を漏らす。
「死神が、死神が、死神が、この船に居るんだ」
首に巻かれているマフラーが血でごわごわになっている。
「この会社の船は、死神に呪われているんだ」
ネクロマンサーの魔水晶。それがコティの脳裏を横切る。
「会社は客船の保険金を騙し取るために、死神は自分のノルマを水増しするために、かつて客船を沈めた」
コティは双眸を細めた。
「だけど、死神はそれで会社から去らなかった。あいつは会社の船を片っ端から襲った。会社は海軍の暗部に接触してその死神を駆逐しようとして、死神が使役していた人形を破壊することに成功したが、でも、それで死んだ軍人をまた新たな人形として、今も会社の船を襲っている」
「この船のようにですか?」
コティは細い指先に力を込めて、ブロンドの男の首に巻かれたマフラーを剥ぎ取った。そこには歪な傷があった。
+++
滴る水滴は流れるに任せて彼は辺りを見回した。
コティの姿はどこにも無い。自分がこの船に降り立ったのはそう彼女から後れてはいないはずなのに。
まるではぐれた幼い子どもを探し回るように彼は船の中を探し回った。
船内はスプラッタ映画を髣髴させるような酷い状態だった。
死体は、どこにも、無い。
否。海軍時代の彼の経験からすれば、
「ビンゴね」
客船の客と乗員の死体は、船の最下層、船倉に転がっていた。おびただしい血臭と、それから腐敗臭で鼻が曲がりそうだった。
せりあがってくる胃液の苦さにサンディーは苦虫を噛み潰したような表情をする。
おそらくこの船に生存者は居ない。
キーワードはネクロマンサーの魔水晶。
なるほどね。
サンディーはひとりごちる。
銀色の髪の下にある彼の美貌にはおもしろくない、という表情と、何かに対する怒りの表情とが織り交ざった表情とが浮かんでいた。
そう。サンディーは全てを理解していた。
靴が血で汚れる事もかまわず彼はパーティー会場の奥に突き進んで行き、そしてそこにあった大きな柱時計の扉を開いた。
突如、パイプオルガンが大音量で鳴り出した。
中から黒いワンピースを着た幼女が出てくる。黒い髪を飾る黒い大きなリボンが蝶のように揺れる。
「ふふふふ。これはステキな旦那様。いらっしゃい。よく来てくれたわね。あたしからのご招待、受け取ってくれて嬉しいわ。よくあたしがここにかくれんぼしているのがわかったわね」
少女がとても嬉しそうに笑う。彼女は笑いながらサンディーの周りを踊る。
「もうひとりのゲストも今頃は彼によって殺されているはずよ。彼、とーっても働き者で大変満足してるの。でも、もうそろそろ切れ者の新しいお人形さんが欲しくって。それで、世話好きの彼女の影からあなたを見つけて、お誘いしたの」
軽やかな声で少女は頼みもしていないのに色々と喋ってくれる。
サンディーはため息を吐いた。
遅かれ早かれこの船で起こった悲劇はコティの耳に届く事になっていたのだろうが、それが自分の目の前で起こった要因の一つは、まあ、
「僕のせいでもあった訳だ。やだね。僕、あーいうの大嫌いなのよねー。ほんと、ねえ、キミ。この罪は、重いよ?」
と言い切る方が早いか彼の手に半月刀が現れる。
そして、とん、と軽やかにサンディーは床を蹴って、微塵の躊躇いも無く少女に向かい半月刀を振り上げる。
それを振り下ろした。が、ニヤリと口の片端を吊り上げて哂った少女の髪に触れるか触れないかの場所で半月刀は固定されていた。
ギンッ、と少女の黒瞳が見開かれる。サンディーの身体が吹っ飛び、強か彼はパーティールームの壁に背中を打ちつけた。
ゴフッ、と彼は空気の塊と一緒に血塊を吐き出した。今の一撃だけで肋骨の二、三本を持っていかれた。しかもその折れた骨が内臓も傷つけたらしい。
ずるずると壁に張り付いたままずれ落ちて、サンディーはその場に座り込んだ。
死神の少女がくすくすと笑う。
「ああ、大丈夫よ。傷ついた身体は、後であたしがちゃーんと治してあげるから」
「けっこうよ」
サンディーは立ち上がる。
とは言え、立ち上がってもサンディーに打つ手は無い。
そんな窮地を感じさせない余裕の表情を銀色の髪の下にある美貌に貼り付けて、サンディーは唇についた血を舐め取った。
さて、どうする?
そんな彼の意地をあざ笑い、血の海に沈んでいた死体たちがまるでバネ仕掛けの人形のように跳ね上がる。
次々とそれらは機械的な動きでサンディーに襲い掛かってくる。躊躇いの無い、人間の限界など無視した力と動きで。
「冗談でしょ」
そう嘯く声には余裕が戻っていた。
否。最初からサンディーからは余裕は失われてはいない。たとえ死神が相手でもだ。
彼は右耳の【海皇玉・マリンオーブ】を指で弾いた。
転瞬、この船のパーティールームが一瞬で水で満たされた。
+++
副船長の支持の下、サンディーの船は臨戦態勢を取っていた。
その彼らが見たのは、夜の空間に突如、現れた水の柱だった。
+++
甲板の上に降り立ったサンディーを見据えるコティの瞳は冷静だった。
なるほど、コティは別に自分の力など必要としていなかったようだ。
サンディーはため息を吐き、それから、ぼとぼとといつの間にか暗黒色に染まっていた空から降ってくる無数の死体と共に優雅にスカートの裾をふわり浮かせて舞い降りた死神の少女を見据えた。
コティが死神の前に立つ。
死神はくすりと哂い、それから、たんっ、と片足で甲板の床を打ち鳴らした。転瞬、無数の死体が起き上がって、コティに襲い掛かる。
しかし、サンディーは動かなかった。腕組をして、少女の青色の髪に覆われた細い背中を見守る。
薄く形の良いコティの唇が囁いた。
それは幼い子どもにパラッドを聞かせる優しい母親の声のように優しく澄んだ声で、それはまるで全ての事象を癒すかのような温もりを持っていて。
そうして次に起こった事を何と説明すれば良いだろうか?
死神の陰謀に巻き込まれ、魂を一条の光も無い暗黒に飲み込まれた哀れな躯たちの頬を涙が伝ったのだ。
コティは誇る事も無く、水を満面に注いだグラスの淵をそっと指で弾いた時に奏でられる音色の様な声で言った。
「全ての事象を本来のあるがままの姿に帰す。それが私たち水操師。人々の癒しを司る者」
それは死という次のステージに到った人間に対してもそう。
「コティ・トゥルワーズ。己がノルマを水増しした死神とは正反対の存在」
ふっと笑いながらサンディー。
暗黒色の雲に覆われていた空。けれどもそこから差し込んだ一条の光は、哀れな死者たちを縛る死神の呪いを打ち払った。
数え切れないほどの光が空に昇っていく。
それを、死神の少女は両手で掻き集めようとするかのようにして、けれども当然それは叶えられる事も無く、
そうして少女の顔は醜く崩れ、鬼の様な凄まじい凄惨な貌でコティに、肉食獣が草食獣に襲い掛かるように、襲い掛かった。
空中を飛んだ死神の少女に向かい、
コティは慌てることも無く、【高水圧機関砲・ウォーターガトリング】の銃口を向け、
無慈悲にトリガーを引いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ」
ずたずたにされた少女の口から迸った断末魔の悲鳴がコティの獲物の威力を物語る。だが、相手は死神。ずたずたにされ、千切れかけた四肢は、見る間に繋ぎ合わされ…、
けれども、そこで、闇が悲鳴を上げた。
世界は無音となる。波の音すら消えた。この世界で無音などという現象は起こらない。それは人が作り出した場所でだけ起こる事象だ。
しかしそれが起きた。
死神の顔に初めて恐怖が浮かんだ。彼女は幼い子どものように嫌々をしながら、それでもそうせずにはいられないという風に背後に広がる闇を振り返り、それと同時に闇から伸びた巨大な手につかまれ、
ぐしゃり、
少女の全身の骨が潰れた音と一緒に、死神の躯をつかんだ手と一緒に、全ては闇に消え去った。
客船はゆっくりと沈み始めた。
+++
サンディーは組んでいた腕を解くと、右手をコティに差し出した。
訝しげに眉根を寄せるコティにサンディーは苦笑を浮かべる。
「これから長い航海になるんだし、とりあえずはまあ、ご挨拶に、ってね。働いてもらうよ、用心棒として」
コティは青色の瞳を瞬かせて、それから小さく口だけで笑った。
「わかりました。エルザードまでの船賃は労働を対価にして払います」
やっぱりこの男、侮れない。
コティとサンディーは下弦の月の下で握手した。
二人の航海は始まったばかりだった。
――― fin ―――
|
|