<東京怪談ノベル(シングル)>


とある“なんでもない一日”のこと


 千獣はその日、大きな紙袋を抱えながら賑わうアルマ通りを歩いていた。
 袋から顔を覗かせているのは、何とも色鮮やかなとりどりの果物である。
『美味しそうなものをいっぱい』とお願いしたら、彼女が想定していたよりも袋が大きくなってしまったのだが、袋の大きさも詰め込まれた果物の量も、それ自体は彼女にとっては何の問題もない。
 だから千獣は、たくさんの果物が詰まった大きな紙袋を両手で抱えて、通りを歩いていた。
 雑踏の中ですれ違う人の多くは、彼女に目を向けることもなく過ぎていく。
 千獣が何気なく目をやっても、視線が交わることはほとんどない。
 それもまた、千獣にとっては何の問題もない、ささやかなことだった。

「……にごめん――」
 ともすれば騒音に紛れてしまいそうな音を、不意に千獣の耳が拾った。
 何とはなしに聞こえたほうへ目をやると、少しばかり怒っているような女と、ひたすら謝り倒している男の姿が見える。
「もう、今日は絶対大丈夫だって言ったじゃない! 私が、今日をどれだけ楽しみにしていたか……あなただって、わかっているはずじゃない……」
「ごめん! 本当にごめん! 急に、仕事が入ってしまって。でも、急いで片づけて、すぐに戻るから」
「……その台詞、今までに何回言ったか覚えてる? もう……ちゃんと今日中に帰ってきてね。そうじゃないと、鍵、開けてあげないから。……行ってらっしゃい」
 そう言って、女は男の背中をぽんと叩いて送り出した。
「……っ!?」
 千獣が首を傾げながら二人の様子を見ていると、どんっ、と、腰の辺りに小さな衝撃が生まれる。
「あっ……! ご、ごめんなさい! 前、見てなかった! 大丈夫? 痛くない?」
 千獣にぶつかってきた少年が、勢い良く頭を下げてから、おそるおそると言った風に彼女を見上げてくる。
 この人込みの中でぼんやりと突っ立っていたのは自分なのに、ぶつかってきた少年は何よりも先にぶつかった相手である千獣の身を案じてくれているらしい――ということは、千獣にも理解はできる。
「……だい、じょうぶ……痛くない」
 千獣は小さく頷くと、ぶつかった弾みで袋からこぼれそうになったリンゴを少年へと渡して、再び雑踏の中を歩き出した。
 そうしてすぐに、虫取り網やロープを抱えて走っていく青年達とすれ違った。
「あっちの通りで鳴き声が聞こえたって話だ! 狭い隙間に挟まっちまったのかもしれん」
 肩越しにそれを見送って、千獣は歩を進める。
 おそらくは、猫か何かが逃げ出して、『狭い隙間』につかまってしまったのだろう。それを助けに行くのだ。きっと。

 ――そんな風に彼女の側を通り過ぎていくのは、何ということはない、ありふれた風景。
 そこかしこで繰り広げられる、ささやかな日常。
 楽しかったり、嬉しかったり。それから、ほんの少し悲しかったり、寂しかったり。
 何ということはない、ありふれた、ささやかな物語。けれども、二度と出会うことのない瞬間の数々。
 様々なそれらを見つめながら通りを歩いていくと、やがて、千獣の視界に向日葵の形の看板が見えてきた。
「……あった」
 紙袋をもう一度抱え直して、千獣は目指していた建物の前まで来ると、足を止めた。
 両隣の大きな建物に挟まれて、埋もれてしまいそうな小さな店。
 ベルベットクイーン。通称、『向日葵薬局』だ。
 ドアの所には真新しくなった『Open』のプレートがぶら下がっている。
 窓から覗き込むようにそっと中をうかがうと、カウンターに人影が見えた。
「……いた」
 千獣は小さく頷いて、扉を開けた。





「いらっしゃいませ! ……あら!」
「……フィネ」
 カウンターの裏に座り見えない閑古鳥と戯れていたらしい緑の髪の娘が、読みかけの本もそのままに勢いよく立ち上がって来客である千獣を迎えに来る。
「千獣! 千獣ね。お久しぶりね、いらっしゃい!」
 フィネと呼ばれた娘は喜びの笑みを顔いっぱいに広げて、ともすれば千獣を抱きしめてしまいそうな勢いで両腕も広げていた。
 その腕に、千獣は抱えていた袋を託す。
 フィネもすぐに意図は察したらしく、千獣がそうしていたように両腕でしっかりと袋を受け取り、顔を覗かせている色とりどりの果物に、驚いた様子で大きく目を瞬かせた。
「どうしたの? こんなにいっぱい!」
「あの、ね……えっと、お礼。……お土産」
「……まあ、この間の? ありがとう! ……ふふっ、すっかり元気になったみたいで、本当によかった。せっかくだから、お茶でも飲んでいく? それとも、何か必要なお薬はある?」
「あのね、フィネ……」
 千獣はじっとフィネの目を見つめた。
「うん、なあに?」
 フィネもまた、千獣の眼差しを正面からしっかりと受け止める。
「男の、ひと、謝ってる。女のひと、怒って……る。でも、女の、ひと、最後には……たぶ、ん、許して、る。これって……」
 千獣が唐突に語り始めたのは、先程垣間見た男女の二人連れのことだ。
 だが、これだけでは何のことやらさっぱりだろう。けれども、フィネはほんの少し考えるような間を挟んだだけで、あっさりと答えた。
「……よくあることじゃない?」
 千獣は目を丸くした。
「よく、あ、る……こと……?」
 そして、フィネの言葉を繰り返して最後に疑問符をつけた。
 カウンターの上に千獣から受け取った袋をひとまず置いて、フィネは頷く。
「私が何となくそう感じただけだから、実際のところはその二人にしかわからないし、もちろん、そこで殴り合いの喧嘩が始まっちゃったら……それは止めなければならないでしょうけれど」
「……うん」
 千獣は小さく頷いて、続きを促すようにわずかに首を傾げる。
「男の人は、女の人を怒らせてしまうようなことをした。だから女の人は怒った。でも、男の人は……そうね、何て言えばいいかしら。女の人に、許してもらうための約束をした。……だから、女の人は男の人を許した。こんな感じじゃないかしら」
「許し、て、もらう、ための、約束……」
 ぽつりと呟く千獣に、フィネは大きく頷いてみせる。
「自分の要求を相手に押し付けるだけっていうのは、それは、単なるわがままでしかないもの。わがままを言うなら、代わりに相手のわがままも聞かないと。フェアじゃないでしょう?」
「わがままを、聞く……」
「……うん。そうね、わがままと言うよりは、お願いかも。女の人は男の人のお願いに弱いし、男の人も女の人のお願いには弱いのよ。……好きな相手なら、なおさらね」
「好き……」
 フィネの言葉に、千獣は考え込むように黙り込んで、けれどすぐに口を開いた。
「……あの……あの、ね、……フィネ」
「うん、なあに? ……そうね、せっかくだから、お茶でも飲みながら続きを話しましょうか」
 お土産もいただきたいし、と、フィネは果物の袋を抱え上げて、奥へ続く扉へと千獣を促す。
 千獣は素直に従い、そしてフィネの後について奥の部屋へと姿を消した。

 ――それから、お土産の果物に紅茶を添えて、千獣は街で見てきた誰かの日常を、いくつもフィネに話して聞かせることになる。
 あれもこれもと千獣の話の種は尽きることなくたくさんの花を咲かせ、それにフィネが応じるように違う色の話の種を芽吹かせる。
 そんな風にして、久方ぶりということもあって話がずいぶんと盛り上がってしまったものだから、『念のため』とフィネに常備薬入りの紙袋をお土産に持たされた千獣が店を後にするのは、すっかり日も暮れた頃だったとか――



Fin.