<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
白き悪魔の誘惑
聖都エルザードの賑やかな街並みから一歩外れた暗い裏路地を、ジュリス・エアライスは疾走していた。
利き手には剣、反対の手には女の腕。
「ちょっと、ジュリス! わたくしは敵前逃亡なんてご免ですわ! この手を離してちょうだい」
ジュリスに腕を掴まれた少女――天井麻里は、ひらひらした服の裾を翻しながら、先を行く彼女の行動を阻むように腕を振り払った。
「麻里……、あなただって分かっているでしょう? あれは普通の敵じゃない。正面切って戦ってどうにかなるとは思えないわ」
「それは分かっていますわ。けれど、だからといって敵に背を向けるような真似は……わたくしの道理に反しますのよ」
毅然とした態度のまま告げる麻里に、ジュリスは足を止め、ため息を吐きだして、観念したように呟いた。
「……せめて、広い場所へ向かいましょう」
その言葉に、麻里は微笑んでジュリスの手を握り返す。そうして今度は、自らが先陣を切るように、細い裏道を駆け抜けてゆく。
今度は後を追う形になったジュリスもまた、彼女の導きに応じるように呼吸を合わせて、狭い路地を走り抜けた。
そもそもなぜ彼女たちが追われる身となったかといえば、話は数分前に遡る。
街中で偶然出くわした相手――エィージャ・ペリドリアスと名乗った女に、麻里がけんか腰に詰め寄ったのが発端だった。
あの他愛もない会話の何が、麻里の逆鱗に触れたのかは、ジュリスには分からない。
感情に歯止めの利かなくなった麻里が、相手の女に殴りかかろうとするのを、諦めにも似た気持ちで見つめていたのだ。
――しかし。
頭に血が上った麻里が放った渾身の右ストレートを、女はひらりとかわしてみせたのだ。
驚き、振り向く麻里の髪を、エィージャはするりと撫でた。
するとみるみるうちに、彼女の柔らかな髪の端が、ぱきぱきと音をたてて凍りついてゆく。
氷の魔術。
侮ることのできない相手だと判断し、ジュリスは即座に麻里に加勢するため身構えた。
麻里は女のあやつる魔術に驚いたものの、すぐさま態勢を立て直して、相手との間合いを取った。
女が妖しげな微笑を浮かべる。
形のよい唇の端が、ゆっくりとつり上げられる。赤く艶やかな色をした口元は、愉悦に満ち、三日月のようにやわらかな弧を描いていた。
ぞっとするような、凄艶な笑み。
瞬間、女が麻里のほうへ向けて、すっと手を伸べた。
はっとしてジュリスは、麻里の腕を掴み、彼女を傍へと引き寄せる。
『予感』は当たった。
エィージャが高くかざした手のひらを翻した刹那、さながら吹雪のような強い冷気がジュリスたちを襲った。
凍てつく空気の奔流にさらされて、ジュリスと麻里は咄嗟に顔を覆う。
吹き荒れる風がやんだ頃、恐る恐る顔をあげた二人の目に飛び込んできたのは――数匹の、獰猛な魔物たちの姿だった。
全身を雪で形作られたそれらがただの魔物でないことは、二人にも容易に知れた。
雪の精霊だ。
その身体が溶けて崩れてしまうまで、どれだけ斬り捨てようとも容易く傷を癒してしまう、恐るべき存在。
炎の魔術でも使えれば、彼らを退けることはそう難しくなかっただろう。
しかし――。
ジュリスはちら、と傍らの相棒に視線をやった。麻里もまた、彼女を見つめていた。
魔術での応戦が不可能となれば、時間の経過によって雪の精霊が姿を保てなくなるのを、待って叩くしか活路を開く方法はないように思えた。
掴んだままだった麻里の腕をもう一度引き寄せて、ジュリスは地を蹴った。
逃げ回り、時間を稼ぐ。
幸い相手は異郷の者のようだ。城下の地理には、自分たちの方が明るいという自信があった。
退路を猛然と進むジュリスに抗議の声をあげる麻里。しかし彼女の声など聞こえないと言わんばかりに、ジュリスは薄暗い路地に逃げ込み、身を隠したのだった。
ひと気のない、開けた空き地に辿りついたところで、二人はようやく足を止めた。
「ここなら、周りを気にせず戦えそうですわね」
麻里の言葉にジュリスは頷いた。
そして、ゆっくりと振り向き、追ってきた敵と対峙する。
エィージャは、疲労など微塵も見せず、あくまで楽しげに微笑を浮かべていた。
「……さあ、かかってきなさい!」
挑戦的に叫ぶ麻里。その言葉を合図にして、エィージャが従える雪の精霊たちが、二人に襲いかかってきた。
互いに背中を預け、ジュリスと麻里は精霊に立ち向かう。
相手が繰り出す冷気をまとった一撃を軽やかにかわしながら、麻里は振り向きざま、襲い来る獣の腹に渾身の一撃を叩き込んだ。
強烈な蹴りをまともに食らった雪像は、大きな衝撃音とともに崩れ落ち――しかし、エィージャは艶やかに微笑んだまま、余裕の顔つきをしていた。
麻里が眉根を寄せた刹那。すぐさま、雪の塊の破片たちが、意志を持ったように動き始める。驚き身構える麻里の眼前で、一度破壊されたはずの獣の身体が、再び形をなしていく。
唇を噛み、麻里は低い声でつぶやいた。
「やはり、本体を叩くしかありませんのね」
「……ええ」
「ジュリス、雪は任せるわ」
彼女の返事も待たずに、麻里は地を蹴り、瞬く間にエィージャとの間合いを詰める。
そしてその勢いのまま、褐色の肌を惜しげもなく曝した美女の脇腹めがけ、渾身の蹴りを見舞った。
――しかし。
「わたくしに触れようなんて、身の程をわきまえなさいな」
余裕の笑みを浮かべたエィージャが、優雅な仕草で右手を上げる。とたん、彼女の周囲に雪と氷で作られた障壁が発生する。
麻里の繰り出した蹴りと、彼女の防御壁の力はぎりぎりのところで拮抗し――そして、打ち砕かれた。
障壁を破壊した衝撃で、麻里の細い身体は吹き飛ばされる。
「麻里……っ!」
地にうずくまり、うめき声をあげた彼女に、ジュリスは慌てて駆け寄ろうとする。
しかし数体に及ぶ雪の化身に行く手を阻まれ、思うように彼女のもとへは辿りつけない。
そうしている間にも、エィージャは相変わらずあやしげな笑みを浮かべたまま、倒れた麻里の傍へと歩み寄り、地に伏した彼女の髪を掴み上げ、上を向かせる。
そうされてなお、反抗的に相手を睨み返す麻里だったが、そんな態度にさえエィージャは愉悦の感情を抱いたようだった。
「可愛いわねぇ、その顔……もっと苛めてあげたくなっちゃうわ」
くすくすと、嘲笑うような声色のままエィージャは告げる。
そしてそのまま、弧を描いた唇を――麻里のそれに、ねっとりと絡ませた。
「――ッ!」
声にならない悲鳴をあげる。遠くからその様子を見つめるジュリスにも、彼女が何をされているかは理解できた。
しっとりと口づけられた唇から、大量の、冷たい魔力を体内に注ぎ込まれた麻里は、強引に上向けられた顎をがっちりと掴まれながらも、自由な手でエィージャの腕を振り払おうと懸命に抗っている。
しかしそんな必死の抵抗もかなわず、やがて流れ込む膨大な魔力の奔流に耐え切れず、麻里は意識を手放した。
「……口ほどにもないわね」
エィージャはそんな言葉とともに唇を離し、舌をちろりと覗かせた。
獰猛で鋭利な視線を向けられて、ジュリスの背筋に冷たいものが伝う。
逃げ出したい。
けれど――気絶した麻里を置いて、ひとりで立ち去るわけにはいかない。
ジュリスは再び剣を握り直し、果敢にエィージャの前へ立ちはだかった。
「……次は……わたしが相手になるわ」
「へぇ。あんたも、わたくしの餌食になりたいっていうのねぇ」
「麻里から……離れて」
「ふふっ、そんな怖い顔おやめよ。別に、殺しゃしないわ」
ジュリスは地を蹴った。
襲い来る雪の精霊たちを振り払い、エィージャの懐へと潜り込む。
しかし、彼女の胸めがけて一閃した剣戟は、容易く弾かれ、あしらわれてしまう。
それでもめげず、果敢に立ち向かうジュリスの姿に、さしものエィージャも驚いた様子を見せる。
しかし――
「遊びはここまでよ」
高らかに宣言したエィージャが、再び右腕を天へとかざした。
その瞬間――目もくらむばかりの大きな魔力の奔流が、剣を構えるジュリスの全身を襲った。
(……な、に? これ)
ぞわり、と全身を這いあがる悪寒によく似た気配。
寒気。恐怖。
否、そのどれとも異なる気配を、ジュリスは感じていた。
得体のしれない高揚感を伴うその感覚――、眼前が白く染まっていくその感覚。
それは、ジュリスにも覚えのある、『あの』瞬間に、とてもよく似ていた。
(まさか。そんな……、っ、……)
「――ご、めん、なさい」
不快と快の境界さえ曖昧になった、遠ざかる意識の端。
ほとばしる激情に翻弄され、無意識のうちに身体を震わせながらも、ジュリスはぼんやりと考える。
目に見えないエィージャの『力』によって、私は今――侵されているのかもしれない、と。
「ジュリス! ジュリスってば!」
聞きなれた声に叩き起こされるようにして、ジュリスは意識を取り戻した。
ゆっくりと瞼をあげて周囲を見回すと、ぷりぷりと頬を膨らませた麻里の姿が目に飛び込んできた。
「最悪よ! あんな高慢な女に敗北を喫するなんてっ!」
麻里は、あの脅威に敵わなかった自分自身に苛立っているような口ぶりだった。
ジュリスは、意図した通りに動く自分の手足を見つめながら、漠然と思う。
(……手心を、加えられたんだわ)
全身で悔しがっている麻里には口が裂けても言えないが、あの絶対的な力の前には、どれほど鍛錬を積んだとしたって敵うわけなどない。
めらめらと闘志を燃やしている麻里の傍で、ジュリスはただ純粋に、自分たちの幸運を喜んだ。
そして同時に――『見逃して』くれたエィージャの心のうちが、なぜだかひどく気になった。
もし、もう一度彼女と出会うことがあったなら……
その時は、彼女にきちんと礼をしなければいけない気がしていた。
もちろん、麻里には内緒で。
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