<東京怪談ノベル(シングル)>


傷、祈り、誇り。


 千獣は、見上げる。
 石屋エスコオドと書かれたその店の看板を、じっと見つめる。
(エディオン)
 心の中で、店主の名を呼ぶ。ドアに掛かっている札には「OPEN」の文字があるので、中にはエディオンがいる事は分かっている。
 いつものように、ふわりと微笑んで千獣を出迎えてくれるだろう事も。
 ノックをしようと手を伸ばした際、千獣は目線を落とし、自らの手を見つめる。
 いつも見ている手だ。何も、変わってなどいない。所々に、傷跡があるだけで。
「……傷」
 ぽつりと呟き、千獣は小さな溜息をついた。

――傷つかないで。

 耳の奥に、誰かの声が響いている。
 優しく、温かな声。
「私、は」
 ぎゅっと手を握り締め、千獣はドアをノックする。
 コンコン、という音が響き渡り、中から「はい」と声がした。
(やっぱり、いる……んだ)
 ほ、と心がほろりとするのを感じつつ、千獣は開きなれた扉を開いた。
「ああ、千獣さん。こんにちは」
 店内には、記憶と違わないエディオンの姿があった。ふわりと微笑み、千獣を出迎えてくれる。
「今、忙しく……ない?」
「ええ、見ての通り、閑古鳥が鳴いていますよ」
 悪戯っぽく言われ、思わず千獣も表情をほころばせる。
「お茶、入れましょうね。何が良いですか?」
「あ……何……でも」
 千獣の答えに、エディオンは「はい」と返事をしながら店の奥へと入っていった。コポコポ、と奥から音がする。
 店内に残された千獣は、ふらり、と店内を見て回る。そうしてふと、透き通った青色の石を見つける。
(きれい)
 石は掌くらい大きく、綺麗な円形をしていた。そして、中心には一直線に伸びた傷がついている。
(こんなに……きれい……なのに)
 勿体無い、と千獣は思う。綺麗な石なのだから、傷がついていては勿体無い、と。
「それは、守りの石だったもの、ですよ」
 後ろから声をかけられ、千獣は振り返る。エディオンがお盆を抱えたまま、立って微笑んでいた。
「だった、もの?」
「はい。その石は使命を全うし、主人を守り、こうしてこの店にやってきたんです」
「もう……守りの石……じゃ、ない……?」
「ええ。もう、守る力はありませんから」
 エディオンはそう言って、どうぞ、と椅子を勧める。千獣はお礼を言いながら椅子に座り、並べられたカップから湯気が立ち昇るのをぼんやりと見つめる。
 ふわ、と甘い香りが立ち昇る。
「花の紅茶なんですよ。気分が落ち着くでしょう?」
「花」
 カップの中を見れば、美しい紅色をしていた。元は、赤い花だったのだろう。
「こっち、は」
 茶請けの方は、クッキーに茶色いペーストが挟まったものだ。千獣はそれを口へと運ぶ。
「あ」
 ふわ、と口いっぱいに広がるのは、甘い栗の味だ。
「以前、一緒に作った甘露煮のペーストを挟んでみたんです。どうですか?」
「おい、しい……」
「それは良かったです」
 エディオンはにこやかに微笑み、自らのカップに口をつけた。
「……エディオン」
「はい」
「私は……守れない、の?」
「え?」
 千獣はカップを置き、じっと守りの石だったものを見つめる。
「私は、大切に、したい。体も、心も」
 千獣は、ぽつりぽつりと口にする。
「体を、守れて、も……心が、傷ついたら。意味が……ない」
 ぎゅ、と掌を握り締める。
 千獣の脳裏に響くのは、お願いする声。

――無茶しないで。
――怪我しないで。
――傷つかないで。

 最初は分からなかったその言葉たちだが、だんだん千獣は理解してきた。
 誰もが、千獣の身を案じている。千獣の事を、大事に思ってくれている。
 だからこそ、千獣が傷ついたら嫌なのだ。千獣の受けた傷は、身を案じている者達の心に傷を与えてしまう。
「心の、傷……体の、傷より、もっと……痛い」
 それは分かっている。
 守りたくて、千獣は無茶をする。無茶をすれば、怪我をする。怪我をすれば、守りたかった人の心を悲しませる。
 そこまでは、分かった。
「だけど……私には、爪と、牙、しか……ない」
 千獣には分からない。
 自分の体を張る以外の方法が分からない。守るべき手段が、それだけしかないのだ。
 だが、戦う以上、無傷ではいられない。
 傷つかないという約束を、する事が出来ない。
「……私は、誰も、守れない……の?」
 千獣の思考をぐるぐると回らせる。どうしたらいいかなんて、分からない。
 答えが、見つからないのだ。
「千獣さん」
 エディオンは静かに言い、立ち上がって石を取りに行く。
 守りの石だった、青色の石を。
「これは、誇りの石、と言います」
「守りの、石……だった、のに?」
「ええ。主人をきちんと守ることの出来た、誇らしい石。誇りを秘めた石です」
「……誇り……」
 石を差し出すエディオンから受け取り、千獣はそっと石の傷をなぞる。
「傷つかない戦いはありません。ですが、戦わなければもっと傷がつきます。いえ、傷だけでは済まないかもしれません」
 エディオンはそう言い、千獣を見つめる。
「傷つけば、悲しむ人がいる。それは、大変素晴らしく、ありがたい事です。そして、その人の事を大事にし、悲しませたくないと思うことも素敵な事です」
「……私、は」
「千獣さんは、心まで守りたいんですよね。傷つかせたくないんですよね。でしたら、とても簡単なことなんですよ」
「簡単……?」
「ええ。無茶しない事。自分を大事にする事」
 千獣は、じっとエディオンを見つめる。
 それは矛盾している、と。無茶しなければ、自分を時には危険に晒さなければ、守ることなど出来ない。
 反論しようと口を開こうとした瞬間、エディオンは微笑みながら口を開く。
「そして、自分を誇らしく思う事」
 エディオンはそっと、石を持ったままの千獣の掌を握り締める。
 優しく、包み込むように。
「受けた傷を見て、心を痛める人がいるでしょう。ですが、その人にちゃんと伝えればいいんですよ。誇らしい、と」
「誇らしい……」
「はい。傷は、見ていて痛々しいです。私だって、千獣さんには傷ついて欲しくありません。ですが、その傷が千獣さんにとって誇らしいものであれば、悲しむだけの傷ではなくなります」
「エディオンも、傷つく、の?」
「それはもう。でも……傷は、癒えるものでしょう?」
「……傷は、癒える」
「千獣さんが受けてしまった傷も、いつかは癒えます。そうして出来た傷跡を見て、千獣さんを好きな人は心を痛めるかもしれません。それが、千獣さんにとって意味の無いものであれば」
「私に、とっての、意味」
「はい。我武者羅に受けただけの傷ならば、自分を大事にして欲しいと嘆願します。ですが、誰かを守る為の誇りある傷ならば、頑張ったのですね、と褒めますよ」
 エディオンはそう言って、もちろん、と付け加える。
「無傷でいられるのが、一番ですけれど」
「誇り……意味……」
 エディオンが千獣の手を解放する。千獣は再び、青い石を見る。
 そして、誇りある傷跡も。
「その石は、千獣さんに差し上げましょう。石も、千獣さんに持ってもらいたがっていますし」
「私……に?」
「はい。千獣さんはもう、その石の傷跡を『勿体無い』とは思っていないでしょう?」
(あ)
 確かに、と千獣は思う。
 最初に見た時は、綺麗な石なのに傷ついて勿体無い、と思っていた。だが、主人を守った守りの石だったことを聞いて、しっかりと守れたのだ、と感心した。
 その傷を誇りに思っていると聞いてからは、憧れのようなものまで抱いている。
「誇り」
 千獣は、ぽつりと呟く。
 答えは、まだ出ていない。エディオンなりの意見は貰ったが、千獣の出した答えではない。
(それでも)
 そっと目を閉じる。ぐるぐる、と回る思考回路が、ほんの少しだけ弱まったような気がする。
「エディオン」
 千獣は目を開き、ゆっくりと立ち上がる。
「話を、聞いて、くれて……有難う……」
 ぺこり、と千獣は頭を下げる。エディオンは「いえ」と言って微笑んだ。
「ありが、とう」
 今一度礼を言い、千獣はエスコオドから出た。
「また来て下さいね」
 背中に声をかけられ、千獣は再び頭を下げてから扉を閉めた。
(私の、傷……誇り……)
 ぎゅっと、掌の中にある石を握り締める。
 見上げる空は、石と同じくらい澄んだ青空であった。


<青空に思考を回しつつ・了>