<東京怪談ノベル(シングル)>


翠の魔本と勇者の願い


『ねぇ、レピア。お願いがあるのだけれど……』
 ことりと首を傾げたエルファリアは、熱い湯でレピアの髪をすすぎながらそう問うた。月が昇って一刻ほど経った頃、別荘に備え付けられた浴場での二人の会話である。
 彼女の口から「お願い」と聞いた時点で予想は付いていたけれど、いざそれを目の前に差し出されると、軽い虚脱感と「やはりか」という妙な納得がレピアを襲ったものだ。
「また、冒険に付き合ってって言うんでしょう」
 やれやれと呆れを滲ませながらも、レピアとしては満更でもないのもまた事実で。
「ええ。今度は別の魔本を用意しましたの」
 弾んだエルファリアの相槌に、レピアは彼女の手を取って、差し出された魔本の石版に触れた。

 ◇ ◆ ◇

 頭がバランスを崩して滑り落ちる感覚で、エルファリアはハッと目を覚ました。息を呑むのと心臓が早鐘を打つのとはどちらが早かっただろう。慌てて辺りを見回した彼女は、自分が玉座に座っていることに気付いた。
 父王の城だろうか。いつの間に自分は移動してしまったのだろう。そう考えて、窓の外へ視線を投げた所でエルファリアは思考を止めた。覚えのある玉座の感触はそのままに、大きな窓の形に切り取られた外の景色は、いつも見ているエルファリアの城下町と異なっていたのだ。
 太陽の日差し溢れる外の景色は、賑わいを見せる石畳とは無縁のどこまでも続くのどかな平原。遠くに森の入り口が見え、梢の間からは透き通った美しい泉がこんこんと湧き出ている。
 果樹園には果実が山と実り、小川のほとりには花々がひしめき合うように咲いている。聖王国にもそのような土地はあるけれど、それはもっと王都から離れた場所のこと。となれば、ここはエルファリアの故郷の城ではないのだろう。
 青々と茂る木々と、翠の風の通る場所。そんな印象が頭を掠めた。
 目をしばたたかせたエルファリアに、脇に控えていた大臣らしき男が耳打ちをする。
「王女様、次の謁見者は――」
「え? はい? 謁見者、ですか?」
「しっかりなさってください、王女様。お父上が病の床に臥せられて、王女様一人が王政を取り仕切るのも大変な重荷かと思われますが、これで本日の謁見は最後にございます」
 もうひと踏ん張りでございますよ、と耳打ちした大臣に、エルファリアは戸惑いながらも頷いて客人を迎えるよう言った。
 程なく入って来たのは、美しい女性だった。レピアほどとは行かないまでも、襟の詰まった簡素なドレスに身を包んだ女の美貌はエルファリアも一目置くほどだ。
 女は来月催される大祭がどうのという話をしているようだったが、この国の真の王女ではないエルファリアには、話の半分も入っては来ない。
 飛びかけた思考を繋ぎ止めるために、彼女は目が覚める前までのことを思い返した。確か、この日はレピアの石化が解けてすぐに二人で湯浴みを楽しんだのだ。風呂から上がって髪を乾かして、一息ついた頃にエルファリアが取り出したのは、翠色をした表紙の薄い魔本だった。
 先日、蒼い表紙の魔本で短い冒険ごっこを楽しんで以来、エルファリアの心にはあの時の高揚感が燻り続けていた。見知らぬ国、見知らぬ町。自分は守られてばかりのお姫様ではなく、大切な人を助ける騎士になる。
 エルファリアがずっと憧れていた、そんな体験を味わってみたくて、彼女は再び魔本を手に取ったのだ。
「……王女様は、城の外の民の言葉にさほどの興味もないと伺えます」
「――え? いいえ、そのようなことは。きちんと聞いておりますわ。続けてくださいな」
 女の不躾な横槍で、エルファリアは意識を引き戻された。自らの思考に耽りすぎて、返事が疎かになっていたようだ。
 慌てて居住まいを正したが、見下ろす先の女の瞳には仄暗い欲望が渦巻いている。この人は、何だか良くない。根拠もなしにエルファリアがそう感じた時だった。
「民草の意見に耳を傾けぬ王女なら、誰がなってもよかろうよ。そう、木偶の姫ならばそこに座るのが妾とて同じこと。地位に未練がないのなら、妾がお前の代わりとなってくれよう!」
 曲者だ、と脇に控えた大臣が言った。すぐに捕えようと動いた兵士が、一度の瞬きの間に石と化す。一拍遅れて玉座を立ち上がった時には、既に女がエルファリアの目前で微笑んでいた。
「恐れる必要はない。死にはしないのだから。ただお前の身体は自由を失くし、何十、何百の時を好奇の目に晒されながらさすらうだけのこと」
 大丈夫。その間、お前に意識はないのだから。
 子守唄を歌うように優しく囁く女の声が、エルファリアの纏うドレスを剥ぎ取る音と反発しあって奇妙な感覚を揺さぶり起こす。
 恐怖と、安堵。このまま何もかもを放り出してしまいたいという気になった後で、ぼうっと虚ろになっていく思考の傍らが明滅した。
 ――魔女は声に魔の力を乗せて紡ぐよ。
 誰かが、遠い昔にそんなことを言っていた気がした。

 ◇ ◆ ◇

 その日、一国の王女が取り替えられたと一体城内の誰が知ろう。
 エルファリアに成り代わった魔女は、己の魔力でエルファリア自身に変化して彼女のドレスを身に纏った。魔女の従者は石化の呪を受けたエルファリアが城の者の目に付かないよう、その日の夜に出航する船の船長へ船首像として売り付けた。
 船長は見事な細工品が格安で手に入ったと喜び、魔女はこの国は我が物になったと喜んだ。
 船首像と偽り売り付けられたエルファリアも、彼女を船首へ括り付けた船長も、よもやこれからこの国が暗黒時代への道を歩み始めるとは思うまい。
 こうして、緑の楽園と謳われた国の未来は金貨一枚で取引されてしまったのだった。
 船の船首に飾られたエルファリアは、それから長い年月を方々彷徨った。国を渡り、大陸を渡り、美しい裸婦像の姿形に魅せられた者が金を積んでは買い取った。
 人の手から人の手へ、時に高級ホテルのロビーに据えられては、美術館の展示台に飾られることもあった。短い時は数ヶ月、長ければ数年。ある一定の場所に留まっては、盗賊によって盗み出され、海賊によって略奪され、倉庫の中に放置される日々が続いたかと思えば闇市で売り出される。
 もしも彼女に意識があったなら――或いは意識が戻る瞬間があったなら――レピアの心情の一端でも理解できたかもしれない。
 けれど意識のないエルファリアには、まさしく本のページを繰る一瞬の容易さで時は流れた。
 さてその一方で、王女と偽る魔女の布いた悪政は、半世紀の時を経て暴虐の一途を辿っていた。
 エルファリアが国から遠く離されて、程なく父王が亡くなったこの小国は、王位を受け継いだ魔女の手に委ねられたのだ。ところが、魔女は私欲に走った公布を繰り返し、実り豊かなこの国から豊富な資源を搾取した。
 年々増していく重税に民は苦しみ、納税できない者は皆国を追い出される始末だ。何も知らない家臣たちは魔女を必死で諌めたが、魔女が聞く耳を持つはずもない。
 やむなく王位剥奪を目論んだ家臣たちは、王に反発した者として残らず首を刎ねられた。
 ここまでの振る舞いを野放しにしていれば、疑問を抱かない者は居ないだろう。緑溢れるこの小国の一端にもまた一人、そのような疑問を抱いた者が居た。

 ◇ ◆ ◇

「嘆きのヴィーナス像?」
「ええ。何でもヴィーナスのように美しい裸婦像なんだそうですよ。でも、その表情が怯えているような嘆いているような、何かを諦めているような……とても不思議な像なんですって」
 レピアは初めて耳にした噂に、僅かならずの興味を示して身を乗り出した。両手をついたカウンターには、丁度返そうとしていた部屋の鍵が転がる。
 彼女が目を覚ましたのは、小さな町にある粗末な宿屋の一室だった。お世辞にも寝心地の良いとは言えない寝台から身を起こして、レピアがまず真っ先に始めたのが情報収集だった。
 自分は物語の中のどんな立ち位地で、何をしなければならないのか。そしてエルファリアはどこに居るのか。
 小さな手荷物と細身の剣を携えて、宿のチェックアウトに向かった所で尋ねたのが、「長い金髪の綺麗な女性を知らないか」ということだった。首を傾げた宿屋の娘は、暫く考えた後に思い出したようにくだんの裸婦像の話を持ち出したのだった。
「ああ、あと……長い金髪と言えばこの国の女王様もですよね。昔はすごい美人だったらしいですけど、半世紀もすぎればしわくちゃお婆さんですから、お客さんの条件には当てはまらないんでしょうけど」
「女王陛下って……傲岸不遜の悪政女王って噂の?」
 レピアが辺りを気にしながら声をひそめて問い返すと、娘は小さく頷いた。その昔――娘の祖母が若い頃、この国は緑豊かな泰平の国と謳われた。リトル・エデンとまで呼ばれた国の、病に臥せった国王が亡くなる直前から、国の実権を握った王女が欲の限りを尽くして虐政を強い始めた。
 これも宿と併設の食堂で聞いた話だが、こちらは噂ではなく、れっきとした国内情勢である。
 一件何の関連性もないように思えた二つの話だが、次に娘からもたらされた一言でレピアの中の何かが閃きかけた。
「あ、でもそのヴィーナス像って、噂によると昔の女王陛下にそっくりなんですって。おかしいですよね。悪政を布くような女王陛下にそっくりな像が、恐怖に嘆く表情をしてるなんて」
「へぇ? まったくだね。その像っていうのは、今はどこにあるの?」
 町の噂になるくらいだ。この町の近くにあるだろうと踏んだレピアの読みは正しかった。
「何でも、町の外れの座礁船に括り付けられてるのを見たとか。港から少し外れた、高台の崖の下です。結構足場が悪いから、船の引き上げ作業もまだ始まってないみたいですね」
 ほんの二、三日前に座礁したばかりらしく、船体に穴も開いているようだったから、最悪放置されるかもしれない。そんな風に苦笑した娘へ礼と情報料の銅貨を数枚置いて、レピアは噂の座礁船へと向かった。
 聞いたとおりの不安定な足場を、レピアは用心しながら進む。岩壁の出っ張った場所に手を掛けながら、時折激しく押し寄せる波の飛沫を肩に感じて船舶を探した。
 暫く消波ブロックのような岩場を歩いて行くと、漸くそれは姿を現した。
 大きさは中ほどの船首に、水垢や苔、海草の巻き付いた船首像が括り付けられている。随分と太い縄で括り付けられているようで、この激しい波が打ち寄せる場所にあって、流されることなくそこに在った。
 しかし、レピアが驚いたのはそのような些末なことではない。丸々と見開かれた彼女の青い瞳は、像の顔を凝視していた。
 今にも動き出しそうな生々しい表情。それでいて、美しさは欠片も損なわれていない横顔は、レピアの記憶の中の彼女、その人だった。
「エルファリア!?」
 彼女の探していた親友と瓜二つの顔に、動揺が隠せないレピアは、手にした剣を縄に食い込ませて一息に刃を引いた。拘束が緩んだ縄の隙間から無我夢中で裸婦像を引っ張り出すと、レピアは像の顔を確かめるようにまじまじと覗き込む。
 間違いない。否、レピアが彼女の顔を間違えよう筈もない。潮の香りが染み付いて、長く風雨や海水に晒されたせいで薄汚れて藻にまみれたエルファリアの顔は、一目でレピアを悲痛な気持ちにさせた。
「半世紀前の女王にそっくり……か。仮に半世紀前にエルファリアが女王になったとして、あの心の芯から優しい子がこんな悪政を国民に強いるもの?」
 救い出した像に尋ねてみるけれど、物言わぬ像が答えを返してくれる筈もない。ただ見つめる先の裸婦像は、今にもすすり泣きだしそうな表情で何かを訴えてくるようだ。
「どちらかと言うと、こっちの像の方がエルファリアらしい気がするのよね」
 レピアはもう一度、像の顔をまじまじと見つめてから荷物の中から折りたたんだ布を取り出した。ここに置いて行くには、この像はあまりにも親友に似すぎていて忍びない。幸いなことに、どういうわけか木箱よりも軽い像は、嵩張りこそすれ重量的な荷物にはならなかった。
 とりあえず、噂の女王を一目見てみよう。話はそれからだと思い直し、レピアは丁寧に拭って布でくるんだ像を背中に背負って自分の身体にロープで固定した。


 町を出てから暫く。無心に足を動かし続け、遠くに森と城が見え始めたところで、レピアは城門の付近が騒がしいことに気が付いた。正確には、騒ぎ立てる声ではなく、城門の両脇に並んだ何十、何百と思しき兵士達が目に入ったのだ。
 何かあったのだろうか。気になったレピアは、一目散に城門へ駆け出した。跳ね橋の手前まで近付くと、さすがにざわめいていた兵士たちの数人がこちらへ気付いたようだった。
「おい、そこの者、止まれ!」
 不意に声を掛けられて、言われるままに足を止める。大の男の声に、男性が苦手なレピアはたまらず身を竦めた。けれど近付いて来た兵士に如何を問われる前に、レピアはまくしたてるような簡素な口調で言葉を紡いだ。
「あたしは旅の身の上のレピア。知人を探している途中なんだけど、遠目にお城の方が騒がしそうだったから気になって寄ってみたのよ。何かあったの?」
 尋ねると、兵士たちはすぐにレピアへの興味を失ったらしく、ぞんざいに返事を返した。
「ああ、女王陛下が出立なされるんだとよ。俺たち兵士はそのお付きさ。この乱れ切ったご時世に海の向こうへ旅行とは、さすがは悪徳女王と呼ばれるだけのお人だよ」
「おい、バカ、そんな陰口叩いてると、女王陛下に聞かれちまうぞ!」
 隣の兵士が、ため息をつきながら現状を語った兵士の脇を肘で突いた。女王を批難しながらその女王の下についている彼らも同類ではないのか、と思ったが、下手なことを口にすればこちらが排除されかねないと思い、レピアは密かなため息と共に口を噤んだ。
 ――とは言いつつも、彼らにもやめたくともやめられない理由があるのかもしれない。支持されないからと言って、兵士たちを余さず逃してしまえば、城などただのはりぼてだ。女王と共に私欲を貪る大臣が数人残ったところで、王政というものは機能しない。彼らも、仕事をやめることのできないように脅されているのだろう。
 ここまで来ながら謀反が起きていないということは、つまり、女王という脅威は反乱をも押し留めるほどのものなのだろうと容易に理解できた。
(違う。女王はエルファリアじゃない。彼女は……そんな非道なことはしない!)
 レピアが奥歯で怒りを噛み殺した時、重い軋みを上げて城門が開かれた。ハッと息を呑んだレピアがそちらへ視線を向けると、噂の女王が天蓋のない馬車に乗って外へ出てきたところだった。
 隣には参謀らしき老年の男が座っている。彼へ一瞥を投げてすぐに女王へ視線を戻したレピアは、食い入るようにじっと女王と呼ばれる人物の顔を見つめた。
 レピアは純粋に驚く。その顔形に、髪と瞳の色に。
 確かに、女王はエルファリアと瓜二つだった。けれどそれは同時に、レピアへいくつもの違和感を植え付ける。
 肌のたるみ、皺一つない若々しい肌は、半世紀前から玉座に座る者と言うには美しすぎた。とても宿屋の娘の言ったような皺だらけのオールドミスには見えないのだ。
 それはまるで、禁忌の魔法を使って不老不死となりうるような――。
(まさか……!)
 レピアは、脳裏で繋がり始めた結論を確かめるように背後の像を見た。布で包まれた像の顔は見えないが、記憶を透かして思い浮かべる。この像を見て最初に考えたことは、あながち当たっているかもしれない、とレピアは思った。
「そこの」
 レピアが自分の考えに没頭している間に、目の前を通り過ぎようとしていた馬車がそこで止まる。次いで掛けられた声には、聞き覚えのある声ながら、常にはない他を威圧するような響きが含まれていた。
 顔を上げれば、真っ直ぐ見下ろしてくる一対の金の双眸が視界に映る。
「お前、兵士ではないな。背に背負っているそれは何だ?」
 興味深げな視線が不躾に投げられるが、レピアも先ほど凝視してしまった手前、おあいこだろうか。注意深く像を背中から下ろすと、布を取り去ってエルファリア像を目の前に晒した。
 瞬間、辺りの空気がざわりと大きく揺らぐ。その像を目にした女王にも、また動揺と焦りの色が浮かんだ。同時に、レピアは確信する。
 女王はエルファリアではなく別人で、尚且つ彼女は、このエルファリアと瓜二つの像を見知っているのだろうことを。
 或いは、この像がエルファリア自身であるかもしれないことも……。
「王女様……」
 女王の隣の大臣が、驚愕に呟きをこぼす。
「なぜその像がここに……そこのお前、その像を妾にお寄越し!」
 戦慄いた女王は、勢いよく立ち上がって馬車を揺らした。
「女王陛下はこの像の人間を知ってらっしゃるようですね? 実はあたし、この像と瓜二つの親友を探してるんだけど……どうやら女王陛下じゃあないらしい」
 レピアの瞳がくりんと丸く輝いて、脇の兵士に像を押し付けたその勢いで跳び上がる。さながらステップを踏むような軽やかさで、高く宙を蹴った足がふわりと音もなく車上へ乗り上げた。
 誰もが――そう、居丈高な様子の女王さえも――、レピアの一瞬の舞に目を奪われる。故に、女王の喉元に剣を突き付けるのは簡単だった。
「やっぱり、これが本物の王女なのね? エルファリアは……彼女はどうすれば元に戻るの!?」
 レピアの絶叫に近い尋問が、爽やかな風に溶ける。風景の穏やかさとちぐはぐな緊迫感が、女王の喉を震わせた。
「皆の者……この狼藉者を捕えよ!!」
 掠れて裏返る声で、女王が叫ぶ。しかし、女王の命令に従う者は誰一人居なかった。レピアの告げた“本物の王女”という一言が、兵士たちの足を完全に地に縫い付けていたのだ。
 女王は民からの不信感を募らせすぎた。加えて、今まで彼らの据えていた女王が偽者であったと知る衝撃たるや、考えるまでもないだろう。
 レピアが押し付けた剣先へ更に力を込めた。これ以上微かな力でも込めれば、女王の喉は張り裂けるだろう。
「もう一度だけ聞くわよ。エルファリアはどうすれば元に戻るの?」
「誰がそのような……」
「泉じゃ」
 女王が口を閉ざそうと拒絶の言葉を吐きかけた時、彼女の隣から弱々しい声が聞こえた。
 二人が揃ってそちらを向くと、小さく丸まって身体を震わせている老人がもう一度口を開いた。
「森の側の泉の水は、昔から魔法や呪いの類を解く神聖なる力を持っていると……」
「貴様! 裏切ったな!!」
 説明が終わるか終わらないかというところで、女王は恐ろしい形相に顔を歪めて空っぽの手を振り上げた。剣を突き付けられていたことも忘れて、ただ怒りに血が上ったまま、掌の中心に未知の力を集わせる。
「させないっ……!!」
 それが魔法だといち早く気付いたレピアは、焦点を定めた切っ先で、女王の――否、魔女の左胸を一突きにした。感触はなかった。ただ、掌には虚しい物悲しさと焦りが握られるばかりで、それなのに、魔女は苦悶の顔で呻き、息を詰め、やがて動かなくなる。
“本の中の物語”だからだろうか、と、心が乾いた音を立てた。
 人を刺す感触なんて知りたくはないけれど、空を掴むような魔女の終わりは大事なお守りを失くした時のような心許ない気持ちにさせる。
「森の側の泉、だったね?」
 レピアは事切れた魔女から視線を逸らさずに老人へ問うた。老人が「ああ」と頷くと、彼女は無言のままに踵を返し、像の姿のエルファリアを腕に抱いてその場を去って行く。
 すっかりと沈黙が帳を下ろした城門前で、やがて老人が「すぐに本物の王女様をお迎えに上がれ!」と騒ぎ立てるまで、一同は固まったまま動くことが出来なかった。


 レピアは湧きだす泉のほとりに座り込むと、膝にエルファリアを乗せて丁寧に水を掛けた。ところどころ、拭いきれなかった水垢や苔などを洗い流しながら、手巾で全体を満遍なく拭いていく。
 早く目覚めて、早く笑顔を見せて。切なる願いを込めながら。
 やがて灰色だった肌が白磁の色に、硬質な肩が柔らに変化していくと、怯えに歪んでいた唇から声が漏れた。
「や……いや、やめて!」
 紡がれた言葉で、エルファリアの時は遠い昔、石化されたところで止まっていたことをレピアは知る。
「エルファリア! 大丈夫、あたしよ。レピアよ!」
 まだ少しだけ、潮の香りの残る肩を抱き締めながら、レピアはエルファリアを宥めるように呼びかけた。途端に、小さく震えた肩からいつものエルファリアの顔がレピアを見上げる。
「レピア? 本当にレピアなのね?」
「そう、あたし。あなたを大好きなあたしよ。安心して」
 一度強く抱き締めてから、レピアはエルファリアの頬を両手で包んでじっと覗き込むように顔を近付けた。傷一つないことをしっかり確認すると、ここにきて漸く、レピアの口から安堵の息が漏れる。
 同時に、エルファリアがくしゃみを一つこぼした。彼女が何も着ていなかったことを思い出すと、レピアは彼女をくるんでいた布をエルファリアの身体に巻き付ける。
「石化した友を持つ身も、ひどく怖いのね。今日、初めて知ったわ」
「まあ。今度は私が石化していたの?」
 前回のレピアに続いて、とは、言わずもがなのごく最近の記憶だ。エルファリアは何も知らない様子で驚いていたけれど、レピアはおどけたように肩を竦めるに留めた。代わりとばかりに、ぴったりと頬をすり寄せながら武勇伝を語り聞かせる。
「大変だったんだから! エルファリアが石化してから、色々あったのよ。わるーい魔女を倒して、やっとあなたを元に戻すことが出来たんだもの」
 よかった、と、レピアは心の底からの本心をこぼす。けれどエルファリアはそれと相対するように、ぷっくりと膨れた顔で不満をあらわにしていた。
「では、つまり、私の意識がない内に、楽しい場面は全部終わってしまったということ?」
 そんなのつまらないわ、と今にも叫びだしそうなエルファリアを抑えながら、レピアは苦笑した。前回の冒険では、二人同時にクライマックスを迎えたのだ。それが今回は、勇者一人ですべてを終えてしまったとあっては、エルファリアの期待も半減だろう。
「大丈夫よ、エルファリア。まだ、一番大事なところが残ってる」
 いたずらっぽく笑いながら、エルファリアの手を取ったレピアが立ち上がる。彼女の手を引いて視線を向けた先には、先ほどの兵士たちの一団が待っていた。
「これから戴冠式を改めて執り行わなくちゃ。何せ王女様は王位を継いで、女王様になっているんだもの」
 それから、と付け加えるように、エルファリアの手を両手で包みながら、耳元に触れるほど寄せた唇で嬉しそうに告白した。
「魔女を倒してお姫様を救った勇者は、お姫様と結婚しなくちゃ物語を終われないでしょう?」
 まあ、とエルファリアの頬が、瞬く間に朱へ染まる。赤く熟れた頬が甘い果実のようで、たまらずレピアは彼女の横っ面に唇を寄せる。ぺろりと舐めて、頬への小さな口付け一つ。けれど怒るどころか不機嫌を引っ込めた彼女は、満更でもない様子でレピアの手を握り返した。
 繊細な指の形を親指の腹で撫でながら、レピアは思う。今回の物語が、エルファリアの目に晒されないところで進行してよかったかもしれない、と。
 寂れた町も、圧制に苦しむ人々も、民を守る立場にある彼女の目には晒したくないものだと思った。
 見れば彼女は胸を痛めるだろう。前回、魔族へ憐れみの情を向けたように。
 それがたとえ本の中の出来事でも、彼女は心を砕いたに違いない。そう考えると、レピアはたまらなく切なくなるのだ。
 彼女が悲しむ顔は見たくない。せっかく見るなら幸せそうな顔がいい。
(――なんて、あたしも人のことは言えないけどさ)
 本の中の出来事でも。それは、何もエルファリアに限ったことだけではないことも、頭のどこかで理解していた。
 レピアもまた、本と現実を重ねて見てしまった一瞬があったのだ。
 ほんの少し。彼女の手を握り締めて、耳元で囁いた言葉に。
『お姫様を救った勇者は、お姫様と結婚しなくちゃ物語を終われないでしょう?』
 咎を背負ったこの身が許されるなら、昔々で始まる御伽噺の王子と姫のように、いつまでも二人、幸せに暮らしたいと願ってしまう。
 それはきっと、繋いだ互いの掌が温かいせいだ。
 レピアは、森を吹き抜ける翠の風を感じながらそう思った。

◇ Fine ◇



◇ ライター通信 ◇

レピア・浮桜様。
こんにちは。
この度は、再びのシチュエーションノベルのご発注ありがとうございます。
前作に続いて、近作も魔本の中のお話を執筆させて頂きました。
今回はレピアPC様ととエルファリアNPCの立ち位地が逆転、レピアPC様が勇者なヒロイックファンタジーとのことで、こういったお話になりました。
レピアPC様のご希望に沿ったもの、或いはいい意味で裏切ったものになっていれば幸いです。
ボリュームについては前回同様、色々オーバーな方向で戦々恐々ではございますが、楽しんで頂けましたら嬉しいです^^
それでは、ここまでの読了ありがとうございました。
また、再びのご縁があることを願いつつ、締めとさせて頂きます。
今一度、ご発注ありがとうございました。