<東京怪談ノベル(シングル)>


オス!熱血修行の幕開けよ

その日はいつもと違っていた。
雑魚寝とはいえ、ぐっすりと熟睡しているガイの顔面に片足をあげ、今まさに踏みつぶさんばかりとする男がひとり。
見事に鍛え抜かれた隆々とした筋肉がまぶしいくらいだっ、と物陰に潜んで成り行きを見守る若手武闘家たちの熱視線を右から左へと受け流し、男は意を決してその足を振り下ろす。

眼前―いや、鼻先で感じたのはいつもと違う汗の匂い。
ぼんやりとガイが目を開けると、そこにあったのはこれまたいつもと違う―どころか、自分の顔面を上回る大きさの足裏に一瞬、思考が固まった。
「ほう……噂通り、変わった修行とはいえ大したものだな、ガイ」
心底感心しきった男の声にガイは聞き覚えがあった。
何度か対戦したことがある―自分でさえほれぼれとする見事な筋肉を持つ男―好敵手……と思い至って、ガイははたと今の状況をもう一度考え直す。
昨日はいつも通りの―ごく一般人から見れば、常軌を逸した―修行をさわやかに終わらせ、これまたいつも通りの深い眠りについた。
曰く―よき筋肉はよき眠りから、という有難い教えに基づいて、絶賛実践。
お蔭さまでよりすばらしき筋肉がつき始めたのだが、それが今の状況とうまく結びつかない。
いつもであれば嗅覚を破壊するような強烈な足裏の匂いによって、反射神経を鍛え上げるはずなのだが、なぜ今朝は好敵手になっているという疑問にぶち当たる。
半覚醒状態のガイにお構いなく好敵手の男はしきりに感心したようにうなずきつつも足をどけず、話を続ける。
「若手たちが噂していたぞ。あのガイが自らの精神と反射神経の限界に挑戦するため、魔獣すら一撃で悶絶させる悪臭を嗅いでいると…な。いやはや……さすがだな」
うんうんとうなずきながら好敵手はようやくガイの顔から足をどかすと、その横からぬっと現れたのはいつもの大男。
今の今まで成り行きを見ていたので、なんとも言えない表情を浮かべながら大男はガイの顔面に自らの足を突き付けた。

強烈な異臭が嗅覚を刺激し、ガイの脳天を激しく貫いた。
その瞬間、ぼんやりとしていたガイは両目をカッと見開き、完全覚醒する。
「うおぉぉぉぉぉぉっ!!目が覚めたぜ、ありがとな」
白い歯を輝かせて人好きする笑顔で礼をいい、おっしゃぁぁぁぁぁ、今日も一日修行と行くぜっと雄叫びをあげ、訓練場へと闊歩していくガイの後ろ姿を若手武闘家たちは憧れに満ちた

熱き視線をもって見送るのだった。


夕暮れの迫る街の大通り。
あちこちに立つ露店の売り子たちが威勢のいい声をあげながら、通りを歩く人々を呼び止めていく。
軒を連ねて立つ食堂からは魚や肉を焼く音が立ち、食欲をそそる香りが鼻孔をつく。
最近、手合せをするようになった若手の格闘家から教えてもらったその店は味の良いことはもちろんであるが、手ごろな値段で山盛りいっぱいの定食が豊富で以前から割と有名だったそ

うだ
しかも武闘大会に参加している選手たちがちょくちょくと使っているというだけあって満足ゆくまで夕飯にありついた。
武闘大会が開催されているだけあって、賑わいがさらに増して売り上げも軒並み上がっているんだよ、と有難そうに告げる恰幅の良い女将に見送られ、店を出たガイは一瞬だけ背中に妙

な気配を感じた。
かすかであるが、鋭い針のような殺気にガイは息をつめ、さりげなく周囲の気配を探る。
だが大通りに一歩踏み込んだ瞬間、その気配は霧のように掻き消え、わずかにとらえていた気配も人ごみに飲まれてしまう。
―気のせいか
連日の修行で余計な神経を使ったのかと思い、闘技場へと向かう細い路地を歩き出したガイ。
日中は人通りが多く、ガイ以外の選手たちもよく使っている道なのだが、いったん日が暮れると途端に闇が包み、それに惹かれて生きる者たちが集う暗黒街へと姿を変える。
それ故に明け方に無残に殺された―物言わぬ躯が転がっていることもあるほどだったが、この闘技大会が開幕して以来、そういった事件は激減していた。
腕の立つ闘士たちが集ったこともさることながら、その強者たちの筆頭に必ずと言っていいほど上がるのがガイ。
彼の者の強さに惹かれ、軟弱と批判された警備隊らが筋肉超強化月間と称して苛烈極まりない特訓を積み重ねたお蔭で今ではそこいらの盗賊程度ならば軽くひねることができるまで強く

なり―街に住まう人々は感謝していた。
けれども、その一方でこれまで好き勝手に暴れてきた盗賊やならず者がすっかり仕事ができなくなったと逆恨みしーついにはガイに刺客を雇ったとまで噂が飛ぶようになり、一時は警戒

されたのだが、目立った動きは見られなかった。
―噂はあくまで噂。
誰もがそう思っていた。

細い路地の闇からガイの背に冷たき刃を振り下ろされるまでは。

背後に突如感じた殺気にガイはとっさに振り返りながら数歩後ろに下がり、最初の一撃を避けるがわずかに切っ先が左腕をかすめた。
それだけであったのが。忌々しいといわんばかりの舌打ちとともに青き閃光と化した刃が繰り出される。
人ひとりがやっと通る路地で隙なく放たれる数百を超える突きに左右に避けるということもできず、ガイは後退するしか手が打てない。
しかも冷静かつ確実に急所を狙ってくる手を見れば、明らかにその筋の玄人―暗殺者であるのは一目瞭然。
「話には聞いていたが、本気で送ってくるとは思わなかったな」
自嘲混じりにガイは紙一重で攻撃を避けながら、闇の中で迫ってきた暗殺者を正確に捕えると拳に気を纏わせる。
標的の動きが止まったのを見逃さず、鋭く心臓目がけて短刀を繰り出した瞬間、軽い音を立てて刃が砕け飛ぶ。
と同時に青白い光を纏ったガイの拳が見事に暗殺者の腹にえぐり込み―その体はそれはそれはきれいな放物線を描き、路地のはるか先にある外壁へと吹っ飛ばす。
外壁に放射状のクレーターを刻みつけ、崩れ落ちる暗殺者の体に砕け散った外壁の残骸が降り注ぐ。
その破壊音を聞きつけ、住人や通行客たちが騒ぎ出し―警備隊が呼ぶ怒号が飛び交うのを聞きながら、ガイは薄く傷ついた左腕を見て小さく嘆息をこぼした。
「なまっているな……まだまだ修行が足りないか」
明日からの修行をもっと考え直さねばと思いながらガイは駆けつけた警備隊ががれきに埋まっている暗殺者の掘り起こしに手を貸すのだった。

深い眠りの底にいたガイはふいに眼前に迫る異様な殺気を感じ取り、カッと両目を見開く。
わずか数ミリまで迫った―きりりとしまった筋肉のついた足の裏を捕える瞬間、全身の筋肉をバネにして真横に避けながら飛び起きる。
その直後、ガイの頭があった床が鈍い音を立てて砕け、こぶし大の穴が開いていた。
「もっと精度をあげなくてはならんな……うん、ありがとう。明日も頼む」
ふむ、と顎に手を当てながら冷静に分析しつつ、礼を言うガイに穴をあけた闘士はやや呆れたように肩をすくめ、苦笑を隠せない。
「それは構わんが……あまり無茶をするなよ、ガイ」
「わかっている。だが、昨日のような失態は繰り返したくないからな」
これも日々修行だ、と笑って鍛錬所へ向かってしまうガイに闘士は返す言葉をなくしてしまった。
暗殺者に襲われた件で自らの未熟さを痛感したから、と隠密の心得がある自分に寝起き寸前の顔面を狙ってくれと頼まれた時は一瞬、呆然となった。
己を極限に鍛えるためとはいえ無茶だと思うが、あくまでガイは冷静で本気なのだ。
「俺も見習わなくてはならんな」
闘士は大きすぎるガイの背を追いかけるように鍛錬場へと足早に向かうのだった。

FIN